嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第1話 静かなる布石

1943年十二月 帝都・東京

日比谷・第一生命館(東部軍管区司令部)裏門

 

お堀の向こうを、灯火管制で薄暗い市電が車輪を重く軋ませながら通り過ぎていく。

みぞれ混じりの風が、濡れた枯れ葉を石畳に擦り付けた。

 

裏門の通用口から、夜間勤務の交代を終えた数名の女子通信隊員たちが身を縮め、足早に歩き出す。

東部軍管区司令部の電話交換手たちだ。

 

最後尾の娘が、小脇に抱えていた勤務手帳を石畳に落とした。

 

拾い上げようとした赤黒くひび割れた指先のすぐ傍に、泥一つなく磨き上げられた革靴が静止する。

ウール地の軍用マントが、風に重く翻った。

 

「大丈夫か」

 

頭上から落ちてきた声に、娘は顔を上げた。

 

三式軍衣の上にマントを隙なく纏った将校が、見下ろしていた。

威厳のある軍帽のひさしが街灯の光を鋭く遮り、真紅の襟章に縫われた金の三条線と二つの星が、鈍い光を帯びている。

 

身の丈は並のはずだった。

それでもその人物が纏うただならぬ気配が、娘の目には異様な大きさとして映った。

 

「ちゅ、中尉殿……! 申し訳ありません、直ちに」

 

「そのままでいい」

 

遠くで、自転車のベルがチリンと間延びした音を立てた。

 

将校は自らしゃがみ込み、手帳を拾い上げた。

黒革の手袋に包まれた指先が軽く土を払い、無言のまま差し出す。

 

「夜勤明けだな。ご苦労」

 

「はっ。ありがとうございます」

 

娘が手帳に手を伸ばした瞬間、将校の視線が、その指先に留まった。

 

街灯に照らされた横顔。

日本人離れした高い鼻梁と、鋭角な顎の線。

刃物のように整えられた口元の髭が、一切の感情を排した冷たい影を落としている。

 

「最近、交換台の接続が遅いと怒鳴る将校が多いそうだな」

 

「……私どもの、練度不足ゆえであります」

 

「違うな。その手を見れば分かる」

 

将校はゆっくりと右手の手袋を、指先から引き抜いた。

腰の革製図嚢の留め具を外す小さな音がし、中から銀色の小缶が取り出される。

 

露わになった素手が娘の赤黒い手をとり、冷たい缶を握らせた。

訓練を経た硬質な手だったが、その骨格は驚くほど滑らかで、整っていた。

 

「これを」

 

「あの……これは」

 

「軍医部から回ってきた医療用の軟膏だ」

 

「そんな貴重な品を、一介の通信員が頂くわけには……!」

 

「君たちの指先は、東部軍の要だ」

 

声音は咎めるでもなく、ただ静かだった。

 

「君の手が凍えてプラグを挿し間違えれば、前線の部隊が死ぬ。……受け取れ。軍務を円滑にするための、『油差し』だ」

 

高圧的な怒声しか知らない娘は息を呑み、両手で銀缶を強く包んだ。

 

「……ありがとうございます、中尉殿。大切に使わせてすいただきます」

 

「名前は」

 

「芳子、と申します」

 

将校はマントを翻して踵を返し、歩き出そうとして、ふと振り向いた。

お堀の水面で、水鳥が短く鋭く鳴く。

 

「芳子くん。交換台で理不尽な要求をされたり、外部への奇妙な通話を強要するような将校がいれば、私に相談したまえ」

 

「……相談、ですか」

 

「そうだ。何か問題でも?」

 

「い、いえ……」

 

「私は、東部軍参謀部二課付の辻村だ。覚えておけ」

 

「はい……!」

 

娘が深く頭を下げるのを背中で受けながら、辻村は朝靄の中へ歩き出した。

整えられた口元から、かすかな笑みが消えた。

 

辻村要(つじむら・かなめ)陸軍中尉。陸軍士官学校第五十五期。

 

千七百名を超える同期の中で、卒業席次は二桁台。

恩賜の銀時計こそ逃したが、在学中から数学と露語において突出した才を示し、その能力は教官陣にも一目置かれた。

 

卒業後は陸軍通信学校で暗号の通信傍受と解読技術を極め、情報戦の最前線であるハルピン特務機関へ配属。

白系ロシア人やソ連の工作員を相手に、血と嘘に塗れた情報戦の「実務」を経験した。

 

やがて、その冷徹な情報処理能力や暗号・露語の希少技能を見込まれ、参謀本部第二部十一課へ転属する。

現在は、技術畑の情報将校として東部軍参謀部第二課へと出向してきていた。

 

 辻村は裏手の将校・軍属用通用口へ向かった。

分厚い鉄扉の前に立つ衛兵が、みぞれの中で白い息を吐きながら直立している。

 

中尉の襟章を認めると、衛兵は無言のまま姿勢を正し、鋭い敬礼をとった。

 

辻村は歩みを緩めることなく、手袋に包んだ指先を軍帽のひさしへそっと添えて、館内へ入った。

 

身を切る外気が遮断される。

大理石の廊下には石炭の温もりと、石造り特有の静けさが漂っていた。

 

台車に書類の山を積んだ初老の雇員(こいん)とすれ違い、車輪の音が高い天井にキュルキュルと反響していく。

 

中央ロビーへ出ると、各階へ続くエレベーターがずらりと並んでいる。

 

足を止めた辻村の耳に、隣で待機していた二人の軍属のくぐもった私語が届いた。

 

「……また三課主計掛の野島大尉殿に突き返されましたよ。書類の罫線の引き方が最新規定と違うとかなんとかで」

 

「謄写版の切り直しですか……いやいや、災難でしたね」

 

「ええ。最近はロウ紙の質が落ちているせいか、なんか鉄筆がやたらと引っかかるんですよ。……今夜も居残りですかな」

 

そこへ、脇の廊下から若い少尉が歩いてきて、辻村の姿に気づき足を止めた。

 

仕立ての良い特注の将校外套に、真新しい革長靴。

徹夜明けの男たちのむさ苦しい空気の中で、彼一人だけが石鹸の香りを纏っていた。

 

少し垂れ気味の目元にはにかんだような笑みを浮かべている。

 

東部軍司令部副官部付き、漆原克彦(うるしばら・かつひこ)陸軍少尉。

 

とある名門子爵家の分家筋。

父は政商として財をなし、家系は過去に陸軍中将をも輩出した軍閥の血を引いている。

さらに兄は内務省官僚という、絵に描いたような特権階級の出だ。

 

陸士五十六期を中の上で卒業後、台湾の輜重部隊に配属される。

そこには陸軍中佐の叔父が勤務しており、彼はその庇護の下で一年を過ごした――激戦地の泥を一切知らぬまま、帰還後「補給実務の適性を見込まれて」東部軍司令部副官部付となる。

 

だが、その経歴を額面通りに受け取る者は、この司令部にほとんどいない。

 

「辻村中尉殿。おはようございます」

 

漆原はその垂れ目を細め、人懐っこく笑いかけてきた。

 

「おはよう、漆原少尉。今日も副官部で、将官たちの勲章の磨き具合でも点検していたのかな」

 

辻村は足を止め、皮肉を交えながらも、どこか親しげな笑みを向けた。

 

「はっ。それに加えまして、本日は午後から来客用の茶葉の選定という、軍の威信に関わる重大任務を仰せつかっております」

 

漆原は嫌味を受け流し、はにかんだ笑顔のまま、わずかに自嘲の色を混ぜて肩をすくめた。

 

「素晴らしい重責だな。第一課の幕僚殿たちが連日不眠不休で作戦図と睨み合っている中、司令部の平穏は君の双肩にかかっているというわけだ」

 

「お戯れを。……ですが中尉殿、もし本物の茶葉が必要でしたら、いつでも副官部へいらしてください。父の伝手で手に入れた、極上のダージリンがあります。二課の埃っぽい空気の洗浄に、ちょうど良いかと」

 

漆原は愛嬌たっぷりに微笑み、手本のような敬礼を残して去っていった。

 

辻村は、その軽やかな靴音を静かな瞳で見送り、柔らかく微笑んだ。

 

「どうにも、嫌いになれんやつだな……」

 

ガシャン、と重い金属音を立てて、目の前の真鍮の扉が開く。

 

辻村は再び無表情に戻り、その籠の中へと足を踏み入れた。

 

密室となった真鍮の籠の中で、辻村は冷たい大理石の床を見下ろした。

 

モーターの低い唸り音とともに、足元から身体を押し上げるような力がかかる。

最新鋭の米国オーチス社製エレベーターは、東部軍の中枢を垂直に貫いて上昇していく。

 

「……五階、であります」

 

老齢の雇員がしゃがれた声で告げ、扉が開く。

 

辻村は軍靴を踏み出し、廊下へ出た。

 

途端に、階下とは違うピリついた空気が肌を刺した。

軍管区の中枢機能が集中するこの階は、行き交う将校たちの歩調も、タイプライターの打鍵音も、すべてが神経質に急き立てられている。

 

第二課(情報・防諜)の執務室へ向かって歩き出した辻村の正面から、重い靴音を響かせて歩いてくる男がいた。

 

左腕に、白地に赤字で『憲兵』と染め抜かれた腕章。

 

憲兵隊本部の須藤(すどう)陸軍大尉だ。

 

日に焼けた猪首に、鋭い双眸。

軍衣からは、上質な煙草の匂いとともに、徹夜明け特有の汗と埃の臭いが微かに漂っていた。

 

「おお、辻村中尉。今、来たのか。ご苦労」

 

「須藤大尉殿。おはようございます」

 

辻村は歩みを止め、隙のない敬礼をした。

 

「昨夜も本部の地下室ですか。連日の激務、少しお疲れのようにお見受けしますが」

 

「ああ。特高から回ってきたアカの残党どもの『指導』でな。骨が折れるが、誰かがやらねばならん汚れ仕事だ」

 

須藤は太い首をゴキリと鳴らし、自嘲気味に、しかしどこか誇らしげに鼻を鳴らした。

 

「大尉殿のような確固たる信念をお持ちの方が、帝都の足元に目を光らせておられるからこそ、我々も背後を気にせず、外の防諜に専念できます。私たち二課も、大尉殿の容赦ない手腕と治安維持への貢献には、常に一目を置いておりますよ」

 

「ははっ、秀才殿たちにそう言ってもらえると、徹夜の疲れも少しは紛れるというものだ」

 

須藤は気を良くしたように相好を崩し、辻村の肩をポンと軽く叩いた。

 

「供述の写しは、昼までにそっちへ回す」

 

「はっ。ありがとうございます」

 

辻村が頭を下げると、須藤は満足げな足取りで廊下の奥へと消えていった。

 

綺麗に整った髭の奥で、微かに口角が上がる。

 

辻村は踵を返し、第二課の執務室へと入った。

 

部屋の奥、太い柱の陰に配置された自分の机にたどり着くと、辻村は無言で椅子を引き、腰を下ろした。

 

マントを脱ぐこともなく、左手の革手袋をゆっくりと指先から引き抜く。

 

そして机の引き出しの鍵を開け、中から一つの分厚い茶封筒を取り出して卓上に置いた。

 

表には、極秘の朱印とともにこう記されている。

 

『憲兵隊本部による思想犯摘発時の、押収品目録の不備に関する内偵記録』

 

辻村は封筒の中から、横領の嫌疑がかかる数名の憲兵将校のリストを取り出した。

第二課が独自に集めていた、「余技」に関する断片的な内偵資料だ。

 

「……どれも、ずいぶんと埃が溜まっていそうだな」

 

辻村はその文字列をなぞり、指先で紙面を二度軽く叩いた。

 

「さて……どの番犬から、首輪を付け替えるとするか」

 

辻村は煙草に火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

 

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