嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年七月下旬
昭南を発った軍用列車は、ジョホール水道を越え、マレー鉄道を北上してアロースターへと向かっていた。
客車の中に冷房装置などない。天井の扇風機が熱気をかき回している。
真鍋勲中尉は窓際に立ち、流れ去るゴム林と赤土の丘陵を見つめていた。レールの継ぎ目を踏むたびに、車体が規則正しく揺れる。
左胸のポケットから銀の鎖を引き出し、懐中時計の蓋を開く。
午後二時十五分。盤面で秒針が動いている。
「……計算は、現場で裏切られるものだ。」
真鍋は小さく呟き、調査手帖に目を落とした。
記されているのは、稲田少将から下された業務命令だ。
『アロースターの兵站実態を、参謀部の中立的な視点で確認せよ。現地軍への是正指導を含め、公式な記録として報告するように』
列車がアロースターの停車場に滑り込む。真鍋は図嚢を肩にかけ、プラットホームに降り立った。
側線には赤褐色の無蓋貨車が数両放置されている。貨車には、昭南から運ばれた「第十五軍」宛ての物資が積まれていた。
人混みの隅で、真鍋は図嚢から「査察」と墨書された白布の腕章を取り出す。左腕の袖に通し、安全ピンで固定する。
南方軍野戦貨物廠、アロースター支廠。
木造の庁舎に足を踏み入れる。
「……南方軍総参謀部第四課付、真鍋中尉である。至急、責任者を呼べ」
真鍋の声に、雑談を交わしていた下士官たちが動きを止めた。奥の机から、汗で軍衣を滲ませた大尉が立ち上がる。
「南方軍? 査察とは、本部から何の連絡も受けておりませんが……」
木村と名乗った大尉は、真鍋の左腕の腕章に視線を落とした。
「当然だ。抜き打ちで行わねば、意味を成さない。……これが総参謀副長閣下よりの調査辞令だ。直ちに帳簿の提出と、倉庫の開錠を命ずる」
真鍋が机に置いた書類には、総参謀副長の公印が押されていた。木村大尉の顔から血の気が引く。
「しかし、急に言われましても……現在、物資の集積状況については、山下商事の小山氏に一任しておりまして。私一存では判断しかねます」
「……その小山氏はどこにいる」
「あっ、いや……今ちょうど、そちらに」
木村大尉は、奥の応接スペースを顎で示した。
そこには、白い麻の背広に身を包んだ小太りの男が、サイダーの瓶を手に腰掛けていた。
小山は立ち上がると、笑みを浮かべて歩み寄る。
「これはこれは、南方軍の若き才子。山下商事の小山でございます。中尉殿、そんなに急がずとも、アロースターの米も揮発油も、帳簿通り、一分一厘の狂いもなく揃っておりますよ」
真鍋は、小山が差し出した名刺には触れず、木村大尉に向き直った。
「木村大尉。今、この男は『帳簿通り』と言ったな。……それは、どの時点の、どの帳簿だ?」
真鍋は図嚢から計算尺を取り出した。
「私がこれから計算するのは、貴殿らが隠そうとしている『実数』だ。……三十分後に倉庫で確認する。……それまでに準備が整っていなければ、その理由を記録する」
*
第一から第三倉庫までの確認が終わった。
第一倉庫には牛肉の大和煮缶と乾燥野菜。第二倉庫には軍馬用の圧搾大麦と岩塩。
数量は帳簿にある「一万二千五百箱」「三千四百袋」と概ね一致していた。缶詰の箱は湿気で底が抜けかけ、大麦の袋にはネズミが囓った穴が開いて中身が散乱している。
「損耗率は三・八パーセント。……帳簿に織り込まれた自然減としては、前線の集積所にしては標準的な歩留まりだ」
真鍋が手帖にペンを走らせると、小山が息を吐き出した。
「でしょう? 湿気やネズミとの戦いは日常茶飯事ですが、我々はこれでも最大限の努力をしておるのです」
木村大尉も肩の力を抜いている。
「うむ。これなら報告書に『良』と書けるな。真鍋中尉、これ以上疑うのは、現地の信頼を損なうだけではないか?」
真鍋は頷いた。
「……残るは、第四倉庫のみか」
真鍋が顔を上げると、小山は先導して歩み出した。
「ええ、まあ、第四は主食の備蓄庫です。現地徴発した長粒種の精米ですが、量は確保してあります。見るまでもありませんよ」
「全て確認するのが命令だ。開けろ」
小山が合図を送る。第四倉庫の扉が左右に開かれた。
埃が舞い、穀物の匂いが鼻を突く。
内部には麻袋の山が築かれている。床には砂埃が積もり、隅をネズミが走り去った。
「さあ中尉殿、これが帳簿にある一万四千二百袋です。一粒残らず、山下商事が責任を持って集荷しました」
小山がハンカチで額の汗を拭う。その隣には、いつの間にか一人の男が立っていた。小山は男へ視線を向ける。
「アロースターの華僑を束ねる、こちらの陳(タン)氏の協力あってこその数字ですよ」
陳と呼ばれた男は、真鍋を見上げた。
「……今は戦時だ。これだけの量を集めるのに、私がどれだけ骨を折ったか。軍人さんには分かるまいがね」
木村大尉も言葉を重ねる。
「そうだ真鍋中尉。現地の協力があってこその兵站だ。第一から第三まで、多少の傷みはあれど異常はなかっただろう。あまり重箱の隅をつついて波風を立てるのは、作戦全体にとって得策ではないぞ」
真鍋は彼らに答えず、そのまま壁際へと歩み出した。
内部は通気と搬出の都合上、いくつかの区画に分けられて麻袋の山が築かれている。真鍋は倉庫全体を静かに見渡した。
規則正しく並ぶ米袋の山。だが、真鍋の目には、一番奥――薄暗い隅に築かれた山に、わずかに異質な輪郭が見えた。
真鍋は迷いなくその隅の山へ近づくと、腰の高さ辺りにあった麻袋を「ポンポン」と叩いてみる。
五十キロ以上の精米が詰まり、上部の荷重を受けた袋は、岩のように硬い反発を返してくる。
次に、胸より下の『中段』、そして『やや上段』の袋へと、順に叩いていく。
下から七段目の袋を叩いた瞬間、真鍋の手が僅かに止まった。
小山は、背後で余裕の笑みを浮かべていた。
「中尉殿、どこも同じですよ。みっちり詰まっておりますからな」
小山は自ら歩み寄り、真鍋が触れていた中段の袋をバンバンと叩き、これ見よがしに掌で強く押し込んだ。
「ほら、この通り岩のよう……」
小山の声が途切れた。
真鍋はその山の足元にしゃがみ込み、図嚢から鋼鉄製の巻尺を取り出した。
カチリ、と金属音を立てて目盛りを引き出し、最下段の麻袋の厚みを測る。一つ、二つ、三つ……側面に沿って等間隔に歩を進めながら、計十箇所の沈み込みの寸法を手帳に書き込んでいった。
「……何をしている? 数量なら、帳簿に記載してある通りだぞ」
木村大尉がいぶかしむ中、真鍋は立ち上がり、今度はすぐ手前にある別の区画の山へ歩み寄った。そして同様に、最下段の厚みを数箇所測り、手帳に書き留める。
真鍋は手帳の数値を見ながら計算尺のカーソルを滑らせた。
数秒後、真鍋の手が止まる。
「……奇妙だな」
「寸法から算出した奥の区画の容積は、標準的な六十キロ入り麻袋のサイズから逆算して、およそ四百袋分。……高さおよそ二メートル、十段積みとして、外見上は一般的な『四百袋・二十四トンの山』を形成している」
小山が息を吐き出した。
「だから言ったでしょう! 時間の無駄で……」
「だが」
真鍋は小山の言葉を遮り、いま測り終えたばかりの、手前の山を指差した。
「物理法則が合わない。……麻袋を互い違いに組む『交差積み』で十段にも積み上げれば、荷重は均等に分散され、最下段の袋には上部九段分――平均して五百四十キロもの重圧が垂直にかかる。計算上、その重圧を受けた標準的な南京袋は、きっちり四十ミリ沈み込み、厚み百八十ミリで安定する。」
真鍋は計算尺を閉じ、手前の山を一瞥した。
「いま私が測ったこちらの正常な山の最下段も、その物理的な基準値と完全に一致していた。……だが」
真鍋は巻尺の先端で、奥の怪しい山の最下段を示した。
「あの奥の山の最下段十箇所の平均厚みは、百八十八ミリだ」
小山が顔をしかめ、鼻で笑った。
「はっ……! な、なんだと言うんです! たかが八ミリの違いじゃないですか! 中身の詰め方や、袋の個体差でいくらでも変わる誤差だ!」
「同じ倉庫、同じ精米、同じ積み方で、あの区画だけ明確に八ミリの差が出る。……その『たかが八ミリ』が、重力の答えだ」
真鍋の声は、一切の熱を帯びていなかった。
「米は木材のような単一の固形物ではない。無数の粒と空隙の集合体だ。上に百キロ以上の重量差があれば、袋の膨張率と粒の圧密によって必ずミリ単位の差が生じる。十箇所の平均沈み込みが三十二ミリで止まっているということは、上から押し潰している質量が、隣の山と比べて八十パーセント前後しか存在しない物理的証明に他ならない。個体差という言い訳は通用しない」
小山の顔から表情が消えた。
「外見上の体積は合っている。だが、質量が足りない。……中身が違うか、あるいは米より軽い何かで嵩(かさ)増しされているか」
「な、何を馬鹿な! そ、その区画は搬入した時期が違うんです! ずっと奥にあったから乾燥しきっている! それに現地の作業員の詰め方が粗かっただけで……!」
「乾燥による減量は最大でも三パーセントだ。そして詰め方が粗くとも、上に五百キロの荷重がかかれば袋の中の空隙は潰れ、最終的な沈み込みは純粋な『質量』に比例する……今の八ミリの差は、この一山だけで二割前後の質量欠損を示唆している」
真鍋が踏み込むと、陳が低い声で遮った。
「……若いの。あまり数字で現場を縛ると、ろくなことにならんぞ」
木村大尉が叫んだ。
「そうだ! ネズミだ! ここは特にネズミが酷くてな、中身を食い荒らしているんだ! 報告書にも『害獣被害甚大』と書こうと思っていたところだ!」
「ネズミか」
真鍋は床にこぼれた米を一粒、指で拾い上げた。
「確かに、ここにはネズミがいるな。隅には新しい糞も落ちている」
木村大尉が頷く。
「そうだろう! 現地特有の、獰猛なネズミでな! 袋を食い破って、中身だけを綺麗に平らげていくんだ!」
「だが、計算が合わん」
真鍋は計算尺のカーソルを戻し、もう一度滑らせた。
「この床の痕跡は、せいぜい数十匹程度のものだ。……この八ミリの欠損分をネズミの胃袋で説明するなら、この区画だけで『数千匹』が常駐し、昼夜問わず食い続けていなければ計算が合わない。もしそれほどの群れがいたなら、袋の食い破られ方も、床に積もる糞の量も、到底こんな規模では済まない。妄想を数字の代わりにする詭弁は通用しない」
木村大尉が言葉を失う。
真鍋は図嚢から、鋭利な検米器(サンプラー)を取り出した。三十センチ以上の長さを持つ、中空の鋼鉄製の刺針だ。
真鍋は検米器を持ったまま、先ほど測定した手前の「正常な山」へ歩み寄り、麻袋の側面に掌を押し当てた。
五十キロ以上の精米がみっちりと詰まり、荷重で圧密された袋は、岩のように硬い反発を返してくる。
真鍋は無言のまま奥の「怪しい山」へ戻ると、再び下段、中段、そして側面の数箇所に次々と掌を押し当てていった。
「荷重が十分なら麻繊維は飽和して硬化する。触診で分かる程度の差は、既に二桁キロ単位の差だ」
真鍋は検米器を持ったまま、小山を見据えた。
「この山の外観は均たれている。しかし最下段は平均百八十八ミリと圧縮が足りない。そして中段から上段にかけて、袋の張力が不足している段が散見される。
――偶然では起きない。
少なくともこの目の前の七段目に積まれた袋は、六十キロではない。規定質量を満たしていない」
「ま、待て! 貴重な糧秣を粗末にするな!」
陳の制止を無視し、真鍋は目の前の米袋に検米器を深く突き立て、そのまま刃を引き抜いた。