嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年九月上旬 昭南島 旧ラッフルズ・カレッジ
オエイ・ティオン・ハム棟第三事務室
雨季の暗灰色の雲が低く垂れ込めている。窓外で遠雷が鳴った。
真鍋は計算尺を滑らせながら、兵站報告書を確認していた。
赤鉛筆で修正された数字が、湿った紙に滲んでいる。数値は作戦基準に合わせて書き換えられ、計算上の整合性は保たれていた。
天井の扇風機が油切れの音を立てる。めくれた書類が風で揺れ、元の位置に戻った。
「中尉、今夜は少し付き合え」
退庁間際、佐久間少佐が机の脇で声を落とした。
*
通されたのは、厨房の奥にある四畳半ほどの窓のない座敷だった。
集まっているのは佐久間少佐の他に、顔馴染みの少佐が二名と、大尉が一名だけだった。卓上には現地産の酒瓶と茶碗、地図と帳簿の切れ端が散らばっている。真鍋は末席に座り、背筋を伸ばして正面を向いた。
輸送担当の少佐が、短くなった煙草を灰皿で揉み消しなら口を開く。
「副長閣下がいくら『兵站の限界』の数値を並べても、司令部全体の空気は変わらない。もはや誰も、真面目に計算尺を動かそうとしない。上層部はもう、閣下の弾き出した数字を無視する方針で固まっているように見える」
「まあ、分からんでもないさ」
経理担当の少佐が、手元の酒を呷って息を吐いた。
「ここだけの話、この物量差を真っ当に引っくり返すのは難しい。……理屈通りに行かんのは承知しているがな。計算で割り切れん部分を、どう埋めるかという話になる」
大尉が自嘲気味に笑った。
「牛や馬の口に入るものまで、精神論で代替できるわけでもありませんしな」
佐久間少佐が煙草を咥え、真鍋を見た。
「真鍋中尉、アロースターの件だ。あれから推定される、実際の給養力の下限から上限を頼む」
促された真鍋は、図嚢(ずのう)から一冊の調査手帖を取り出し、算定不能とは別に推定した数式と数字を書き込み始めた。
「アロースター第四倉庫における質量の欠損率は約二割。この数値を、後方兵站網全体における『制度的疲弊』の定数として仮定します。……補給線がタイ、そしてビルマの作戦集積地へと延びるに従い、末端価格の騰貴と監視の欠如により、この不純物の混入率は加速度的
に増加する蓋然性が高い」
真鍋の鉛筆が、地図上の兵站拠点(ポイント)をつないでいく。
「これを基準とした場合の、ビルマ方面の作戦集積地における全体の給養力の推定期待値です。……下限で六割、楽観的な見積もりである上限を取っても八割に届きません。これはあくまで『質量』の理論値であり、粗悪品による発動機の故障や、不純物を運ぶことによる輸送容積の浪費といった二次損失を含めれば、基地自体の有効給養力はさらに五、六割まで目減りします」
輸送担当の少佐が、その数値を苦い表情で見つめ、氷の溶けかけたグラスを回した。
「……現地の商人や顔役を動かして広大な物流を回す以上、多少の中抜きはあるのが前提だ。清廉潔白とはいかん。……実際それでこの地域の兵站が成り立っているのも事実だからな」
少佐は手元の酒を呷り、自嘲気味に笑った。
「……それは想定内だが、作戦の蓋然性には含まれず、帳簿上は『在る』という前提で話が進む。確かに、もし他の倉庫でも平均的にこの『砂』が混じっているとすれば、我々の引いている輸送船団の数式は、最初から二割の虚数を運んでいることになり、本来は割引いて計算せねばならんのだがな」
「今さら司令部の作戦に水を差す気もないし、そんな権限も我々にはない。その方向性で組織が進むと言うなら、大いにやってもらうしかないさ」
輸送担当の少佐が、鉛筆の先で地図をコツコツと叩いた。
「まあ、それでも実数の確認くらいはしておかんと、どうにもな……」
どこからか蚊取り線香の匂いが漂い始め、男たちの吸う煙草の煙と混じり合って停滞していた。
*
集まりが解散した後、佐久間少佐は軍帽を被り直し、真鍋の肩を叩いた。
「……真鍋。このまま宿舎に戻っても、壁の染みを数えるだけだぞ。もう一件、付き合え。」
二人は路地を奥へ進んだ。華僑の露店はすでに畳まれ、廃棄物と香辛料の臭いが湿った空気に残っている。奥まった場所に、看板のない木製の扉があった。
店内は狭く、カウンターの背後に並ぶ酒瓶の半数は空だった。低く吊られた裸電球の光がガラスに反射し、室内は薄暗い。客の姿はなく、天井扇(シーリングファン)が湿気を含んだ空気を循環させている。
カウンターの中には、白髪の混じった初老の店主が直立していた。白い蝶ネクタイを締め、擦り切れたシャツの袖口は糸で縫い合わされている。
「……いらっしゃいませ」
店主は佐久間の階級章を一瞥しただけで、二枚のコースターを無言で置いた。
「いつもの、でよろしいですか」
「ああ。……氷はあるか」
「少しだけ。……解けかけておりますが」
「構わん。ぬるい現実はもう沢山だ」
佐久間が口元を歪めると、店主はアイスピックを手に取り、氷塊を砕いた。氷の割れる音が、狭い店内に反響する。
「……計算尺を置いて飲む酒は、少しは味が違うか」
佐久間がグラスを揺らした。氷が鳴る。
真鍋は注がれた液体を一口含んだ。
「特級」のラベルが貼られた瓶の中身は、現地製のアルコールを着色したものだった。刺激臭と甘い香りが揮発する。真鍋はそれを嚥下し、喉に残る熱だけを感じた。
「……悪くない味です」
店主は応じず、カウンターに落ちた水滴を布巾で拭き取った。
屋外を憲兵隊の巡回車両が通過し、エンジン音が遠ざかる。
佐久間はグラスを揺らし、真鍋を見た。真鍋は姿勢を崩さず、視線はカウンターの板面に向けられている。呼吸や顔色に変化は見られなかった。
「君は、どうしてそこまで数字に拘る。陸士教育の影響だけには見えんが」
「……実家が本郷の時計屋でして」
真鍋はグラスの縁を指でなぞり、わずかに口元を緩めた。
「子供の頃から、時計の歯車を直す父の背中を見て育ちました。一秒でも誤差を許せば、それはもはや時計ではなく、ただの金属の塊になる。……細かいことが気になる性分は、その影響かもしれません」
「なるほど、時計屋の倅(せがれ)か……」
佐久間は低く笑った。
「内地に女はいるのか。縁談の話はあっただろう」
真鍋は首をわずかに傾け、短く息を吐いた。
「……釣書はそれなりに来ましたが、父に適当な返事をさせて引き延ばしたまま、こちらへ逃げてきました。……このご時世ですから、若い未亡人を作って美談の主になるのはどうにも……」
「まぁ……そうかもしれんが……」
佐久間は苦笑しながら煙草に火を付けた。
「……さっきの連中については、どう思う。破綻した数字を囲んでぼやく、あの集まりだ」
真鍋は数秒沈黙し、視線を宙に向けた。
「少佐殿方も、作戦の成命そのものを問題にしておられるわけではないんだと思います」
「ほう」
「兵站の実務屋として、物理的に成立しない架空の数値のまま計画が進んでいく手順が、どうにも我慢ならないんだと思います。……勝つか負けるか以前に、左辺と右辺がまるで合っていない計算式で全軍が動く。それをそのまま数えなかったことにはしたくない」
真鍋は空になったグラスに視線を落とした。
「……どうせ誰も見ない数字でも、きっちり合わせておきたいんです」
佐久間は煙を吐き、天井を見上げた。
「……よく分かってるじゃないか」
*
屋外に出ると、市街地の照明は落とされ、人通りはなかった。
真鍋は佐久間に敬礼し、総司令部が置かれた旧ラッフルズ・カレッジ構内の将校宿舎へ向けて歩き出した。
左胸のポケットの中で、銀時計が音を立てている。真鍋はそれを引き出す動作をしなかった。
宿舎の門を通過する際、歩哨の憲兵が真鍋を視認して直立不動で敬礼を行った。真鍋は表情を変えずに答礼し、照明の落とされた廊下へ歩みを進めた。