嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年九月下旬 昭南島
旧ラッフルズ・カレッジ 第三事務室
開け放たれた窓から、湿気を含んだ風が吹き込んでくる。
第三事務室の天井の隅でヤモリが短く鳴いていた。
廊下を行き交う軍靴の音は、数か月前と変わらぬ一定のリズムを刻んでいる。
真鍋勲中尉の机に、特務兵が朝の回覧書類を置いて回っていった。
特務兵が置いていった書類の一番上に、ガリ版刷りの真新しい一枚が綴じられていた。
表題には、
『対印度作戦・後方要領に関する基準(案)』
とある。
右上には小さく「参照」と押印され、末尾には
「関係各課検討の上、所見具申されたし」
と記されていた。
南方軍司令部から回付されてきた、次期作戦に関する兵站基準の案であった。
真鍋は無言でその文面に視線を落とす。
一、山地機動の特性並びに将兵の旺盛なる攻撃精神に鑑み、アラカン山系踏破所要日数は概ね二十日を基準として計画す。
一、携行糧秣は作戦の迅速性確保の見地より極力圧縮し、不足分は現地資材の活用並びに戦果の拡充により補充を図る。
一、駄馬並びに牛羊等の伴随に関しては、地形・気象その他諸条件を克服し、各部隊において万全の措置を講じ、その減耗の極小化に遺憾なきを期す。
一、輸送力の運用にあたっては各段階の連絡を緊密にし、所要成果の確保に意を用うる。
もっともらしい軍隊用語で綴られているが、そこに書かれている内容はすでに検討の余地を残していなかった。
「……見事な修辞(レトリック)だな」
向かいの席から、掠れた声がした。
書類から顔を上げると、古参の兵站担当大槻大尉が、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けながらガリ版刷りの束を放り投げていた。
前線上がりで、白髪交じりの頭を短く刈り込んでいる。
「大尉殿。この『各部隊において万全の措置を講じ、その減耗の極小化に遺憾なきを期す』という一文ですが」
真鍋が抑揚のない声で尋ねる。
「これは事実上、密林や泥濘における家畜の自然損耗率を、算定の変数から除外するということでしょうか」
大槻は鼻から煙を吐き出し、自嘲気味に笑った。
「……そういうことだ。『万全の措置』という言葉でな。
その範囲で収まるものとして扱え、ということだろう」
大槻は机の上の湯呑みを手に取った。
「『携行糧秣の圧縮』も同様だ。三週間分だけ持たせ、残りは作戦の進展に伴う敵資材の『鹵獲』を前提としている。
……かつてのマレーやビルマの戦訓から、今回も同じ見込みで組まれているのだろう」
大槻は茶をすすり、低く息を吐いた。
「もともと補給が成立せんと、一度は棚上げされたはずの計画だがな。
……上が『やる』と決裁を下した以上、辻褄が合うように前提条件の方を書き換えたということだ」
大槻は湯呑みを置き、真鍋を見た。
「いいか、真鍋中尉。我々は後方の実務屋だ。
上が『各部隊の努力で補う』と決定したのなら、我々の帳簿でもそれで数字が埋まる。
……余計な思案はせず、通達の文字通りに数を繋いでおけ」
「……はっ」
真鍋は短く敬礼し、新しいガリ版刷りを手元に引き寄せた。
かつて自分が緻密に書き込んだ「特殊算定表」を下敷きの下へ押しやり、軽すぎる数値を計算尺に打ち込み始める。
「……中尉、手を止めろ」
背後から声がかかり、真鍋は計算尺から手を離した。
隣の机に佐久間少佐が腰を下ろし、煙草「光」に火をつける。
事務室の他の将校たちは、一連のやり取りに視線を上げることなく手元の作業を続けていた。
遠くの席で、鉛筆を削る乾いた音が響いている。
「大尉の言う通りだ。もう君の弾き出した『重い数字』は必要なくなった。……閣下が動かれる」
天井扇の回転音に紛れるような低い声だった。
吐き出された紫煙が空中に停滞する。
「第十五軍との件、ですか」
真鍋が問うと、佐久間少佐はブリキの灰皿に灰を落とし、短く頷いた。
「それもある。だが決定打は別だ。――泰(タイ)だ」
窓の外で、時期外れの蝉が鳴き止んだ。
「鉄道敷設と物資徴発を巡って、現地政府と正面衝突した。
根回しも通告もなしだ。『皇軍の必要は即時履行せよ』――閣下はそのまま言われたらしい」
真鍋は黙って聞いていた。汗が首筋を伝う。
「泰は同盟国だ。少なくとも建前上はな。
だが閣下は、彼らを占領地の行政官のように扱われた。
結果、バンコクから大本営へ正式抗議だ。威圧、越権、外交干渉……文言はかなり強い」
佐久間は煙を深く吸い、吐き出す。
「大本営の判断は早かった。『副参謀長が独断で外交問題を惹起』『統帥権の枠を逸脱』――それで終わりだ」
佐久間少佐が煙草を灰皿に押し付けると、湿った灰が音もなく潰れた。
「閣下は、近く発たれることになるだろう」
吸い殻を見つめたまま、佐久間は言った。
「行き先は未定だが、比島方面か内地への異動が推測されている。
これにより、泰政府および第十五軍との間に生じていた『摩擦』は、人事上の処理として一括で解決されることになる」
真鍋は手元の書類へ視線を落とした。
「……後任は、決まっているのですか」
佐久間は周囲の将校へ視線を向けた後、さらに声を落とした。
「確度の高い内示だ。……参謀本部の第一部長、綾部少将が下りてくるらしい」
真鍋の計算尺を操る手が、ピタリと止まった。
「……中央からですか」
「そうだ。反対派の筆頭を更迭し、代わりに中央の作戦屋のトップを直々に送り込んでくる。……東京は本気だ。誰が着任するにせよ、これまでの算定基準は引き継がれない。帳簿は、向こうの方針に合わせて引き直しという事だ」
佐久間は低く息を吐き出した。
「必要はなくなった……とはいえ、引き続き第十五軍への補給計画を計算しておけよ。……その数値が司令部の公式記録に採用されないことが確定していてもだ」
「承知しました」
佐久間は自席へ戻って行った。
真鍋は机上のペンを取り、インク壺に沈める。
ペン先がガラスの底に触れ、かすかな音を立てた。
窓外でスコールが降り始め、ヤシの葉を打つ水音が次第に強まった。
廊下の遠くから、別部署の将校たちの笑い声が雨音に混ざって届く。
左胸のポケットで、銀時計が規則正しい稼働音を刻んでいた。
真鍋は視線を上げることなく、計算尺を操作し、次の数値を手帳へ書き込んだ。