嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年十月上旬の夕刻。
昭南島の日本人街の外れ。トタン屋根の土間打ちの食堂で、越智はいつものように退屈そうにうどんを啜っていた。
どんぶりの脇には、赤い陸軍省の公印が押された薄っぺらい辞令用紙が、無造作に置かれている。
向かいに座る尾形少尉がその文面を覗き込み、思わず目を剥いた。
『陸軍大尉 越智広重。陸軍省軍務局附被仰付、関東軍司令部差遣ヲ命ズ』
「関東軍差遣……!? 大尉殿、異動ですか。しかも軍務局附とは」
「尾形少尉。他人事ではないよ、君たちもだ」
「……我々も、満洲へ?」
「ああ。来週には軍用機でこの昭南を発ち、まずは東京へ向かう。陸軍省で直接、今回の『仕事』の内命を受けることになっていてね。新京へ入るのは、その一週間後だ」
越智は箸を置き、気怠そうに溜息をついた。
「我々も所詮、軍服を着た役人だ。この島で手をつけている仕事がどれだけあろうが、紙切れ一枚で赤道直下から北の果てへ移動させられる。……まあ、一度内地に寄れるのは、せめてもの温情というべきかな。私としては、少し羽根を休めてゆっくりしたいのだがね。」
「しかし、あまりに突然すぎませんか……」
「軍の人事なんていつもそんなものだよ。それに今回も、少々『裏』の任務がついている」
越智は懐から歪んだ煙草を取り出し、口にくわえた。
尾形が素早く燐寸を擦る。チリ、という音とともに火が灯り、越智は紫煙を細く吐き出した。
「表向きの実務は『関東軍管下における、兵站および軍需物資の実態査察』。中央が関東軍の喉元に突きつける……と、いうほど鋭くもないが、要するに喉に引っかかった、不愉快な魚の小骨くらいの存在なわけだな」
「実態査察……」
「今、東部ニューギニアの戦線はどこも泥沼だからね。補給の船は沈められ、兵士たちは弾も食糧もないまま密林で餓死している。ゆえに東京の軍務局は、満州で無傷のまま温存されている関東軍の巨大な備蓄を、ごっそりとそっちへ引き抜こうとしているんだろうね」
「なるほど……それで、関東軍側が抵抗していると?」
「猛反発だよ。あそこは昔から、東京の言うことなど聞かない独立王国に近いからね。ソ連軍の動向が不穏であるとか言って、応じない。さらに彼らは、倉庫の帳簿を徹底的に改竄している。要するに、ソ連軍より恐ろしいのは、自分たちの取り分を削りに来る東京の役人どもだ、ぐらいに思っているんだろうね」
越智は灰皿に煙草を押し付け、冷ややかに目を細めた。
「当然、東京の閣下たちは、関東軍が提出してくる帳簿など、もう信用していない。だから私のような嫌われ者を直接現地へ送り込み、いじめられてこいと命じてきたわけだ。それだけ省全体が苛立っているんだろうね」
尾形は息を呑んだ。
「……巨大な独立王国である関東軍の、帳簿の底を抜く。憲兵隊や現地の特務機関も、黙ってはいないんじゃ……」
「まぁ……そうだろうね」
越智は少し息を吐いて続ける。
「しかも今回はやたらと、ハルピンを気にしているようでね。別勘定みたいだ」
「ハルピン……と、言いますと」
「ハ特(ハルピン特務機関)だよ。その管轄下の備蓄庫が重点対象らしい」
「……ハ特……ですか」
「あそこも昔の知り合いが多くてね……しかも私より上手だ。帳簿も人の扱いもね……。正直、何をどこまでできるのか見当もつかんよ……」
越智はどんぶりの横に一圓札を置き、よっこらしょとゆっくり立ち上がった。
「まったく……これからの季節、極寒の満州とは……。尾形少尉、悪いが古賀、西尾、北島の三名と一緒に道連れになってもらうよ。私の『温度』について来られる部下は、そう多くないんでね」
「……っ、了解いたしました。直ちに三名に伝達します」
「頼むよ。……せめて東京で、まともな蕎麦でも食えるといいんだがね」
越智は国民服の襟を合わせ、湿り気を帯びた昭南の夜気の中へと、足を引きずるようにして消えていった。