嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第25話 帝都の秋

1943年十月中旬

帝都・東京 市ヶ谷

 

熱帯の昭南島から持ち帰ったはずの熱気は、厚い雲に覆われた帝都の灰色の空の下で、あっという間に冷え切ってしまった。

 

市ヶ谷の陸軍省。その一角にある薄暗い洗面所の鏡の前で、越智広重は大げさにため息をついた。

 

支給されたばかりの真新しい軍衣――その硬い生地の感触に僅かな違和感を覚える。真新しいとはいえ、戦時下の物資不足の影響か、生地はどこか粗くゴワゴワとしていた。国民服に慣れきった体には、襟元の詰まり具合がどうにも居心地が悪い。

 

窓の外には、秋の冷たい風に吹かれる帝都の街並みが広がっている。「必勝」の文字が踊る横断幕が風に揺れている。

 

「……やれやれ。着慣れないものを着ると、どうも肩が凝る」

 

越智は背筋を正して「軍務局」へと続く廊下に出る。磨き上げられた床が窓からの鈍い光を跳ね返し、静謐な、しかし刺すような緊張感に満ちている。

 

突き当たりにある局長室の前。そこには二人の憲兵が、直立不動の姿勢で立っていた。

 

越智は軍衣の襟元を一度だけ指で弄る。

 

「陸軍大尉、越智広重。出頭致しました」

 

越智が声をかけると、扉脇に控えていた若手の副官が敬礼して促す。

 

「局長殿がお待ちです。……どうぞ」

 

副官の手によって重厚な扉がゆっくりと開かれた。

 

     *

 

「おお、越智大尉。南方では大層な働きだったそうだな。ご苦労だった」

 

局長室に足を踏み入れるなり、よく通る、ハリのある声が越智を出迎えた。

 

陸軍省軍務局長、佐藤賢了(さとう・けんりょう)陸軍少将。東條陸相の懐刀と呼ばれ、省内に隠れなき権勢を振るう男だ。

 

「はっ。過分なお言葉、恐悦至極に存じます」

 

越智は隙のない直立不動の姿勢をとり、深く敬礼した。

 

「大臣も大層ご満足されていたぞ。現地の小役人どもや特務の連中が勝手に構築した『聖域』に踏み込み、一銭一厘の狂いもなく帳簿の底を抜く。……泥を被る汚れ仕事だが、貴官のような男がいなければ、組織は末端から腐り落ちてしまうからな。詳しくはそこの仁科から聞け。しっかり励めよ」

 

「はっ……。不肖越智、粉骨砕身の覚悟であります」

 

佐藤局長は豪快に笑い、満足げに書類に視線を戻した。

 

越智は敬礼して踵を返す。別室へと越智を案内したのは、軍務局の中枢を担う仁科(にしな)陸軍中佐だった。

 

     *

 

別室の応接間。

 

越智は仁科の胸元で揺れる金色の「参謀飾緒(さんぼうしょくじょ)」を一瞥する。

そして、陸大を出ていない「無天(むてん)」の劣等感を、愛想笑いの裏に隠した。

 

「……大尉。座ってくれ」

 

仁科中佐の声は、先程の佐藤局長のものとは対照的に、低く、湿り気を帯びていた。

 

彼は書類の山をテーブルに置くと、椅子には座らず、窓の外を見つめたまま重い口を開いた。

 

「既に聞いているとは思うが、ハルピン特務機関――『ハ特』の内部査察。それが今回の任務の『芯』だ。管轄下の隠し物資庫、および対ソ工作資金に、不自然な淀みがある。……それは前任者がまとめた報告書と資料だ」

 

仁科が振り返った。

 

「現在のハ特機関長は、秋草(あきくさ)少将だ。貴官の……中野時代の教官だな?」

 

「……はい。私の、手の内をすべて知っている御方です」

 

仁科は微かに口角を上げたが、すぐに表情を消した。

 

「隠しても仕方がないから言うが……」

 

仁科は越智の正面に立ち、声を極限まで潜めた。

 

「半年前、貴官の『前任者』として小堀という大尉が満州に飛んだ。彼は参謀第二部の十一課にいたことがあるから貴官も知っているだろう……その小堀大尉は満洲に入って三ヶ月後、忽然と行方知れずになった。関東軍は抗日匪賊の仕業の可能性が高いと報告してきたが、実情は不明だ」

 

「!……」

 

仁科は窓の外を見ながら低く続ける。

 

「ハ特は、東京の干渉を病的に嫌う。あそこはもはや、関東軍という独立王国の中でも、さらに隔離された『不可侵の島』だ。……大尉。ハルピンの闇は、南方のそれとは深さが違う。あそこでは、軍籍も、階級も、何の保証にもならない」

 

越智は数秒の間、無言で自分の指先を見つめていた。

 

そしてゆっくりと顔を上げると、いつものようにどこか頼りなげな笑みを浮かべた。

 

「……ご配慮、痛み入ります、中佐殿」

 

越智は立ち上がり、窮屈な新調の軍衣を正すと、深々と頭を下げた。

 

「前任者の二の舞にならぬよう、気を引き締めて任務にあたります」

 

仁科中佐は、それ以上何も言わなかった。

 

     *

 

神田界隈の、表通りから一本裏に入った古びた蕎麦屋。

 

引き戸の隙間から吹き込む帝都の秋風が、店内に漂う醤油の匂いを冷たくかき混ぜていた。

 

「……やれやれ。やっと昭南の豚の脂臭いうどんから解放されたと期待したのだがね」

 

越智は、湯気の立つかけ蕎麦の汁を匙で掬うように箸で弄りながら、深く溜息をついた。

 

「尾形少尉、これを味わってみたまえ。小麦粉と泥を混ぜて煮込んだような、実に……帝都の悲哀を凝縮したような味がするよ……どおりで客がいない訳だ……」

 

向かいの席で、同じく真新しい軍衣に身を包んだ尾形少尉が、声を潜めて尋ねる。

 

「……大尉殿。市ヶ谷の様子はいかがでしたか」

 

越智は少し目を閉じてから、ゆっくりと話し始める。 

 

「魚の小骨のような、可愛らしい話ではなかったよ。どうやら私は、死装束の仕立て直しを頼まれたらしい。寸法直しまで完璧にとね」

 

越智は箸を置き、どんぶりの横に無造作に置かれた湯呑みを手に取って、薄く笑った。

 

「我々の前任者がいたそうだ。半年前に満洲の土を踏み……そして三ヶ月後、突如ふっと消えた。要するに神隠しだ」

 

「神隠し……まさか、ハルピンでですか」

 

「……小堀大尉。私の古巣、第二部の暗号班にいた実に頭の切れる男でね」

 

「小堀大尉……前に仰っていた、哈爾浜学院卒の人脈をお持ちの方ですね」

 

「ああ。彼のような男が、その辺の薄汚い匪賊に出し抜かれて野垂れ死ぬなどあり得ない。軍務局も、関東軍の報告など欠片も信じてはいない」

 

越智は懐から歪んだ煙草を取り出し、口にくわえた。燐寸を擦る尾形の手が、微かにこわばっているのを越智は見逃さなかった。

 

チリ、と鳴った火の向こうで、越智は細く紫煙を吐き出し、目を細めた。

 

「ハ特の機関長は秋草少将だからね……私も複雑な思いだよ」

 

「……我々の手の内など、向こうは百も承知だということですか」

 

「先生が直接どうこうという話ではないんだがね。あの極寒の地には、私を出し抜ける策士が、それこそ掃いて捨てるほどいる。小堀は優秀すぎた……知りすぎて、触れてはならない逆鱗に触れたんだろう。気がついた時には、四方を白い壁に囲まれた、逃げ場のない雪原のど真ん中。……いや、想像で物を言うのはやめておこう」

 

越智は、どんぶりの底に残った濁った汁を冷ややかに見つめた。

 

「尾形少尉、よく聞きなさい。関東軍にとって、我々は東京から送り込まれた目障りな存在だ。向こうに着いた瞬間から、我々は一挙手一投足、すべて監視されると思った方が良い。少しでも『嗅ぎ回っている』素振りを見せれば、我々も神隠しなんて事になりかねんよ」

 

「はっ……。では、どう動きますか」

 

越智は、どこか楽しげに、自信に満ちた不敵な笑みを浮かべた。

 

「何も難しいことはない。徹底的に普通を演じるだけだ……彼らが警戒する価値もないと呆れ果てるくらい、普通の役人としてな……まあ南方のようにはいかんだろうが、それくらいでちょうど良い」

 

越智は短くなった煙草を灰皿に押し付け、胃のあたりをさすった。

 

「とにかく、目立たんことだよ」

 

「……承知いたしました。古賀たちにも、そのように徹底させます」

 

「頼むよ。まったく……ただでさえ胃が痛いというのに……」

 

越智は小さくため息をつき、テーブルの上に一圓札を置いた。

 

「……さあ、行こうか」

 

引き戸を開けると、路地を抜ける乾いた秋の夜風が、二人の真新しい軍衣に吹きつけた。

 

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