嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1943年十一月下旬
満洲国国都・新京
国都の歓楽街にひっそりと佇む割烹料亭。
床の間には見事な掛け軸が下がり、漆塗りの膳の上には帝都ではあまり見かけなくなった銀シャリと、極上の牛肉が湯気を立てている。
「さあさあ大尉殿、今宵は堅い話は抜きにして。灘の生一本です。どうか手酌などなさらず」
経理部の接待役である富樫少尉が、愛想の良い笑みを浮かべて徳利を傾けた。
「ほう、灘の生一本……いやはや、かたじけない」
越智は目を閉じ、盃の香りを深く吸い込んだ。
「完璧だ。米のふくよかな香りが、凍え切った体に火を灯してくれるようだ。それにしても、新京という街は楽園だな。帝都の人間がこの見事な肉を見たら、腰を抜かすだろう」
「恐れ入ります。なにしろ、帝国の生命線たる満洲国です。大豆や石炭だけでなく、食の豊かさも『王道楽土』の証であります」
隣では、尾形少尉も上機嫌に箸を進めている。
「富樫少尉、さっきから聞こえてくるあの蓄音機の歌は……満映(満洲映画協会)の李香蘭ですか?」
「お分かりになりますか、尾形少尉殿。今、新京の女学生や若い将校の間でも大流行でしてね。先日の大同大街のパレードでも、彼女の姿を一目見ようと大変な騒ぎでした」
「なるほど、絶世の美女と名高いだけのことはある。甘い歌声だ」
越智は恍惚とした表情で、宙を見つめた。
「絹のように滑らかで、どこか退廃的な甘さがある。どうかね尾形少尉、明日は少し羽を伸ばして活動写真でも見に行くか?」
越智が機嫌よく笑うと、座敷は和やかな笑い声に包まれた。
「大尉殿のお気に召して何よりです。ハルピンまで行けば、白系ロシア人の美しい給仕がいる洒落たカフェー(カフェ)もございます。そちらの案内も、いずれ私が……」
「ハルピンのカフェー……それは魅惑的な響きだ。いやあ、関東軍の皆様のご厚情、痛み入るよ。富樫少尉」
越智は再び盃を飲み干した。
「さすがは大尉殿。見事な飲みっぷりであります」
富樫が手を叩くと、艶やかな着物姿の芸妓たちが座敷に入ってきて、場の空気はいっそう華やいだ。
三味線の音色が李香蘭の歌声に取って代わり、越智は手拍子を打ちながら夢心地に酔いしれる。
窓硝子の向こうでは、凍てつく大陸の風が吹き荒れていた。
*
翌朝。新京ヤマトホテルの一室。
蒸気暖房が効きすぎるほどの部屋で、越智は寝巻きのままベッドの端に座り込み、深くため息をついた。
「……やれやれ。少し飲み過ぎたな。頭の芯で李香蘭がまだ歌っている」
コップの水で胃薬を流し込み、越智は顔をしかめる。
コンコン、と控えめにドアを叩く音がした。
「入りたまえ」
越智が気だるげに声をかけると、ドアが静かに開き、すでに軍衣を隙なく着込んだ尾形少尉が姿を現した。手には分厚い革表紙の書類束が抱えられている。
「大尉殿。昨日はだいぶお酔いになられたようで……ご気分はいかがですか」
尾形が心配そうに、しかしどこか呆れたような視線を向ける。
越智はベッドから立ち上がり、両腕を伸ばしてあくびをした。
「いやぁ、素晴らしい夜だったよ。たまにはあんな役得もないとね。昭南の油臭いうどんや、帝都の泥水みたいな蕎麦ばかりではやってられないよ」
越智の軽口に、尾形は小さく息をつき、抱えていた書類束を部屋の豪奢なマホガニーのテーブルにことりと置いた。
「先程、富樫少尉が朝の挨拶にと、第一陣の帳簿類を持参しました。……ざっと目を通しましたが、計算の合わない糧秣や弾薬の欠損がいくつか散見されます。どう見ても意図的です。我々を誤魔化すための、いわば『生け贄の数字』かと」
尾形の報告を聞き、越智はふっと目を細めて笑った。
「……素晴らしいじゃないか。関東軍の経理部は実に仕事が早い」
越智は心底感心したように頷き、ベッドの脇のサイドテーブルから煙草を一本引き抜いた。
「は……? しかし大尉殿、こんな見え透いた手土産で――」
「いやね、私は本当に気が重かったんだよ」
越智はマッチを擦り、紫煙を深く吸い込んだ。
「このクソ寒い満洲で、埃を被った倉庫を這いずり回るのかと思うとね……それがどうだい。暖かいホテルの部屋で寝ているだけで、東京の閣下たちが満足する『成果』を、向こうから丁寧に持参してくれたんだ。こんなありがたい話はないよ」
越智はテーブルの上の帳簿をポンと軽く叩いた。
「我々もこれを突いて、適当に報告書をでっち上げればいい。東京の顔も立ち、現地の顔も潰れない。お互いに傷つかない、実によくできた取引だ……いやぁ、至れり尽くせりだね」
越智は紫煙を深く吸い込んで細くゆっくりと吐き出した。
「どうだい尾形少尉。この際、半年ほど満洲でのんびり羽を伸ばして、関東軍が用意した、お土産を持って帰ろうじゃないか」
「……半年、ですか」
「ああ。第一、昔の仲間に命を懸けて立ち向かうなんて、私はあまり気が進まないからね。三宅坂(陸軍省)の閣下たちだって、本気で私たちがハルピンの底を抜けるなんて、期待しちゃいないさ。この程度の成果でも充分体裁は保てるだろう」
再び紫煙を吐き出しながら、越智はどこか自嘲気味に笑った。
「先方がここまで気を使ってくれているものを、わざわざ跳ね除けて爪を伸ばすような真似をすれば……ろくなことにならないよ」
越智は煙草を指に挟んだまま、視線を尾形に向けた。
「君だってそうだろう?」
部屋の蒸気暖房が、ごつん、と低い音を立てた。
「……それとも、小堀みたいになりたいか?」
尾形は息を呑み、直立不動の姿勢のまま沈黙した。
越智は振り返ると、いつものようにどこか頼りなげな笑みを浮かべ、灰皿に煙草を押し付けた。
新京ヤマトホテルの一室。過剰なほどの暖かさが二人を支配していた。