嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第28話 凍てつく街の亡霊

1943年十二月中旬。

満洲国北部・哈爾浜(ハルピン)

 

新京の寒さが「剃刀」だとするならば、ハルピンのそれは「鈍器」だった。

 

関東軍が用意した台本は、ハルピン特務機関の管轄下でも淀みなく進行している。

 

「ほう、冬期用の外套が三百着ほど、帳簿の数字と合わないと。……なるほど、倉庫の雨漏りによる腐食で廃棄処分ですか。いやはや、満洲の気候は軍需品にも容赦がないようだ。いや、これはしっかり東京へ報告しておかなければなりませんな」

 

越智は山積みの書類から顔を上げ、特務機関の案内役に向かって笑みを浮かべた。

 

「はっ。我々も管理には細心の注意を払っておりますが、何分この広大な満洲の気候ゆえ……ご理解いただき、感謝いたします」

 

案内役の将校は、恭しく頭を下げながら、安堵の息を漏らした。

 

     *

 

その日の夜。

 

ハルピン・ヤマトホテルの一室。

 

分厚い外套を羽織り、毛皮の帽子を深く被った越智が、鏡の前で襟元を直していた。

 

それを見た尾形少尉が、ソファから立ち上がる。

 

「大尉殿、こんな夜更けにどちらへ?」

 

「ん? ああ、少しばかり白系ロシアの文化に触れてみたいと思ってね。本場のウォッカと、美しいロシア娘の歌声を堪能してくるよ」

 

越智がいつものように飄々と答えると、尾形は顔をこわばらせた。

 

「お一人でですか? お供いたします。ここは新京以上に複雑な街です。夜の治安も……」

 

尾形は極端に声を落とし、越智に耳打ちする。

 

「それに、ハ特の監視の目も光っております」

 

「良いんだよ、尾形少尉」

 

越智は帽子の埃を軽く払い、薄く笑った。

 

「しかし……」

 

「君たちはここで、古賀たちと一緒に美味い肉でも食って、ゆっくりと留守番をしていてくれ……普通でいいんだ」

 

越智はドアノブに手を掛け、振り返らずに声を一段落とした。

 

「いいかい。私が帰るまで、誰もホテルから外に出てはいけないよ。私が気持ちよく酔っ払って帰ってくるための、これは君たちの任務だ」

 

尾形は数秒の沈黙の後、小さく息を吐いて直立不動の姿勢をとった。

 

「……はっ。了解いたしました。どうか、お気をつけて」

 

「ああ、ウォッカの飲み過ぎには気をつけるよ」

 

バタン、とドアが閉まる音が、豪奢な部屋に響いた。

 

     *

 

ハルピンの繁華街、キタイスカヤ通り。

 

石畳を覆う氷と、マイナス二十度を下回る刺すような冷気が、行き交う人々の息を白く凍らせている。

 

背後には、付かず離れず張り付くハルピン特務機関の監視の影。

 

越智は外套の襟を立て、ロシア語の看板が並ぶ路地裏へと足を踏み入れた。

 

白系ロシア人で賑わうウォッカの匂いが立ち込める安酒場を抜け、厨房の裏口から凍った裏通りへ出る。そこから動き出したばかりの市電に飛び乗り、次の停留所で反対側の扉から滑り降りた。

 

     *

 

埠頭区の外れ。

 

ふと、視線が一度だけ背中に触れた気がした。

 

「……」

 

越智は僅かに息を吐き、口角を上げる。

 

看板すらない地下の酒場への階段を降り、木製の重い扉を開けると、「カラン」と乾いた音が鳴った。

 

ウォッカと黒パンの匂いが漂う薄暗い店内で、カウンターの奥に立つ男は、入ってきた越智の顔を見るなり、布巾でグラスを拭く手をぴたりと止めた。

 

ハルピン特務機関の秘匿(ひとく)工作員であり、中野時代の旧友でもある大塚陸軍大尉だ。今はしがない酒場の主人に完璧に成りすましている。

 

一組しかいない客から離れたカウンターの端に越智が腰を下ろすと、大塚は忌々しそうに低い声で吐き捨てた。

 

「……よく嗅ぎつけやがったな、疫病神」

 

「ずいぶんだな。はるばるこんな極寒の地まで、同窓の顔を見に来てやったというのに」

 

越智がいつものように飄々と笑うと、大塚は眉間を深く寄せた。

 

「冗談じゃない。お前みたいな目立つ奴が来ると、こっちまで変な目で見られる。……ちゃんと尾行は巻いてきたんだろうな?」

 

「お宅の本部の若いのが二人ばかり散歩についてきたがね。キタイスカヤのロシア・カペーに入って、裏口から出る……と見せかけて、地下のボイラー室から隣の石造りアパートまで配管溝を這って抜けさせてもらったよ。たぶん大丈夫だと思うが、相手も素人じゃない……どうかな」

 

大塚はうんざりした顔をして舌打ちをした。

 

「一杯飲んだら、さっさと帰ってくれ」

 

「そうもいかないんだよ……解せないことがあってな」

 

「まったく……昔からお前は、面倒事ばかり運んでくる」

 

大塚はため息をつき、カウンター越しに強いウォッカの入ったグラスをどんと無造作に置いた。

 

「で? 何が知りたい。言っとくが、俺は仲間を売らんぞ」

 

越智はグラスには口をつけず、ふっと笑みを消した。

 

「小堀だ。……やってくれたらしいじゃないか。東京から来た査察官を跡形もなく消すとはな」

 

越智のカマかけに対し、大塚は鼻で笑い、グラスを磨くふりをしながら声を潜めた。

 

「……おいおい、馬鹿言うな。東京の連中も、お前も、本気でそう思い込んでいるのか?」

 

「違うのか?」

 

「違うな」

 

大塚は周囲の酔客を一瞥し、さらに声を極限まで落とした。

 

「この件はあんまり喋れないが、これだけははっきり言える。小堀はウチ(ハ特)が消したんじゃない。むしろウチの連中も、突然消えた小堀を血眼になって探していたんだ。東京との関係を決定的に拗らせる『暗殺』なんて馬鹿な真似を、あの機関長が許すわけないだろ」

 

越智の目が、微かに細められた。

 

「……では、小堀はどうなった」

 

「二つに一つだ」

 

大塚は布巾を置き、カウンターに両手をついた。

 

「小堀の『ここ』の人脈は底が知れん。ロスケの工作員から八路軍、それこそ国民党軍関連までな。奴なりの別の何かがあったのか、本当に匪賊かソ連の連中に消されたか……おっと、これ以上は勘弁してくれ」

 

「別の何か……」

 

越智が低く呟いたその時、店内でウォッカをあおっていた最後の客が席を立ち、数枚の紙幣をテーブルに置いて重いドアを開けた。

 

カランという乾いた音とともに、冷気が一瞬だけ店内に吹き込んだ。

 

大塚は無言で歩み寄り、入り口の鍵を下ろした。

 

硬質な金属音が、地下の酒場に響く。

 

再びカウンターに戻ってきた大塚の顔には、先程までの「面倒くさそうな旧友」の表情はなく、極北の最前線で神経をすり減らす諜報員の冷酷な顔が浮かんでいた。

 

「……なあ、越智。そもそも中央は、なぜ我々関東軍から備蓄を剥がそうとしている」

 

「決まってるだろう。南方の戦線が限界だからだよ。無傷の関東軍の倉庫に目をつけるのは、当然の道理だ」

 

「道理、ね」

 

大塚は鼻で笑い、自分のためのグラスにウォッカを注いだ。

 

「先月末から今月初めにかけて行われた『テヘラン会談』……お前も当然知っているだろう。あれをどう見ている」

 

「……対独戦の協力と、戦後の欧州分割の話し合いだと言われているが」

 

「欧州分割な……」

 

大塚は燐寸を手際よく擦り、煙草の紫煙を深く吸って吐き出す。

 

「中央の阿呆どもは、日ソ中立条約を後生大事に抱え込んで、本気でソ連が和平の仲介に入ってくれるなどと夢を見ている。あのロスケが、本当に約束を守ると思ってるのか?」

 

越智は答えず、ただ手元のグラスを見つめた。

 

「要するに決定的な証拠がないだけで、ロスケの腹の底で考えていることなど、この極寒の地で特務(この仕事)をやっていりゃ肌でわかるだろう。奴らは必ず満洲になだれ込んでくる。その時のために、我々は血の滲むような思いで備蓄を死守しているんだ」

 

大塚はブリキの灰皿引き寄せる。

 

「まぁ、中央の使いっ走りのお前に言うのも筋違いかもしれんがな……。お前のやってる『仕事』は、この満洲の防衛線を内側から食い破り、物事を最悪の方向へ悪化させているのかもしれんぞ」

 

越智は一点を見つめて聞いている。

 

裸電球の一つが、じーっと音を立てて点滅した。

 

「アカに侵略される恐ろしさを……お前は、本当にわかっているのか」

 

地下室の澱んだ空気の中で、大塚は諭すように低く続ける。

 

「……満洲だけでは済まん」

 

大塚はブリキの灰皿に灰を落とし、再び深く吸い込んだ紫煙を吐き出す。

 

「中央の天保銭組(陸大卒)は、偉そうに金ぴかの参謀飾緒を下げて、自分たちは賢く、これが正しい方向だと本当に思っているのかも知らん。……だがな、もしそれが省内の面子や派閥争いのためだけだというなら、大変なことだぞ」

 

「……」

 

「そんなくだらないことのために……教官は、諜報を教え込んだのか」

 

大塚はゆっくりと目を閉じる。

 

「ウチ(ハ特)も、中央の阿呆どもを説得する材料を……ロスケが必ず条約を破って攻めてくるという決定的な証拠を探してはいるがな……。いかんせん、今はまだその『証拠』がない……」

 

大塚は煙草を灰皿に揉み消して、深く息を吐き出す。

 

「そう、証拠がないだけなんだよ……」

 

そう呟くと、布巾でカウンターの上を拭き始めた。

 

「まぁ、俺も今さら、この地の底で憂国だなんだと安っぽいことを言うつもりはないがな」

 

大塚はにやりと笑みを浮かべた。

 

「中央の天保銭組様が……もしその『証拠』が出た時、一体どんな間抜けな顔をするのかと思ってな。……今は、それだけが楽しみだよ」

 

越智は無言のまま、一度も口をつけていない冷え切ったグラスの表面を、ただ指先でなぞっていた。

 

やがて、ふうと短く息を吐き出してゆっくりと立ち上がると、いつもの飄々とした、そしてどこかくたびれた笑みを浮かべた。

 

「いやいや……私も旧友に会うたびに、素晴らしい演説というか、説教を聞かされるよ」

 

「どういう意味だ」

 

大塚が訝しげに眉をひそめる。

 

「いや、こっちのことだ」

 

越智はグラスのウォッカを一気に煽り、椅子の背に掛けていた分厚い外套を羽織って、深く帽子を被り直した。

 

「とにかく、今日は会えてよかったよ。美味い酒と、貴重な土産話に感謝する」

 

大塚は再び布巾でカウンターを拭き始め、視線を落としたまま忌々しそうに吐き捨てた。

 

「こっちは大迷惑だ。頼むから、もう二度と顔を見せないでくれ」

 

「では、また」

 

越智が踵を返し、出口の重い木製ドアの内鍵を開けた時だった。

 

「……越智」

 

背後から、大塚の低く、しかし確かな声が地下室に響いた。

 

「死ぬなよ」

 

越智はドアノブを握ったまま足を止め、振り返ることなく、ほんの僅かに肩を揺らして笑った。

 

「……それはお互い様だよ、大塚」

 

カラン、と無機質な音が鳴り、重いドアが開く。

 

地上へ続く階段から降りてきた冷気が、一瞬店内に入り込んで、バタンとドアが閉まる。

 

越智は外套の襟を立ててゆっくりと階段を登り始めた。

 

     *

 

猛烈な吹雪が、顔の感覚を瞬時に奪い去っていく。

 

キタイスカヤ通りの路地裏を歩く越智の背中に、じっとりと張り付くような視線が触れた気がした。

 

「……やれやれ……私も、とんだ疫病神の使いっ走りだな」

 

越智は帽子のつばを深く下げ、足を引きずるようにして歩き続けた。

 

     *

 

ハルピン・ヤマトホテルの一室。

 

ドアが開く音に、ソファで待機していた尾形少尉が立ち上がった。

 

「大尉殿、ご無事で何よりです」

 

「ああ……」

 

越智は雪を払って分厚い外套を脱ぎ、ハンガーに無造作に掛けた。

その顔には深い疲労の色が滲んでいた。

 

「……それで、夜のハルピンはいかがでしたか」

 

越智は寝台の端に腰を下ろし、懐から歪んだ煙草を取り出して口にくわえた。

燐寸を擦り、紫煙を深く吸い込んでから、ゆっくりと吐き出して、尾形の耳元に微かな湿った声を落とす。

 

「小堀をやったのは、ハ特じゃない」

 

落とされたその一言に、尾形は息を呑んだ。

 

「……で、では、誰が」

 

「わからない」

 

越智は煙草の灰を落とし、視線を窓の外の暗闇に向けた。

 

「……我々は、どう動きますか。調査の方向を――」

 

「尾形少尉」

 

越智は尾形の言葉を静かに遮る。

 

「来週の予定はどうなっている」

 

「はっ、通信機材と予備部品の監査であります」

 

「そうか……」

 

越智はカーテンを少し開けて、窓の外を見た。

 

「……明日からも、普通に業務を続けなさい。それだけだよ」

 

「……しかし! それでは……」

 

越智は人差し指を唇に当てる。

 

「……」

 

紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出きだした。

 

「……はっ、了解いたしました」

 

越智は胃の辺りを摩りながら、一点を見つめている。

 

「今日はもう休んでくれ。私も少し疲れた」

 

「はい。失礼いたします」

 

指に挟んだ煙草が、短く焦げていく。

 

越智は立ち上がり、窓ガラスに触れた。

冷気がガラス越しにも手のひらに伝わってくる。

 

「……証拠がない、か……」

 

呟いた声は、暖房の音にかき消された。

 

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