嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第2話 天網と蜘蛛の糸

翌る日の夜。

帝都・赤坂の裏路地にひっそりと佇む高級割烹『小野川』。

黒塀に囲まれたこの奥座敷には、完全に断絶された特権階級の時間が流れていた。

 

分厚い遮光幕で灯火管制に備えた室内には、上質な昆布と鰹の出汁の香りが漂い、熱燗の湯気が白く立ち上っている。

 

「いやはや、内務省殿の特高警察が張り巡らせた内偵網……その情報量は我々二課から見ても大したものですな」

 

上座で愛想笑いを浮かべながら杯を干したのは、東部軍参謀部第二課長の長谷川少佐だ。

 

その対面で、仕立ての良い背広を着た知的な風貌の男が、鷹揚に頷いて銚子を受け取った。

 

「過分なお言葉ですな。軍部と内務省で手柄の奪い合いをしている余裕はありませんからね。帝都の治安と国体護持のため、第二課殿との情報共有は我々もやぶさかではありませんよ」

 

「そう言っていただけるとありがたい。国内に潜入したソ連や米英のスパイを狩るには、どうしても内務省殿の足で稼いだ情報が必要になりますからな」

 

「いやいや――」

 

内務省警保局・保安課に籍を置く、若き俊秀の官僚――漆原忠之。

警察組織の元締めであり「官庁の中の官庁」と恐れられる内務省において、三十代前半にして課長補佐の座に就く男だ。

 

軍の防諜部隊(第二課)と、国内治安の絶対的支配者(内務省)による非公式な情報交換の宴。

この極めて政治的な場は、漆原家の伝手で、克彦が準備して整えられたものだった。

 

忠之の実の弟、漆原克彦少尉は、末席で軍服姿のままそつなく給仕をこなしている。

 

忠之は弟へ視線を向けた。

 

「しかし、出来の悪い弟ですが、少しは軍のお役に立っておるのでしょうか。こいつは昔から人の懐に入る要領だけは良いものでして」

 

「兄上、身内の恥を晒すのはご勘弁を」

 

漆原少尉がはにかんだように笑って身を乗り出し、そつなく場を潤滑に回す。

 

「……それにしても、長谷川少佐殿。情報共有は大いに結構ですが、憲兵隊本部の連中は少々手荒すぎますな」

 

忠之の隣に座る内務省の実務担当官が、眼鏡を押し上げながら不満げに口を開いた。

 

「先日も、我々が泳がせていた帝大の左翼サロンを、憲兵が横入りして一網打尽にしてしまった。しかも、彼らが作成した『押収品目録』と、我々が事前に把握していた資産家の財産リスト……特に書画骨董や貴金属の数が、まったく合わないのですよ」

 

その刺々しい言葉に、長谷川少佐の脇に控えていた第二課の中堅参謀・木田大尉が、苦虫を噛み潰したような顔で身を乗り出した。

 

「……耳の痛いお話ですな。ですが内務省殿、憲兵隊は陸軍大臣直轄の警察機関です。我々参謀部といえど、彼らの現場の裁量にまでいちいち掣肘を加えられる権限はありません。まったく……連中の手癖の悪さには、我々第二課としても頭を抱えているのが実情でしてな」

 

「まあまあ、木田大尉。実務の摩擦は現場同士で擦り合わせていただきましょう。今日はせっかくの会食ですから」

 

忠之が手酌で酒を注ぎながら、上位者の余裕で鷹揚に場を取り成す。

 

「兄上のおっしゃる通りです。さあ木田大尉殿、冷めないうちにこちらの猪口を」

 

漆原少尉がすかさず滑り込み、絶妙な間で酒を勧めて不穏な空気を中和した。

 

辻村中尉は、長谷川少佐の随員として、末席からその力学を静かに『観測』していた。

 

(……なるほど。内務省もアカの押収品横流しを、気にしているのか……)

 

 宴が中盤に差し掛かった頃、辻村は「少々、風に当たってまいります」と一礼し、座敷を後にした。

 

お香の匂いが染み付いた磨き上げられた板張りの廊下を抜け、中庭に面した縁側へと出る。

 

十二月の夜気は刃のように冷たかった。辻村は軍用外套の襟を合わせ、懐から煙草を取り出して火を点けた。紫煙が、冷たい暗闇へ細く吸い込まれていく。

 

その時、中庭を挟んだ向かい側――最も奥まった場所にある「離れ」の専用玄関で、分厚い遮光幕がわずかにめくられる気配がした。

 

漏れ聞こえてきたのは、下品な笑い声と、三和土に降り立つ重い靴音だ。

 

辻村は煙草を指に挟んだまま、暗がりに身を潜めるようにして視線を向けた。

 

暗幕の隙間から漏れる微かな電灯の光を背に、芸者衆と女将に平身低頭で見送られながら、恰幅の良い背広の男と肩を組んで三和土へ降りてきたのは、カーキ色の軍衣に黒革の長靴を履いた男だった。

 

「いやあ、それにしても大尉殿は流石です。ウールが、あんな良い値に化けるとは……」

 

「はっはっは!次も上手くやるから、社長によろしく言っておけ」

 

「ええ、そりゃぁもう。大尉殿のお力添えには本当に感謝しておりますよ……」

 

(……あれは!まさか同じ店にいるとは)

 

「奇貨、居くべし――だな」

 

予期せぬ偶然――

 

辻村は少し間合いを測ってから、わざと軍靴の音を鳴らして、彼らが帰るための渡り廊下へと歩み出た。

 

「これは……須藤大尉殿」

 

薄暗い廊下の先から不意に現れた見覚えのある顔に、須藤はビクンと肩を跳ねさせ、酔いが一瞬で吹き飛んだような顔をした。

 

「つ、辻村……!貴様、なぜこんな所に」

 

辻村は、動揺する須藤の隣にいる男の顔をチラリと一瞥した。

 

「第二課の会食で、長谷川少佐殿の随員として参っておりました。……大尉殿こそ、帝都の風紀維持のための夜間内偵、本当にお疲れ様であります」

 

辻村は一切の嫌味を感じさせない、清々しいほどの笑顔で言い放った。

 

「あ、ああ……防諜の網を広げるには、こういう輩の懐にも潜り込まねばならんからな……」

 

須藤は引き攣った愛想笑いを浮かべ、逃げるように背広の男の背中を押して、裏口の方へと足早に消えていった。

 

辻村はその後ろ姿を静かな瞳で見送り、煙草を庭石に落として軍靴で揉み消した。

 

「……壁に耳ありとはよく言ったものだ」

 

一度、目を伏せる。

肩が、わずかに震えた。

 

「……っ」

 

喉の奥で、押し殺したような笑いが漏れる。

 

「く、……くく……」

 

手袋のない指先で、口元を押さえる。

しかし、すぐにその動きは止まった。

 

顔を上げる。

瞳の奥から、熱がすっと引いていく。

 

「……出来すぎているな」

 

一拍。

 

「……いや」

 

わずかに口角が上がる。

 

「……これで、手間が省けた」

 

辻村は指先で口元の髭をすっと撫でつけ、冬の空を見上げた。

 

     *

 

数日後

東部軍司令部、第二課の執務室

 

辻村は自席で、あの茶封筒から抜き出した一枚の報告書に静かに目を通していた。

 

『憲兵隊本部・須藤大尉に関する内偵記録』。

 

そこには、思想犯から押収した資産の横流し先として疑われる、仲買人の名前と身体的特徴が列挙されていた。

 

「……『吉村稲次郎』。年齢四十半ば、中肉中背」

 

辻村は手元の内偵報告書から顔を上げ、先日の『小野川』の裏口を思い返した。

 

須藤と肩を組んでいた背広の男。特徴は一致するが、書類に写真は添付されていない。あの夜の男が吉村であるという、決定的な確証はなかった。

 

「まあいい……」

 

辻村は書類を分厚い茶封筒に滑り込ませた。

 

手元の懐中時計を開き、時刻を確認する。

午後一時。憲兵隊本部の須藤が、週に二度の治安報告のため、この階の作戦室を訪れる時間だった。

 

辻村は廊下に出て、階段の踊り場に通じる角の陰に身を潜めた。

 

煙草に火をつけるふりをして壁に背を預けていると、やがて作戦室の方から、須藤が踵を鳴らす靴音が近づいてきた。

 

彼が角を曲がろうとしたその瞬間、辻村は煙草を床に落として軍靴で揉み消し、すっと須藤の正面へ歩み出た。

 

「須藤大尉殿。お疲れ様であります」

 

「……っ!」

 

不意に死角から現れた辻村の姿に、須藤はビクンと肩を跳ねさせた。

 

「おお……辻村中尉か。驚かせるな」

 

須藤は一拍おいて咳払いする。

 

「大尉殿。少し、お話が」

 

辻村は敬礼をしたまま、静かな声で告げた。

 

「ん? なんだ、ここで構わんぞ」

 

「いえ、ここではちょっと……防諜に関わる『極秘の資料』をご確認いただきたく。……第一資料庫までご同行いただけますか」

 

須藤の顔から、わずかに余裕が消えた。

 

辻村は無表情に須藤を見つめている。

 

「……分かった」

 

須藤が短く答えると、辻村は「はっ」と応じ、踵を返して薄暗い地下階段へと歩き出した。

 

 

東部軍司令部・地下一階、第一資料庫。

 

カビと古い紙の匂いが充満する、窓のない密室。分厚い鉄扉が、重々しい音を立てて閉ざされた。

 

「わざわざこんな埃っぽい地下室に呼び出して、何の用だ。防諜の極秘資料とやら、見せてみろ」

 

須藤は平静を装っていたが、その声には、先ほど廊下で待ち伏せされたことへのわずかな動揺が滲んでいた。

 

「ええ。大尉殿にご確認いただきたい資料がありまして」

 

辻村は無表情のまま、軍用図嚢から茶封筒と、紙を綴じた分厚い書類束を取り出して机の上に置いた。

 

一瞬、表紙に「極秘」の朱印が見えた。しかしすぐに裏返しにされたため、何の書類なのかまでは分からない。

 

「……その前に、大尉殿」

 

辻村は、茶封筒の上に黒革の手袋を置いたまま、静かな声で言った。

 

「先日の夜は、ずいぶんと景気が良さそうでしたね。赤坂の『小野川』で……ウールがずいぶん高く売れたんだとか」

 

その言葉を聞いた瞬間、須藤の動きが止まった。

 

顔から血の気が引いていくのが、薄暗い電灯の下でもはっきりと分かった。

 

(……くっ、やはりか……)

 

須藤は辻村の眼をじっと見つめる。

 

(……こいつは、どこまで聞いていた……)

 

脳裏に、あの夜の会話が蘇る。

 

だが辻村は、それ以上何も言わない。

 

分厚い書類束を開き、一度視線を落とすと、また静かに閉じる。そしてただ、黙って須藤を見つめていた。

 

沈黙が続く。

 

(……いや、待て。普通に考えて、こいつがあんな場所にいるはずがない……)

 

「あれは……いや……」

 

辻村は何も答えない。

 

(……そうか。やはり最初から……二課に張られていたのか……)

 

須藤の胸中で、悲観的な想像が膨らんでいく。

 

辻村はその間も、書類束をぺらぺらとめくっていた。

 

(くそっ……何とか誤魔化さねば……)

 

「ちょっ、ちょっと待て、辻村! あれは誤解だ!」

 

須藤が声を張り上げた。

 

「吉村は、防諜の協力者だぞ!」

 

(――吉村)

 

辻村の口角が、わずかに上がった。

 

彼は茶封筒を裏返し、中から一枚の報告書をゆっくりと引き抜くと、無言のまま須藤の前に差し出した。

 

「吉村稲次郎、年齢四十七歳。中肉中背……大陸ルートのヤミ物資を扱う大同商會の仲買人。存じております」

 

須藤の目が、報告書に記された詳細な記載を見て、大きく見開かれた。

 

そして辻村の手元にある分厚い書類束へと視線を移す。

 

その身体が、わずかに震え始めた。

 

「さらに、内務省の特高警察からこんな資料も上がってきています。大尉殿たちが帝大の左翼サロンから押収した資産の目録……事前情報と、書画骨董や貴金属の数が『まったく合わない』そうですね。……まあ、これも裏は取れていますが」

 

「いやっ、それは……っ!」

 

「……先月、需品部の将校たちが軍需米を横流しした件。大尉殿もご記憶でしょう」

 

辻村は須藤の言葉を遮り、淡々と続けた。

 

「主犯の少佐は軍法会議の末、非公然に銃殺されました。戦時下の軍紀違反……ましてや、悪質な『アカの資産の着服』となれば、思想的な嫌疑すら掛けられかねない」

 

辻村は須藤を見据えた。

 

「……これがどのような結果になるかは、憲兵ならばご存知でしょうな」

 

須藤の膝から力が抜けた。額には脂汗が浮かぶ。

 

「実はこの件については、すでに裏付け調査は完了しています。私の手元にあるのは、最終報告書です」

 

辻村は封筒を指先で軽く叩き、須藤の耳元へ顔を寄せた。

 

「あとは、私がこれを上に具申するだけなのですが……ただ、私は大尉殿を軍務に熱心な先輩として存じておりましたもので……」

 

須藤ははっとして、机に身を乗り出した。

 

「ちょっ、ま、待ってくれ、辻村! 違うんだ!」

 

矢継ぎ早に言い訳を重ねる。

 

「俺一人じゃない! 上へ上納するのに、どうしてもそういう金がいるんだ! 吉村の伝手を使ったのは事実だが、俺は軍のために……!」

 

辻村の表情が、わずかに変わった。

 

「上納……?」

 

須藤はなおも言葉を重ねる。

 

「辻村! お前なら分かるだろう。そういうのは、どの組織にもある……特にうちは競争が激しい。俺だって、あんなことはやりたくない!」

 

数秒の沈黙。

 

やがて辻村は、深く息を吐いた。

 

「いやはや……これは困りましたな」

 

「つ、辻村……?」

 

「正直申し上げて、私とて身内の粗探しは本意ではありません」

 

須藤は唾を飲み込む。

 

辻村は視線を外し、しばらく黙り込んだ。

 

十数秒――須藤にとっては、永遠にも等しい沈黙が流れる。

 

やがて辻村は、ゆっくりと声を落とした。

 

「……大尉殿。それでは、こうしましょう」

 

須藤が息を呑む。

 

「私はできる限り、この報告書の提出を保留いたします。今の私にできるのは、それだけです」

 

須藤の顔が勢いよく上がった。

 

「ほ、本当か!」

 

「ただし」

 

辻村の声が、さらに低くなる。

 

「もし私自身の身に危険が及ぶ、あるいは第二課での立場に大きな影響が出るようなことがあれば……その時は、これを上に報告せざるを得ません」

 

須藤は言葉を失った。

 

「これが、一介の中尉である私にできる範囲です」

 

辻村は静かに息を吐いた。

 

「時間が経てば、状況も変わるかもしれない。それで、よろしいか」

 

「あ、ああ……!」

 

須藤は何度も何度も頷いた。

 

辻村は茶封筒を引き寄せ、軍用図嚢へと収める。

 

「大尉殿」

 

そう言って、辻村は須藤の肩にそっと手を置いた。

 

そして、蛇のように湿った声で囁く。

 

「……私は貴方をできる限りお守りする。さて――ならば貴方は、私に何をしてくださるのか……」

 

天井の裸電球が、かすかに点滅した。

 

     *

 

第一資料庫から自席に戻った辻村は、机の引き出しの鍵を開け、分厚い茶封筒を奥へ放り込んだ。

 

「……狩る側も、狩られれば素人だな」

 

金属製の引き出しを押し込み、静かに鍵を回す。

 

辻村は冷えた紅茶を一口含むと、何事もなかったかのように執務へと戻った。

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