嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第29話 湿った火薬

1944年二月下旬

ニューギニア島東部・ウェワク東飛行場

 

午前十時、東飛行場の気温はすでに人間の体温近くまで上昇し、大気は飽和状態に近い水分を含んでいた。上空には雲一つない青空が広がっている。地上には腐敗した植生の臭気と、揮発油の刺激臭が滞留していた。

 

飛行場の端では、熱帯の鳥が「キュッ、キュッ」と、繰り返し鳴いている。その声は、整備兵たちのスパナと金属が絡む音と波長が似ていた。滑走路には、米軍の爆撃跡を埋め戻した赤土の区画が点在している。風が吹くと赤土が微細な塵となって舞い上がり、汗ばんだ皮膚に吸着して膜を形成した。

 

燃料ドラム缶の蓋の上で、トカゲが一匹、喉を一定のリズムで上下させて静止している。

 

「……暑いな」

 

新沼広務(にいぬま・ひろむ)陸軍少尉は、そのトカゲが陽炎の中に溶けて消えるのを、ぼんやりと眺めていた。トカゲの頭部には、付着した油が黒い斑点を作っていた。

 

「……あいつも、飛べない口か」

 

新沼は、自身の軍服の袖口で額の汗を拭った。湿った布地は水分を吸収せず、肌の上に水分を広げるだけだった。

 

高瀬八十七(たかせ・やそしち)陸軍大尉は、天幕の下で湿気で波打った「飛行機用燃料受領簿」を広げ、万年筆を走らせていた。インクが紙の繊維に沿って滲み、数字の「八」が黒い塊に変わる。

 

「新沼。トカゲの観察は終わったか。ドラム缶の中身を確認しろ」

 

高瀬の声には抑揚がなかった。

 

新沼は重い腰を上げ、ドラム缶の列に向かった。本来なら、そこにあるのは規定の航空揮発油が持つ、透明な琥珀色の液体であるはずだった。だが、手にしたサンプラー(採油器)が吸い上げたのは、それとは似ても似つかぬ、濁った黒褐色の液体だった。

 

「新沼、どうした」

 

高瀬が歩み寄り、新沼の横に並ぶ。天幕の隙間から差し込んだ光が、高瀬の顔を斜めに照らした。四角い顎と鋭く細い目、紫外線で土色に変色した肌に、左眉を縦に断ち切る傷痕があった。

 

「……大尉、これを見てください。色が、また違います」

 

ようやく顔を上げた新沼の表情は、戦場には似合わぬ穏やかな丸顔だった。色白だったであろう肌は赤く焼けているが、どこか故郷・山形の米穀店に立っていても違和感のない温和さが滲み出ている。

 

新沼は軍手もせず、指先で燃料ドラム缶から抜き取ったばかりの揮発油を確かめていた。

 

「ほう……これも濾過しなければ全く使えんな」

 

高瀬は腰を落とし、新沼の指先に顔を近づけた。特有の芳香に混じって、重油か何かを混ぜたような臭いがする。高瀬の細い目がさらに細まり、左眉の傷がわずかに引きつった。

 

彼は胸ポケットから手帳を取り出すと、万年筆で今日の数値を淡々と書き込んだ。

 

昭和十九年二月二十四日

本日の受領燃料、オクタン価推定値、規定に遠く及ばず。

揮発性低し。不純物混入の疑い濃厚。

 

「こいつをこのまま呑ませれば、ハ一一五はすぐに喘息を起こします」

 

新沼の声は静かだが、確信に満ちていた。彼は指先の液体を鼻に近づけ、顔をしかめる。

 

「揮発成分が抜けきっています。指につけても、ちっとも冷たくならない。ただの燃えにくい泥水です。これではシリンダーが異常燃焼を起こし、焼き付きます。離陸の全開出力すら怪しい。ましてや……」

 

「P-38(ライトニング)との空戦は、不可能だな」

 

高瀬が言葉を継いだ。

 

「はい。一式戦二型がP-38に対抗し得る低空での加速と旋回性能は、規定出力の維持が前提です。この燃料では出力が低下し、全開加速時の到達速度が不足して、敵の一撃離脱戦法を物理的に回避することができません」

 

新沼は、指先に付着した黒褐色の液体を布で拭い取った。

 

「飛燕のほうはどうだ」

 

「あれはもっと酷いです。液冷エンジンは繊細ですから、先日これに近い燃料の上澄みだけを取って発動機を回しましたが、途端にオーバーヒートで冷却液が噴き出して滑走路を塞ぎました。整備兵たちが共食いでどうにか保たせていますが、もう部品を剥ぎ取るための『死体』も残っていません」

 

新沼は滑走路の端に積み上げられた、翼の折れた機体の残骸を見る。

高瀬は手帳を閉じ、細い目で北方の水平線を睨んだ。

 

「新沼。お前の感触で、この燃料、このままで何分飛べる」

 

新沼は目を伏せて答えた。

 

「飛ぶだけなら三十分。ですが、敵に捕捉されてスロットルを全開にすれば……一分も保たずにエンジンが火を吹くでしょうね」

 

その時。

 

遠く東方の空から、湿った空気を震わせて不気味な重低音が届き始めた。

 

それは、今や日課となった米第五航空軍による「定期便」の音だった。

 

「……大尉殿、来ましたよ」

 

丸顔の新沼が、少しだけ口角を上げた。

 

高瀬は時計を見た。

 

「今日は随分と早いな……おそらくB-24(リベレーター)が二つ、いや、三つの編隊。護衛に……」

 

高瀬がそう言いかけた時、飛行場の空気を切り裂くような音が響いた。

 

「ウウウゥゥゥゥ——ッ!」

 

手回しサイレンの唸り上げるような不協和音。「警戒警報」だ。

 

 高瀬は滑走路脇の監視塔を見上げた。監視員が赤い旗を狂ったように振っているのを確認し、声を張り上げる。

 

「中隊、総員退避!」

 

新沼はサイレンの音に少し背中を丸めながらも、ポールの先で赤と白に塗り分けられた「吹き流し」へと視線を走らせていた。

 

「……真下……無風か」

 

新沼は淡々としている。

 

「この気温と湿気、それにこの燃料です。向かい風の恩恵がなければ、滑走路の端までに機体を浮かす揚力すら稼げるか怪しいですよ」

 

「ああ。最悪、地面に激突して終わりだ」

 

高瀬の言葉は、冷徹な物理計算の結果だった。

 

サイレンの音が、断続的な長音から切迫した短音の連打へと変わる——「空襲警報」だ。

 

高瀬は細い目をさらに細め、眩しそうに空を仰いだ。左眉の傷跡が、逆光の中で白く浮き上がっている。

 

上空六〇〇〇メートル。白銀の機体群——米第五航空軍のB-24(リベレーター)編隊が、南方の太陽を反射させながら悠然とウェワクを見下ろしていた。

 

地上の防空陣地が対空砲を撃ち始める。青空にぽつりぽつりと力ない白煙が浮かぶ。しかし弾道は敵機の高度に届く前に失速し、煙は散乱した。

 

「新沼、防空壕へ向かうぞ。機体の隠蔽は万全だな」

 

高瀬の問いは、命令というより確認だった。

 

「は。今朝のうちに全機、掩体壕の中へ。椰子の葉での偽装も済ませてあります」

 

丸顔の新沼は、穏やかな口調のままだ。彼の視線はすでに高高度の編隊を通り越し、その下を滑空してくる不気味な影を捉えていた。

 

「……大尉殿、低空が来ます」

 

爆撃機編隊の下層から、機首に機銃を並べたB-25(ミッチェル)の群れが、地面をなめるような超低空で滑走路へ接近してきた。

 

「急げ」

 

高瀬が声を上げ、二人は天幕裏の防空壕へ飛び込み、身を沈めた。

 

掩体壕は斜面をえぐった横穴で、入口から天井にかけて土嚢と丸太で厳重に補強されていた。底には昨夜の雨水が泥水となって溜まり、土とカビの臭気が滞留している。

 

直後、頭上を十二・七ミリ機銃の掃射音が通り抜け、滑走路の赤土をえぐり飛ばす音が連続した。

 

「司令部は、また何か言ってくるでしょうね」

 

新沼は防空壕の底で高瀬へ視線を向けた。

 

上層部からの「一機でも上がって要撃せよ」という督促は、帳簿上の戦力数値を前提としたものだった。高瀬はそれに対し、「燃料不良による整備中」と書類上で処理を行っていた。

 

「新沼、これは命令違反ではない。実態の報告だ」

 

高瀬は爆風で壕が揺れる中でも、空を見上げなかった。

 

「高度を取れぬ機体で上がるのは迎撃ではない。ただの自殺だ。合理的ではない」

 

「……合理的、ですか。ですが大尉殿、ここに来る輸送船が沈められて半年。内地からの部品も機体もほぼ届かないまま、我々は毎日消耗だけを強いられています」

 

新沼が膝の砂を払う。

 

「入ってくるものがなく、減る一方では……どんな名人が整備しても、いずれ飛び立てなくなります」

 

「単純な引き算だな」

 

高瀬が爆音の合間に答えた。

 

「補給なき消耗戦は、戦争ではない。ただの浪費だ。俺たちは今、敵と戦う以前に、物理法則に負けている」

 

直後、滑走路の向こう側の燃料貯蔵所が直撃を受け、爆発音が響いた。

 

新沼が壕から首を出すと、黒煙が空へ立ち昇っている。そこは先ほど新沼が確認した燃料が積まれていた区画だった。燃料は航空機のピストンを動かすことなく、地上で燃焼を続けていた。

 

「これでまた、飛べない理由が増えましたね」

 

新沼が呟く。

 

高瀬は無言のまま、手帳の表紙を握りしめていた。

 

その手帳には、今日失われた「物質」の量が、また一行、冷徹な数字として刻まれていく。

 

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