嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第30話 前夜の沈黙

1944年三月下旬・深夜

ニューギニア島東部 ウェワク東飛行場

 

赤土の滑走路を撫でる夜風は、もう人の営みの匂いを運んではこなかった。

 

数週間前まで存在した高射砲陣地、通信室の天幕、整備兵の待機所はすでに解体され、人員の大半は海路や輸送機で後方へ移送されていた。現在の飛行場は静まりかえっている。

 

残されているのは、わずかに残った後発の整備兵たちと、自力で飛行可能な機体を操縦する数名の空中勤務者、それに複数の損耗機から部品を移し替えて接合された一式戦「隼」数機のみだった。

 

三月二十五日付、航空軍命令、師団司令部のホーランジア移駐。名目は「戦力再編による反攻拠点の構築」である。

 

搭乗員たちの間で回される一本の煙草の火が、彼らのこけた頬を微かに照らしていた。

 

「……ホーランジアに行けば、まともな部品が手に入るという噂は本当か?」

 

「ああ。他の飛行師団の連中が、すでに潤沢な物資を広げているそうだ。白い米も、酒もあると輜重兵(しちょうへい)の奴らが話していた」

 

「あそこは『絶対国防圏』の内側だ。敵のP-38もそう簡単には届かないはずだ。ようやく腰を据えて機体を直せそうだな」

 

三五〇キロ北西のホーランジアは、補給線が維持されている後方拠点として認識されていた。

 

高瀬八十七大尉は、機体の主翼の横に腰を下ろし、夜のジャングルへ視線を向けている。紫外線で変色した横顔に表情の変化はない。左眉を縦に裂く傷痕が、月光の下で影を作っていた。

 

「大尉殿。……自分の機体、なんとか一度だけなら飛べます。点火栓(プラグ)を全部、残骸から引っこ抜いた『当たり』に替えました」

 

丸みを帯びた輪郭の新沼少尉が歩み寄り、高瀬の隣に腰を下ろした。彼の手には黒い油が付着している。

 

「飛べなければ、後発隊の整備兵の連中と一緒に大発で海路になる。良かったな」

 

高瀬はポケットにあった最後の煙草に火を付けた。

 

「はい。あそこへ行けば、また編隊を組んで上がれますかね。ここみたいに、整備不良を騙し騙し飛ぶのではなく……まともな『軍隊』として」

 

新沼の問いかけに、高瀬はすぐには答えなかった。

 

夜のジャングルからは、錆びたベアリングが擦れるような、キリキリとした虫の音が絶え間なく響いている。賑やかだった東飛行場も、今は不気味なほど静かだった。整備兵たちの怒鳴り声も、スパナがドラム缶にぶつかる音も、もう聞こえない。

 

高瀬は細い目をさらに細め、闇の中に沈む無人の整備用天幕を見つめたまま、左眉の傷跡を無意識に指でなぞった。

 

「……再編、か。皆、今頃はあちらの広大な飛行場で、受け入れ準備に追われているだろう」

 

「ええ。あそこはまだ補給路が生きていると聞きます。ドラム缶を惜しまずにエンジンを回せる……それだけで、夢のようです」

 

新沼が、丸顔の頬を少しだけ緩める。彼が手入れした隼の翼には、一匹の大きな蛾が止まっていた。新沼はその蛾を追い払うこともせず、ただぼんやりと見つめている。

 

「……でも大尉、何か、静かすぎませんか」

 

「静か?」

 

「ええ。ウェワクにあれほど執着していた敵が、最近は素通りして、むこうの奥(アドミラルティ諸島)ばかり叩いていると聞きます。……自分たちが逃げるのを待ってくれているみたいで、なんだか、薄気味悪くて」

 

高瀬は手帳を閉じ、それを胸ポケットに収めた。

 

「……敵は我々の航空主力が既にここから移動したことを知っているはずだ。ウェワクを素通りしているのは、ここを叩く価値がなくなったからに過ぎない」

 

「……何もないところから、ようやく移動できますね。あちらは物資の山だそうですから」

 

新沼が息を吐く。

 

少し間が空き、高瀬は指に挟んだ煙草の火を見つめて尋ねた。

 

「……新沼。『卵を一つの籠に盛るな』という言葉を知っているな」

 

新沼は、翼の蛾を見つめていた視線をゆっくりと高瀬へ戻した。丸い顔から、先ほどの穏やかな緩みが消えている。

 

「はっ。戦力の極端な集中を戒める、分散配置の基本教練ですが……」

 

そこまで言いかけて、新沼は息を呑んだ。彼の視線が、北西の夜空――これから全軍が集結するホーランジアの方向へと向く。

 

「……大尉殿。まさか」

 

新沼は周囲の暗闇を気にするように、少し声を潜めた。

 

「しかし……ホーランジアは絶対国防圏の内側です。それに、あそこにはすでに数百機が結集して、強固な防空網が敷かれているはずです。あの巨大な籠が、一度にひっくり返されるなんて、縁起でも……」

 

「そうだな……俺の考えすぎだ」

 

高瀬の月光に照らされた左眉の傷跡は、ほんの微かに引きつっていた。

 

「ウェワクの空腹が長すぎて、疑い深くなっているだけかもしれん。新沼、明日は一発でエンジンをかけろ。あそこまで、一滴も漏らさずに飛ばすんだ」

 

「了解しました。……『当たり』の点火栓を信じます」

 

翌朝。

 

爆音の余韻が熱風に溶けて消えると、ウェワク東飛行場には再びジャングルの耳鳴りのような虫の音が戻っていた。

 

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