嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年三月下旬・午前九時過ぎ
ニューギニア北岸 ホーランジア上空
ウェワクから三五〇キロを飛行してきた「隼」四機の高瀬中隊は、ニューギニア北岸の要衝、ホーランジア上空に差し掛かっていた。
高瀬は、スロットルレバーの横にある混合気調整レバーを「希薄」から「濃混合」へと、ゆっくり押し戻した。薄くなっていた酸素濃度に合わせて絞っていた燃料を、着陸に備えて濃くする。
ボボボ、と排気管がくぐもった音を立て、機体が小刻みに震えた。計器盤の油圧計の針が、エンジンの振動に合わせて小刻みに揺れている。
眼下に広がるのは、険しいシクロップ山脈と、その麓に水を湛える巨大なセンタニ湖。そして、その湖畔のジャングルを切り開いて造成された、三つの巨大な飛行場群——ホーランジア、センタニ、シクロップ——だった。
『……ザッ、……ィ、見えま……すか。あれ……』
無線の受信機から、不快な金属音のような空電(ノイズ)混じりの声が響く。感度の悪い咽喉マイクが拾った新沼の声は、興奮で裏返っていた。
高瀬は操縦桿を左に倒し、機体をバンクさせた。左の翼が下がり、視界が開ける。同時に、急激な気圧の変化で詰まった耳を治すため、唾を飲み込んだ。
高度を下げ、センタニ飛行場へのアプローチに入った高瀬の視界に、信じがたい光景が飛び込んできた。
赤土の滑走路の周辺を埋め尽くしているのは、濃緑と銀が入り混じる、圧倒的な機体のモザイクだ。
一式戦「隼」、三式戦「飛燕」、九九式双発軽爆撃機、そして一〇〇式司偵。
風防の汚れ越しに見ても、その数は異常だった。強烈な紫外線とスコールで塗装が浮き上がり、あちこちで剥離している。その隙間から覗くジュラルミンの地肌が、太陽を乱反射してギラギラと輝いていた。
高瀬は、着陸体制に入るため操縦桿を静かに押し、機首を滑走路の延長線上へと向けた。
高度計の針が反時計回りに回り始め、眼下の「模型」たちが、急速に巨大な鉄の塊となって迫ってくる。
高度三百。
気流が、上空の冷涼な温度帯から地表の熱帯大気へと変わる。機体の底面を上昇気流が押し上げ、右手の視界を、シクロップ山脈の鬱蒼とした密林が流れ去っていく。
高瀬はスロットルを絞り、着陸フラップを展開した。ガクン、と機体が減速の衝撃を伝え、風切り音がヒュウゥゥと鋭く鳴る。
地面が近い。
陽炎(かげろう)に揺れる滑走路の赤土が、ものすごい速さで後方へと流れていく。
高瀬は操縦桿をわずかに引き、機首を起こして「三点着陸」の姿勢を作った。地面が、足の裏のすぐそこまでせり上がってくる。
タイヤが滑走路に触れる音さえ、ウェワクとは違っている。連日の爆撃で穴だらけだったあちらとは異なり、整地されたばかりの滑走路は平滑で、機体は吸い付くように減速していく。
機速が落ちると、尾輪が接地するゴロリとした感触が腰に伝わった。
高瀬はフットバーを操作し、誘導員の振る赤旗に従って機首を誘導路へと向けた。
風防を開けた瞬間、熱気とともに流れ込んできたのは、腐敗臭ではなく、濃厚なガソリンの芳香と、炊き出しの飯の匂いだった。
誘導員の指示に従い、高瀬は機体を列線へと進めた。
翼の先を、埃まみれのトラックが横切っていく。荷台には上半身裸の兵士が三人、ドラム缶に腰掛けて何かを喚いていたが、その表情には悲壮感のかけらもない。
だが、エンジンを止める前に、高瀬の眉間の皺が深くなった。
(……おい、どこへ停めさせる気だ)
誘導員が振る旗の先には、すでに先行の機体がずらりと並んでいる。
その機体との間隔は、優に五メートルと離れていない。
翼端と翼端が触れ合うかのような、信じがたい密集隊形だった。
プロペラを止め、機体から降り立った高瀬の足元には、遮蔽物(掩体)を作るための土嚢一つ積まれていない。
ただの平地に、百機以上の虎の子が、青空の下で無防備に腹を晒している。
「大尉殿!」
声のした方を振り向くと、三列後ろの駐機区画に機体を停めた新沼が、ぎっしりと並んだ飛燕や双発軽爆の翼の下をくぐるようにして、こちらへ駆け寄ってくるところだった。
「すごいですね! まるで観兵式だ!」
息を切らしながら合流した新沼のその目は、周囲の「豊かさ」に釘付けになっていた。
滑走路の脇には、ドラム缶が小山のように積まれている。
ウェワクでは一滴を争ったあの燃料が、ここでは野ざらしのまま数メートルも積み上げられていた。
「これなら、思う存分飛べます。整備兵も溢れている。部品取りのために廃機を漁る必要もない……ここは楽園ですよ」
新沼は、並べられた真新しい「隼」三型の塗装に触れ、子供のように頬を緩めている。
高瀬は、新沼の歓喜に水を差さぬよう、少し離れた場所にある燃料集積所へと歩いた。
すれ違う兵士たちの顔色は良く、軍服も新しい。
彼らは空を見上げることもなく、談笑しながら作業をしている。
高瀬は、積み上げられたドラム缶の山を見上げ、その側面を拳で軽く叩いた。
「カン」と、中身の詰まった重い音が返ってくる。
(……こんな炎天下に天幕も張らず野晒しか。揮発性分は飛ぶ、結露で水分は入る、ろくなことにならんぞ……)
「隊長殿! 見てください、これを!」
ウェワクから共に飛んできた小島曹長が、飛行帽を脱ぐのも忘れて走ってきた。
その手には、どこからか手に入れた飯盒(はんごう)の蓋が握られている。
「……握り飯です。それも、麦がほとんど入っていない。真っ白な『銀シャリ』ですよ」
小島の手の中で、白米の握り飯が湯気を立てている。
ウェワクの泥水と乾パンに慣れた目には、その白さは眩しいほどだった。
「補給廠の連中が、到着祝いだと配って回っております。……すごいところですな、ここは。何もかもが揃っている」
小島は、滑走路の向こうに山積みされたドラム缶の壁と、整然と並ぶ数百機の航空機を見渡し、ほうっと息を吐いた。
「これなら、やれますな。腰を据えて」
高瀬は、整備兵から渡された冷たい茶を一口含んだ。
見上げれば、雲ひとつない快晴。
シクロップ山脈の緑が、眩しいほど鮮やかだ。
誰かが鳴らすハーモニカの音が、風に乗って微かに聞こえてくる。
高瀬は、隊員達の満面の笑顔と、背景に広がるあまりに平和な飛行場を、ただ無言で見比べていた。
「……少し、整備の様子を見てくる」
高瀬は飲み干した茶碗を整備兵に返すと、短くそう言い残して列線を離れた。
背後では、新沼たちの笑い声がまだ続いている。
高瀬は滑走路脇を歩き、整備指揮所の方角へと向かった。その視線は、狭い間隔で配列された機体群に向けられていた。
やがて、彼は滑走路脇に設営された指揮用天幕の前で足を止めた。
白地の暖簾(のれん)が、けだるそうな風に揺れている。
高瀬は一度だけ部下たちの方を振り返り、その暖簾をくぐった。
中は、驚くほど涼しかった。
奥の机では、糊の効いた開襟の作業シャツを着た整備将校が、書類の束と格闘している。
高瀬が入ると、その将校は手元の到着予定表に素早く目を走らせ、慌てて立ち上がった。
「お疲れ様です! 本日到着された、第六飛行師団の高瀬大尉殿でありますか!」
若々しい声だった。
階級章は中尉。内地から着任したばかりなのか、その肌は白く、軍服には油の染み一つない。
中尉は角度の鋭い敬礼をした。
「うむ。……整備班長の谷口中尉だな」
「はっ。ウェワクからの転進、誠にご苦労様でした。順次、点検と給油を行いますが、機体の状態はいかがでしょうか」
「その件だ」
高瀬は答礼を済ませると、天幕の入り口を親指で指し示した。
「現在の列線駐機は、少し詰めすぎではないか。我が中隊の四機だけでも、滑走路から離れたジャングルの縁へ移動させたい。機体間隔も空け、擬装を行いたいのだが」
谷口中尉は、「面倒なことを」と言わんばかりの困ったような顔で眼鏡の位置を直した。
「……個人的には、大尉殿のお考えが正しいとも思います。しかし、ここではそうは動けないのです」
「なぜだ」
「現在、この飛行場には三百機近い機体が集結しており、さらに第四航空軍の主力も到着予定です。駐機スペースは司令部によって厳格に割り当てられております」
谷口は、机上の図面を示した。
「勝手に分散させれば、給油車(タンクローリー)の動線が確保できません。それに、ジャングルの縁は地盤が緩く、機体の脚が泥濘に取られる恐れがあります」
「だが、万が一の際、あの密集隊形では被害が広がる」
「はっ。ご懸念は理解いたします」
谷口中尉は直立したまま答えた。
「ですが、ここは絶対国防圏内であり、敵戦闘機の行動半径外です。それに……明日は航空軍司令官による巡閲も予定されております」
「巡閲?」
「はっ。将官方がご覧になる際に、機体が泥だらけのジャングルに隠れていては、軍の威容に関わります。『整然と並んだ航空機こそが、将兵の士気を高める』との通達も来ておりますので」
「……そうか。現場には現場の都合があるということだな」
「恐れ入ります。分散をご希望なら、方面軍司令部の許可を書面で頂いてください」
「……わかった。ならば、せめて燃料補給が終わったら、点検を急いでくれ。いつでも飛べるようにな」
「はっ、善処いたします」
谷口中尉は、再び敬礼をした。
「他にご用命がなければ、これにて失礼いたします。大尉殿も、宿舎で旅装を解かれてはいかがですか。今日は特別配給で、羊羹(ようかん)も出ているそうですから」
高瀬は、その白く清潔な敬礼に無言で答礼を返し、踵を返した。
天幕を出ると、外の陽射しは先ほどよりも眩しく感じられた。
「士気を高めるための巡閲か……典型的な後方の理屈だな……」
高瀬は呆れたように呟いた。
整備指揮所から戻った高瀬は、愛機の主翼の下で車座になっている部下たちの姿を見つけた。
新沼少尉と小島曹長、それに最年少の菊池伍長だ。
彼らは今さっき配給された羊羹を少しずつ齧りながら、滑走路を埋め尽くす航空機の群れを眺めていた。
「隊長殿! お戻りですか」
菊池伍長が真っ先に気づき、慌てて立ち上がって敬礼した。まだあどけなさの残る顔には、ウェワクでは見られなかった生気が戻っている。
「楽にしろ。……どうだ、菊池。久々の甘味は」
「はっ! 涙が出るほど甘いです。それに、この光景……」
菊池は、陽光を浴びて連なる濃緑と銀の機体の列を指差した。
「これだけの友軍機に囲まれていると、なんだか無敵になったような気がします。これなら、いつ敵が来ても追い払えますね」
その言葉に、新沼と小島も同意するように頷いた。
「……菊池。あの三式戦(飛燕)を見てみろ」
高瀬は、三機隣に駐機している流麗な濃緑色の機体を顎で示した。
「は? ……綺麗な機体ですが」
「よく見ろ。主脚のオレオ(緩衝装置)が沈みきっている。タイヤの空気圧も甘い。それに、排気管に煤が全くついていない」
高瀬の指摘に、菊池が目を凝らす。
「……あっ、本当だ。それに、プロペラのスピナー(先端カバー)が外されたままです」
「そうだ。あれは飛べる機体じゃない。おそらくエンジンの不調か、部品待ちで放置されている『カカシ』だ」
高瀬は視線を列線の奥へと走らせた。
「ここにある機体は確かに多い。だが、まともに離陸して空戦ができる機体が、この中に何機あると思う?」
三人は顔を見合わせた。
「……半分、くらいでしょうか」と新沼が控えめに言った。
「いいや。俺の見立てでは、二割もないだろう」
「二割……ですか」
場の空気が、すっと冷えた。
羊羹の甘さに緩んでいた菊池の喉がゴクッと小さく鳴り、表情が引き締まる。
「外見は立派だが、中身はガタがきているか、部品を抜かれたドンガラだ。……ここは楽園に見えるが、実態は巨大な修理工場と変わらん」
高瀬は、隣にある飛行機の翼を拳で軽く叩いた。
「だが、近いうちに内地から補充が来るだろう。中隊の編成も回復し、新しい機体と搭乗員が増えるはずだ」
「補充が、来るんですね!」
菊池の声が弾む。
「ああ。その時、俺たちが『骨』にならなきゃならん。新米たちに、生き残る術と空戦のイロハを叩き込むのは、ウェワクを生き抜いたお前たちの役目だ」
高瀬は、あえて厳しい視線を三人一人ひとりに向けた。
「だから、気を抜くなよ。羊羹を食って休むのは構わんが、勘まで鈍らせるな。……敵は、こちらの再編が終わるのを待ってはくれんぞ」
「はっ!」
三人の敬礼は、先ほどまでの浮ついたものではなく、戦場に立つ兵士の鋭さを取り戻していた。
高瀬は頷き、再び空を見上げた。