嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第33話 シクロップの死角

1944年三月三十日・午前

ニューギニア北岸 ホーランジア・センタニ飛行場

 

その朝、センタニ飛行場は風がほとんどなく、強烈な日差しが早朝から赤土の滑走路を熱し、陽炎を作っている。

兵士たちは前日と変わらず朝の配給を終え、整備兵たちは上半身裸で機体の埃を払っている。

 

「……曹長殿。何か聞こえませんか?」

 

主翼の下で休んでいた菊池伍長が、ふと顔を上げて北の方角を見た。

 

「あぁ?」

 

小島曹長は面倒くさそうに、飛行場の背後にそびえる標高二〇〇〇メートル級の峻険なシクロップ山脈へと視線を向けた。

 

「そうか? うーむ、言われてみれば確かに……」

 

小島は眩しそうに目を細めた。

 

「機音だな……聞こえる。また後方から友軍機が来たのか」

 

気のない声でそう結論づける小島に、菊池が首を傾げる。

 

「でも、北からですよ? 山越えのルートで味方が来るなんて……」

 

「まあ、北からというのは少し気になるな。……念のため中隊長殿に報告しておくか」

 

小島は立ち上がり、軍帽を被り直すと、軽い足取りで滑走路脇に設営された中隊指揮所の天幕へ向かった。

 

天幕の暖簾をくぐると、高瀬大尉と新沼少尉が飛行機用燃料受領簿の照合を行っているところだった。

 

「大尉殿、少尉殿。お取り込み中失礼します。北のシクロップ山脈の向こうから機音が近づいております。念のため確認ですが、本日友軍の増援部隊の到着予定はありましたか?」

 

小島の事務的な報告に、高瀬は万年筆の手を止め、怪訝そうに眉をひそめた。

 

「北から? いや、今日到着予定の第四航空軍の増援は西から来るはずだが……」

 

「マダン方面の部隊が、天候不良で迂回してきたのでしょうか」

 

新沼が書類から顔を上げ、立ち上がる。

 

「確認しよう」

 

高瀬が天幕の外へ出た。新沼と小島がそれに続く。

 

外の陽射しの中、三人はシクロップ山脈の稜線を見上げた。

音は先ほどよりもはっきりと聞こえる。高瀬は無意識のうちに左眉の傷跡を指でなぞった。

 

「……何かがおかしい」

 

友軍の軽快なエンジン音には聞こえない。高瀬と新沼が顔を見合わせた。その「違和感」の正体に気付きかけたまさにその時だった。

 

「ウウウゥゥゥゥ————ッ!」

 

見張り台の手回しサイレンが唸りを上げ始めた。半鐘が狂ったように打ち鳴らされる。

 

それと同時に、シクロップ山脈の濃緑の稜線から黒い影が次々と見え始めた。

 

「艦載機か。新沼、双眼鏡を」

 

高瀬が短く指示を飛ばす。

 

いち早く双眼鏡を覗き込んでいた新沼が、どこか客観的な声でそれを否定した。

 

「いえ、違います大尉。双発機……B-25にA-20。護衛はP-38(ライトニング)です。米陸軍機ですよ」

 

「そんな馬鹿な!」

 

小島曹長が信じられないというように声を荒らげた。彼は血相を変え、真新しい「隼」の風防へ向かって駆け出そうとする。菊池伍長も慌ててそれに続いた。

 

「隊長殿! 上がります! 機体を!」

 

小島が叫ぶが、高瀬はすかさずその肩を掴んで引き止める。

 

「待て。今からではもう間に合わん」

 

「しかし、このままでは……!」

 

「あの密集状態から滑走路に出るまでに五分、離陸までさらに二分だ」

 

高瀬は小島を突き放すと、天幕の方を振り返って短く命じた。

 

「新沼。重要書類だけ十秒で集めるぞ……小島、菊池! 裏の壕へ急げ!」

 

高瀬の声は怒鳴るでもなく、どこか淡々としていた。

命令を下すのと同時に高瀬と新沼は天幕へ駆け込み、暗号表や受領簿の入った図嚢を肩にひっかけ、書類の束を抱えて飛び出してくる。

 

四人はそのまま赤土を蹴って一目散に走り出し、林縁に設けられたヤシ丸太と土嚢張りの半地下壕へと滑り込んだ。

 

直後、鼓膜を破るような轟音とともに、友軍の対空砲と機関砲が吠え始める。

 

「……P-38だと? 冗談じゃありません!」

 

壕の底で、小島が砂を吐き出しながら叫んだ。

 

「ラエやナザブの敵基地から真っ直ぐ飛んできたとしても、ここは奴らの護衛戦闘機の作戦行動半径の限界ギリギリ、いや圏外のはずです。ましてや、なぜ北から!」

 

轟音の合間、新沼少尉が壕の入り口の土嚢の隙間に這いつくばり、双眼鏡を覗き込みながら応える。

 

「マダンとウェワクの対空監視網を完全に抜けてきたんですよ。東から陸伝いに来たんじゃない。はるか北、アドミラルティ諸島寄りの洋上まで大きく迂回して、我々の監視網の死角を回ってから、真南へ機首を向けたんだ」

 

「洋上迂回……? そんなルートをとれば、直線距離より遥かに燃料を食う! P-38の航続距離でそんな真似ができるはずがない!」

 

小島の悲鳴のような反論を、高瀬も轟音の合間に落ち着き払った声で受け止めた。

 

「迂回して来たか……ありそうな話だな」

 

「隊長殿……?」

 

「新型の巨大な増槽(ドロップタンク)か、それとも機体自体の燃費向上か……。技術的に可能なら、俺だってそういう作戦を考える。連中はただ、こっちの司令部が帳簿上で引いた『限界線』を物理的に超えてきただけだ」

 

高瀬はどこか感心したように続ける。

 

「我々が天然の防壁だと思っていたシクロップ山脈を、米軍機が直前まで身を隠すための死角として利用したということだな」

 

「……大尉殿、例の破片爆弾が落ちてきます」

 

小島は土嚢の隙間から空を覗き込んだ。

 

山を越えて超低空で侵入してきた双発のB-25とA-20の腹から、無数の黒い点がばら撒かれていた。

 

黒い点から次々と白いパラシュートが開き、青空を背景にフワフワと舞い降りてくる。

 

フワリと最初の白い傘が、列線に並べられた真新しい三式戦「飛燕」の主翼の上に落ちた。

 

直後、鋭い金属的な炸裂音が響く。

 

「外殻が弾けて鉄片を撒き散らしました。あの薄いジュラルミンの外板では防げない。……燃料タンクが抜かれましたよ」

 

新沼が淡々と口を開き、一息ついてから双眼鏡を下ろす。

 

吹き出した航空揮発油に火が回り、飛燕が一気に炎に包まれた。

 

「ああっ……! 隣の機体に火が移るぞ!」

 

目を凝らして飛行場を見ていた小島曹長が土嚢袋を掴んで叫んだ。

 

「無理もない。翼端が触れ合うほど密集して並べたんだ。一機が燃えれば、その熱と破片で隣も誘爆する」

 

高瀬は防空壕で片膝をつき、しゃがみ込んだまま連続する地響きを聞いていた。

 

「まるで将棋倒しですね」

 

新沼が付け加える。

 

「間隔を空けずに配置されたこの状態では、もうどうしようもありません」

 

頭上を通過するB-25の編隊から、十二・七ミリ機銃の掃射音が空気を震わせる。滑走路の赤土が一直線に弾け飛び、機体の下へ逃げ込もうとした整備兵たちの姿が土埃と爆発に呑まれていく。

 

「隊長! 燃料集積所が!」

 

菊池が身を乗り出し黒煙の上がる方角を指差す。昨日、彼らが見上げたドラム缶の山に火の手が上がっていた。野ざらしに積まれていた大量の燃料が巨大な火柱となり、センタニ飛行場の空をどす黒く染め上げていく。配給を行っていた補給廠の天幕も、整備指揮所の天幕も、炎の中に形を失っていった。

 

「菊池! 不用意に頭を出すな!」

 

小島は声を張り上げた。

 

爆音が轟く中、高瀬は壕の隙間から燃え盛る列線を、しばらく無表情に見つめていた。航空揮発油の焦げる匂いと猛烈な熱風が吹き込んでくる。

 

「……やはり、巨大な籠は一度にひっくり返されたか」

高瀬が低く呟いた。

 

爆音と熱気の中で、新沼がぽつりと応えた。丸い顔は火照り、泥で汚れていた。

 

「そうでしたね……卵を一つの籠に山積みにした結果が、これです」

 

高瀬は燃える飛行場の方角をぼんやり見続けていた。

 

「去年の八月……ウェワクでも似たような事があったな……」

 

遠くで、また新しい機体が誘爆する音が響いた。

 

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