嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年四月上旬 昭南島(旧シンガポール)
旧ラッフルズ・カレッジ
オエイ・ティオン・ハム棟第三事務室
開け放たれた窓から、雨季の重く湿った風が流れ込んでくる。
稲田参謀副長が昭南島を去ってから半年。真鍋は淡々と第三事務室の席を温めていた。
「……相変わらず、机に齧りついているな」
佐久間が声をかけると、真鍋は計算尺から顔を上げ、起立しようとした。
「少佐殿。お疲れ様であります」
「そのままでいい。少し様子を見に来ただけだ」
佐久間は真鍋の隣の空き机に軽く腰を下ろした。
「作戦室に、十五軍から『連戦連勝』『予定通り進撃中』と景気のいい電文が次々と届いていてな」
「こちらには、後方輸送の状況と物資の請求伝票だけです。作戦の推移は分かりません。……ですが、いささか気になる点が」
「ほう?」
真鍋は、机の端に積まれた伝票の山を指の背で軽く叩いた。
「現在十五軍から上がってきている要求は、異常な量のキニーネと、塩、そして包帯が目立ちます」
真鍋は感情の読めない瞳で、佐久間を見上げた。
「計算上、勝っているとは……」
佐久間が短く息を吐き、何かを言いかけたその時、不意に野太い声が事務室に響いた。
「おい真鍋中尉! そんな伝票整理は下士官に放っておけ!」
船舶統制班を統括する及川中佐だった。右肩の金糸の参謀飾緒が鈍く光っている。中佐は真鍋の机に、分厚い陸大の過去問集をどさりと落とした。
真鍋は急いで起立し、敬礼する。
「中佐殿、お疲れ様であります」
佐久間も無言で敬礼した。
「中佐殿、私はまだ本日の集計を……」
「馬鹿者、十八日までもう二週間しかないだろうが! お前は恩賜組だ、兵站畑の期待の星なんだぞ」
「ですが、ウ号作戦の輸送枠が逼迫しておりまして」
「今はそれどころではなかろう。お前が陸大に受からん方が、参謀部四課の面子に関わる重大事だ」
通りがかった別の佐官も、真鍋の肩をポンと叩いていく。
「そうだぞ真鍋。貴官が早く我々の仲間入りをしてくれないと困る」
「……ご配慮、痛み入ります」
真鍋は無表情のまま、深く一礼した。
佐官たちが満足げに笑い合いながら去っていく。
佐久間が火のついていない煙草を指先で弄りながら、低く笑う。
「……で、どうなんだ真鍋。試験の準備は大丈夫そうか」
「ご心配には及びません」
着席した真鍋は、積み上げられた過去問集を一瞥した。
「過去五年分の初審の問題は、すべて頭に入れました。戦術甲、戦術乙、兵站学。……どれも、実によく出来ています」
「よく出来ている?」
「はい。設問に記された弾薬の初期保有量、補給線の距離、利用可能な駄獣の数。すべての変数が、物理法則の範囲内に収まっています。教範通りの数値を代入すれば、自ずと唯一の『正解』が導き出される。ですが……」
真鍋は一度言葉を切り、左胸のポケットに触れた。銀時計の規則正しい鼓動が、指先に伝わる。
「……言わんでも貴官が何を考えているかはわかる」
佐久間は燐寸を擦り、煙草に火を点けた。紫煙を深く吸い込む。
「試験と実戦は別物だ……そもそも前提が存在しないからな」
「はい」
真鍋は静かに頷き、机上の計算尺に視線を落とした。
佐久間は窓外の暗く沈んだ空へ視線を向けた。かつてこの地で、補給の限界を超えて奇跡的な大勝を収めた記憶が、司令部の芯にこびりついている。
「奇跡など、そう何度も起きるわけではない。……しかし戦いは、やってみなければ分からぬ部分があることも確かだ」
「始まった以上は、士気を削がぬよう支えるしかない」
佐久間は短く紫煙を吐き出した。
「誰も見ない数字は残すがな」
佐久間は真鍋を見下ろした。
「……そんな事よりまずは試験だ」
自嘲とも諦念ともつかない言葉を残し、佐久間は踵を返した。
遠くで、雨季特有の重い雷鳴が響く。
真鍋は紫煙を引いて遠ざかる上官の背中を見送った後、傍らに積まれた過去問集を開くことなく、再び無言で計算尺のカーソルを滑らせ始めた。