嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第36話 フンボルト湾の黒煙

1944年四月二十一日

ニューギニア北岸 ホーランジア・シクロップ山麓

 

センタニ湖周辺に広がる背丈ほどのクナイ草の草原を縫うように、一台の九七式側車付自動二輪(陸王)が進んでいた。

 

「大尉殿、すごい悪路です。舌を噛まないようご注意を!」

 

風防越しに菊池伍長が声を張り上げる。彼は重いハンドルを巧みに操り、スタックしそうな泥道をギリギリの速度で抜けていく。

 

側車(サイドカー)に乗る高瀬大尉は、片手で軍帽を押さえながら黙って頷いた。

 

その時、もはや聞き慣れた手回しサイレンの警報音が響き渡った。

同時に、遠くの監視哨から狂ったような半鐘の音も微かに聞こえる。

 

「菊池、止めろ! 脇の草地へ退避だ!」

 

「はっ!」

 

高瀬の鋭い声に、菊池は急ブレーキをかけ、そのままハンドルを左に切った。

総重量五百キロ近い車体が横滑りしながら、街道脇の深い草地の中へ突っ込み、泥を跳ね上げて停止した。

 

「車両を見えない奥へ押し込め!」

 

高瀬の指示に、二人は陸王から飛び降り、車体を道幅から外れた深い草の群生の中へ力任せに押し込んだ。

上空から発見されないよう、手早く引き抜いた草を被せる。

 

二人はそのまま、泥まみれの草の下に身を伏せた。

 

直後、シクロップ山脈の稜線を越えるように、数機の機影が通過していった。

 

「……なんか、いつもの定期便と様子が違います」

 

菊池が泥にまみれた顔を上げ、不安げに空を窺う。

 

高瀬は無言のまま、首から提げた双眼鏡を引き寄せ、目に当てた。

視界に飛び込んできた機体のシルエットに、高瀬は眉をひそめた。

 

「……双発じゃない。単発だ」

 

「単発? P-47ですか?」

 

菊池が隣で息を殺しながら空を窺う。

 

「いや、違う。あの編隊の組み方……陸軍の連中じゃない」

 

高瀬は双眼鏡のピントを、東のフンボルト湾上空へ合わせた。

 

青空を埋め尽くすような無数の機影が、編隊を解いて丘陵の向こう側へと次々に急降下していくのが見える。

直後、二十キロほど先のフンボルト湾沿岸部からであろう黒煙の柱が、これまでの空襲とは比較にならない規模で、稜線の向こうから連続して湧き上がった。

 

少し遅れて、腹の底を揺るがすような重い炸裂音の連続が地鳴りのように伝わってきた。

 

やがて、その大群の一派が上空で反転し、すでに廃墟と化している眼前のセンタニ飛行場の方角へも高度を下げて殺到してくる。

 

「……艦載機だ」

 

高瀬が、双眼鏡を下ろさずに低く呟いた。

 

「艦載機? グラマンですか! あんな足の短い機体がなぜこんなところまで……」

 

菊池の顔から血の気が引く。

 

高瀬は双眼鏡を下ろし、左眉の傷跡を指でなぞる。

 

「航続距離の短い艦載機がこれだけの数、直接束になって飛んできているということは……すぐ沖合に、敵の空母機動部隊が展開しているということか」

 

高瀬は懐から手帳を取り出し、無意識に今日の「四月二十一日」という日付を見つめた。

 

「……明日あたり、来るな」

 

高瀬はポツリと呟いた。

 

「来る……? 大尉殿、何がですか」

 

菊池が不安げに高瀬の横顔を見上げる。

 

「確証はない。ただの俺の勘だ」

 

高瀬は手帳を閉じ、再びフンボルト湾の方角へと視線を戻した。

 

     *

 

翌日、夜明け

 

「おい、燐寸(マッチ)持ってるか」

 

「湿気で全滅です。さっきから擦ってるんですがね」

 

「貸せ。……駄目だ、頭が崩れちまう」

 

午前五時。

シクロップ山麓の師団司令部壕の入り口付近に設けられた仮設天幕の外では、各部隊から集まった十数名の連絡将校や伝令兵が、暗闇の中で所在なげに座り込んでいた。

 

「第三野戦輸送司令部への有線、まだ通じないのか」

 

「昨日の夕方から不通のままです。工兵が線を辿って下りていきましたが、戻ってきません」

 

「無線のバッテリーも怪しいぞ。受信機がずっと鳴きっぱなしだ」

 

「また防湿(ぼうしつ)が甘くて真空管がいかれたんじゃないですかね」

 

軍靴で赤土を蹴る音と、軍服を叩く音が響く。

 

「……外はやはり蚊が多いな」

 

「水たまりだらけですからね」

 

高瀬大尉は土嚢に腰を下ろし、火の点かない煙草を指に挟んだまま、東の空を向いていた。

 

「大尉殿。交代の時間まで、まだ一時間はありますよ」

 

小銃を抱えた菊池伍長が、壁際から声をかけた。

 

「ああ」

 

「少し休まれては。昨夜からずっと起きておられる」

 

「ブーツが乾かん。脱ぐと次に履くのが厄介だ」

 

「確かに。自分のも、もう革が半分溶けてます」

 

菊池が小さくあくびを噛み殺した、その時だった。

 

「……おい、今、光らなかったか?」

 

暗闇の奥にいた中尉が声を上げた。

 

「光? 雷じゃないですか」

 

「いや、東の方角だ。フンボルト湾のあたりか」

 

木々の隙間から、遠く離れた東の空の低い位置で、青白い閃光が連続して瞬いている。

 

「またスコールですかね。嫌だな」

 

「風が出てくるぞ。天幕の紐を締め直しておけ」

 

菊池がため息をつきながら立ち上がろうとした。

 

数十秒後。

 

重く、くぐもった連続音が、地を這うように大気を震わせて届き始めた。

 

ゴロゴロゴロ……ッ、ズズズ……。

 

「……随分と長い雷だな」

 

中尉がいぶかしげに呟く。

 

だが、音は一向に鳴り止まない。

それどころか、腹の底を撫でるような不気味な重低音が、途切れることなく幾重にも重なり合い、次第に輪郭を帯びていく。

 

ドドドドド……ッ! ガガガガガッ……!

 

「おい、おかしいぞ。ただの雷じゃない」

 

「空襲警報か? 敵機か!」

 

「いや、飛行機の爆音じゃない」

 

高瀬は土嚢から立ち上がり、首から下げていた双眼鏡を無言で目に当てた。

 

「え?」

 

菊池が泥だらけの顔を向ける。

 

高瀬はレンズのピントを回し、二十キロ先のフンボルト湾の沿岸部へと視界を絞った。

 

閃光が瞬くたびに、夜明け前の薄闇の中に、山脈の稜線を覆い隠すほどの巨大な黒煙の壁が浮かび上がっているのが見えた。

無数の火柱が、猛烈な勢いで天を衝いている。

 

高瀬は双眼鏡を下ろさずに言った。

 

「……艦砲射撃だ」

 

「艦砲……?」

 

「東の沖合から、直接撃ち込んできている。戦艦か、重巡洋艦の主砲群だ。フンボルト湾の沿岸が、根こそぎやられているぞ」

 

「艦隊が、直接……?」

 

遠距離からの轟音はさらに厚みを増し、大気全体を持続的に震わせ始めた。

 

壕の奥から、事態の異常に気づいた幕僚たちが血相を変えて飛び出してくる。

 

「どこだ! どこをやられている!」

 

「フンボルト湾の監視哨を呼び出せ!」

 

「有線、通じません!」

 

「無線班はどうした! 早く繋げ!」

 

「駄目です、どこの周波数も雑音だらけで……!」

 

怒号とパニックが交錯する中、高瀬は静かに双眼鏡を下ろした。

 

胸ポケットから手帳を取り出し、白紙のページを開く。だが、万年筆のキャップを外すことはなかった。

 

ただ東の空が、不規則な閃光と黒煙で塗り潰されていくのを、無言で見つめていた。

 

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