嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第37話 泥濘のキルゾーン(前編)

1944年(昭和十九年)四月二十二日・午前六時過ぎ

ニューギニア北岸 シクロップ山麓・師団司令部壕

 

フンボルト湾への猛烈な艦砲射撃の地響きが、シクロップ山脈の分厚い岩盤を伝って司令部壕の土壁を絶え間なく揺らしていた。

 

カンテラの薄暗い灯りの下、作戦参謀の中佐は、有線が通じず沈黙を続ける電話機を前に、苛立たしげに汗を拭っていた。

 

その時、泥水を滴らせた一人の伝令兵が、転がるように壕の奥へ飛び込んできた。

 

「報告ッ! 西方、タナメラ湾沖合に敵大艦隊接近! 上陸用舟艇多数、デパプレ方面へ向けて発進の模様!」

 

その声に、壕内の空気が凍りついた。幕僚たちが弾かれたように作戦地図へ覗き込む。

 

「タナメラ湾だと?」

 

作戦参謀の中佐が声を荒らげた。

 

「あそこは海岸のすぐ背後が底なしの泥沼だぞ。上がって来れるはずがない!」

 

「閣下……本当に上がれるとなると、センタニは完全に挟み撃ちにされますな……」

 

参謀長は低い声で司令官に促した。

 

腕を組み、目を瞑ったまま静かに報告を聞いていた司令官は、参謀長の方を見てゆっくりと頷く。

 

参謀たちは、しばらく地図を見ながら協議を交わした後、参謀長の大佐が無言のまま作戦参謀の中佐へ向かって短く頷いた。

 

作戦参謀は地図から顔を上げ、壕の入り口で待機していた数名の連絡将校たちを振り返った。

 

「予定が変わった。かねてよりの草案を発動する。二個の集成大隊へ編成を急ぐが、行き先はタナメラ湾からセンタニに続くデパプレ街道の隘路だ。各連絡将校は作戦書類と命令書が作成されるまで待機。受け取り次第、自部隊へ戻り指揮官へ伝達せよ。外の者にも急ぎ伝えろ」

 

「はっ!」

 

しばらくして、高瀬大尉をはじめとする連絡将校たちが呼ばれ始め、急ぎ作戦書類を掴んで飛び出していく。

 

高瀬が外に出ると、天幕で待機していた菊池伍長が急いで立ち上がった。

 

「菊池、急ぎ戦隊本部へ戻る! 陸王を出せ!」

 

「はっ!」

 

高瀬が側車に飛び乗ると同時に、菊池は重いキックペダルを踏み下ろす。エンジンが咆哮を上げ、車体は泥を跳ね上げながら熱帯雨林の悪路を猛スピードで駆け抜けていった。

 

第六飛行師団・某飛行戦隊本部跡

 

焼け残った天幕の下で、作戦書類と命令書を受け取った戦隊長の黒木少佐は、静かに目を閉じて大きく息を吐き出した。

 

「……ついに、空の部隊が泥を這う時が来たか」

 

黒木少佐は指揮棒で地図の一点を叩いた。

 

「高瀬大尉。貴官の中隊の残存空中勤務者四名、および補充の整備兵三十名をもって一個小隊を編成せよ。タナメラ湾から通じる『デパプレ街道』のこの地点へ急行し、銃火器を設置しろ」

 

「陣地構築でありますか」

 

「そうだ。だがな、高瀬。貴官らの任務はあくまで『航空火器の設置と戦術指導』だ」

 

「はっ」

 

「敵が泥沼から重火器を揚げるには時間がかかるが、身一つで上がる尖兵の足は速い。先発隊が時間を稼いでも、猶予は一、二時間だ。まともな陣地を掘る暇はない。街道の隘路で叩き落とすぞ」

 

「では、先日機体から下ろした航空機銃の設置を最優先といたします」

 

「うむ。できれば簡易地雷の敷設まで間に合わせろ。……いいか、高瀬。機関砲を据え付け、整備兵に撃ち方を教えたら、貴官ら四人はすぐに俺のいる前進指揮所まで後退しろ」

 

黒木は地図の別地点を指揮棒で指した。

 

「作業中に敵の斥候と接触した場合も同様だ。決して応戦せず、即座に引き返せ。俺の言っている意味が分かるな」

 

「……了解いたしました」

 

     *

 

同日・午後

 

デパプレ街道・チョークポイント(最狭部)

 

タナメラ湾からセンタニ湖へと通じるデパプレ街道は、道というよりは赤土がえぐれた急峻な沢に近かった。両脇は切り立った崖と、鬱蒼としたジャングルの樹冠に覆い尽くされている。兵士たちの荒い息遣いと、泥を踏みしめる音だけが異様に響いていた。

 

「そこだ! その等高線の交わるすり鉢の底! そこが一番敵の隊列が詰まる!」

 

泥まみれになった新沼少尉が、航空図面を片手に叫んだ。彼はパイロットとしての空間認識能力をフルに回転させ、米軍が必ず足を止める「死地」を瞬時に割り出していた。

 

「了解です! おい、お前ら! 斜面を削る暇はない、そこらの倒木と岩を積んで銃座を作れ! 十字砲火を浴びせる!」

 

小島曹長が、上半身裸で泥にまみれた元整備兵たちを怒鳴りつけながら指揮していた。

 

「曹長殿! これ、重すぎます!」

 

整備兵たちが泥に足を取られ悲鳴を上げながら、丸太に括り付けた黒光りする鉄の塊を斜面へ引き上げようとしていた。

 

「泣き言を言うな! そいつは『隼』に積んであったホ一〇三、十二・七ミリ航空機関砲だ! 空の上でB-25を落とすための代物だぞ。泥まみれの米兵なんぞ、こいつの連射でミンチにしてやる!」

 

小島は自ら丸太に肩を入れ、泥だらけになりながら急ごしらえの土嚢と倒木の隙間へ重機関砲を据え付けた。

 

その様子を冷ややかに見つめながら、新沼少尉がぽつりと呟いた。

 

「……元は航空機用ですから、泥に弱いうえに、地上で撃てば反動で照準がブレます。気休めですね」

 

一方、菊池伍長は、行軍の足跡を追うように後方から這わせてきた有線電話の被覆線を、最前線の観測陣地へと結びつける作業に追われていた。数人がかりで重いドラムを転がしながら前進してきたため、すでに全員が泥だらけだった。

 

「大尉殿、線が足りました。これでなんとか指揮所と陣地が繋がります」

 

泥水を拭いながら菊池が言う。

 

「ご苦労。菊池……新沼の言う通り気休めかもしれんが、急ごしらえの陣地でも、やらんよりはマシだろう」

 

高瀬が応える。

 

「大尉殿、設置完了しました。簡易地雷も仕掛け終わりました」

 

「よし。……伊丹軍曹!」

 

「は、はいっ!」

 

「機関砲の扱いは小島曹長から聞いたな。有線はここにある。敵の斥候が見えたら、すぐに後方の指揮所へ報告するよう、野村中隊長に伝えろ」

 

「はっ」

 

「新沼、小島、菊池。これより我々は黒木戦隊長の元へ向かう……軍曹、ここを頼むぞ」

 

「はっ! お任せください!」

 

高瀬は左眉の傷跡をなぞりながら、眼下の底知れぬジャングルの奥へと視線を向けた。

 

     *

 

後方の前進指揮所へと引き返す四人の足取りは、赤土の泥に吸い付かれてひどく重かった。

 

「……大尉殿。伊丹軍曹たち、本当に大丈夫でしょうか」

 

息を切らしながら歩く菊池伍長が、不安げに後ろを振り返った。

 

「素人だからな。どうせ敵の姿を見る前にビビって引き金を引くさ」

 

小島曹長が、軍靴にこびりついた泥を木の根で蹴り落しながら吐き捨てる。

 

「せっかくのホ一〇三も、無駄弾を撃ち尽くして終わりかもしれんな」

 

新沼は、息を乱すことなく黙々と歩を進めている。

 

高瀬は無言のまま泥道を踏みしめ、ふと上空を見上げた。

 

「風が湿ってきたな……急ごう」

 

「はっ」

 

やがて木々の間に、ヤシの丸太と土嚢で組まれた前進指揮所の壕が見えてきた。

 

「……少佐殿。命令通り、機関砲の設置および戦術指導を完了し、帰還いたしました」

 

「ご苦労だった、高瀬。休ませる間もないが、直ちに前線との有線に張り付け。いつ接敵してもおかしくない」

 

黒木は薄暗い壕の中で、カンテラの灯りを頼りに地図を睨んだまま短く命じた。

 

「はっ」

 

泥まみれの高瀬は短く答えると、新沼と共に黒木の立つ作戦図の脇へと移動した。

 

息の詰まるような沈黙が、薄暗い壕内を支配する。

 

     *

 

ジリリリッ!

 

九二式電話機のベルが、薄暗い壕内にけたたましく鳴り響いた。

 

通信手として電話機の横に控えていた菊池伍長が、急いで受話器を取る。

 

「こちら前進指揮所!……大尉殿! 前線の野村中尉からです! 敵斥候、接近!」

 

高瀬大尉は無言で受話器を受け取った。菊池は即座に一歩下がり、直立して待機姿勢をとる。

 

「高瀬だ。野村中尉、状況を報告しろ。敵の数は」

 

『……大尉殿! ザァーッ……敵影! 一列縦隊で登ってきます! 数は……およそ一個小隊、三十!』

 

「よし。小島曹長の教えた通り、新沼少尉の引いた『すり鉢の底』まで引き付けろ。先頭が第一標示を越えるまで、絶対に撃たせるな」

 

『……ッ、しかし、敵の先頭が足を止めました! 警戒して、これ以上進んできません!』

 

「我慢しろ。そこはまだ有効射程の外だ。引きずり込め」

 

パン、パン、!

 

突如、受話器から鼓膜を突くような破裂音が響き、野村の怒号が混ざった。

 

『こらっ、撃つな! 下の小隊の馬鹿野郎、射撃止めっ!』

 

ズババババババババッ!!

 

直後、空気を乱暴に引き裂くような重機関砲の連続音がスピーカーを震わせた。最前線に据え付けたホ一〇三だ。

 

「野村中尉! どうした! 敵は倒したか!」

 

『ザァァッ……駄目です、遠すぎます! 弾幕が敵の頭上を越えて……敵、泥に伏せました!』

 

パン、パン、パン!

 

無数の三八式歩兵銃の乱射音が続く。

 

「無駄弾を撃つなと教えたはずだ! 撃ち方待て! 狙って撃て!」

 

『第一陣地、統制が取れません! みな恐怖で斜面下へ向けて乱れ撃ちしています!』

 

シュルルル……ズズォーン! ドズゥン!

 

受話器越しに、底なし沼が爆発を飲み込んだような鈍い炸裂音が連続して響いた。

 

『湾内から艦砲射撃! 盲撃ちです!』

 

「落ち着け! この密林と急斜面だ、そう簡単に直撃はせん! 音だけだ!」

 

『は、はい……あっ!』

 

ガガガガガッ! ダダダダダッ!

 

大口径のトンプソン機関短銃による、腹に響くような連射音が連続して聞こえる。

 

「次はどうした!」

 

『敵、側面から自動小銃! 第一陣地が制圧されます! 火力が……あっ!』

 

「何だ!」

 

『中腹の敵、急斜面と泥で足を取られています! 何名か滑落! 残りは遮蔽物に張り付き、陣地へ猛射!』

 

「とにかく、無闇に頭を出すな!遮蔽物から出たところを狙って撃つよう周知しろ!」

 

『はっ!』

 

受話器の向こうからは、パニックに陥った三八式のばらばらな発砲音と、怒号、そして自動小銃の連射音が混沌と入り混じって聞こえてくる。

 

『……大尉殿、問題発生です!』

 

「問題?!」

 

『機関砲座のホ一〇三が沈黙。射手が排莢部を叩いています』

 

「詰まったか……」

 

『はい。どうやら、ジャムの模様……先ほどの艦砲射撃で泥を被ったのが原因かと思われます。』

 

報告が漏れ聞こえた瞬間、後ろに控えていた小島曹長が奥歯を強く噛み締める音を立てた。

 

「……やはり、あの泥の中では持たんか」

 

小島は悔しげに呻いた。

 

『あぁっ!』

 

「今度は何だ中尉!」

 

『敵一名、中腹から第一陣地まで肉薄! 手榴弾を投げ込みました!』

 

「被害は!」

 

『いえ、不発です! 木に弾かれて奴の頭上に落下、そのまま泥を滑り落ちていきました!』

 

小島が菊池に向かって少し苦笑いをする。

 

「……馬鹿な連中だ」

 

『……どうやら泥を被って不発だったようですが』

 

「残念」

 

図面から顔を上げた新沼少尉が、即座に切り捨てた。

 

高瀬が少し呆れた顔をした時、傍らで別の九二式電話機を握りしめていた黒木少佐が、受話器に向かって声を荒らげた。

 

「はっ! ですから敵の第一波とはすでに接触し……いえ、機関砲陣地は生きておりますが、火力が……作戦参謀殿! 申し訳ない、前線の状況が錯綜しております、少々お待ちを!」

 

「高瀬、代われ」

 

「はっ」

 

黒木は受話器をひったくるように耳に当てた。

 

「俺だ。野村中尉、聞け」

 

『しょ、少佐殿! 申し訳ありません、我が中隊の陣地が……!』

 

「泣き言はいい! 現場はどうなっている、端的に報告せよ!」

 

『はっ……現状敵は急斜面と泥に足を取られ、前進も突撃もできません! 互いに遮蔽物に隠れての撃ち合い……なんとか食い止めてはいますが、さらに敵が増えれば、そう長く持ちません』

 

「分かった。我々が組んだ十字砲火の陣は貴様らが浮足立ったせいで台無しだが、結果的に地形が敵の足を止めていることだ。とにかく司令部がせっついてきている、一秒でも長く持たせろ」

 

黒木は一方的に受話器をガチャンと乱暴に叩きつけた。

 

額の汗を拭いながら、再び司令部への報告を再開する。

 

「……中佐殿! 状況判明いたしました! 前線は現在、敵の尖兵が泥沼に足を取られ、防御陣がなんとか持ち堪えている模様! ……はい! 重火器の揚陸にはまだ時間がかかるはずです!」

 

受話器の向こうの作戦参謀が何かを早口で捲し立てるのを、黒木は苦虫を噛み潰したような顔で遮った。

 

「……中佐殿、それは急すぎます! センタニの独立機関砲中隊は連日の空爆で無傷の砲は限られています! 現在、残存機材をかき集めてデパプレ方面の陣地構築を急がせているところです!」

 

黒木は声を荒らげ、カンテラの横の地図を強く叩いた。

 

「生き残っている高射砲? 回して頂けるのはありがたいが、あの重さにこの泥道。当てにはなりませんぞ」

 

壕の外から響く雷鳴が、黒木の声を一瞬かき消した。

 

「……しかし敵の尖兵を抑えているのは、タナメラ方面にいた若干の警備隊と野戦素人の整備兵だけです! ……はっ! とにかく、独立機関砲中隊の陣地構築が間に合うまで、できるだけ時間を稼ぎます!」

 

黒木は重々しく受話器を置いた。

 

壕の中でカンテラの灯りが揺れていた。

 

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