嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
ジリリリッ!
「こちら前進指揮所!……大尉殿、前線観測所の野村中尉からです!」
菊池から受話器を受け取り、高瀬は耳に当てた。
「高瀬だ。野村中尉、前線はどうなっている」
『……大尉殿! 米軍が動いています!』
「敵の隊形は」
『一列縦隊どころではありません! 至る所から物陰を探しつつ、道なき急斜面を腹這いで登ろうとしているようです』
高瀬は受話器に向かって声を張った。
「中尉! こちらの発砲は? 敵に弾は当たっているのか!」
『いえっ、練度が低いため全く当たっていません! 照準を覗く余裕がある者が半分もいません。泥の中から斜面の下へ向けて、ただ音を出しているだけです! 撃ち殻ばかりが相当な数転がっています!』
その報告が受話器から漏れ聞こえ、傍らに控えていた小島曹長が、忌々しげに顔をしかめた。
「こちらの迫撃砲はどうなっている!」
高瀬が問うと、野村中尉の声がさらに沈んだ。
『使用困難です! 急斜面と泥で底板が沈み込みます! 練度も足りず、撃っても泥を跳ね上げるだけです!』
パン、パン! ダダダダダッ!
突如、受話器の向こうで銃声の質が変わった。統制の取れた、正確で濃密な小火器の弾幕音が響き、有線が悲鳴のようなノイズを上げた。
「中尉! どうした!」
『ガリッ……大尉殿! 敵が一斉に動き出しました! 奴ら……猛烈な援護射撃の下、中腹から的確に陣地を潰しながら登ってきます!』
受話器越しに猛烈な銃声音が聞こえる。
『……ああっ! 大尉殿! 整備兵たちが銃を捨てて逃げ出しました! 駄目だ……防衛線、破られました!』
「踏み止まらせろ! そこを抜かれたら一気に斜面を上がられるぞ!」
『統制が取れません! 敵が左右から這い上がって……ピーッ、ザァァァァッ!』
「野村中尉! 応答しろ! 中尉!」
高瀬の怒号も虚しく、有線電話は無機質な雑音だけを残して沈黙した。
「……高瀬」
「はっ」
「現状を整理しろ」
カンテラの灯る木箱の戦況図から、黒木少佐が顔を上げた。
高瀬は一度、深く息を吸った。そして感情を交えず、事実だけを口にする。
「……我々の急造陣地は、敵の尖兵部隊の足を一時的に止めることには成功しました。しかし、敵の第二波による波状攻撃は、圧倒的な火力の差によって陣地を粉砕し、現在、第一防衛線は完全に突破された模様です」
「後方の第二陣はどうなっている。そこで食い止められるか」
黒木が低く問う。
「駄目です。要となる独立機関砲中隊の第二陣構築は、まだ完了しておりません。現在、後退した残存部隊が散発的に抵抗しているはずですが、第一陣ほどの地形的優位性はなく、何より小銃すら行き届いておりません」
高瀬の報告に被せるように、傍らの電話機で別の中隊と連絡をとっていた情報将校の吉村中尉が、血相を変えて受話器を置いた。
「少佐殿。右翼に展開していた第百十四飛行場大隊、後退します。弾薬が尽きて白兵戦に移行したのち、通信が途絶しました。……よもや、こうもあっさりと第一陣が破られるとは」
吉村中尉の報告に、高瀬が険しい表情で口を開いた。
「後詰の集成大隊が踏ん張れなければ、総崩れになります」
「総崩れ……。指揮所を畳んで後退するにしても、残された機材の搬出など、この足場の悪さでは容易ではありませんぞ」
「足場が悪いのは敵も同じだ!」
吉村の言葉を遮るように、黒木が怒声に近い声を上げ、指揮棒で地図の等高線を激しく叩いた。
「高瀬! 直ちに陣地構築中の独立機関砲中隊へ伝令を走らせろ! デパプレ街道の第二稜線まで残存兵力を下げて合流させ、再配置を急がせろ! 菊池伍長、師団司令部へ繋げ! 状況を報告し、後退と陣地転換の許可を取れ!」
「はっ!」
菊池は有線を繋ぐ。
「ん?……駄目です、少佐殿! 有線が通じません! 応答なし!」
九二式電話機の手回し発電機を必死に回す菊池が、焦燥に駆られた声で叫ぶ。
「くそっ、艦砲射撃で線が切れたか! 高瀬、敵が防衛線突破につき、陣地を転換する旨、司令部に伝令を走らせ伝えろ! 小島曹長、外の兵を集めろ! 武器と弾薬だけ持たせて……!」
指揮所内が、騒然とした空気に包まれる。
その時、壕の中に吹き込む風の温度が、急激に冷たく、重いものへと変わった。
「……雨が、来ますね」
新沼少尉が図面から顔を上げ、ぽつりと呟いた。
黒木や高瀬の動きがピタリと止まる。
まもなくして新沼の呟きを裏付けるように、壕の外を真っ黒に覆い尽くす熱帯特有の積乱雲から雷鳴が轟き、次の瞬間、視界を白く染めるほどの猛烈なスコールがジャングルを叩きつけた。
入り口で泥除けの土嚢を積んでいた菊池伍長が、顔の泥水を拭いながら振り返った。
「大尉殿、すごい降りです。数メートル先も見えません」
滝のような雨音に掻き消されまいと、新沼少尉が少し声を張って言った。
「大尉。これなら米軍も登ってこられないのではありませんか」
「ああ」
高瀬が新沼の推測に同意する。
「あそこは赤土のすり鉢だ。この雨量なら、いま頃道そのものが『泥の滝』に変わっているはずだ」
外の激しい雨音に混じって時折聞こえていた無闇な発砲音が、十分、二十分と経つうちに次第に間遠になっていく。
「……発砲音……完全に止みましたね」
新沼少尉がまたポツリと言った。
黒木少佐はしばらく地図を見つめ、張り詰めていた肩の力を抜いてふっと息を吐き出した。
「敵はタナメラの地形を舐めていた。だが、こちらの軍司令部も地図上の頭数だけで防衛を組んだ。小銃も撃てない素人でも、数さえ揃えば一個師団だとな。……師団長閣下も、この泥濘の惨状にはさぞ苦々しい思いをしておられるだろう」
黒木は自嘲気味に、地図上のデパプレ街道を指揮棒で短く叩いた。
「忌々しいが、こっちの部隊が野戦素人だった事が敵を救い、この天候と地形が我々を救った……それだけだ」
「……ごもっともです」
高瀬は少し苦笑いして応じ、外の土砂降りを見つめた。