嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第39話 炎の夜と撤退命令

1944年四月二十三日 夜

 

激しい雨が天幕を打つ壕の中まで、外のざわめきが伝わってきた。

 

天幕がめくられ、泥水を滴らせながら新沼少尉が壕へ入ってくる。

 

「……大尉殿。外の連中が騒いでいます」

 

カンテラの灯る戦況図から目を上げず、高瀬が応じる。

 

「何事だ」

 

「歩哨の交代に出た者が、足場の良い稜線から東の空を見たそうです。真っ暗なジャングルの奥で、分厚い雨雲の底が、下からの猛烈な炎でドス黒く赤に染まっていると」

 

「方位は」

 

「真東。フンボルト湾の方角です。地鳴りのような誘爆の音まで響いてきているらしく……」

 

新沼は少し声を潜め、自嘲気味に続けた。

 

「第九艦隊が夜襲をかけた、米軍の揚陸部隊は壊滅した……兵たちの間では、もうそんな噂が広まっています。補給線が絶たれたなら、遊撃戦で持ち堪えられると」

 

高瀬は無表情のまま図面を見つめ、隣の黒木へ短く促す。

 

「……少佐殿」

 

黒木もカンテラの火を見つめたまま、低く吐き捨てた。

 

「馬鹿なことを。遠藤中将の第九艦隊には、もはや戦える舟など一隻も残っていない」

 

「では、雨雲を焦がしている火柱は」

 

「敵が鹵獲した我が軍の弾薬が誘爆したか、あるいは米軍の同士討ちだろう」

 

黒木は冷徹な目で等高線をなぞり続けた。

 

「状況は変わらん。だが……兵には夢を見させておけ」

 

「はっ」

 

高瀬と新沼は短く応じ、雨音と歓声の入り混じる外の喧騒を背に、泥に塗れた戦況図を睨み続けた。

 

     *

 

翌日未明

 

「大尉殿、駄目です! 有線の復旧、事実上不可能です!」

 

泥水を被った菊池伍長が、壕に駆け込んできた。

 

「前線への回線は土砂崩れで完全に流失。さらに……昨日復旧した後方の師団司令部への有線も、再び不通になりました! 雨のため再復旧には相当量の時間を要します」

 

黒木少佐が一度目を閉じ、そして開いた。

 

「……走れるか、高瀬」

 

「はっ」

 

「参謀部へ行って現状を報告し、命令を受けて来い」

 

「行ってまいります」

 

司令部への道は、もはや道ではなかった。

 

「この泥だ。陸王は使えんな……」

 

高瀬と菊池は腰まで泥水に浸かりながら、地図と勘を頼りに道なき道を進んだ。

 

     *

 

「……大尉殿。あそこ、ドラム缶で何かを燃やしています」

 

泥まみれで辿り着いた師団司令部壕の前では、慌ただしく何かが焼却され、黒い灰が雨の中に舞っていた。

 

「作戦参謀殿! 第六飛行師団、高瀬大尉、ただいま到着しました! 有線不通のため、直接推参いたしました!」

 

「高瀬か! ちょうどいいところへ来た」

 

作戦参謀の中佐が、煤で顔を黒くしながら足早に歩み寄ってきた。

 

高瀬は直立不動のまま、簡潔に報告した。

 

「先日、防衛線が突破されたとご報告いたしましたが、現在、タナメラの悪路と豪雨により、米軍の進撃は完全に停止しております。重火器も揚陸できておらず、敵は完全に足止めを食っている模様であります」

 

中佐は煤けた顔で、短く鼻を鳴らした。

 

「だろうな。そもそもタナメラは上陸作戦など行える地形ではない。こちらが正規の精鋭歩兵であったなら、泥に足を取られた敵を水際で壊滅させていただろう」

 

中佐はそう吐き捨てると、作戦地図の西側を指で強く叩いた。

 

「……高瀬。第十八軍の支隊の状況は知っているか」

 

「いえ」

 

「東……フンボルト湾側の『大発峠』の防衛が抜かれた。上陸した敵主力が峠を越え、センタニ湖の背後へ回り込もうとしている」

 

高瀬の顔から血の気が引いた。

 

「峠を抜かれれば、完全に包囲される。……もはや、このホーランジア一帯を維持することは不可能と判断された」

 

天幕の外で、雨が地面を叩き続けていた。

 

「……撤退、ですか」

 

「ホーランジアの各部隊は内陸のゲニムへ集結する。デパプレ街道の集成大隊は、そのまま遊撃戦に移行し、残存兵力で泥濘の敵を削りながら遅滞退却させろと黒木に伝えろ」

 

「はっ」

 

「もう一つ、高瀬。貴官ら空中勤務者は別だ」

 

「……別とは?」

 

「黒木少佐以下、飛行戦隊の空中勤務者は、現場の指揮を整備隊の残存将校に引き継ぎ、直ちに当司令部に合流せよ。みなまで言わんでも、貴官ならこの意味が分かるだろう」

 

高瀬は無表情のまま、深く一礼した。

 

「……承りました」 

 

     *

 

帰り道のジャングルの獣道、泥濘を進む足取りは重かった。

 

「……止まれ、菊池。誰か来る」

 

高瀬は低く声をかけた。

 

「大尉殿、あれ……軍服が血と泥で原形を留めていません……」

 

「何隊だ!」

 

亡霊のように列をなして歩いてくる集団の先頭に、高瀬が声を張る。

 

頬の削げた少尉が、虚ろな目で立ち止まった。

 

「……北園支隊、南洋第六支隊であります。ゲニムへ撤退途中です……」

 

「負傷者は何名いる」

 

「……数えていません」

 

少尉はそれだけ言うと、何かを諦めたように口を閉ざし、再び泥の中へ足を引きずり始めた。

 

「大尉殿……南洋第六支隊って……本職の歩兵部隊が、あんなにボロボロに……」

 

「分かっている。行くぞ」

 

高瀬は無言のまま、ジャングルの奥へ消えていく泥まみれの背中を見送った。

 

「……大尉殿。黒木少佐に、何と伝えますか」

 

泥道を歩き出しながら、菊池が小さく尋ねた。

 

「事実だけを伝える。ホーランジアは維持できない。本隊は撤退する」

 

「我々は、どうなるのですか」

 

「集成大隊は遊撃戦を行い、ぎりぎりまで残る。だが……我々空中勤務者は現場の指揮を彼らに押し付け、司令部と共にゲニムへ撤退せよとのことだ」

 

菊池はぴたりと足を止め、泥の中に立ち尽くした。

 

「……素人の整備兵たちだけで遊撃戦をしろと?」

 

高瀬は振り返らず、雨の中前を向いたまま答えた。

 

「そうだ」

 

菊池はそれ以上、何も言わなかった。

 

「……行こう。黒木戦隊長が待っている」

 

高瀬は左眉の傷跡を指でなぞり、泥を蹴り立てた。

 

外の激しい雨音だけが、絶え間なくジャングルに響き続けていた。

 

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