嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年四月二十五日・昼
シクロップ山麓・ゲニムへの撤退路
二日以上続いた雨が、ようやく上がった。
しかし、熱帯の太陽が照りつける泥道は、敗走する第六飛行師団の将兵たちの体力を容赦なく削り取っていく。
ホーランジア進出以来、常に後手に回り、一発の銃弾も交えぬまま最新鋭機を燃やされ、今またすべての物資を放棄しての撤退だった。
「……雨は上がりましたが、足元は地獄のままですね」
泥に沈む軍靴を引き抜きながら、菊池伍長がぽつりと言った。
「ああ。だが山蛭が降ってきて血を吸われ続けるよりはマシだろう」
小島曹長は首周りを掻きながら、短く答えた。
第六飛行師団の撤退行は、もはや行軍ではなかった。
道端には工具箱、予備部品、天幕が次々と打ち捨てられている。
「小休止! 配給だ!」
前方の声に、兵士たちが次々と泥の上へ倒れ込んだ。
回ってきた木箱から、高瀬の手に泥だらけの芋が一つ渡される。
「……これだけ、ですか」
菊池が手の中の小さな芋を見つめる。
「食えるだけマシだ。皮ごと食え」
高瀬が齧ると、土の味と痛いほどの甘みが口に広がった。
ふと見ると、隣に座り込んだ若い下士官が、その芋を両手で二つに割っていた。
彼は片方をゆっくりと口に入れ、もう片方を丁寧に胸ポケットへ仕舞い込む。
そして外側からポンポンと二度、確かめるように叩いた。
誰も何も言わなかった。
誰も笑わなかった。
*
同日・夜
ゲニムへの撤退路・露営地
周囲の兵士たちが泥の中で死んだように眠りについた頃。
「集まったな」
巨大なシダの葉の下で、黒木少佐が声を潜めた。
カンテラは無い。星明かりの下に集められたのは、高瀬中隊の高瀬ら四名を含む二十名ほどの空中勤務者たちだけだ。
「師団参謀部から極秘の通達があった。海路での脱出だ」
小島曹長が息を呑む。
「海路……船があるんですか」
「対象は我々空中勤務者と参謀部の一部。デパプレの入り江に戻り、海軍が隠匿している大発(大型発動艇)で西のサルミへ向かう」
「デパプレ……?」
新沼少尉が怪訝そうに眉をひそめた。
「少佐殿。デパプレは敵が上陸したタナメラ湾のすぐ側です。火中の栗を拾いに戻るようなものですが」
「分かっている。だが、ゲニムにある給養力はわずかだ。新沼、このまま本隊と共に陸路でゲニムへ向かい、さらにそこからサルミに転進した場合、我々の生存率はどのくらいある」
「……一割あれば良い方でしょう。ろくな食糧もないまま追っ手を回避しつつ、途中の急峻な山や河川をいくつも越え、道なきジャングルを何百キロも歩けば、マラリアと飢餓で壊滅します」
「そうだ。だから敵の鼻先を掠めてでも大発に乗る。陸路で飢え死にするより、遥かに生存率が高い」
「……少佐殿」
菊池伍長が、絞り出すような声で口を挟んだ。
「なんだ!」
「あのデパプレの隘路で共に戦った集成大隊の連中はどうなるんですか」
「彼らはもう撤退しただろう。本隊と共に陸路でゲニムへ向かう」
「……」
「伍長。貴様が何を考えているのか察しはつくが、そんな事は問題ではない」
黒木は冷徹な視線を菊池に向けた。
「我々が船に乗るのに我々の意思など関係ない。空中勤務者を育成するのに皇国がどれだけの国費と歳月を費やしたか……みなまで言わせるのか、伍長」
「い、いえっ、申し訳ありません!」
それ以上言葉を発する者はいなかった。
「明日夜明け前に、我々は司令部の幕僚及び他の飛行戦隊と合流してデパプレへ向かう。……以上だ」
黒木はそれだけ言うと立ち上がり、闇の中へ消えていった。
高瀬は泥の上に座り込んだまま、ジャングルの梢から覗く大きな星を見上げた。