嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年四月二十六日・未明
タナメラ湾デパプレ・逆行ルート(道なき密林)
「……くっ、痛え……」
完全な暗闇の密林で、菊池伍長が這うような声で呻いた。
「音を立てるな。枝を折る音は響くぞ」
高瀬大尉が前を歩く者の背嚢を掴んだまま、息を殺して応じる。
「……山蛭(やまびる)です。首筋に食いついて……血で滑って、むしり取れません」
「静かにしろ菊池。そんなことは今に始まった事ではないだろう」
前から作戦参謀の低い声が流れてきた。伝言のように後ろへ後ろへと渡されていく。
「……伝達。間隔を詰めすぎるな。ツルに足を取られるな」
敵の哨戒網が敷かれたデパプレ街道を避け、二百名弱の列は道なきジャングルを強行突破していた。泥沼と密林が、将兵の体力を奪っていく。
ピタリ、と先頭の気配が止まった。
二百人が、同時に息を止める。
首筋や腕を這い上がる無数の山蛭。耳元で羽虫の飛ぶ不快な音がまとわりつく。誰も手で払おうとはしない。ただ無言で蛭をむしり取って泥へ投げ捨てる。
「……米軍の歩哨ですか」
小島曹長が、高瀬の背中越しに囁く。
「いや。ただの倒木です。……前が動いた、行きましょう」
新沼少尉が淡々と返し、再び列が泥を這い始める。
「……胃が縮み上がりそうです。敵が上陸した方向へ逆走しているなんて」
「いいから喋るな菊池。舌を噛むぞ」
高瀬は泥から軍靴を引き抜きながら、暗闇の奥を睨みつけた。
*
どれだけ歩いたか。丸一日を費やし、デパプレへの下りに差し掛かった頃には、再びあたりは真っ暗になっていた。
ジャングルの腐葉土と泥の匂いに混じって、確かな塩の気配がする。
作戦参謀は暗闇の中、地図を凝視している。
「……着いたぞ。この辺りのはずだ。散開しつつ探せ。警戒を厳にせよ」
作戦参謀の低い指示で、二百名の部隊は音を立てないよう密林の波打ち際へ展開し、隠されているはずの脱出艇を探す。
少し時間が過ぎた。
「中佐殿、発見しましたぞ」
微かな声が聞こえた。
高瀬たちがそこへ向かうと、切り立った崖下の暗がりに、何重ものヤシの葉と偽装網で隠された三隻の海軍大発(大型発動艇)のシルエットが浮かび上がる。
「……ありましたね」
菊池伍長が小さく息を吐いた。
作戦参謀は司令官と参謀長の方を少し伺い、参謀長は無言で頷く。
「偽装をめくれ。船体と機関を調べろ」
作戦参謀の指示で、数名の司令部要員が、素早く、かつ無音で船体に取り付いた。
「船底、浸水なし。機関部異常ありません」
「燃料は」
「後部にドラム缶が積んであります。サルミまでは持ちます」
「よし」
作戦参謀が短く応じた直後だった。
「……参謀殿」
前方の岩場に展開していた将校が、足音を殺して戻ってきた。
「前方の岩陰や流木の陰に、人影が多数転がっています」
作戦参謀の目が鋭く細められた。
「米軍の歩哨か」
「いえ。我が軍の歩兵です。タナメラの守備隊か、あるいは海路脱出の噂を聞いて集まってきた残兵かと」
作戦参謀は短く息を吐いた。
「放っておけ。我々は速やかに出航する」
だが、大発の点検作業に気づいたのか、岩陰から数十人の人影が這い出してきた。月明かりに照らされた軍服は泥と血で原形を留めず、片足を引きずる者や、銃を杖代わりにする者たちだ。
「……どうか、我々も」
掠れた、そしてひどく枯れた声だった。先頭の兵士が泥まみれの手をこちらへ伸ばす。
「我々も、その船に乗せて……ください」
「乗せる隙間はない」
作戦参謀は振り返りもせず、ただ事実だけを口にした。
「大発三隻の積載量は、ここにいる司令部と空中勤務者の二百名ですでに限界を超えている。貴様らを乗せれば沈む」
「そんな……参謀殿! どうか、我々も!」
敗残兵の一人が、泥に両膝をついて叫んだ。
「部隊は全滅しました! どうかお乗せください! ここに置いていかないでください!」
悲鳴のような懇願とともに、数十人の群れが大発の方へじりじりと距離を詰めてくる。
「……下がれ。それ以上近づけば斬るぞ」
司令部の将校が、ゆっくりと軍刀の柄に手をかけた。
高瀬も無言のまま、拳銃の安全装置に親指をかける。隣で、菊池伍長が小銃を強く握りしめている。
抜刀の気配と銃口の壁を前に、恐怖か諦めか、敗残兵たちの足が泥の中でピタリと止まり、立ち尽くした。
その張り詰めた沈黙を背にして、作戦参謀の短い指示が飛んだ。
「空中勤務者から乗り込め。迅速にだ」
黒木も低い声で続く。
「高瀬、我々の戦隊は二番艇だ。この機密書類の木箱も積め」
「はっ」
高瀬たちは泥水を蹴り、二番艇の鉄の甲板へ乗り込んだ。定員まで兵が詰め込まれ、大発が重く海面へ沈み込む。
準備を終えた先発の一番艇が発進していく。
「機関始動。出航せよ」
ディーゼル機関が低い唸りを上げ、排気煙が入り江に立ち込めた。
その振動音に、岩陰の敗残兵たちが弾かれたように立ち上がった。
「待ってくれ! 置いていかないでくれ!」
数名の兵士が狂乱し、夜の海へ飛び込んできた。腰まで、胸まで水に浸かりながら、離岸し始めた二番艇の舷側へ群がり、泥まみれの手で鉄の縁へしがみついてくる。
「離れろ! 一人でも余分に乗せれば船がもたんぞ!」
司令部の将校が怒鳴るが、兵士たちは力任せに這い上がろうとする。重量バランスが崩れ、大発が不規則に傾いた。
「引き剥がせ」
黒木少佐が、しがみつく兵士たちへ十四年式拳銃の銃口を向けた。
「危ないぞ、離れろ!」
菊池伍長と新沼少尉が甲板に伏せ、すがりつく手を必死に払いのけようとする。だが兵士たちの握力は尋常ではなかった。爪から血を流しても、鉄の縁を離そうとしない。
「離せ!」
小島曹長が軍靴を振り上げ、縁にかかった指を容赦なく踏みつける。たまらず縁を掴んだ手が海面へ滑り落ちる。
高瀬も無言で靴底を上げ、這い上がろうとする兵士の肩や胸を海へ向かって蹴り落とした。蹴り飛ばすたびに短い悲鳴と水飛沫が上がる。
「……ッ」
菊池が荒い息を吐きながら、最後の一人の手を強引に振り払う。
機関が回転数を上げ、スクリューが激しく海水を掻き回した。船体がぐんと前へ押し出される。
しがみついていた者たちが引き波に飲まれ、黒い波間へ遠ざかっていく。
他の海に入ったままの残兵たちも、もう追ってこなかった。ただ腰まで波に浸かり、遠ざかる船を無言で見つめていた。
高瀬は銃を降ろし、短く息を吐いて木箱に座りこんだ。
見上げた空では、月が再び厚い雲に覆われ始めていた。