嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第42話 満洲の春

1944年四月下旬

満洲国国都・新京

 

分厚い氷に閉ざされていた満洲の平野にも、ようやく遅い春が訪れようとしていた。

 

街中の雪が溶け出し、新京の舗装されていない裏道は泥濘(でいねい)へと姿を変えていく。

 

関東軍司令部庁舎の一角に与えられた間借り部屋で、越智広重は気怠そうに朱肉へ印鑑を押し当てていた。

 

トンッ……トンッ。

 

乾いた音が、規則正しく部屋に響く。

 

机の上には、ハルピンや各地の兵站基地から上がってきた「冬期損耗品」や「帳簿の計算違い」をまとめた分厚い報告書の山が出来上がっていた。

 

「……大尉殿。これで錦州(きんしゅう)方面の監査報告もすべて結了です。まったく……我々は関東軍が用意してくれる帳簿を清書しているだけですね」

 

向かいの机で書類を束ねていた尾形少尉が、少し自嘲気味に息を吐いた。

 

「結構な事じゃないか、尾形少尉。考えてもみたまえ。我々は誰一人、凍てつく荒野で神隠しに遭うこともなく、この暖かな部屋で極上の冬を越せたんだ。古賀たちに至っては、新京の素晴らしい牛肉をたらふく平らげ、見違えるほど血色が良い。この狂った時代に、五体満足で美味い肉を堪能できた……それ以上の『成果』など、一体どこにあるというんだね?」

 

越智は最後の書類にハンコを押し、よっこらしょと背伸びをした。

 

「……ですが、最近の街の空気は異常です。大尉殿もお気づきでしょう」

 

尾形が声を潜め、窓の外を気にしながら言った。

 

「昨日も、満鉄(南満洲鉄道)の調査部に入ったばかりの若い嘱託が、憲兵隊に引っ張られたそうです。ロシア語の古書を持っていたというだけの理由で。ハルピンでも、白系ロシア人に対する特務機関の締め付けが尋常ではないレベルに達していると聞きます」

 

「……」

 

「いくら防諜とはいえ、手当たり次第すぎませんか。まるで、見えない影に怯えているような……」

 

越智は懐から煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。

 

「私が言うのもおかしな話だがな……帝都から吹いてくる、生臭い『風』のせいだよ、尾形少尉」

 

紫煙を細く吐き出し、越智は目を細める。

 

「事情が変わったのだろうね」

 

「……東京で、何かが起きていると?」

 

「さあね。ただ、三宅坂(参謀本部)か市ヶ谷(陸軍省)のあたりで、冷たい風が吹いていることだけは確かだろうな。ここの上層部は、その火の粉が飛んでくるのを恐れているんだろう……何も命令を受けていない私たちには、関係のない話だ」

 

越智は胃のあたりを軽くさすり、ふうと息を吐いた。

 

その時、コン、コン、コン!と、普段より明らかに速く、強いノックの音が響いた。

 

「大尉殿! 古賀曹長、急報につき入室よろしいでしょうか!」

 

「入れ……」

 

定期連絡の受領に向かっていた古賀曹長が、息を切らして戻ってきた。彼は軍靴を高く鳴らして直立不動の姿勢をとり、鋭く敬礼した。

 

その手には、自前で翻訳を終えたばかりの暗号頼信紙が固く握られている。

 

越智は古賀の目を見て、唇に人差し指をあてた。

 

「古賀……少し落ち着きなさい。密林で敵に包囲されたわけでもあるまいに……何があった?」

 

「はっ……軍務局より、当班宛に緊急の特種暗号電が入りまして。北島軍曹と解読したところ……」

 

古賀は顔をこわばらせ、頼信紙を両手で恭しく差し出した。

 

越智はそれを受け取り、無表情のまま視線を落とす。

 

『サケン(差遣)ヲトク。シキユウ(至急)ホンシヨウ(本省)ヘキカンセヨ。 リクグンシヨウグンムキヨク』

 

「……帰還命令、ですか」

 

尾形少尉が、横から覗き込んで呟いた。

 

「……意外だな」

 

越智は手元の頼信紙を見つめたまま、低く呟いた。

 

「大尉殿?」

 

「我々は、中央の望んだ結果などこの半年何一つ上げていない……本来なら、激怒した局長から『任務を完遂するまで帝都の土を踏むな』と雷が落ちるはずなんだ……」

 

「我々はお役御免で、交代という事なのでしょうか……」

 

「……」

 

コンコン、と。

 

今度は控えめで、どこか芝居がかったノックの音が扉を叩いた。

 

「富樫であります。失礼いたします、越智大尉殿」

 

「入れ……」

 

扉を開け、完璧な愛想笑いを浮かべた彼は、恭しく頭を下げた。

 

「富樫少尉どうした……」

 

「先程、関東軍司令部に、大尉殿の差遣を解く旨の公電が届きまして……」

 

「相変わらず、耳が早いな」

 

「はっ、恐れ入ります。長きにわたる満洲での激務、誠にお疲れ様でございました。微力ながら、私がお世話させていただいたこと、光栄の至りに存じます」

 

富樫は、厄介払いがようやく済むという安堵感を隠しきれない様子で続けた。

 

「新京を発つ軍用機の手配や、お荷物の運搬もすべて我々にお任せください」

 

尾形と古賀は思わず顔を見合わせた。

 

「いやはや……君たちのその手回しの良さと気配りには、毎回感銘を受けるよ、富樫少尉。心から感謝する。これでようやく、君もぐっすり眠れるというわけだ」

 

「滅相もございません。では、早速準備に取り掛かります」

 

富樫が敬礼して踵をかえすと、越智は頼信紙をひらひらと振って応じた。

 

パタン、と扉が閉まり、部屋には再び重苦しい静寂が戻った。

 

「大尉殿……」

 

越智は頼信紙を机の上に無造作に放り投げ、ゆっくりと立ち上がった。

 

「やれやれ……もう少し寛いでいたかったんだが、そうもいかないみたいだね」

 

泥濘に沈む春の満洲に、消えた小堀の影だけを残し、彼らは北の大地を去ろうとしていた。

 

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