嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第43話 瓦解の足音

1944年五月上旬

帝都・東京 市ヶ谷

 

満洲の凍てつく大地から帰還した越智たちを出迎えたのは、帝都を包み込むどんよりとした重い雲と、生温かいどこか淀んだ湿気だった。

 

半年ぶりに足を踏み入れた市ヶ谷の陸軍省。

 

軍務局へと続く廊下を歩きながら、越智は肌にまとわりつくような違和感を覚えていた。

 

すれ違う幕僚たちの顔には一様に疲労と焦燥が張り付き、誰もが周囲の目を気にするように声を潜めている。軍靴の音すら、どこか遠慮がちだ。

 

「……おお、越智じゃないか。満洲から戻ったのか」

 

廊下の片隅から、声を落とした調子で呼び止められた。

 

振り返ると、小谷少佐が立っていた。越智と同じ陸軍士官学校で釜の飯を食った同期だが、あちらは陸軍大学校を三十位以内の優秀な席次で卒業した、正真正銘のエリート「天保銭組」だ。

 

「これは小谷少佐殿。お久しぶりです」

 

越智が隙のない敬礼をすると、小谷は周囲を気にしながら片手を上げてそれを制した。その顔には、かつての秀才特有の鼻持ちならない余裕はなく、どこか隠しきれない疲労の色がこびりついている。

 

「相変わらずだな。……極寒の地での査察、ご苦労だった。だが、あちらの寒さなど、今の『南』の状況に比べればどうということもあるまい」

 

小谷ははっきりとした事こそ口にしなかったが、その重苦しい口ぶりは、南太平洋やビルマでの戦局を暗に匂わせていた。

 

「お言葉ですが、少佐殿」

 

越智はわずかに声量を上げて言った。

 

「皇軍の将兵は無敵です。たとえ物資が尽きようとも、最後の一兵まで戦い抜き、撃ちてし止まむの覚悟で臨めば米英がごとき連合軍など、なんら恐るに足らんのであります」

 

途端に、小谷の顔が引き攣った。彼は慌てて越智の腕を掴み、廊下の壁際へ引き寄せた。

 

「おい、馬鹿。声が大きいぞ……」

 

小谷は廊下を行き交う将校たちの視線を鋭く睨み回し、忌々しそうに越智の耳元で吐き捨てた。

 

「……そういう勇ましい話はな、今のこの省内じゃ、流行らないんだよ。妙な眼で見られないよう、おとなしくしておけ。いいな」

 

小谷は足早に逃げるように立ち去っていく。

 

越智は誰にも見えない角度で、僅かに口角を吊り上げた。

 

     *

 

突き当たりにある局長室。

 

重厚な扉の奥で、越智は直立不動の姿勢をとり、関東軍から持ち帰った「言い訳程度の報告書」の束を机の上に置いた。

 

「陸軍大尉、越智広重。ただいま満洲より帰還いたしました。ハルピン特務機関管下における備蓄査察の報告書、提出いたします」

 

「……うむ。ご苦労だった」

 

机の奥から返ってきたのは、かつてこの部屋に響き渡っていた豪快でハリのある声ではなかった。

 

佐藤賢了軍務局長は、椅子の背もたれに深く体重を預けている。

 

佐藤は越智が持ち帰った報告書の束に手を伸ばすこともなく、吸い殻の山に何度も灰を落としながら、煙草の煙を吐き出した。

 

「関東軍の連中は、相変わらずか」

 

「はっ。数字の綻びこそいくつか修正させましたが、彼らの態勢は盤石であります」

 

佐藤は大きなため息をついて、低く口を開く。

 

「そうか……。まあ良い、ご苦労だった。……これからの『仕事』については、仁科から話を聞け。以上だ」

 

「はっ。失礼いたします」

 

越智は完璧な敬礼を残し、早々に局長室を退出した。

 

     *

 

別の執務室。

 

「座ってくれ、大尉」

 

仁科中佐は、半年前と同じように窓の外を見つめながら重い口を開いた。

 

だが、その背中からは、かつてのような冷徹な余裕は完全に消え失せていた。

 

「満洲での労はねぎらいたいところだが、悠長なことを言っていられる状況ではなくなってな」

 

仁科が振り返り、越智の正面に座った。

 

その胸元では、金色の「参謀飾緒(さんぼうしょくじょ)」が、鈍い光を放っている。

 

「大陸……支那戦線は現在、我々が押し込んでおり極めて好調だ。だが……南は芳しくない。ビルマやニューギニアの苦戦は耳にしているだろう。それに、パラオ方面の惨状は……およそ正視に堪えん状況になりつつある」

 

仁科はどこか奥歯に物の挟まったような言い方で戦況を口にした後、重苦しい溜息を吐いた。

 

「だが……今、我々にとって真に問題なのは、前線の敵ではない。この帝都の『内側』だ」

 

「内側、ですか」

 

「そうだ。現在、帝都の内部で、大臣を引きずり下ろそうとする不穏な動きが活発化している。いつもの連中もさることながら……厄介なことに、陸軍内部の反主流派までもが結託しつつある」

 

仁科は声を極限まで潜め、テーブルに身を乗り出した。

 

「奴らは、先のソ連暗号の件や、憲兵隊が上げたスパイ事件などを都合よく利用し、『軍中枢に赤(共産主義者)が入り込んでいる』『このまま東條内閣に戦争を任せれば国が滅ぶ』と、暗に我々を攻撃してきているのだ。……全く、ふざけた話だ」

 

仁科の顔が、怒りと焦りで歪んだ。

 

「貴官の次の任務だ、越智大尉。……反東條派の動きを徹底的に洗い出せ」

 

仁科は自分の机から何冊かの厚い綴りを持ち、越智の目の前のテーブルにドサッと置いた。

 

「……倒閣派の、監視と工作ですか」

 

「そうだ。倒閣を企む重臣、皇道派の残党、そして海軍の一部……。奴らがどこで誰と密会し、どのような絵図を描いているかを探り出し、その芽を摘む。必要とあらば『泥』を塗ってでも、奴らの動きを封じる手段を見つけ出せ」

 

「……」

 

越智は無言のまま、仁科の胸元で揺れる参謀飾緒をじっと見つめていた。

 

「諜報の専門家である貴官の腕を、今こそ存分に振るってもらいたい」

 

「……承知いたしました」

 

越智の目は、微かに細められていた。

 

     *

 

神田界隈の、表通りから一本裏に入った古びた蕎麦屋。

 

どんぶりからは、相変わらず醤油と泥を混ぜたような、帝都の悲哀を凝縮した匂いが立ち上っている。だが、半年前とは違い、どんぶりの横に無造作に置かれた新聞には、白々しい「転進」の文字が虚しく踊っていた。

 

「……大尉殿。いかがでしたか」

 

向かいの席で、尾形少尉が声を潜めて尋ねた。

 

越智は湯気の立つかけ蕎麦の汁を、匙で掬うように箸で弄りながら、深く溜息をついた。

 

「いやはや。局長殿も仁科中佐殿も、随分と参っておられるご様子だったよ。我々が重い防寒着を着込んでまで持ち帰った関東軍の備蓄帳簿など、もはや一片の興味もないようだった」

 

「……やはり、南の戦局悪化の影響ですか」

 

尾形の問いに、越智は懐から歪んだ煙草を取り出し、口にくわえた。

 

「それもある……だが、あの金ぴかの飾緒を下げた方々の最大の関心事は、今や外の敵じゃない。足元の『倒閣派』の動きだ」

 

チリ、と燐寸を擦る音が鳴り、越智は細く紫煙を吐き出した。

 

「例のソ連暗号の一件以来、アカの犬が軍の中央にも蔓延っていると、上はすっかり疑心暗鬼に陥っている。昨日まで勇ましい主戦論をぶち上げていた選良(エリート)が、裏では平然とソ連と繋がっていたというんだからね。……無理もない」

 

越智は自嘲気味に笑い、どんぶりの横の湯呑みを手に取った。

 

「おかげで省内は、誰も彼もが薄気味悪いほど目立つことを避けている。スパイ狩りをすればするほど互いに疑心暗鬼になる悪循環で、結果として大臣閣下を引きずり下ろそうとする倒閣派に勢いをつけてしまっている有様だ」

 

「では、我々が呼ばれたのは……」

 

「そういうことだ。少しでも倒閣派の粗を探し出し、泥を塗ってでも奴らの勢いを削げ、とね」

 

越智は付けたばかりの煙草を灰皿に押し付け、軍衣の上から胃のあたりをさすった。

 

「今回もあまり気は進まんが、そうも言っていられない。任務だからね……。まったく、胃の痛い話だよ」

 

越智は小さくため息をつき、一口も手をつけていない泥水のような蕎麦を見つめた。

 

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