嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第44話 泥舟の上の茶番

1944年六月下旬

帝都・東京 神楽坂

 

じっとりと肌にまとわりつく梅雨の湿気が、古びた貸席の畳の匂いを嫌な具合に引き立たせていた。

 

神楽坂の裏路地にある、うらぶれた待合茶屋の一室。軍務局から「特務用の前線基地」としてあてがわれたこの部屋で、越智広重は机の上に広げられた書類の山を前に、虫眼鏡を片手にひたすらため息をつき続けていた。

 

「……駄目だ。やり直しだよ、尾形少尉。この借用書の偽造だがね、インクの乾き具合が不自然だ。三ヶ月前のものにしては新しすぎる。西日に当てて少し退色させるか、香炉の灰でもまぶして時代をつけたまえ」

 

越智が書類を放り投げると、向かいに座る尾形少尉は無言でそれを受け取った。

 

「それから、対象が密会に使っているという赤坂の料亭の女将の素行調査だが……念のため、彼女の遠縁にあたる親戚の借金関係ももう一度洗っておこう。少しでも綻びがあれば、相手の弁護士に突かれるからね」

 

尾形は手元の野帳に万年筆を走らせながら、静かに顔を上げた。

 

「……承知いたしました。しかし、大尉殿。対象の愛人の親族の、さらに遠縁の借金まで洗うとなると、また一週間は優に掛かります。工作の準備自体は、既に十二分に整っております。特高や憲兵隊に情報を流せば、検挙できる精度かと……」

 

越智は虫眼鏡を机に置き、懐から胃薬を取り出して、薄いお茶で流し込んだ。

 

「尾形少尉。我々が扱うのは、その辺のケチな詐欺師じゃない。政界と軍部の怪物たちだ。一度でも仕掛ければ、二度目はない。失敗は許されないんだ……だからこそ、石橋を叩いて、さらに叩き割るくらいの『慎重な準備』が必要なんだよ」

 

越智は言葉とは裏腹に、全く緊張感のないあくびを一つ噛み殺した。

 

「……」

 

尾形は小さく頷いたものの、その視線は越智の真意を探るように静かに注がれていた。

 

越智は歪んだ煙草に火をつけ、紫煙を天井の染みへ向かって細く吐き出した。

 

「……古巣の人間と、少し話す機会があってね」

 

ぽつりと、独り言のように越智が呟いた。

 

尾形のペン先がピタリと止まる。

 

「第二部(参謀本部情報部門)の、昔馴染みだ。……彼らが傍受したマリアナ方面における米軍の異常な通信トラフィックと、最近の海軍軍令部周辺の隠し切れない動揺……それらを繋ぎ合わせれば、答えは自ずと出る」

 

越智は灰皿を引き寄せ、トントンと灰を落とす。

 

「新聞では『あ号作戦』で我が方の機動部隊が敵を痛撃したと騒いでいるがね。……実態は逆だ。海軍は取り返しのつかない打撃を受けた。マリアナの制空権も制海権も、完全に奪われたと見るべきだ」

 

「……!」

 

尾形の目が僅かに見開かれた。

 

「救援の望みが絶たれ、制海空権がない以上、孤立したサイパンの守備隊はどんなに頑張っても、そう長くは持たない……残念ながらね。……サイパンが落ちればどうなるか、君にもわかるだろう」

 

越智は感情のない、平坦な声で事実だけを並べた。

 

「……帝都が直接、敵の新型爆撃機の航続圏内に入ります」

 

「そうだ。先日の八幡空襲のような散発的なものじゃない。マリアナに巨大な基地が構築されれば、帝都の空は敵機の庭になる」

 

越智は窓の外、灰色の梅雨空に目を向けた。

 

「『絶対国防圏』と豪語していた防波堤が崩れ去るんだ。そうなれば、いかに閣下でも、その政治的責任は誤魔化しきれない。倒閣派が自ら手を下すまでもなく、内閣は遅からず自壊する」

 

そこまで一気に語ると、越智は煙草を揉み消し、胃のあたりをさすりながら尾形を見た。

 

「……わかるかい、尾形少尉。そんな沈みかけの泥舟の上で、今、我々が必死になって倒閣派に泥を塗り、彼らを牢屋にぶち込んだらどうなると思う?」

 

「……遠からず、その倒閣派が政権を握り、我々が……粛清の対象になる、ですね」

 

尾形の声は低く、そして微かに震えていた。

 

「そういうことだ。だから我々は、局長殿からどれだけ急かされようとも、ひたすら『対象の警戒が厳しく、工作の準備に万全を期している』と報告し続ける。……変わり身の速さは、この世界で長生きする秘訣だよ」

 

越智はふうと息を吐き、再び書類の山に視線を落とした。

 

「さて、この領収書の偽造だが……やはり筆跡が少し綺麗すぎるな。君、左手でもう一度書き直してくれないか」

 

尾形はしばらくの間、黙って越智を見つめていたが、やがて小さく息を吸い込み、姿勢を正した。

 

「……はっ。左手で、少し崩して書き直します。退色具合の調整も、並行して行います」

 

「頼むよ。まったく……毎日毎日、こんなおままごとのような細工ばかりで、胃が痛んで仕方ないよ」

 

湿り気を帯びた古びた部屋の中、再び万年筆のカリカリという音だけが響き始めた。

 

外では、帝都の泥を流すような冷たい雨が、静かに降り続いていた。

 

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