嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年七月一四日 帝都・東京
日比谷・第一生命館(東部軍管区司令部)五階
開け放たれた窓から、茹だるような熱気と、日比谷公園の木々で鳴きしきる油蝉の声が容赦なく執務室へと流れ込んできている。
天井で首を振る扇風機は生ぬるい空気をかき混ぜるだけで、将校たちの軍服に染み付いた汗の不快感を拭い去ることはできない。
参謀本部第二課の執務室には、乾いた和文タイプライターの音と、重苦しく、それでいてどこか浮き足立った空気が漂っていた。
「……マリアナからの無電、ついに途絶えたそうですな。大本営も近日中に発表する腹だとか。例の、玉砕を」
向かいの席で、木田大尉が手ぬぐいで首筋の汗を拭いながら、声を落として言った。
机の上には、ハワイの敵放送の傍受記録や、内務省から回ってきた都内の不穏言動に関する週報の束が積まれている。
「……これでいよいよ帝都も、例の『新型』の圏内か。一課(作戦)や防空の連中が血相を変えて走り回るわけだ」
長谷川少佐は忌々しそうに顔をしかめ、手元の渋扇(しぶせん)をパタパタと忙しなく動かした。
「内務省も尻に火がついている。例の学童疎開、いよいよ本格的にガキ共を田舎へ追い出すそうだぞ」
「ついに疎開、ですか……」
木田が顔を曇らせると、長谷川はさらに声を潜め、周囲をチラリと見回してから身を乗り出した。
「おい、ここだけの話だがな。三宅坂(参謀本部)も永田町も、今それどころじゃないらしいぞ」
長谷川は神妙な顔で低く続ける。
「いよいよ、東條閣下も危ない。反主流派がここぞとばかりに騒ぎ立ててな。なんとか国務相あたりを抱き込んで、首の皮一枚繋ごうとしているようだが……まさに泥船だよ」
木田が周囲を気にしながら、驚いたように目を見開いた。
「まさか、この非常時に首相が……?」
「サイパンが陥落したんだ、誰かが腹を切らねば収まらん。……問題は『次』だ」
長谷川は渋扇でポンポンと自らの肩を叩いた。
「朝鮮(小磯)か、南方(寺内)か。海軍の米内閣下を引っ張り出すなんて噂まである」
「米内閣下ですか……。しかし、それではあまりにも……」
「変わるな。……あれも」
長谷川はそう言って、深く息を吐いた。
辻村は自席で、憲兵隊から上がってきた思想犯の監視報告書に無表情で目を通しながら、誰にも気づかれぬよう微かに口角を上げた。
――その時だった。
「第二課長殿、お入りになります!」
入り口の当番兵の声とともに、第二課長である佐々木大佐が、険しい表情で執務室に入ってきた。
室内の将校たちが一斉に起立し、姿勢を正す。
佐々木大佐は無言で答礼すると、まっすぐに辻村たちの班へ向かって歩み寄ってきた。
「長谷川少佐。先週の治安情勢の報告書はできているか」
「は、はっ。ただいま推敲を……」
佐々木大佐は長谷川を一瞥した後、その後ろに直立不動で立つ辻村に視線を流す。
「辻村中尉」
「はっ」
「図嚢を持て。私と来い」
佐々木大佐は周囲に聞こえないよう声を潜め、短く告げた。
「はっ」
辻村は一切の表情を崩さず、静かに図嚢を手に取った。
茹だるような熱気と蝉時雨の中、辻村は硬質な軍靴の音を響かせ、第二課長の後を追って執務室を後にした。
大理石の廊下には、外の酷暑が嘘のようにひんやりとした静寂が漂っていた。
分厚い絨毯が軍靴の音を吸い込む中、辻村は前を歩く佐々木大佐の背中を見つめながら歩を進める。
やがて、奥まった場所にある重厚なマホガニーの扉の前に着いた。完全武装の憲兵が二名、石像のように立哨している。
前室のデスクに座る若い副官が佐々木大佐を見とめると、無言で立ち上がり、恭しく頭を下げて扉を開けた。
「失礼いたします。第二課長・佐々木、ならびに辻村中尉、出頭いたしました」
東部軍参謀長室。
広大な室内には、葉巻の煙と冷ややかな権力の匂いが満ちていた。
革張りのソファには、東部軍参謀長・辰巳栄一中将が深く腰を掛けている。
そしてテーブルを囲むように、四名の将校が起立して待機していた。
辰巳の懐刀である高級参謀の九条少佐。
第一課(作戦・警備担当)の真木少佐。
東部憲兵隊の須藤大尉。
そして通信班の小笠原中尉である。
四人は佐々木大佐を見とめると鋭く敬礼した。
佐々木も直立不動で敬礼し、辻村もその後方で寸分違わぬ角度で揃える。
辰巳は手元の葉巻を灰皿に置き、ゆっくりと顔を上げた。
「……国務相が辞表の提出を強硬に拒絶した。東條内閣は、数日内に瓦解する」
低い、だがよく響く声が室内に落ちた。
九条少佐が、手元の資料に目を落としたまま重々しく引き取る。
「中央が、ぽっかり空きますな。本来であれば、血判状を回して都市封鎖も辞さぬ流れもあり得ますが……今のところ、組織的な動きは見られません」
辰巳は小さく頷き、佐々木大佐へ視線を向けた。
「佐々木。貴官ら第二課の『防諜』が、実によく効いているからだ。主戦派の内部は今、疑心暗鬼で自壊しつつある」
「はっ。情報の錯綜により、奴らは互いの背後を探り合うのに必死であります」
佐々木大佐が事務的に答える。
「窮鼠は猫を噛むという話だからな……二二六の教訓を活かさねばならん」
辰巳はゆっくりと立ち上がり、佐官たちを冷徹に見据えた。
「いかなる政変が起きようと、この帝都で軍が割れて市街戦を演じるような真似は断じて許されん」
一拍。
「各部署は完全に連携しろ。中央の不穏分子の動向を徹底的に掌握し、万が一の際には即座に封じ込める態勢を整えよ。九条、貴官が中心となって動け」
「はっ」
「真木。近衛や第一師団のハネ上がりが兵を動かす兆候を見せたら、即座に管区内の鎮圧部隊を展開できるよう準備せよ。圧倒的な兵力差で、一歩も外へ出すな」
「はっ。近隣の歩兵連隊には、すでに『防空体制の強化』名目で出動待機を命じております」
辰巳は最後に、佐々木大佐へ目を向けた。
「佐々木。第二課は引き続き『疑念の火』を煽れ。同時に、情報の網を極限まで張り巡らせろ。実務は辻村にやらせる。動向を、瞬き一つ見逃すな」
「承知いたしました。他部署との摩擦は私が調整いたします。辻村中尉は九条少佐の指揮下で、存分に動かせます」
「新内閣が発足し、人事が一掃されるまで、我々は決して隙を見せるな。……頼んだぞ」
「はっ!」
一糸乱れぬ敬礼が交わされ、密室での謀議は終わった。
分厚い扉が、背後で静かに閉まる。
――廊下。
佐々木大佐は「あとは九条少佐たちと綿密にすり合わせろ」と短く言い残し、足早に立ち去った。
残された辻村の前に、九条少佐、真木少佐、須藤大尉、小笠原中尉の四人が向き直る。
「さて、辻村中尉、小笠原中尉」
九条少佐が軍帽を被り直し、鋭い視線を向けた。
「我々が絵を描き、真木少佐が押さえ、須藤大尉が引っ張る……だが、万が一の際、誰を真っ先に押さえるか。その『的』を洗い出すのは貴官らの仕事だ」
須藤は辻村の顔を一瞥し、わずかに口元を緩める。
「ええ。我々も無駄な大立ち回りは御免ですからね。的確なリストさえあれば、特高とも連携してまとめて引っ張ります」
「承知いたしました、少佐殿、大尉殿」
辻村は直立不動のまま、静かに首肯した。
「明日の昼までに、押さえるべき連中を絞り込みます。小笠原中尉の線と突き合わせ、動いている者はすべて拾います」
「そして真木少佐殿には、最も効果的なタイミングでの部隊配置案を具申いたします」
「頼むぞ。……帝都を焼かせるわけにはいかんからな」
九条少佐の低い声を合図に、四人はそれぞれの持ち場へと散っていった。
辻村は静かに息を吐き、図嚢の紐をゆっくりと握り直した。