嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

46 / 46
第46話 蝉時雨の止む頃に

1944年七月下旬

帝都・東京 神楽坂の小料理屋

 

けたたましい蝉時雨もようやく鳴き止んだ、ひどく蒸し暑い熱帯夜。

暖簾の奥の小さな座敷では、首を振る扇風機がけだるい羽音を立てている。

 

「……このまとわりつくような湿気。昭南島のうらぶれた酒場を思い出すよ。あそこは空気こそ泥のように重かったが、驚くほどまともなジンを出す親父がいてね」

 

越智広重は歪んだ煙草を灰皿に押し当てながら、向かいに座る辻村へふっと皮肉げな笑みを向けた。

 

手元には、ほとんど減っていない徳利と、飲みかけの胃薬の包みが置かれている。

 

「まさか君が東部軍に出向していたとはね。……で、どうだい、東部軍の皆々様は。連日の『帝都の治安維持』という、実に骨の折れるお遊戯でさぞお疲れのことだろうね」

 

「はい。中央が大きく揺れ動いておりますから。帝都の防空と治安を預かる身としては、気が抜けません。我々第二課も、連日不穏分子の洗い出しに追われておりますよ」

 

辻村は表情一つ崩さず、手元の猪口を静かに口へ運んだ。

 

「それにしても……」

 

越智は新しい煙草を口にくわえ、チリ、と燐寸を擦った。火の向こうで、その目が面白がるように細められる。

 

「いやはや、なにか狐につままれたというか、手品を見せられた気分だよ。サイパン陥落の発表と同日に、東條閣下が舞台を下りる……ここまでは予想もつくがね、舟の沈み方だ。まさか、米内閣下の『単独内閣』が誕生するとはね」

 

「マリアナ失陥の直接的な責任は、あ号作戦で大敗を喫した海軍にあります。ならば、海軍の長老たる米内大将が全責任を負い、事の収拾に向けた泥を被るべき……。軍務局の皆様も、今はその理屈に縋って責任逃れをするのに必死なのでは?」

 

越智は愉快そうに小さく肩を揺らして笑った。

 

「そうかもしれないね。去年まで打ちてしやまぬと青筋を立てていた軍務局の選良様方が、まるで借りてきた猫のように大人しくなった。『マリアナで負けたのは海軍の責任だ』と、嬉々として責任転嫁しながらね……おまけに新内閣は、血気盛んな若手の口を完全に塞ぐため、東久邇宮殿下を陸相に担ぎ出すという念の入れようだ」

 

越智は紫煙を細く吐き出し、まるで芸術品を鑑賞するように天井を見上げた。

 

「皇族の御盾があれば、三宅坂や軍務局のハネ上がりも指一本動かせない。……実に見上げたものだよ」

 

越智は黙って銚子を手に取ると、辻村の空いた猪口にゆっくりと酒を注いだ。

 

そして、その手を止めず、暗い瞳で辻村をじっと見据えた。

 

「それにしても、辻村中尉……君もなかなかの役者だな」

 

越智は銚子をことりと膳に置き、紫煙の向こうから辻村を射抜くような視線を向けた。

 

「私が旧主流派の犬だと知って接触してきたのだろう?」

 

辻村は注がれた猪口の縁を指でなぞり、少しも動じることなく静かに答えた。

 

「……犬、などと。私はただ、第二部時代の先輩と久々に一献傾けたかっただけですが」

 

「その、私と同類の白々しさは嫌いじゃないよ。……だが、君が単なる昔話で満足するはずがないと思ってね」

 

越智は面白そうに鼻で笑い、軍衣の上から胃のあたりをゆっくりとさすった。

 

「非主流派が描いた絵図……その裏側で、我々旧主流派がどれほど滑稽に踊らされていたか、この哀れな負け犬の口から直接聞きたかったんじゃないのかね? ……だが、残念ながら私は非主流派の粗を探していたんだ。君の満足できる話はできそうにない」

 

辻村は猪口を静かに煽り、空になった器を膳に置いた。

 

「……それは残念です。ですが大尉殿、粗を探すべきその『非主流派』が、今や国の舵取りを任されることになりました」

 

辻村の冷ややかな目が、越智をまっすぐに見据える。

 

「探しておられたその『粗』は、どうなされるおつもりで?」

 

越智は少しだけ目を見開き、やがて自嘲気味に、だがどこか楽しげに息を吐き出した。

 

「粗をどうするもこうするも……私たちにとっては最後の切り札だよ」

 

越智は新しい煙草に火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

 

「私はね、旧主流派として、真っ先に粛正対象になりかねない立場なんだよ。局長や中佐殿の命令で、裏の泥仕事を散々やらされてきたからね」

 

越智は自嘲するように肩をすくめる。

 

「我々のような実務者は、上が変わればトカゲの尻尾だ。紙切れ一枚で、これから始まるであろうフィリピンの戦場に行き『中隊を率いて敵の飛行場を破壊して来い』と言われたら、それまでなんだ。……まぁ、最後は名誉の戦死……それも悪くはないがね」

 

「……」

 

「しかし、私はまだあんな南の島で、無意味に野垂れ死ぬつもりはないんだ……君だってそうだろ?」

 

越智は灰皿を引き寄せ、トントンと灰を落とす。

 

「私がここ一年、南方、満州、帝都で血眼になって集めた非主流派の『粗』……そして、身内である旧主流派のハネ上がり共の『急所』。これらはすべて、私の頭の中と、絶対に誰も見つけられない場所にしまってある」

 

越智は前のめりになり、声を極限まで落とした。

 

「まぁ、そんなものは犬にでも食わせろと言われたらそれまでなんだが……興味がある人間にとっては価値あるものだと思ってね……」

 

辻村は無言のまま、越智をじっと見つめていた。

 

蝉時雨が止んだ夜の静寂の中、扇風機の首が回る音だけが規則正しく響く。

 

「相変わらず掌を返すのが早いですね」

 

「おいおい、私たちは同類じゃないか」

 

越智は愉快そうに笑い、歪んだ煙草の紫煙を扇風機の生ぬるい風に乗せた。

 

そして、すべてを見透かしたような、皮肉と感嘆の入り混じった目で辻村をじっと見つめ返した。

 

「……というより、君は端から私にそれを期待しているんじゃないのかい?」

 

辻村は無表情のまま、膳の上の空の猪口を見つめている。

 

越智は軍衣の上から胃のあたりをさすりながら、低く笑い声を漏らした。

 

「泥船と一緒に沈むつもりはない、私が必ず生存のための取引を持ちかけてくる……そう読んだからこそ、今更こんな負け犬にわざわざ接触してきたんだろ?」

 

蝉時雨の止んだ座敷に、扇風機の首が回る音だけが単調に響く。

 

数秒の沈黙の後、辻村は空の猪口を静かに置き、初めて微かに口角を吊り上げた。

 

「……さすがは、先輩です。私の浅知恵など、すべてお見通しというわけですか」

 

「よしてくれ。踊らされているのは、結局のところ私の方だ」

 

越智は五圓を置いてよっこらしょと立ち上がり、軍衣の皺を軽く払った。

 

「まぁ、今夜はここまでにしておこう。悪いが、この後少し用事があってね。……先に失礼させてもらうよ」

 

越智は帽子を手に取り、見下ろす辻村へ向けて軽く顎をしゃくった。

 

「急ぐ必要はないよ。船が完全に沈むまで、もう少しだけ時間はある……私は軍務局の不満顔の若手たちと、まずい酒でも飲んでいるよ」

 

辻村は立ち上がり一礼した。

 

「……お気をつけて。夜道は暗いですから」

 

「ああ。せいぜい気をつけるとするよ」

 

越智は薄く笑い、暖簾をくぐって店を出て行った。

 

残された座敷には、扇風機のけだるい音と、越智が残していった歪んだ煙草の吸い殻だけが、むせ返るような湿気の中に取り残されていた。

 

辻村は静かに息を吐き、自らの猪口に残っていた酒を、ゆっくりと飲み干した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~(作者:サウス)(オリジナル歴史/戦記)

バブル崩壊で実家の会社が倒産し、氷河期のブラック企業で「経理・総務」として血を吐くような労働の末に過労死した男。▼彼が目を覚ましたのは、1650年代のアイヌモシㇼ(北海道)——小さなコタン(村)の跡継ぎとしてだった。▼歴史知識を持つ彼は絶望する。あと十数年で「シャクシャインの戦い」が起き、アイヌは松前藩の圧倒的な武力と騙し討ちの前に敗北。その後は「場所請負制…


総合評価:740/評価:8.81/連載:46話/更新日時:2026年06月01日(月) 16:45 小説情報

ベルリク戦記 ー 戦争の生涯 ー (作者:さっと/sat_Buttoimars)(オリジナルファンタジー/戦記)

 ベルリクは好んで譲らず先頭に立って突撃する指揮官の鑑。知恵と勇気に優れる。▼ 戦争の狂気に浸っては平和を好まず、日頃から総力戦体制の構築に勤しんで先制攻撃を尊ぶ。▼ 身一つから成り上がっては世界を股にかけて歴戦の仮借なき軍勢を送り込み、やがては史上最大の殺戮破壊者へ至るだろう。▼ この世界に国際条約は存在せず、大義や国益があっても正義や悪に容赦や人権は無い…


総合評価:444/評価:8.6/連載:232話/更新日時:2026年06月01日(月) 18:15 小説情報

カヤちゃんが征く!(作者:無名のカヤ推し)(原作:ブルーアーカイブ)

▼ 連邦生徒会長の光に脳を焼かれ、その後自分の目指すものを見つけた不知火カヤが、FOX小隊やRABBIT小隊と共にシャーレに所属して先生とキヴォトスのことを解決していくお話。▼


総合評価:3881/評価:8.55/連載:53話/更新日時:2026年04月21日(火) 21:04 小説情報

TS銀髪ロリでフロアボスらしいけど自由に生きたっていいよな?【完結】(作者:畑渚)(オリジナル現代/冒険・バトル)

現代ダンジョン×TS美少女×機甲=自由奔放!▼なろうとカクヨムにも投稿中


総合評価:546/評価:6.59/完結:48話/更新日時:2026年05月14日(木) 21:54 小説情報

KSS警備学園奮闘記~うちの学校が廃校になりそうなので、先に独立することにしました~(作者:卵パサパサ感)(原作:ブルーアーカイブ)

 連邦生徒会長の失踪により責任者を失い、事実上機能を停止したSRT特殊学園。そんな状況を憂い、一人の生徒が行動に出る。▼ 樋渡カナメ―――SRTの空挺専門部隊「OWL小隊」を率いる、前世の記憶を持つ少女。彼女は小隊員と有志を率いてSRTを離反し、新たな学園を創設した。▼ その名は「KSS警備学園」。SRTの技術と理念を受け継いだ、民間軍事会社としての性質を持…


総合評価:2096/評価:8.68/連載:45話/更新日時:2026年06月01日(月) 19:27 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>