嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年七月下旬
帝都・東京 神楽坂の小料理屋
けたたましい蝉時雨もようやく鳴き止んだ、ひどく蒸し暑い熱帯夜。
暖簾の奥の小さな座敷では、首を振る扇風機がけだるい羽音を立てている。
「……このまとわりつくような湿気。昭南島のうらぶれた酒場を思い出すよ。あそこは空気こそ泥のように重かったが、驚くほどまともなジンを出す親父がいてね」
越智広重は歪んだ煙草を灰皿に押し当てながら、向かいに座る辻村へふっと皮肉げな笑みを向けた。
手元には、ほとんど減っていない徳利と、飲みかけの胃薬の包みが置かれている。
「まさか君が東部軍に出向していたとはね。……で、どうだい、東部軍の皆々様は。連日の『帝都の治安維持』という、実に骨の折れるお遊戯でさぞお疲れのことだろうね」
「はい。中央が大きく揺れ動いておりますから。帝都の防空と治安を預かる身としては、気が抜けません。我々第二課も、連日不穏分子の洗い出しに追われておりますよ」
辻村は表情一つ崩さず、手元の猪口を静かに口へ運んだ。
「それにしても……」
越智は新しい煙草を口にくわえ、チリ、と燐寸を擦った。火の向こうで、その目が面白がるように細められる。
「いやはや、なにか狐につままれたというか、手品を見せられた気分だよ。サイパン陥落の発表と同日に、東條閣下が舞台を下りる……ここまでは予想もつくがね、舟の沈み方だ。まさか、米内閣下の『単独内閣』が誕生するとはね」
「マリアナ失陥の直接的な責任は、あ号作戦で大敗を喫した海軍にあります。ならば、海軍の長老たる米内大将が全責任を負い、事の収拾に向けた泥を被るべき……。軍務局の皆様も、今はその理屈に縋って責任逃れをするのに必死なのでは?」
越智は愉快そうに小さく肩を揺らして笑った。
「そうかもしれないね。去年まで打ちてしやまぬと青筋を立てていた軍務局の選良様方が、まるで借りてきた猫のように大人しくなった。『マリアナで負けたのは海軍の責任だ』と、嬉々として責任転嫁しながらね……おまけに新内閣は、血気盛んな若手の口を完全に塞ぐため、東久邇宮殿下を陸相に担ぎ出すという念の入れようだ」
越智は紫煙を細く吐き出し、まるで芸術品を鑑賞するように天井を見上げた。
「皇族の御盾があれば、三宅坂や軍務局のハネ上がりも指一本動かせない。……実に見上げたものだよ」
越智は黙って銚子を手に取ると、辻村の空いた猪口にゆっくりと酒を注いだ。
そして、その手を止めず、暗い瞳で辻村をじっと見据えた。
「それにしても、辻村中尉……君もなかなかの役者だな」
越智は銚子をことりと膳に置き、紫煙の向こうから辻村を射抜くような視線を向けた。
「私が旧主流派の犬だと知って接触してきたのだろう?」
辻村は注がれた猪口の縁を指でなぞり、少しも動じることなく静かに答えた。
「……犬、などと。私はただ、第二部時代の先輩と久々に一献傾けたかっただけですが」
「その、私と同類の白々しさは嫌いじゃないよ。……だが、君が単なる昔話で満足するはずがないと思ってね」
越智は面白そうに鼻で笑い、軍衣の上から胃のあたりをゆっくりとさすった。
「非主流派が描いた絵図……その裏側で、我々旧主流派がどれほど滑稽に踊らされていたか、この哀れな負け犬の口から直接聞きたかったんじゃないのかね? ……だが、残念ながら私は非主流派の粗を探していたんだ。君の満足できる話はできそうにない」
辻村は猪口を静かに煽り、空になった器を膳に置いた。
「……それは残念です。ですが大尉殿、粗を探すべきその『非主流派』が、今や国の舵取りを任されることになりました」
辻村の冷ややかな目が、越智をまっすぐに見据える。
「探しておられたその『粗』は、どうなされるおつもりで?」
越智は少しだけ目を見開き、やがて自嘲気味に、だがどこか楽しげに息を吐き出した。
「粗をどうするもこうするも……私たちにとっては最後の切り札だよ」
越智は新しい煙草に火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「私はね、旧主流派として、真っ先に粛正対象になりかねない立場なんだよ。局長や中佐殿の命令で、裏の泥仕事を散々やらされてきたからね」
越智は自嘲するように肩をすくめる。
「我々のような実務者は、上が変わればトカゲの尻尾だ。紙切れ一枚で、これから始まるであろうフィリピンの戦場に行き『中隊を率いて敵の飛行場を破壊して来い』と言われたら、それまでなんだ。……まぁ、最後は名誉の戦死……それも悪くはないがね」
「……」
「しかし、私はまだあんな南の島で、無意味に野垂れ死ぬつもりはないんだ……君だってそうだろ?」
越智は灰皿を引き寄せ、トントンと灰を落とす。
「私がここ一年、南方、満州、帝都で血眼になって集めた非主流派の『粗』……そして、身内である旧主流派のハネ上がり共の『急所』。これらはすべて、私の頭の中と、絶対に誰も見つけられない場所にしまってある」
越智は前のめりになり、声を極限まで落とした。
「まぁ、そんなものは犬にでも食わせろと言われたらそれまでなんだが……興味がある人間にとっては価値あるものだと思ってね……」
辻村は無言のまま、越智をじっと見つめていた。
蝉時雨が止んだ夜の静寂の中、扇風機の首が回る音だけが規則正しく響く。
「相変わらず掌を返すのが早いですね」
「おいおい、私たちは同類じゃないか」
越智は愉快そうに笑い、歪んだ煙草の紫煙を扇風機の生ぬるい風に乗せた。
そして、すべてを見透かしたような、皮肉と感嘆の入り混じった目で辻村をじっと見つめ返した。
「……というより、君は端から私にそれを期待しているんじゃないのかい?」
辻村は無表情のまま、膳の上の空の猪口を見つめている。
越智は軍衣の上から胃のあたりをさすりながら、低く笑い声を漏らした。
「泥船と一緒に沈むつもりはない、私が必ず生存のための取引を持ちかけてくる……そう読んだからこそ、今更こんな負け犬にわざわざ接触してきたんだろ?」
蝉時雨の止んだ座敷に、扇風機の首が回る音だけが単調に響く。
数秒の沈黙の後、辻村は空の猪口を静かに置き、初めて微かに口角を吊り上げた。
「……さすがは、先輩です。私の浅知恵など、すべてお見通しというわけですか」
「よしてくれ。踊らされているのは、結局のところ私の方だ」
越智は五圓を置いてよっこらしょと立ち上がり、軍衣の皺を軽く払った。
「まぁ、今夜はここまでにしておこう。悪いが、この後少し用事があってね。……先に失礼させてもらうよ」
越智は帽子を手に取り、見下ろす辻村へ向けて軽く顎をしゃくった。
「急ぐ必要はないよ。船が完全に沈むまで、もう少しだけ時間はある……私は軍務局の不満顔の若手たちと、まずい酒でも飲んでいるよ」
辻村は立ち上がり一礼した。
「……お気をつけて。夜道は暗いですから」
「ああ。せいぜい気をつけるとするよ」
越智は薄く笑い、暖簾をくぐって店を出て行った。
残された座敷には、扇風機のけだるい音と、越智が残していった歪んだ煙草の吸い殻だけが、むせ返るような湿気の中に取り残されていた。
辻村は静かに息を吐き、自らの猪口に残っていた酒を、ゆっくりと飲み干した。