嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第47話 活字の反転

1944年八月上旬

内務省情報局・検閲分室

 

開け放たれた窓から、じっとりとした熱気が入り込んでくる。

 

カリ、カリ、カリ。

 

静まり返った室内で、原稿用紙を削る赤鉛筆の音が、ふっと止まった。

 

「……よし。これで回せ」

 

突き返されたゲラ刷りを手に取り、大手新聞社のベテラン記者は瞬きをした。

 

何かが見落とされているのではないか。そう思って、もう一度紙面に目を落とす。

 

『サイパン島守備隊、並ビニ在留邦人全員玉砕』

 

『マリアナ沖海戦にて、我が機動部隊は空母三隻を喪失』

 

『ニューギニア・ビルマ方面、補給途絶ニヨリ前線将兵ノ労苦甚大』

 

「……残すんですか、これ」

 

記者は思わず声を落とした。

 

検閲官は書類から目を離さず、汗ばんだ顔で歪んだ煙草に火をつけた。

 

「……新内閣の方針だ」

 

「方針って……空母三隻ですよ? それに、南方の補給途絶なんて書いたら、兵隊が飢えてると言っているようなもんだ。前内閣のツケを暴くにしても、限度がある」

 

検閲官は短くなったマッチの軸を灰皿に捨て、煙を細く吐いた。

 

「そのまま出せ。一文字も直すなと言われている」

 

記者は何も言えなかった。

 

「もう、前の総理の風呂敷を庇ってやる義理はないってことだろ」

 

検閲官は無表情のまま、次の原稿に手を伸ばした。

 

「嘘を隠すために嘘を重ねる方が、状況は悪化すると判断したんだ……言われてみれば、当たり前の事だがな」

 

ヤニと汗の匂いが立ち込める室内で、記者は手元のゲラ刷りを見下ろした。

 

文字の重さが、昨日までとはまるで違っていた。

 

 

翌朝。帝都・浅草界隈。

 

刺すような夏の日差しの中、配給所の列は今日も長く伸びていた。

 

だが、いつもと違っていたのは、その異様な静けさだった。

 

暑さへの愚痴も、世間話もない。

 

皆、手元に配られた朝刊を、穴が開くほど見つめている。

 

「……ひどいね」

 

赤ん坊を背負った女が、新聞を丸めるように握りしめ、隣の老婆に小声で聞いた。

 

「東條さんが辞めたから、サイパンが取られたのは知ってたけどさ……玉砕って……そこに住んでた日本の人たちも、全員死んだってことかい?」

 

「……そう書いてあるねえ」

 

老婆も眉間を深く寄せて、活字を追っている。

 

「それにさ……空母が三隻沈んだって……」

 

女の後ろに並んでいた、汗まみれの国民服の男が口を挟んだ。

 

「この間の大本営発表じゃ、こっちは無傷で、敵の船を沈めまくって追い払ったって言ってただろ。なんだって急に、三隻も沈んだことになってるんだ」

 

「じゃあ、この新聞が間違ってんのかい?」

 

前の老婆が振り返って聞く。

 

「……いや」

 

男は口籠もった。

 

「……やっぱり、そういうことだったんだよ」

 

別の女が、ふと声を潜めた。

 

「町内会で言われてる、子どもの疎開だよ。今月からいよいよ出発だって、急に慌ただしくなったじゃないか」

 

「ええ。空気がいいところで、子どもの体を鍛えるんだって聞きましたわ……」

 

「……そんな呑気な理由なもんかい」

 

女は、新聞の『絶対国防圏破ル』の文字を指差した。

 

「……だから急に、あんな話が出てきたのかしらね」

 

沈黙。

 

「サイパンの方まで来てるなら、こっちも危ないって、この前うちの人が……」

 

「しっ」

 

老婆が鋭く制した。

 

遠くで、油蝉の鳴き声だけが狂ったように響いている。

 

「……南の方、補給が途絶えたって書いてあるわね」

 

誰かが言う。

 

「途絶えたって……弾が届かないのかね」

 

「……飯もだろ。船が沈められて行けなきゃ、あっちの兵隊さん、食うもんがないわな」

 

「うちの息子、ニューギニアなんだけど……」

 

列の前の方で、手ぬぐいを被った女が、かすれた声で言った。

 

「ねえ、無敵の海軍さんが守ってくれてるんじゃなかったのかい……」

 

誰も答えられない。

 

列の端で紙を破く音がした。

 

男が無言で、新聞を捻るようにして踏みつけ、列を離れて立ち去っていく。

 

「……今まで聞いてた話は、何だったんだろうね」

 

重い夏の空気の中で、紙の音だけが、乾いて続いていた。

 

 

同日午後。

東部憲兵隊本部・執務室。

 

分厚いコンクリートの壁に囲まれた部屋でも、今年の異常な熱気は防ぎきれない。

 

「……『民衆が暴動を起こさぬよう、細心の注意を払え』だとさ」

 

東部憲兵隊の須藤大尉が、各署から上がってきた市井の監視報告書の束を机に放り投げ、忌々しそうに吐き捨てた。

 

額に浮いた汗を軍手拭いで乱暴に拭う。

 

「昨日まで必勝を叫ばせておいて、今日になって急にどん底に突き落とす。おかげで街の空気は最悪だ。不敬も流言蜚語もあったもんじゃない。なんでこんな急激に方針転換なんかしたんだ? ……これじゃあ、すぐに留置所が満杯になるぞ」

 

窓際に立ち、ブラインドの隙間から帝都の街を見下ろしていた辻村中尉は、表情を変えずに振り返った。

 

「一般の国民は、武器を持っていません」

 

淡々とした、温度のない声だった。

 

「いくら不満を溜め込もうと、彼らができることなど高が知れています。我々が真に警戒すべきは、実力装置を持つ層……つまり、事実を知って激昂する軍内部のハネ上がりどもです」

 

辻村はブラインドから手を離し、須藤の向かいの椅子に腰を下ろした。

 

「それに、新政府の意図は明確です」

 

「意図だと?」

 

「ええ。このまま耳障りの良い嘘で国民を煽り続ければ、いずれ破綻した時、彼らは『なぜ徹底抗戦しないのか』と政府に牙を剥く。煽れば煽るほど、後へは退けなくなり、引っ込みがつかなくなる」

 

辻村は机の上の報告書に視線を落とした。

 

「だからこそ、今のうちに手酷い『真実』を浴びせ、絶望に慣れさせておくんです。……徹底抗戦の熱を冷まし、いずれ米英と講和の席に着くための『土壌』を、今から作っているのでしょう」

 

須藤は目を細め、胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。

 

深く吸い込み、天井の扇風機に向けて紫煙を吐き出す。

 

「……なるほどな。泥船を軟着陸させるために、まずは乗客に『船が沈みかけている』と教え込んでいるわけだ」

 

「はい。留置所が満杯になろうと、国民の心が折れるのなら、政府にとっては御の字ということです」

 

「ふん……血も涙もねえ話だな」

 

須藤は自嘲気味に鼻を鳴らした。

 

「だが、辻村。お前の言う『実力装置を持つ層』……つまり、俺たちの足元の連中はどうだ。おとなしくその『土壌』とやらを受け入れると思うか?」

 

辻村は答えず、ただ静かに視線を上げた。

 

その冷ややかな目が、すべてを物語っていた。

 

「……だろうな」

 

須藤は短く息を吐き、机の上の拳銃の冷たい銃身を指先でなぞった。

 

「東條派が掃討されて、ただでさえ省内はピリついている。そこにきてこの『敗戦報道』だ。……国体を売る気か、と血走った目で息巻いている連中の名簿が、俺の手元だけでも両手じゃ足りん」

 

須藤は煙草を灰皿に押し付けた。

 

「……どうやら、参謀長殿や九条少佐殿の読み通りになりそうだ」

 

茹だるような帝都の底で、瓦解の足音は、もはや隠しきれないほどの音量を伴って近づきつつあった。

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