嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年八月上旬
内務省情報局・検閲分室
開け放たれた窓から、じっとりとした熱気が入り込んでくる。
カリ、カリ、カリ。
静まり返った室内で、原稿用紙を削る赤鉛筆の音が、ふっと止まった。
「……よし。これで回せ」
突き返されたゲラ刷りを手に取り、大手新聞社のベテラン記者は瞬きをした。
何かが見落とされているのではないか。そう思って、もう一度紙面に目を落とす。
『サイパン島守備隊、並ビニ在留邦人全員玉砕』
『マリアナ沖海戦にて、我が機動部隊は空母三隻を喪失』
『ニューギニア・ビルマ方面、補給途絶ニヨリ前線将兵ノ労苦甚大』
「……残すんですか、これ」
記者は思わず声を落とした。
検閲官は書類から目を離さず、汗ばんだ顔で歪んだ煙草に火をつけた。
「……新内閣の方針だ」
「方針って……空母三隻ですよ? それに、南方の補給途絶なんて書いたら、兵隊が飢えてると言っているようなもんだ。前内閣のツケを暴くにしても、限度がある」
検閲官は短くなったマッチの軸を灰皿に捨て、煙を細く吐いた。
「そのまま出せ。一文字も直すなと言われている」
記者は何も言えなかった。
「もう、前の総理の風呂敷を庇ってやる義理はないってことだろ」
検閲官は無表情のまま、次の原稿に手を伸ばした。
「嘘を隠すために嘘を重ねる方が、状況は悪化すると判断したんだ……言われてみれば、当たり前の事だがな」
ヤニと汗の匂いが立ち込める室内で、記者は手元のゲラ刷りを見下ろした。
文字の重さが、昨日までとはまるで違っていた。
*
翌朝。帝都・浅草界隈。
刺すような夏の日差しの中、配給所の列は今日も長く伸びていた。
だが、いつもと違っていたのは、その異様な静けさだった。
暑さへの愚痴も、世間話もない。
皆、手元に配られた朝刊を、穴が開くほど見つめている。
「……ひどいね」
赤ん坊を背負った女が、新聞を丸めるように握りしめ、隣の老婆に小声で聞いた。
「東條さんが辞めたから、サイパンが取られたのは知ってたけどさ……玉砕って……そこに住んでた日本の人たちも、全員死んだってことかい?」
「……そう書いてあるねえ」
老婆も眉間を深く寄せて、活字を追っている。
「それにさ……空母が三隻沈んだって……」
女の後ろに並んでいた、汗まみれの国民服の男が口を挟んだ。
「この間の大本営発表じゃ、こっちは無傷で、敵の船を沈めまくって追い払ったって言ってただろ。なんだって急に、三隻も沈んだことになってるんだ」
「じゃあ、この新聞が間違ってんのかい?」
前の老婆が振り返って聞く。
「……いや」
男は口籠もった。
「……やっぱり、そういうことだったんだよ」
別の女が、ふと声を潜めた。
「町内会で言われてる、子どもの疎開だよ。今月からいよいよ出発だって、急に慌ただしくなったじゃないか」
「ええ。空気がいいところで、子どもの体を鍛えるんだって聞きましたわ……」
「……そんな呑気な理由なもんかい」
女は、新聞の『絶対国防圏破ル』の文字を指差した。
「……だから急に、あんな話が出てきたのかしらね」
沈黙。
「サイパンの方まで来てるなら、こっちも危ないって、この前うちの人が……」
「しっ」
老婆が鋭く制した。
遠くで、油蝉の鳴き声だけが狂ったように響いている。
「……南の方、補給が途絶えたって書いてあるわね」
誰かが言う。
「途絶えたって……弾が届かないのかね」
「……飯もだろ。船が沈められて行けなきゃ、あっちの兵隊さん、食うもんがないわな」
「うちの息子、ニューギニアなんだけど……」
列の前の方で、手ぬぐいを被った女が、かすれた声で言った。
「ねえ、無敵の海軍さんが守ってくれてるんじゃなかったのかい……」
誰も答えられない。
列の端で紙を破く音がした。
男が無言で、新聞を捻るようにして踏みつけ、列を離れて立ち去っていく。
「……今まで聞いてた話は、何だったんだろうね」
重い夏の空気の中で、紙の音だけが、乾いて続いていた。
*
同日午後。
東部憲兵隊本部・執務室。
分厚いコンクリートの壁に囲まれた部屋でも、今年の異常な熱気は防ぎきれない。
「……『民衆が暴動を起こさぬよう、細心の注意を払え』だとさ」
東部憲兵隊の須藤大尉が、各署から上がってきた市井の監視報告書の束を机に放り投げ、忌々しそうに吐き捨てた。
額に浮いた汗を軍手拭いで乱暴に拭う。
「昨日まで必勝を叫ばせておいて、今日になって急にどん底に突き落とす。おかげで街の空気は最悪だ。不敬も流言蜚語もあったもんじゃない。なんでこんな急激に方針転換なんかしたんだ? ……これじゃあ、すぐに留置所が満杯になるぞ」
窓際に立ち、ブラインドの隙間から帝都の街を見下ろしていた辻村中尉は、表情を変えずに振り返った。
「一般の国民は、武器を持っていません」
淡々とした、温度のない声だった。
「いくら不満を溜め込もうと、彼らができることなど高が知れています。我々が真に警戒すべきは、実力装置を持つ層……つまり、事実を知って激昂する軍内部のハネ上がりどもです」
辻村はブラインドから手を離し、須藤の向かいの椅子に腰を下ろした。
「それに、新政府の意図は明確です」
「意図だと?」
「ええ。このまま耳障りの良い嘘で国民を煽り続ければ、いずれ破綻した時、彼らは『なぜ徹底抗戦しないのか』と政府に牙を剥く。煽れば煽るほど、後へは退けなくなり、引っ込みがつかなくなる」
辻村は机の上の報告書に視線を落とした。
「だからこそ、今のうちに手酷い『真実』を浴びせ、絶望に慣れさせておくんです。……徹底抗戦の熱を冷まし、いずれ米英と講和の席に着くための『土壌』を、今から作っているのでしょう」
須藤は目を細め、胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
深く吸い込み、天井の扇風機に向けて紫煙を吐き出す。
「……なるほどな。泥船を軟着陸させるために、まずは乗客に『船が沈みかけている』と教え込んでいるわけだ」
「はい。留置所が満杯になろうと、国民の心が折れるのなら、政府にとっては御の字ということです」
「ふん……血も涙もねえ話だな」
須藤は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「だが、辻村。お前の言う『実力装置を持つ層』……つまり、俺たちの足元の連中はどうだ。おとなしくその『土壌』とやらを受け入れると思うか?」
辻村は答えず、ただ静かに視線を上げた。
その冷ややかな目が、すべてを物語っていた。
「……だろうな」
須藤は短く息を吐き、机の上の拳銃の冷たい銃身を指先でなぞった。
「東條派が掃討されて、ただでさえ省内はピリついている。そこにきてこの『敗戦報道』だ。……国体を売る気か、と血走った目で息巻いている連中の名簿が、俺の手元だけでも両手じゃ足りん」
須藤は煙草を灰皿に押し付けた。
「……どうやら、参謀長殿や九条少佐殿の読み通りになりそうだ」
茹だるような帝都の底で、瓦解の足音は、もはや隠しきれないほどの音量を伴って近づきつつあった。