嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第48話 憂国の熱病

1944年九月上旬

帝都・東京 赤坂

 

灯火管制の黒い幕が引かれ、かつての華やかな花街の面影をすっかり失った赤坂の裏通り。

 

軍の将校たちが「貸席」として黙認している古びた待合茶屋の奥座敷には、じっとりとした残暑の夜気と、融通させた上等な清酒の匂いが充満していた。

 

「……ふざけるなッ! 皇紀二千六百年の長きにわたり、万世一系の天皇を戴くこの神州が、米英の鬼畜ごときに屈するなどあり得ん!」

 

東部軍管下の歩兵連隊に所属する菅野(かんの)少佐が、朱を帯びた顔で上等な座卓を拳で激しく叩いた。

 

卓上の九谷焼の徳利が跳ね、酒がこぼれる。

 

その隣では、同じく血気盛んな柴田大尉が、ギラギラとした目を血走らせながら深く頷いていた。

 

二人の真新しい軍衣は寸分の隙もなく整えられ、その立ち居振る舞いには、訓練で叩き込まれた参謀の癖が染みついている。

 

前線の叩き上げとは明らかに違う、中央育ちの将校特有の気配だった。

 

「菅野少佐殿の仰る通りです! 中央の老害や重臣共は、あろうことか『国体護持』の聖戦を投げ出そうとしている。大御心(おおみごころ)を勝手に推し量り、あまつさえ天皇陛下をたぶらかす売国奴……まさに君側の奸(かん)だ!」

 

「そうだ! 前線では将兵が『七生報国(しちしょうほうこく)』を誓い、泥水をすすって死闘を繰り広げているというのに! 我々がこの手で天誅を下し、昭和の維新を断行せねば、散っていった英霊たちに申し訳が立たん!」

 

狭く閉ざされた奥座敷は、青年将校たちの狂気じみた「憂国」の熱気でむせ返るようだった。

 

その熱狂の中心から少し外れた末席で、越智広重はいつものように気怠げな姿勢で床の間の柱に背を預けながらも、絶妙なタイミングで深く、そして恭しく頷いてみせた。

 

「……いやはや。全くお二人の仰る通りだ。私のような『無天』の風情には、ただただ畏れ多く、そして胸の潰れるようなお話であります」

 

越智が自嘲するようにぽつりと呟くと、二人の視線が彼に向けられた。

 

越智は歪んだ煙草を懐から取り出し、チリ、と燐寸を擦った。

 

ゆっくりと火をつけながら、居住まいを正す。

 

「私もつい先日まで、旧主流派の閣下たちの手足として、泥犬のように仕えていた身です。南方から満洲まで飛び回り、裏帳簿の底を抜いては上層部の体裁を整えてきた。……それ自体は国体の一部として機能していた自負もあるのです」

 

越智は軍衣の上から胃のあたりをゆっくりと摩りながら、深くため息をついた。

 

「私が本当に許せないのは……」

 

越智は吸いかけの煙草を灰皿に置き、菅野少佐と柴田大尉を真っ直ぐに見つめた。

 

その目には、彼らに対する深い「敬意」と「嘆き」が込められていた。

 

「菅野少佐殿や柴田大尉殿のような、陸大を出られた真の俊英……神州の未来を担うべき極めて優秀な頭脳が、陛下をたぶらかす逆賊どもの保身のために、蚊帳の外に置かれているというこの腐りきった現状です」

 

「越智大尉……」

 

「……ここだけの話ですが……これは、私の古巣である第二部(情報)の昔馴染みが外務省伝手から仕入れた情報です。裏は取れていませんが、筋は通る話でしてな……」

 

越智は座卓に身を乗り出し、女将でさえ聞き取れないほど声を極限まで潜めた。

 

「上層部の一部は、スイスのダレス機関……米国の諜報機関と水面下で接触を図り始めています。あろうことか連中は、万世一系の国体を『条件』として米英に差し出し、己の命乞いをしようと画策しているのです」

 

「ッ……あの噂は、本当なのか!!」

 

柴田大尉が怒りで全身を震わせた。

 

「恥知らずめ……皇祖皇宗の神霊を何だと思っているのだ!」

 

「……我々にも漏れ聞こえてはいたが、まさかあの戯言が事実とは……」

 

「……閣下たちが隠し通そうとしているのは現実でしょうな」

 

越智は空になった二人の猪口に、自ら恭しく酒を注いだ。

 

「もうすぐ、この国は内側から腐り落ちます。……ですが、私のような無天の小役人には、悲しいかな、逆賊を討つ兵を動かす権限も、神州を救う絵図を描く頭脳もありません」

 

越智は注ぎ終えた銚子を置き、深々と頭を下げた。

 

「菅野少佐殿。私のような薄汚れた鼠にできることがあるとすれば……なんなりと仰っていただきたい」

 

「大尉……!」

 

菅野少佐の目に、熱い感動の色が浮かんだ。

 

「貴官のその憂国の至情、そして身の程をわきまえた潔い覚悟……決して無駄にはせん! 貴官の持つ『情報網』、存分に活用させてもらうぞ!」

 

「はっ。私でよければ、手足となっていつでも」

 

越智は恭しく頷き、菅野が差し出してきた盃を、両手で押し頂くようにして受け取った。

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