嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年九月中旬
帝都・東京
秋の長雨が、灰色の帝都を冷たく濡らしていた。
敗戦の事実が紙面に踊って以来、街の空気は決定的に変質し、それに伴い帝都の中枢・霞が関や永田町の様相も一変した。
首相官邸、国会議事堂、各大臣の私邸の周囲には、土嚢がうず高く積まれ、九二式重機関銃を据えた歩哨が物々しい警戒態勢を敷いている。
それは、いつ来るとも知れない敵機の空襲に備えたものではない。
足元の「味方」の暴発に向けられた、冷え切った銃口だった。
*
参謀本部第二課長室。
開け放たれた窓からは、日比谷公園の木々を濡らす冷たい秋雨の音が、絶え間なく流れ込んできている。
マホガニーの巨大な机の奥。
革張りの背もたれに深く体重を預けたまま、佐々木大佐が窓の外の灰色の空を見つめていた。
その指先には、火のついていない煙草が挟まれている。
辻村は机の前に歩み寄り、寸分の隙もない直立不動の姿勢で敬礼した。
佐々木は窓から視線を外し、ゆっくりと辻村へ顔を向けた。
「……どうだ、辻村」
低く、探るような問い。
辻村は表情の筋肉をピクリとも動かさず、抑揚のない平坦な声で答えた。
「はっ、影すら掴めません」
佐々木の目が、わずかに細められる。
「憲兵隊の、須藤の方は」
「同じであります。網には掛かりません」
辻村は脇に抱えていた革製の図嚢(ずのう)から、分厚い報告書の束を取り出し、佐々木の机の上に静かに置いた。
「近衛師団、ならびに管下の各歩兵連隊……不満分子の数は、底なしに膨れ上がっております。昨日まで徹底抗戦を謳っていた政府が、急に『補給途絶』だの『空母喪失』だのと弱音を吐き始めたのですから、無理もありません」
「酒保でも待合でも、政府を罵る威勢の良い言葉が溢れ返っています」
辻村はそこで一度言葉を切り、無機質な視線を報告書の束に落とした。
「ですが……多すぎるのです。誰も彼もが憂国を叫び、誰も彼もが天誅を口にする。その膨大な『雑音』の中から、いざ決起の『芯』となる具体的な首謀者、兵力、日時、標的を抽出しようとしても……完全に雲を掴む状態です」
「……だろうな……言葉だけで酔いしれている馬鹿どもの中に、本気で火をつける気のある狂人がどこに紛れ込んでいるのか……」
佐々木は机の上に置かれた報告書には目もくれず、指に挟んだままの煙草を口にくわえた。
チリ、と燐寸を擦る乾いた音が、雨音の響く室内に鋭く落ちる。
佐々木は深く煙を吸い込み、天井へ向けてゆっくりと紫煙を吐き出した。
煙の向こうで、大佐の顔に冷酷な諦観の色が浮かぶ。
「……九条少佐のところへ行け」
「はっ」
「方針が変わる。……もう、未然に防ぐ段階は過ぎたそうだ」
一瞬、沈黙が流れる。
「承知いたしました」
辻村は一切の動揺を見せず、鋭く敬礼した。
踵を返し、ドアノブに手を掛ける。
「辻村」
背後から、佐々木の声が呼び止めた。
「……ここから先は、泥沼だ。血の匂いも、硝煙の匂いもな」
辻村は振り返り、再び敬礼して応じた。
「はっ。我々第二課の仕事は、匂いを嗅ぎ分けることであると肝に銘じます」
静かに扉が閉まる。
後に残された課長室には、ただ単調な秋雨の音と、紫煙の匂いだけが淀んでいた。
*
東部軍参謀長室・前室。
換気の悪い部屋特有の、古びた紙と紫煙の入り混じった重苦しい空気の中、五人の将校がテーブルを囲んでいた。
壁掛け時計の秒針が刻む単調な音だけが、やけに大きく響いている。
高級参謀の九条少佐を中心に、真木少佐(作戦)、須藤大尉(憲兵)、小笠原中尉(通信)、そして辻村である。
「……現在、総理官邸、国会議事堂、および各閣僚の私邸周辺は、完全な武装警戒態勢に移行している」
真木少佐が、帝都の地図にいくつもの青いピンを刺しながら言った。
ピンの頭の塗装が一部剥げているのが、妙に生々しい。
「暴動の火種は街のそこかしこにある。フィリピンでの決戦も、上層部は『一撃を与えて有利な講和を引き出すための捨石』と見なしている。……だが、それを知った若手将校たちが黙っているはずがない」
「通信傍受も限界です」
小笠原中尉が、疲労の色を濃くして首を振る。
彼は手元の冷めきった茶を一口すするが、ひどい渋みを気にする余裕もないようだった。
「部隊間の暗号通信に、不自然な無電の交信が増加しています。ですが、どれも断片的な符丁ばかりで、全体像が全く見えません」
「特高も憲兵も手詰まりだ」
須藤大尉が忌々しそうに腕を組む。
分厚い軍服の生地が微かに擦れる音がした。
「怪しい奴を片っ端からしょっ引くのは簡単だが、今の異様な空気の中でそれをやれば、連鎖的に暴発を招く。……キリがない」
沈黙が下りる。
どこから入り込んだのか、一匹の小蠅が鈍い色の蛍光灯の周りを力なく飛んでいる。
地図上の青いピンを見つめていた九条少佐が、ゆっくりと顔を上げた。
「……未然に防ぐのは、もう諦めろ」
低く、冷徹な声だった。
須藤が眉をひそめる。
「少佐殿。諦めろとは」
「文字通りの意味だ。新内閣も、陸軍省も、方針を固めた」
九条はテーブルに両手をつき、四人を見回した。
灰皿の縁に置き去りにされた吸殻から、細い煙が一筋、揺らぐことなく真っ直ぐに立ち上っている。
「中途半端に未然に防ぎ、甘い処分で済ませれば、第二、第三の決起が必ず起きる。そんなものをいちいち相手にしている余裕はない」
「……では」
「二・二六の教訓だ」
九条の言葉に、室内の空気が一段と冷え込んだ。
「万が一、連中が兵を動かしたならば……我々は一切の交渉を持たん。即座に『朝敵』として認定し、圧倒的な武力をもって物理的に鎮圧・殲滅する」
誰一人、顔色を変える者はいない。
ただ、その作戦の持つ意味の重さだけが、静かに共有されていた。
窓の外から、遠くを走る軍用トラックの低いエンジン音が微かに聞こえてくる。
「……二度と、あのような真似を企てる者が出ないよう、見せしめにするのですね」
辻村が淡々と言った。
「そうだ」
九条は頷く。
「連中が『昭和の維新』だの『尊皇討奸』だのと夢を見ている間に、完全に包囲し、一人残らず叩き潰す。……そのためには、連中の計画の『芯』がどこにあるのか、正確な座標が必要だ」
真木少佐が、地図の上の青いピンを指で弾いた。
カチ、と乾いた小さな音が鳴る。
「敵がどこへ向かうかさえ分かれば、こちらはその周囲に装甲車と重機関銃を配置し、完璧な『殺戮地帯(キルゾーン)』を構築できる」
「そういうことだ。辻村、小笠原、須藤」
九条の鋭い視線が、三人を射抜く。
「火種を消すな。存分に燃え上がらせろ。……そして、連中がどこで、いつ爆発するつもりなのか、その『最後の一点』だけを確実に拾い上げろ」
「はっ」
「……以上だ」
先ほどの小蠅がテーブルの端に止まり、またせわしなく飛び去っていった。