嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年十月下旬
帝都・東京 将校集会所(深夜)
秋の冷雨がトタン屋根を単調に叩き続けている。
深夜の将校集会所。窓には黒い遮光幕が隙間なく張られ、薄暗い裸電球の下に広げられた帝都の特大地図を、十数名の青年将校たちが血走った目で見下ろしていた。
「……越智大尉。憲兵隊と警視庁の警備状況は」
歩兵大隊を率いる菅野少佐が、地図から目を上げずに低い声で問うた。
越智広重は軍衣の襟を少し立てながら、懐から手帳を取り出した。
「ご明察の通り、警戒網に明確な『綻び』が出始めています。九月の例の敗戦報道から一ヶ月半……連日の物々しい警戒態勢で、下っ端の警官や歩哨たちは完全に疲れ切っている。いわゆる、警戒のマンネリ化というやつです」
越智は手帳をパラパラとめくり、地図上の『霞が関』と『永田町』の周辺を鉛筆の尻でトントンと叩いた。
「特に深夜帯。首相官邸や内大臣邸周辺に据えられた九二式重機関銃には、秋雨を避けるため、分厚い防水帆布(シート)が厳重に縛り付けられたままです。いざという時、射撃体勢に移るまでに最低でも三分はかかる。さらに、巡回の頻度も先週の半分に落ちています。……警備の目は、完全に腐り始めています」
「天は我々に味方しましたな」
菅野の右腕である柴田大尉が、興奮を抑えきれないように息を吐いた。
「よし。ならば決行日は予定通り、明後日の未明、十月二十八日午前三時で問題なさそうだな」
菅野少佐は赤鉛筆を握り直し、居並ぶ将校たちの顔を鋭く見回した。
「動員兵力は、我が歩兵大隊の主力、および近衛歩兵連隊の一部同志を含め、総勢約一千八百名。各中隊には『東部防空管区・緊急夜間展開演習』の偽命を下し、実弾を携行させた上で完全武装にて営舎を出発させる」
菅野は地図の上に赤鉛筆を突き立て、具体的な部隊配置(オーダー)を下し始めた。
「部隊は大きく三波に分ける。第一波は『斬奸(ざんかん)隊』。
黒田大尉、貴官は歩兵第二中隊二百名を率い、トラック数台で首相官邸へ突入せよ。目標は米内光政の確実な討ち取りだ」
「はっ! 逆賊の首、必ずや」
屈強な黒田大尉が鋭く敬礼した。
「新田中尉。貴官は第十一中隊から百五十名を抜擢し、赤坂の内大臣邸を強襲。木戸幸一を排除せよ。
そして柴田大尉、貴官は機関銃小隊を含む百五十名で東久邇宮陸相殿下の私邸へ向かえ。殿下は皇族であらせられる。指一本触れてはならん。あくまで『不測の事態からお護りする』という名目で軟禁し、我々の決起後に戒厳司令官として推戴申し上げるのだ」
「承知いたしました」
柴田が深く頷く。
「次に第二波、『宮城封鎖隊』。
近衛歩兵連隊の三崎大尉が内部から呼応する。我が方の主力と合わせ、計六百名。半蔵門、桜田門をはじめとする宮城の全城門を物理的に封鎖する。特高警察や東部軍の介入を完全に遮断し、天皇陛下を君側の奸から切り離すのだ」
菅野はさらに赤鉛筆を、霞が関の官庁街へ滑らせた。
「第三波は『中枢占拠隊』だ。
藤堂大尉。貴官は歩兵第一、第三中隊の計五百名と、矢島中尉の重機関銃中隊を率いて内務省および警視庁を包囲、完全に沈黙させろ。特高の武装を解除し、通信を絶て。
同時に、五十嵐中尉は歩兵第四中隊二百名で内幸町の放送局(日本放送協会)を制圧。午前六時の時報とともに、私がマイクの前に立ち、全国の同志と国民に向けて『昭和維新・徹底抗戦』の決起趣意書を読み上げる」
「合言葉は『尊皇』と『討奸』。識別のため、全員左腕に白い布を巻く……二・二六の先達たちと同じですな」
藤堂大尉が、己の描く歴史的瞬間に酔いしれるように言った。
「そうだ。我々は要求するだけではない。帝都の中枢を完全に軍の統制下に置き、既成事実をもって海軍と軟弱な政府を屈服させるのだ」
菅野少佐の瞳の奥で、純粋で狂気じみた憂国の炎が燃え上がっていた。
「……越智大尉」
菅野が越智に向き直った。
「大尉には、決起の直前、午前二時五十分に中央電話局の交換機を物理的に破壊し、外部との通信網を麻痺させる任務をお願いしたい。下士官二名と兵十名を回す。一番危険な初動の裏工作だが、引き受けてもらえるか」
「……はっ。喜んで」
越智は寸分の躊躇もなく、深々と頭を下げた。
「私のような無天の男に、歴史の転換点となる大役をお任せいただき、感無量であります。必ずや、奴らの耳と口を塞いでみせましょう」
越智は菅野の目を見て頷く。
「……では、明後日。神州の夜明けにお会いしましょう」
越智が恭しく敬礼すると、菅野少佐をはじめとする青年将校たちも、熱を帯びた眼差しで一斉に答礼した。
*
集会所を出ると、冷たい秋雨が越智の軍衣を濡らした。
「……やれやれ」
越智は懐から潰れた煙草を取り出し、雨風を避けるように軍帽の庇(ひさし)の下で火をつけた。
深く紫煙を吸い込み、暗い空に向かって細く吐き出す。
「中隊長殿から中尉殿まで、見事に揃って自ら死地へ向かうとはね。……純粋な憂国というやつは、どうしてこうも人を盲目にさせるのか」
越智は軍衣の襟を立て、泥濘(ぬかるみ)となった帝都の暗闇の中を、足を引きずるようにして歩き始めた。
*
翌日未明。
日比谷・第一生命館(東部軍管区司令部)五階。
雨音だけが響く静寂の中、参謀長室に隣接する作戦室の重い扉が、音もなく開いた。
「……裏が取れました」
辻村中尉が図嚢を抱えたまま、冷え切った声で報告した。
室内には、紫煙を燻らせる高級参謀の九条少佐と、腕を組んで特大地図を睨みつけている第一課(作戦)の真木少佐の姿があった。
「決行日は十月二十八日午前三時です」
辻村が淡々と告げると、真木が地図から鋭く顔を上げた。
「規模と標的は」
「歩兵連隊の一個大隊、および近衛の一部。総勢約一千八百。……標的は首相官邸、内大臣邸、宮城、警視庁、そして放送局。深夜の防空演習を偽装して完全武装で進軍する腹積もりです」
「千八百だと……本気で帝都の真ん中で市街戦をやる気か。狂いおって」
真木が忌々しそうに低く唸った。
「想定の範囲内だ」
九条が灰皿に煙草を押し付け、ゆっくりと立ち上がった。その顔には一切の感情が浮かんでいない。
「真木。迎撃の網はどうか」
「抜かりはない」
真木は特大地図の上の霞が関周辺を、無造作に指でなぞった。
「霞が関および永田町周辺の各官庁ビルには、既に『特設防空陣地』という名目で、我が方の重機関銃小隊と速射砲を配置済みだ。実弾も充分に支給し、土嚢の裏で待機させてある。奴らが官邸や警視庁に向かうには、必ずこの幅の広い大通りを通過しなければならん。……網は完璧に張ってある。あとは獲物が飛び込んでくるのを待つだけだ」
「よろしい」
九条は短く頷き、辻村と真木を交互に見据えた。
「上(参謀長)の確認は取れている。新政府とも調整済みだ。万が一の際は、戒厳令の発布といった悠長な手続きを飛ばし、現場の判断で、条件が整い次第即座に『発砲』する許可を取ってある」
真木の目がわずかに見開かれた。
「警告や投降の呼びかけもなしか」
「いや。兵の大半は、深夜の防空演習だと信じ込まされているだけの兵卒たちだ。……だから一度だけ、警告はする。武器を捨て帰順する者は撃つな。だが、必要以上に時間を与えれば、事態を拗らせて同調者を生むだけだ。二・二六の轍は踏まん」
九条の目が、氷のように冷たく細められた。
「遠慮はいらん。午前三時を回り、武装したまま持ち場を離れ、あの大通りに足を踏み入れた瞬間……その時点で、奴らは天子に弓引く『朝敵』だ。警告に従わぬ者は、一歩も外へ出すな。完膚なきまでに叩き潰せ」
「……了解した。下手をすれば血の海になるな」
真木は短く息を吐き、静かに首肯した。
辻村は直立不動のまま、手元の図嚢の紐を静かに握り直した。
窓ガラスを叩き続ける秋雨の向こう側で、一千八百の将兵たちが、一部の首謀者たちの狂気に巻き込まれようとしている。
投降か、死か。
非情の舞台は、ただ淡々とその幕を開けようとしていた。