嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号 作:あまね みかん
1944年十月二十八日 午前二時五十分
帝都・東京 中央電話局付近
冷たい秋雨が、容赦なく帝都のコンクリートを叩き続けていた。
電話局の裏路地に停車した幌付きトラックの影で、越智広重は軍帽の庇(ひさし)から滴る雨水を鬱陶しそうに払い落とした。
「……大尉殿。突入の準備、完了しております」
配属された下士官が、雨音に負けじと声を張り上げる。その背後では、十名の兵卒が小銃を構え、緊張した面持ちで待機していた。
越智は懐中時計の蓋を弾き開けた。針は、菅野少佐たちとの約束である「午前二時五十分」を指している。
「よし。君たちはこのまま外周の警戒にあたれ。局員が逃げ出さないよう、裏口と正面を完全に封鎖するんだ」
「はっ! 大尉殿は?」
「私が単独で中に入り、主配線盤に爆薬を仕掛けて物理的に破壊する。ドカンと音が鳴ったら、即座に撤収だ」
下士官が力強く敬礼するのを見届け、越智は電話局の勝手口の鍵を針金で手際よく開け、暗い建物の中へと滑り込んだ。
(……さて)
局内は静まり返っている。当直の局員たちは二階の仮眠室で寝ているのだろう。
越智は配線盤の並ぶ機械室には目もくれず、そのまま真っ直ぐに建物の反対側――あらかじめ下見をしておいた通用口へと向かった。
ドアノブを回し、再び雨の降る外の路地へ出る。そこは、部下たちに警戒させている場所とは完全に逆の方角だった。
越智は振り返ることなく、濡れた外套のポケットに両手を突っ込んだ。
電話局の交換機は、何一つ傷ついていない。東部軍管区司令部の通信網は、今この瞬間も完璧に機能し続けている。
「……健闘を祈るよ、選良(エリート)の皆々様」
ぽつりと呟いた越智の顔に、もはやあのへりくだった薄ら笑いはない。
ただの冷淡な傍観者の顔に戻った彼は、雨と闇に溶け込むようにして、その場から完全に姿を消した。
*
午前三時〇〇分。
霞が関・官庁街大通り。
幅員数十メートルに及ぶ広大なアスファルトの直線道路を、黒々とした軍靴の波が埋め尽くしていた。
「……進め! 足音を殺せ!」
歩兵第二中隊を率いる黒田大尉が、抜刀した軍刀を下段に構えながら低く命じた。そのすぐ後方には、内務省および警視庁の制圧を担う藤堂大尉の主力五百名と、矢島中尉の重機関銃小隊が続いている。
『防空演習』の名目で営舎を出発した計七百名を超える兵士の列が、大通りの奥深くへと引き込まれていく。
最後尾の兵士が官庁街の入り口を通り抜け、部隊の全体が完全に一直線の道路に収まった、その瞬間だった。
バチィィィン!!
けたたましい作動音とともに、大通りの左右にそびえる内務省や海軍省などの官庁ビルの屋上から、数基の大型探照灯(サーチライト)が一斉に点灯した。
「なっ……!?」
真昼のような眩い光が、霞が関の大通りに取り残された七百名の部隊を、逃げ場のないほど白日の下に晒し出した。
突然の光に兵士たちが悲鳴のような声を上げて目を覆う中、左右のビルに設置されたスピーカーから、無機質な拡声器の声が響き渡った。
『――逆賊ニ告グ。貴様ラハ天子様ニ弓引ク朝敵デアル。一度ダケ警告スル。直チニ武器ヲ捨テ、帰順セヨ。サナクバ撃ツ』
その音声に、演習だと信じ込まされていた兵士たちはぴたりと足を止めた。
「朝敵……? どういうことだ」
「演習じゃないのか? なぜ囲まれているんだ!」
部隊に大きなどよめきと動揺が走る。前線の異常事態を悟り、銃を構えるどころか後ずさりしようとする者さえ出始めた。
「立ち止まるな! 怯むなッ!」
先頭にいた黒田大尉が、たじろぐ兵士たちに向かって血走った目で絶叫した。
「奴らの罠だ! 逆賊は奴らの方だ! 逃げるな、進め! 突撃しろォッ!!」
黒田と藤堂が軍刀を振りかざし、混乱する部隊を無理矢理に前へ押し出そうとした――その「前進」の号令が、東部軍管区司令部にとっての明確な『発砲許可』の合図となった。
ダダダダダダダダダッ!!!
左右のビル群の窓、そして屋上。あらゆる方角から、隠蔽されていた数十門の九二式重機関銃が一斉に火を噴いた。
「がぁッ!?」
先頭で軍刀を振り上げていた黒田大尉の胴体が瞬く間に四散し、血飛沫を撒き散らしながらアスファルトへ叩きつけられた。
遮蔽物が一切ない幅広の直線道路で、左右と正面からの十字砲火(クロスファイア)を浴びた部隊は、文字通りなす術がなかった。
「矢島中尉! 機関銃を前に出せ! 応戦――ぐあッ!」
部隊を展開させようとした藤堂大尉も、顔面を撃ち抜かれて即死。頼みの綱だった矢島中尉の重機関銃小隊も、土嚢を積む暇すら与えられず、速射砲の榴弾を浴びて機関銃ごと粉砕された。
「うわあああッ!」
「撃つな! 味方だ! 演習じゃないのか!!」
騙されて連れ出された兵卒たちが、パニックに陥りながら絶叫する。
統制は完全に崩壊した。
「ひぃッ……降伏する! 撃たないでくれ!!」
一人の若い兵士が、弾の装填すらされていない三八式歩兵銃を泥水の中に放り投げ、両手を高く掲げてアスファルトに平伏した。
それを皮切りに、大通りの至る所で次々と銃が捨てられる乾いた音が連鎖していく。
*
東部軍が張り巡らせた「キルゾーン」は、帝都の中枢を網の目のように覆い尽くしていた。
午前三時〇五分。
赤坂・内大臣邸および陸相私邸へ向かっていた柴田大尉と新田中尉の別働隊三百名。
彼らが暗い坂道を上り切った瞬間、前方を塞ぐように停車していた軍用トラックの幌が跳ね上げられ、背後から東部軍の九七式軽装甲車が姿を現した。
『――直チニ武器ヲ捨テ、帰順セヨ。サナクバ撃ツ』
拡声器の警告に、兵士たちは完全に足がすくみ、青ざめた顔で後ずさる。
「逃げるな! 殿下をお救いするのだ! 進め、突撃――!」
恐怖で固まる兵を怒鳴りつけ、吶喊(とっかん)を試みた新田と柴田は、装甲車からの機関銃と速射砲の掃射をまともに浴びて泥水の中へ崩れ落ちた。
同時刻。
内幸町・放送局(日本放送協会)前交差点。
午前六時の決起放送を控える菅野少佐は、五十嵐中尉の率いる第四中隊二百名とともに、交差点の真ん中に足を踏み入れていた。
その直後、周囲の雑居ビルと百貨店の屋上から一斉にサーチライトが瞬き、彼らを完全に包囲した。
『――直チニ武器ヲ捨テ、帰順セヨ。サナクバ撃ツ』
冷徹な警告に、二百の兵士たちは顔面を蒼白にし、お互いの顔を見合わせた。
「……通信網が、生きている……? 馬鹿な、越智の奴……裏切ったのかッ!!」
強烈な光の中、菅野少佐は己たちが嵌められた完璧な包囲網の意味を理解した。
「俺たちは、反乱軍なのか……?」
動揺した兵士たちが、銃を下げて逃げ腰になり始める。
「ちくしょう……なぜだ! 我々は、国を想って……!」
五十嵐中尉が懐の『決起趣意書』を握りしめたまま絶叫し、逃げ出そうとする兵士たちの前に立ち塞がった瞬間、周囲から十字砲火が降り注いだ。
「ぐあッ!」
五十嵐が倒れ、兵士たちが次々とアスファルトに這いつくばる中、菅野は血走った目でサーチライトを見据え、たじろぐ部下たちを怒鳴りつけた。
「引くな! 立て! 逃げるなァッ! 神州の未来は、我々が――」
軍刀を抜き放ち、一歩前へ踏み出そうとした菅野の胸部と腹部を、無情な数発の重機関銃弾が貫いた。
「陛下……万、歳……」
昭和維新を夢見た全体指揮官は、放送局のマイクに辿り着くこともなく、自らの血溜まりの中へ崩れ落ちた。
そして、宮城(皇居)を囲む桜田門周辺。
三崎大尉が率いる六百名の『宮城封鎖隊』に対しても、城壁の上からサーチライトが浴びせられ、一度の警告が為された。
『――逆賊ニ告グ。直チニ武装ヲ解除セヨ』
「朝敵……? 違う! 我々は君側の奸を討ち、陛下をお護りするために……!」
三崎が拡声器に向かって叫ぶが、近衛の兵士たちの反応は違った。
彼らにとって、「宮城の中から自分たちに向けて発砲の警告がなされた」という事実は、何よりも重い絶望だった。
「嘘だ……俺たちは、賊軍なのか……?」
武器を構えることすら忘れ、後ずさる兵士たち。
「惑わされるな! 開門しろ! 突撃だ!」
三崎の悲痛な叫びと前進の命令は、『全門、撃テーッ!!』という号令とともに放たれた、宮城の内側からの銃撃によって完全に掻き消された。
自分たちが「逆賊」として処理されている事実を突きつけられた近衛の兵士たちは、泣き崩れながら銃を堀の泥へ投げ捨てた。
三崎大尉は呆然と立ち尽くしたまま銃弾に胸を貫かれ、お堀の濁った水の中へと転落していった。
*
日比谷・第一生命館(東部軍管区司令部)五階
作戦室。
ジリリリリリリッ!
壁際の黒電話が、狂ったように鳴り続けている。
通信班の小笠原中尉が受話器を次々と取り上げ、その内容を大声で復唱していく。
「特設第一陣地(官庁街)、制圧完了! 敵部隊は完全に崩壊。前進を試みた黒田、藤堂の両指揮官の死亡を確認! 残余は投降!」
「特設第三陣地(赤坂)、制圧完了! 柴田、新田の両名死亡!」
「特設第五陣地(放送局前)、制圧完了! 五十嵐中尉、および首謀者・菅野少佐の死亡を確認!」
「宮城警備隊より入電! 桜田門周辺の反乱部隊、武装解除に応じました。三崎大尉死亡!」
室内中央の特大地図の前で、九条少佐と真木少佐が、その報告を聞きながら次々と地図上の赤いピンを抜き取っていく。
「……終わったな」
九条少佐は懐中時計を確認し、短く息を吐いた。
時刻は、午前三時二十分。
一千八百名という大規模な反乱部隊の決起は、わずか二十分足らずで、その指導部を完全に排除される形で鎮圧された。
「……辻村。後処理は憲兵隊(須藤)と特高に任せろ。投降した兵卒どもは武装を解いて営舎へ押し込め、将校の生き残りはすべて特高の地下室へ叩き込め。首謀者クラスは生かしておく必要はない」
「はっ」
部屋の隅に控えていた辻村中尉は、無表情のまま短く敬礼した。
冷たい秋雨が、窓ガラスをひっきりなしに叩き続けている。
「……」
辻村は静かに図嚢を抱え直し、血の匂いが充満するであろう現場へ向かうべく、作戦室を後にした。
*
1944年十一月上旬
帝都・東京 憲兵隊司令部
霞が関での一件から数日が経過していた。
憲兵隊司令部の地下に設けられた特別取調室の廊下には、血と泥、そして絶望した人間が発する異様な体臭が重く淀んでいる。
分厚い鉄扉の向こうからは、生き残った関係者たちに対する憲兵隊の苛烈な尋問の音が、昼夜を問わず鈍く響き続けていた。
「……死者七十六名。重軽傷者、二百十五名」
取調室の隣にある殺風景な事務室で、須藤大尉が疲れ切った目で報告書の束を机に置いた。
報告書を受け取った辻村中尉は、表情一つ変えずにその数字を冷たい目で見下ろした。
「反乱部隊の先頭で突撃を命じた菅野や黒田たち首謀者と、そのすぐ背後に続いていた第一列、第二列の兵卒たちは、重機関銃と速射砲の十字砲火を浴びて文字通りの挽肉となった」
須藤が忌々しそうに煙草に火をつける。
「作戦通りとはいえ、ひどい有様だった。指揮官の後ろにいた無関係な兵卒たちは、結果的に後続の弾除け(肉の壁)にされた形だ。残りの一千五百名が無傷で投降できたのは、先頭の七十数名が物理的に盾となって粉砕されたからに過ぎん」
「……後処理は予定通り進んでいると見てよろしいですね」
辻村の抑揚のない問いに、須藤はぎりっと奥歯を噛み鳴らした。
「末端の兵卒たちの武装解除と隔離は終わった。生き残った将校たちも全員この地下に叩き込んだ。だが……肝心なものが抜けているのだ」
須藤は苛立ち紛れに、灰皿へ煙草を押し付けた。
「連判状、ですか」
「ああ……そうだ。今回の決起にあたり、菅野たちが同志や賛同者の名前を連ねた血判状が存在したはずなのだ。あの狂信的な馬鹿どもが、名誉ある昭和維新の決起に際して、己の署名と血判を残さないわけがない」
須藤は、新しい煙草に火をつけて紫煙を吐き出した。
「今回の決起は規模が大きすぎる。捕らえた将校たちだけでなく、中央の幕僚や軍務局の人間、あるいは重臣の中にも、裏で奴らを煽り、賛同した『シンパ』が確実に潜んでいる。その連中を一網打尽にして根絶やしにするには、動かぬ証拠である『連判状』がどうしても必要なのだ!」
「菅野少佐や五十嵐中尉の遺体からは出なかったのですね」
「ああ。連中の軍衣のポケットから営舎の私物、集会所の床下まで徹底的に洗ったが、五十嵐の遺体が持っていた『決起趣意書』以外は何も出なかった。……どこかの誰かが、事前に持ち去ったとしか思えん」
須藤の焦燥に満ちた声を背に受けながら、辻村はただ静かに、報告書の「死者名簿」を見つめていた。
*
同日の夕刻。
新橋界隈。
晩秋の冷たい夜風が吹きすさぶ高架下。越智たち四人は、周囲の目を逃れるように、薄暗い地下の土間打ちの雑炊屋に身を潜めていた。
配給の粗悪な米と野菜屑を煮込んだ大鍋から、何とも言えない匂いが漂っている。外の冷気から逃れられたとはいえ、穴倉のような店内は重く淀んだ空気に満ちていた。
「……やれやれ。こんな薄暗い土間で、得体の知れない泥水みたいな飯を啜っていると……昭南島を思い出すね」
越智は、どんぶりの中の濁った雑炊を木匙で弄りながら、深くため息をついた。
向かいの席では、尾形少尉がどんぶりを両手で包み込むようにして、小さく安堵の息を漏らした。両隣では、古賀と北島も無言で、しかしどこか張り詰めていた緊張の糸がようやく切れたような顔で匙を動かしている。
「……正直なところ、大尉殿。新内閣発足後、主流派の犬だった我々は粛清されて、どこかの最前線へ飛ばされるものとばかり思っておりました……」
尾形が声を潜めて言うと、越智は匙を置き、懐からいつものようにひしゃげた煙草を取り出した。
「尾形少尉……」
燐寸を擦る音が、ざわつく店内に小さく響く。
チリ、と燃え上がる炎の向こうで、越智の双眸が静かな光を放った。
「今、誰が何に興味があって、近い将来、何の情報に価値があるのか。それをしっかり見極めることが大事なんだよ」
紫煙を細く吐き出し、越智は冷ややかに目を細めた。
「……はぁ……」
尾形は生返事をしながらも、探るような視線を越智に向けた。
「しかし大尉殿。霞が関の一件……正規軍側の被害はないそうですね。よくあそこまで的確に網を張れたものです。……すごい情報力です。誰か、内通者がいたのでしょうか」
「どうなんだろうね……」
越智は煙草の灰を小皿に落とし、どこかとぼけたような笑みを浮かべた。
「何事も、段取りが全てということじゃないか」
「……はぁ……」
釈然としない様子の尾形に対し、越智はふっと息を吐いてみせた。
「まあ、手品の種明かしはしないよ。君たちも、聞くほど野暮じゃないだろ」
「……はっ」
古賀と北島も、静かに居住まいを正した。
越智は胃のあたりをさすりながら、よっこらしょとゆっくり立ち上がった。テーブルの上に、くたびれた一圓紙幣を無造作に置く。
「良いかい? 情報というものは、誰かが親切に運んで来てくれるのを待つものじゃない。自らの手で、最も深い闇の中から奪い取って来るものだからね」
外套を羽織り、深く帽子を被り直した越智は、淀んだ空気の地下の店から、晩秋の夜風が吹く帝都の闇の中へと足を引きずるようにして消えていった。
尾形たちは急いでどんぶりを空にし、その背中を無言で追った。