嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第52話 届かぬ銀翼

1944年十一月下旬

帝都・東京

 

霞が関での凄惨な市街戦は、名目上は「防空演習中の不慮の事故」として処理された。

 

だが、千人規模の兵士が参加し、重機関銃の掃射音が夜明けまで響き渡った異常事態を、帝都の市民が気付かないはずがない。

 

新聞には一行も載らなかったが、噂は瞬く間に街を駆け巡った。

 

     *

 

浅草界隈。

 

冷たい木枯らしが吹く朝。

 

人々は俯いたまま、口数をすっかり減らしていた。

 

「……霞が関のあたりで、夜通し鉄砲の音がしたって」

 

「しっ。特高が聞いてるよ」

 

「でも……」

 

人々の横を、くたびれた外套の巡査が通りかかる。

 

人々はビクッと肩をすくめ、顔を伏せた。

 

だが、巡査は虚ろな目で列を一瞥しただけだった。

 

「……立ち話はするな。用が済んだら散れ、散れ」

 

怒声ではない。ひどく投げやりな、疲労しきった声だった。

 

巡査が通り過ぎた後、背広の男がぽつりとこぼした。

 

「……捕まえたくても、留置所が満杯なんだとさ」

 

「えっ」

 

「この間の軍隊の騒ぎで、しょっぴかれた連中が溢れかえってる。特高も憲兵も、もう誰が味方で誰が敵か分からなくなって、疑心暗鬼なんだよ。……俺たちを構ってる余裕なんてないのさ」

 

老婆が重いため息をつく。

 

「……兵隊さん同士で、殺し合いだなんて」

 

「外で戦う船も飛行機も、もう無いから……内側でおかしくなっちまったんだ」

 

誰も、それ以上は言わない。

 

怒りも皮肉もない。ただ、底の抜けたような溜息だけが、どんよりと沈んでいた。

 

     *

 

十一月二十四日。

 

雲一つない、澄み切った秋晴れの昼下がり。

 

ウゥゥゥゥゥゥーーーッ!!

 

空気を切り裂くような空襲警報が鳴り響いた。

 

「……」

 

防空壕へ向かう人々の足取りは、パニックというより、ひどく重く鈍かった。

 

ふと空を見上げた者が足を止める。

 

「……なんだ、あれ」

 

はるか上空。

 

気の遠くなるような高さを、数機の巨大な銀色の機体が悠然と並んで飛んでいた。

 

「飛行機……? なんであんなに光って……」

 

パンッ! ポンッ!

 

地上から高射砲が火を噴いた。

 

空にいくつもの黒い炸裂煙がパッと開く。

 

だが――。

 

「……届いてない」

 

「全然下だ……あんな弾、かすりもしてないよ」

 

日本の戦闘機が必死に機首を上げ、銀色の巨鳥を追っている。

 

だが、みるみるうちに引き離されていく。

 

「……追いつけないんだ。あんな上まで、うちの飛行機は上がれないんだ」

 

ヒュルルルルルル……!

 

不気味な風切り音が降ってきた。

 

「落ちてくる……」

 

ズズーン……ッ!!

 

遠く、武蔵野の方角で、地響きとともに黒い土煙が上がった。

 

銀色の編隊は、急ぐ様子もなく、ゆっくりと旋回して引き返していった。

 

一時間後。

 

防空壕から這い出してきた人々は、無傷のままの帝都の街並みを見て、へなへなと座り込んだ。

 

「……工場の方、燃えてるね」

 

「ああ……」

 

赤ん坊を背負った女が、爆撃機が消えた空をぼんやりと見上げていた。

 

「あんな高いところから……」

 

女の声は震えていた。

 

「あいつら、うちの弾が絶対に届かないところから、落として帰っていった……」

 

「……」

 

「こっちは、指一本触れられないじゃないか……」

 

通りを、ヘルメットを被った警防団や憲兵が小走りで駆けていく。

 

「おい! ぼんやりするな! 家に帰れ! 散れ!」

 

怒鳴り声は響くが、その憲兵の顔も真っ青だった。空をちらちらと見上げ、怯えているのが誰の目にも分かった。守ってくれるはずの彼ら自身が、どうしていいか分からず混乱しきっている。

 

背広の男が、泥のついた新聞の切れ端を見つめたまま、ぽつりと言った。

 

「……向こうは、かすり傷ひとつ負わない。ただ空の上を通り過ぎるだけで、こっちは下で逃げ惑うしかないんだ」

 

老婆が、ひざ掛けを固く握りしめた。

 

「……もう、どうしようもないねえ」

 

どう足掻いても絶対に勝てないという、冷たく巨大な絶望が、人々の肩に重くのしかかっていた。

 

女が、背中の赤ん坊をあやしながら、誰に言うともなく、消え入るような声で呟いた。

 

「……ねえ。本当に……まだ、やるのかね」

 

誰も答えない。

 

澄み切った秋の空だけが、憎らしいほど青く、高く広がっていた。

 

     *

 

同日夕刻。

 

日比谷・東部軍管区司令部。

 

防空作戦室の片隅。

 

武蔵野の空に立ち上った黒煙は、夕暮れに溶け込んで薄れつつあった。

 

「……あんな高度から来られては、我が方の対空砲では手も足も出ませんね。迎撃など、到底不可能かと……」

 

窓の外を見つめながら、漆原少尉が絶望の入り混じった声でぽつりとこぼした。

 

「いや、迎撃できないわけではない」

 

背後のソファで資料に目を通していた辻村中尉が、視線を上げずに淡々と答えた。

 

「しかし中尉殿。先ほどの高射砲は、敵機の遥か下で炸裂するばかりで……」

 

「今回は初来襲であり、一万メートルという高高度からの侵入に、ただ意表を突かれただけだ」

 

辻村は手元の報告書を一枚めくり、冷徹な声で解説を続ける。

 

「実際、あれほどの高高度からの爆撃では精密な照準など不可能だ。武蔵野の中島飛行機工場への命中率は極めて低く、大半の爆弾は空き地に落ちている。マリアナから往復六千キロを飛んでくる莫大な燃料消費を考えれば、投下した弾量に対する費用対効果は全く合っていない。……軍事的な『作戦』として見れば、今回の空襲は敵の失敗とすら言える」

 

漆原少尉はわずかに目を見開いた。

 

「では、敵の作戦は脅威ではないと?」

 

「そうは言っていない。費用対効果が合わないと悟れば、次回は必ず、もう少し高度を落としてくる。まずは邪魔な対空砲陣地を潰しにくるはずだ。……だから、我々も物理的に迎撃できないわけではない」

 

辻村はそこで資料から目を離し、漆原を見た。

 

「だが……問題はそこじゃない」

 

「ああ、その通りだ」

 

壁際で煙草を燻らせていた東部憲兵隊の須藤大尉が、ひどく疲労した声で引き取った。

 

軍衣の襟元を少し緩め、忌々しそうに天井の扇風機を見上げる。

 

「撃ち落とせるかどうかとか、工場が燃えたかどうかとか、そんなことはもうどうでもいい。一番の問題は、あの銀色の化け物を『市民に見られた』ことだ」

 

須藤は深く紫煙を吸い込み、吐き出した。

 

「漆原少尉。先月の騒ぎ――クーデター未遂でしょっぴいた連中で、今、特高も憲兵隊の留置所も足の踏み場がないほど溢れかえっている。もう物理的に、思想犯や不満分子を収容する場所がないんだよ」

 

須藤は自嘲気味に鼻を鳴らした。

 

「おかげで末端の巡査や憲兵どもは、すっかりやる気を無くしている。街角で不敬な噂話が聞こえても、しょっぴく場所がないから『散れ、散れ』と追い払うだけだ。取り締まる側の俺たち自身が、疑心暗鬼と不安でもうまとまりがなくなっている」

 

漆原は黙って、須藤の疲労しきった顔を見つめた。

 

「そこへ来て、今日の空襲だ」

 

須藤は短くなった煙草を、灰皿にグリグリと押し付けた。

 

「帝都の空を、敵の爆撃機が悠々と飛んでいくのを、何百万という市民が同時にお天道様の下で見上げたんだ。……被害が少なかったから何だと言うんだ。これから街では、噂が噂を際限なく呼ぶだろうよ」

 

須藤の声は、怒りというよりも深い諦観に沈んでいた。

 

「帝都の空を直接脅かされたという、この政治的・精神的ショックはな……新聞でサイパン陥落の活字を読まされた時の比じゃない。市民は肌で理解したはずだ。もう、守ってくれるものは何もないと」

 

室内に、重苦しい沈黙が下りた。

 

辻村は無言で報告書の束を閉じ、図嚢にしまった。

 

漆原は返す言葉を見つけられず、ただ夕闇に沈んでいく帝都の街並みに視線を戻すしかなかった。

 

「……もう」

 

須藤が誰に言うともなく、ぽつりとこぼした。

 

「来るところまで、来たな」

 

その言葉は誰にも否定されることなく、ひんやりとした作戦室の空気の中に静かに吸い込まれていった。

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