嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第5話 パブロフの犬とボルコフの影

その夜深く。

 

麻布の高台に建つ、洋館の豪奢な寝室。

分厚い黒の遮光幕で灯火管制が敷かれた室内には、帝都の凍える暗闇とは無縁の暖炉の熱と、配給時代にはあり得ない舶来の香水の匂いが漂っていた。

 

乱れた絹の敷布の上に、豊かな肢体を投げ出しているのは、軍や政財界に食い込む軍需成金の若き未亡人だ。

 

「……少し、まとまった金を作ってくれないか」

 

辻村は寝台の端に腰掛け、素肌の上に襦袢(じゅばん)の袖を通しながら、紫煙を細く吐き出した。

 

女は敷布を胸元に引き寄せ、気怠げな、しかしどこか甘い吐息を漏らして辻村の広い背中に指先を這わせた。

 

「……軍人さんのお仕事って、随分とお金がかかるのねぇ」

 

女は辻村の首筋に顔を埋め、くすくすと笑った。

 

「お国のために命を張ってるのに、陸軍省はお小遣いもくれないの?」

 

辻村は黙っている。

 

「ふふっ……悪い男。ちゃんと私のところに戻って来るのよ」

 

女は辻村の冷酷な横顔に魅入られたように微笑むと、枕元に置かれた革鞄から分厚い札束の入った封筒を取り出し、無造作に辻村の軍衣の物入れへと滑り込ませた。

 

「……助かる」

 

辻村は振り返りもせず、ただ一度だけ、手袋のない冷たい指先で女の頬を撫でる。

 

そして軍用のマントを羽織ると、再び一切の感情を排した無表情な将校へと戻り、寝室を後にした。

 

     *

 

翌日の夜。

 

憲兵隊本部、地下の特別房。

冷たい石の床の上で、砕かれた左手を抱えるようにしてうずくまっていた男は、鍵を開けて重い鉄扉が開く音にビクンと肩を跳ねさせた。

 

軍靴の音。

 

男は顔を上げ、そこに立つ人物の姿を認めた瞬間、ヒッ、と喉の奥で引き攣った音を鳴らし、鎖の限界まで壁際へと後ずさった。

 

「終わったら声をかける……」

 

「はっ」

 

下士官の憲兵が立ち去ると、辻村は無言のまま男の前に歩み寄り、どす黒い汚れの染みついた麻袋を目の前にぶら下げた。

 

「……これを見ろ」

 

平坦な声だった。男の眼球が見開き、全身がガタガタと痙攣を始める。

 

「ずっと見ろ。目を逸らすな」

 

「あ……あ、あァ……」

 

「お前の女房、トミ。それから……今年で五つになる娘……佐知子。亀戸の実家に住んでいることも、俺はすべて知っている」

 

辻村はしゃがみ込み、男の耳元で、甘く、ひどく静かな声で囁いた。

 

「俺が、何を言っているか分かるか……俺はやると言ったらやるし、どんなに許しをこいても、許さないと言ったら絶対に許さない。……そして、簡単には殺さない。徹底的に、いたぶる……お前も、お前の家族もだ。」

 

「ひっ……!」

 

「ここには法律も、軍規もない。俺が掟だ。……分かるか?」

 

男は涙と鼻水を垂らしながら、首がちぎれんばかりに何度も頷いた。

 

辻村は目を細めると、冷たい声で問いかけた。

 

「良いか。よく思い出せ。木島の屋敷で、奴と密会していたのは誰だ?」

 

男の顔が歪む。

 

「わ、分かりません……! 私はただ、使い走りで……!」

 

「……そうか」

 

辻村は、男の頭からすっぽりと麻袋を被せた。

 

「嫌だッ! 嫌だぁぁぁッ!!」

 

「もう一度だけ聞くぞ……木島と会っていたのは誰だ?」

 

「す、鈴木です! 佐藤です! 何でも言いますから、許してくださいッッ!!」

 

「違うだろ!」

 

辻村の一喝が、麻袋越しに男の鼓膜を打つ。

 

「良いか、思い出させてやるからよく聞け。お前が見たのは、軍務局の『権藤中佐』だ。……思い出したか」

 

「……そ、そそそ、そうです! 権藤中佐です!!」

 

「もう一度言え」

 

「権藤中佐です……ッ」

 

「もう一度だ!」

 

「権藤中佐です!」

 

「どこの権藤中佐だ?」

 

「ぐ、軍務局です……」

 

「聞こえん……」

 

「軍務局です!」

 

袋の中で、男は精神の均衡を欠いたまま、ただひたすらに復唱する。

 

「そうか……」

 

辻村の声が、スッと低くなった。

 

「……本当に見たのか……」

 

男は震え上がる。

 

「見たのか!」

 

「はいッ!」

 

「誰を見たんだ?」

 

「軍務局の権藤中佐です!!」

 

「いつ見た!? ……いつ見た!!」

 

「お、お茶を……! 客間にお茶を運んだ時に見ましたァァッ!!」

 

極限の恐怖に晒された男は、もはや人間としての尊厳をかなぐり捨て、ただ床に突っ伏して嗚咽を漏らした。

独房の空気は、逃げ場のない絶望の臭気に染まっていく。

 

辻村はゆっくりと、男の頭から麻袋を引き抜いた。

 

涙と鼻水にまみれて崩れ落ちる男を見下ろし、辻村は優しく微笑んだ。

 

「……そうか」

 

辻村は軍用図嚢から、小さな茶色のガラス小瓶と注射器を取り出した。カチャリ、と無機質な音が鳴る。

 

そして、男の震える腕に冷たい針を突き立てた。

 

「あ、ッ……」

 

薬液が体内に回ると、数秒で男の表情が一変した。

 

死の淵から引き上げられたような不自然な安寧が、その虚ろな瞳に浮かぶ。

男はだらしなく口を開け、救いを得た子供のような吐息を漏らした。

 

辻村は懐から銀色の煙草入れを取り出し、一本を自分の口にくわえて火を点ける。

そして、もう一本を取り出し、男の震える唇に優しくくわえてやった。

 

「……煙草、吸うか?」

 

男はヒクヒクと喉を鳴らしながら、縋るような目で煙草を吸い込んだ。

 

辻村は自分の煙草の灰を床に落としながら、男の耳元で甘く囁いた。

 

「……『ボルコフ』という名前……」

 

「……え?」

 

「木島の屋敷で……聞いたことないか?」

 

男は辻村を見上げた。

 

「……どうだ?」

 

一拍。

 

「……き、聞きました。権藤中佐が……ボルコフという名前を、口にしていました……!」

 

「……そうか、聞いたか……」

 

「は、はい!」

 

「いつだ……」

 

ジーーーという、古びた電灯の微かな唸り音が響いていた。

 

三時間が経過した。

 

「お疲れ様であります」

 

下士官の憲兵が敬礼する。

 

「明日も来る……この麻袋はそこに掛けておけ」

 

「はっ」

 

鉄扉が閉まる音がして、軍靴の音が遠ざかっていく。

 

     *    

 

1944年一月下旬

九段下 東京憲兵隊本部 二階

 

須藤の執務室。

辻村は軍用マントを羽織ったまま、一枚の小さなメモ用紙を須藤の机の上に滑らせた。

 

「……辻村、これはなんだ」

 

「東部軍経理部の三嶋大尉が、夜な夜な繋がせている外部の電話番号です」

 

辻村は無表情に続ける。

 

「他にも臭いのがいくつかある……どれが当たりかは分かりませんが、大尉殿の好物ではありませんか」

 

須藤の顔色が変わった。

 

「……こんな内部情報、お前はどうやって」

 

「出処はどうでもいい事でしょう。……もし当たりがあれば手柄は、あなたのものです」

 

辻村は無表情のまま須藤を見据えた。

 

「私は手が回りませんからね……持ちつ持たれつですよ大尉殿」

 

須藤は息を呑み、机の上のメモ用紙と辻村の顔を交互に見比べた。

 

「……あ、ああ。そうだな。下に行くだろ、今日は俺が案内する」

 

「助かります」

 

辻村は短く答え、軍靴を鳴らして立ち上がった。

 

コンクリートの階段を下り、地下の重い鉄扉が開かれる。

 

薄暗い独房の奥には、犬のように跪く男の姿があった。

虚ろな目が扉の隙間からこちらを這うように、じとーっと見つめている。

 

「……終わったら、看守に声をかけてくれ」

 

男の異様な姿に須藤は顔をしかめ、気味悪げに鼻を鳴らすと、逃げるように足早に立ち去っていった。

 

入れ替わるように下士官が独房に入り、無言のまま看守用の粗末な木椅子を運び込むと、冷たい石の床にコツンと置いた。

そして一礼して退出する。

 

分厚い扉が閉まる音が、地下に重く響いた。

 

男は床に跪いたまま、ぴたりと動かない。

その濁りきった瞳は、辻村の顔ではなく腰の図嚢に、這いずるような執念で釘付けになっていた。

 

辻村は椅子に座ると、煙草に火をつけてゆっくりと紫煙を吐き出す。

 

「……思い出したか」

 

辻村が静かに告げると、男はビクンと肩を震わせ、姿勢を正した。

 

「お前が木島の応接間に、お茶を運んだ時のことだ。中には誰がいた」

 

「三名の客人の方がいらっしゃいました。その中のお一人が、軍服を着た男でした」

 

「どんな男だった?」

 

「金縁の眼鏡をかけ、頭は丸刈りで口髭を生やした、やや細身の男です。左の頬に、大きな黒子がありました」

 

それは辻村が教え込んだ、権藤という男の克明な特長だった。

 

「部屋に入った時……奴は何と言っていた?」

 

「……『ボルコフ』と、言いかけて……」

 

男は瞬き一つせず、すらすらと答える。

 

「私と目が合うと、気まずそうに咳払いをして、すぐに口をつぐみました」

 

「その後はどうした」

 

「……お茶を置き、すぐに部屋を出ました。ですが、興味本位で……扉に、耳を当てました」

 

「何が聞こえた」

 

「他の客人の方が、『軍務局の方はどうですか』とか、『権藤中佐殿』と呼んでいるのが聞こえました。それから……」

 

「それから、なんだ」

 

「話し声はくぐもっていて、詳しい内容はわかりませんでしたが……間違いありません。その中佐の声で、ボルコフからの『金』はまだか、と。それだけははっきり聞こえました……!」

 

男の目は、もはや完全に「それを見た」者の目になっていた。

 

「……そうか」

 

辻村は図嚢の留め具を外した。

 

カチャリ、という無機質な音が独房に響くと、男はだらしなく口を開け、縋るような表情で自らの砕かれた左腕を辻村へと差し出した。

 

「最初から話せ」

 

煙草がジリジリっと燃えて辻村の口元から灰が落ちた。

 

三時間後。

 

「……ボル、コフからの……金は……」

 

男は朦朧としている。

 

「……そうか」

 

辻村はゆっくりと立ち上がると、図嚢の蓋を静かに閉じ、重い鉄扉を無造作に叩いて担当の看守を呼んだ。

 

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