嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第6話 幻影の決裁

二月上旬。

九段下の東京憲兵隊本部、二階の隊長室。

 

重厚なマカボニーの机越しに、初老の将校が眉間を深く揉みほぐしていた。

東京憲兵隊長・大山陸軍大佐である。

 

机の前に直立不動で立つ須藤と、参謀部二課の辻村を、大山は血走った眼で睨み上げた。 

 

「……須藤。軍務局の権藤中佐を『アカの疑いあり』として上へ報告するなど、正気の沙汰ではないぞ。もしその男の供述が、デタラメだった場合、俺もお前もタダでは済まんのだぞ」

 

「はっ。ですが隊長殿、あの男の様子がどうにも……」

 

大山は忌々しげに手元の調書を弾き、視線を辻村へ向けた。

 

「辻村中尉。参謀部二課の調べで、その男の言うボルコフとかいうロシア人の見当はついているのか?」

 

「いえ。現時点で、そのようなロシア人の存在は確認できておりません」

 

辻村は表情ひとつ変えずに答えた。

 

「そうか……しかし事が事だ。私が直接確かめる。案内しろ」

 

三人の軍靴が階段を響かせ、地下の尋問室へと向かった。

 

階を下るごとに、空気の密度が変わっていく。

代わりにカビと澱んだ悪臭、そして微かな血の錆びた匂いが、鼓膜を圧迫するようにまとわりついてきた。

 

地下の薄暗い尋問室。

長机の中央に大山がどっかりと腰を下ろし、その後ろの暗がりに須藤と辻村が立った。

 

「連れてこい」

 

二人の憲兵が、左手を汚れた包帯で吊った男を引きずり出してきた。

 

男は椅子に座るなり、暗がりに立つ辻村に視線をやったが、その無言の圧に射抜かれると、ガタガタと痙攣するように震え始めた。

 

「貴様だな。木島泰造の屋敷で、権藤中佐を見たというのは……さらにロスケから金を受け取る話をしていただと?」

 

大山が机をバンと叩き、怒声で威圧した。

 

「軍務局の佐官が、ロスケの犬に成り下がっているなどあり得ん! 貴様、でっち上げたな!?」

 

「ち、違います……! 木島先生の客間でお茶を出した時、確かに軍服の男がいたんです! 私の顔を見て、あわてて『ボルコフ』と言いかけて口をつぐんで……!」

 

「出鱈目を言うな! なぜその男が、軍務局の権藤だと分かった!? ただの茶汲みごときが、名前まで知るはずがなかろう!」

 

大山が鋭く問い詰めると、男は首を激しく横に振りながら必死に弁明した。

 

「と、扉越しに聞いたんです! 部屋を出た後、気になって扉に耳を当てたら……他の客人たちが『軍務局の方はどうですか』とか『権藤中佐殿』と呼んでいて……!! その中佐の声で、ボルコフからの金はまだかという話も、はっきりと聞こえたんです!!」

 

「嘘をつくな! では権藤はどんな男か言ってみろ! 見た目は、背格好は!?」

 

大山がさらに身を乗り出して怒鳴りつけると、男はもはや人間としての尊厳すら維持できず、ただ床に這いつくばって絶叫した。

 

「ほ、本当です! 金縁の眼鏡をかけて、頭は丸刈りで……痩せ型で口髭を生やしていて……左の頬に、大きな黒子がありましたッ!!」

 

その言葉を聞いた瞬間、大山は落雷にでも打たれたように、ピタリと動きを止めた。

 

「なっ……今、何と言った……」

 

「金縁のメガ……」

 

「そうではない! 左の頬に何と言った!?」

 

「はいっ、大きな黒子がありました!」

 

「……」

 

「信じてください……! 私は嘘なんてついていない! お願いです、もうあの暗闇には戻さないでくださいッ……!!」

 

独房内は、極限まで追い詰められた人間から放たれる、むせ返るような絶望の匂いに満ちた。

 

「……左頬の黒子」

 

大山は思わず息を呑み、背筋に冷たい汗をかいた。

 

(……こいつは本当に『見た』のか……)

 

口を真一文字に結んで一点を数秒見つめる。

 

「……もういい。連れて行け」

 

大山が忌々しげに手を振ると、男は泣き叫びながら地下牢の奥へと引きずられていった。

 

静まり返った尋問室で、大山は大きく息を吐き出すと、須藤を振り返った。

 

「……須藤。俺はな……権藤中佐に会ったことがある。」

 

大山は眉間の皺を揉み込む。

 

「……お前の言う通りだ」

 

「はっ」

 

「やむを得ん、調書を整えろ。私の判を捺し、憲兵司令部へ上げる。司令官閣下の決裁を経て、陸軍省本省行きだ」

 

大佐が足早に部屋を出て行く軍靴の音を聞きながら、辻村は静かに目を伏せた。

 

裸電球が、またジリッと小さく鳴る。

 

壁際の暗がりで、辻村は手袋に包まれた指先で、ただ静かに口元の髭を撫でた。

 

     *

 

数日後。

 

帝都に木枯らしが吹きすさぶ、身を切るような寒さの夕暮れ。

赤坂の料亭『小野川』奥座敷では、再び東部軍(第二課)と内務省(警保局)による非公式な情報交換の宴が開かれていた。

すき焼き鍋から立ち上る甘い醤油の香りと、上質な日本酒の匂いが部屋を満たしている。

 

「いやぁ、漆原課長補佐殿。今夜も極上の肉を手配していただき、感謝に堪えませんな」

 

「なんの。これも国体護持のため、互いの親睦を深めるための潤滑油ですよ、長谷川少佐殿」

 

すっかり上機嫌になった長谷川少佐が、赤い顔で立ち上がった。

 

「少々、手洗いを借りてきます。辻村中尉、課長補佐殿のお相手を頼むぞ」

 

「はっ」

 

長谷川が足元を少しふらつかせながら襖を開け、廊下へと消えていく。

パタン、と襖が閉まった瞬間――部屋の空気が、微かに変質した。

 

辻村は静かに銚子を手に取り、内務省の若き俊英・漆原忠之の杯へ、とろりと酒を注いだ。

 

「……漆原課長補佐殿」

 

「うん?」

 

「長谷川少佐殿がお戻りになる前に……ここだけの話として、一つお耳に入れておきたいことがありまして」

 

辻村は声を潜め、平坦な口調で切り出した。

 

「先日、憲兵隊が拘束した木島泰造の件ですが」

 

「ああ、あのソ連地政学の権威か。我々特高も先を越されたが、周囲の枝は逃がさんつもりだ」

 

忠之が杯を口に運ぶ手を止め、興味深そうに視線を向けた。

末席で給仕をしていた弟の克彦少尉も、気配を殺して二人の会話に耳を立てる。

 

「ええ。ですが、枝の証言と木島の供述がまったく噛み合わないのです。木島は完全否認を貫いている。……というのも、活動家の男は、木島の屋敷で『軍務局の権藤中佐』が密談し、ソ連の影が見え隠れしていたと供述しておりましてね」

 

「……軍務局の、権藤中佐だと?」

 

忠之の目の色が変わった。

 

「ええ。何しろ軍務局といえば、陸軍の中枢。確たる物証もないまま権藤中佐の身辺を洗うという訳にもいかず……このまま大きな力が働き、一介の活動家の狂言として揉み消されてしまうのではないかと」

 

「……なるほど。確かにそうかもしれませんな」

 

「ですが……事が事です。もし本当に主戦派の中枢が裏でソ連と通じているのなら、このまま身内の論理で揉み消すのは、国体の護持に関わる」

 

辻村は困ったように眉を下げ、忠之へそっと身を乗り出した。

 

「我々としても、非常に扱いが難しく困り果てておりましてね……」

 

鍋の中で、ネギと豆腐がグツグツと煮える音だけが響いた。

 

忠之はゆっくりと杯を干し、ニヤリと、口角を吊り上げた。

 

「……辻村中尉。軍人というのも、恐ろしい毒を吐かれる」

 

「何の話でしょうか?」

 

「……いえ。私も少し酔いが回りました。明日から、木島泰造の『幅広い交友関係』の調査が、我々内務省でも少し忙しくなりそうですな」

 

忠之が満足げに笑ったその時、廊下から長谷川少佐の重い足音が近づいてきた。

 

辻村は何事もなかったかのようにすっと姿勢を戻し、手元の猪口に視線を落とす。

 

パタン、と襖が開き、上機嫌な長谷川少佐が戻ってきた。

 

「いやあ、お待たせした」

 

末席の克彦が、絶妙な間で銚子を手に取り、人懐っこい笑みを向けた。

 

「少佐殿。お肉が煮えすぎてしまいますよ。……それに、今夜はこの後、赤坂でもとびきりの綺麗どころを呼んであります。まだまだお付き合いいただきますからね」

 

「おお、少尉! そいつは楽しみだな!」

 

長谷川が相好を崩し、座敷の空気が和らぐ。

 

辻村は自分の猪口に注がれた酒を、ゆっくりと喉の奥へ流し込んだ。

 

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