嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第7話 疑心暗鬼の連鎖

1944二月下旬

日比谷 第一生命館五階

 

参謀本部第二課の執務室には、将校たちの立てる絶え間ない雑音が充満していた。

隣の班から響く和文タイプライターの重い打鍵音。誰かが体重を預けるたびにギシギシと軋む椅子の音。どこかで誰かが湯呑を倒したのか、「あ、しまった」という声と、慌てて机を拭く気配がする。

 

「辻村中尉、憲兵隊から回ってきた需品本廠の柏木大尉の供述調書の写しは読んだか」

 

向かいの席から、木田大尉が呆れたような声を出した。

 

「ええ。物資の横流し事案ですね」

 

「最初はただの汚職かと思われていたが、とんでもないアカの犬だったようだぞ。遊郭の借金などただの隠れ蓑だ」

 

木田は手元の書類をパラパラと捲り、指先で叩いた。

 

「見ろ。三日目まではヤミ業者との繋がりを白状して泣き喚いていた男が、四日目の尋問から突如として、コミンテルンの指示で動いていたと自白している。皇軍の兵站網を内部から破壊する目的だったそうだ」

 

「……」

 

「ソ連工作員との接触手順から、暗号の受け渡し(デッド・ドロップ)の手口まで、恐ろしく詳細に喋っている。よくぞここまで口を割らせたものだ」

 

辻村は無表情のまま、自分の手元にある供述調書の写しに視線を落とした。

 

(ここまで口を割っておきながら、肝心のソ連工作員の手がかりは何もないまま公文書として記録に残させたか……なかなかだな)

 

「おい。木田、辻村」

 

ふいに、部屋の奥の机から長谷川少佐が声をかけてきた。手には読みかけの夕刊が丸められている。

 

「はっ」

 

辻村たちが立ち上がって机の前に進み出ると、長谷川少佐は腕を組み、深く頷いた。

 

「例の柏木大尉の一件だろう。まったく、ただの不良将校かと思えば、恐ろしいところまで根を張っているものだな」

 

「はっ。我々防諜部門もうかうかしていられません」

 

木田が答えると、少佐は満足げに鼻を鳴らした。

 

「単なる横領だけで終わらせず、背後のソ連の影まで洗い出した憲兵隊の功績は大きい。……お前はどう見る、辻村中尉」

 

問われた辻村は、ただ静かに手元の調書を閉じた。

 

「……おっしゃる通りです。ソ連工作員の手口まで、一切の矛盾なく整然と記されている。実に見事な供述調書です」

 

辻村は平坦な声で言った。

 

「この調書にあるソ連の工作員を、我々二課で何としても突き止めねばならんな。スウェーデンあたりの外交官か、あるいは同盟国のドイツ人にでも化けて帝都に潜伏しているのか……」

 

長谷川少佐は腕を深く組み、鼻息を荒くした。

 

「もっともであります、少佐殿」

 

辻村は丁寧な声で話を合わせた。背後では、別の将校がバサリと乱暴に書類の束を机に置く音がした。

 

「早急に特高とも連携し、都内の外国人脈を徹底的に洗うべきかと」

 

「うむ。頼んだぞ、木田大尉、辻村中尉」

 

「はっ。必ずや網にかけてみせます」

 

隣で木田が力強く敬礼する。長谷川少佐はそれに頷きながら、ふと辻村に視線を向けた。

 

「ところで辻村、例の『ボルコフ』の消息は掴めたか」

 

「……いえ。あの件は……何しろ相手が相手ですので、表立った調査が難しく……未だ」

 

辻村が声を潜め、困惑したような表情を作ってみせると、長谷川少佐は苦々しい顔で丸めた夕刊を握りしめた。

 

「……そうだったな。まったく……ロスケはつくづく信用ならん」

 

長谷川少佐は重いため息をつき、丸めた夕刊で自らの肩をポンと叩いた。

 

「……しかし、あの『ソ連参戦の暗号傍受』の騒動以来、軍内部にまで売国奴が潜んでいるような事案が増えた気がするな。前線の将兵が血を流して戦っているというのに、まったく、皇軍の足元はどうなっているのだ」

 

「ええ。内部の敵ほど恐ろしいものはありません」

 

辻村が表情一つ変えずに同調すると、長谷川少佐は忌々しそうに顔をしかめ、丸めた夕刊を広げ直して身体を椅子へ深く沈めた。

 

辻村は敬礼して自席へ戻り、再び机上の調書へ視線を落とした。

 

(いくら底まで洗おうと、この件に関しては絶対に何も出はしない……両方とも存在しない幽霊だからな)

 

辻村は鼻を鳴らして、手元の調書をパタンと閉じた。

 

誰にも聞こえない声で、ふと口元を歪める。

 

「……誰だか知らんが、やるじゃないか」

 

辻村は調書の端をトントンと机で揃え、未決箱の底へ無造作に放り込んだ。

 

     *

 

3月上旬。

銀座の路地裏にある、看板のない会員制の酒場。

 

薄暗い店内には、ヴィヴァルディの弦楽が静かに流れ、紫煙が天鵞絨(ビロード)の長椅子を舐めるように漂っている。

奥のボックス席からは、身元の知れない客たちの低いくぐもった笑い声が微かに漏れ聞こえていた。

 

カウンターの隅で、辻村はグラスの氷をゆっくりと揺らした。カラン、と分厚いクリスタルが冷たい音を立てる。

隣には、軍服姿の漆原克彦少尉が、少し頬を赤くして洋酒のグラスを傾けている。

 

「……先日の『小野川』の膳立て、無理を言って済まなかったな」

 

辻村はグラスを傾けながら、淡々とした口調で切り出した。

 

「いえ。ですが……ああいう事だったんですね」

 

克彦は少しだけ垂れた目元を細め、手元の琥珀色の液体を見つめた。

 

「長谷川少佐が宴を楽しみにしていたのは事実だ。それに、君の兄上も良質な肉に満足しておられた」

 

辻村が真顔のまま応じると、克彦は小さく吹き出し、肩を揺らした。

 

「……ええ。お陰様で、内務省もずいぶんと『やり甲斐のある仕事』を見つけられたようです」

 

克彦はグラスを置き、声を一段落とした。

カウンターの向こうで、バーテンダーがアイスピックで硬い氷を砕く乾いた音が静かに響く。

 

「軍務局の権藤中佐殿は、米英の画策だと猛抵抗しているそうですね」

 

「だが、軍部内の空気は冷たい。火の粉を被りたくない連中は、すでに潮引きのように距離を置いている」

 

辻村は紫煙を細く吐き出した。

 

「確たる物証がない以上、軍法会議で処分されるようなことはない。……だが、中佐殿はいずれ中央から外されるだろう」

 

克彦が探るような視線を向ける。 

 

「……最近、司令部内の空気が微妙に変わった気がするのは、私の気のせいでしょうか」

 

蓄音盤の針が微かに擦れ、冷徹なヴァイオリンの旋律が二人の間を通り抜けた。

 

「今、あまり勇ましい事を言えば目立つ……コイツもまさか、となる……思想というのは見えんからな」

 

「なるほど……疑心暗鬼ですか」

 

克彦は深く息をつき、自嘲するように小さく笑った。

 

「特に軍務局の連中は高級官僚だ。戦地で弾に当たる覚悟はあっても、本省で自分の履歴書に傷がつくことは嫌う」

 

辻村は手元の煙草を灰皿に押し当て揉み消した。

 

「結局のところ、己の地位を守る習性には、どんな高邁な信念も敵わんということだ」

 

克彦は何も言わず、ただ同意するようにグラスを掲げ、残りの酒を静かに飲み干した。

グラスの底に残った氷が、カチャリと小さな音を立てた。

 

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