嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

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第8話 一段上の印影

一年と少し前。

 

1942年十二月下旬

昭南島(旧シンガポール)

 

路地裏の湿った空気に、安煙草と腐りかけた果実の匂いが混ざり合っている。

 

看板のない酒場の奥。薄暗いランプの光が届かないボックス席に、国民服姿の男が三人座っていた。

 

熱帯の夜だというのに、首元までしっかりとボタンを留め、それでも猫背の背中が布地を余らせている、浅黒い肌をした「小柄な男」は、手元のグラスに注がれた酒を、退屈そうに揺らしていた。

 

「……以上が、南方軍総司令部における第二四半期の物資移動の概算です」

 

向かいに座る若い部下が、声を極限まで押し殺して報告を続ける。

 

「港湾部からジャワ方面への横流しは、依然として続いております。また、先月潜らせた工作員からの報告によれば、軍務局の一派が、現地の華僑から巻き上げた資金を独自のルートでプールしている形跡が……」

 

「なるほど。で、その小役人どもは、いくら貯め込んでいるんだね?」

 

「はっ、見込みでは毎月二千圓ほどの……」

 

「あぁ、待ってくれ。……もういい」

 

小柄な男はグラスをテーブルに置き、ひどく退屈そうにため息をついた。

 

「確かに、東京の『閣下』は、微に入り細を穿つ御方だ。一銭一厘の帳尻までお気にされる性分だが……全てを追っていてはキリがない」

 

小柄な男はグラスを揺らしながら、ゆっくりと続ける。

 

「泥棒を追うなとは言わんよ。だがね、閣下のお耳に入れるには、桁が二つばかり足りない。……閣下は今、大東亜という途方もなく広大な地図を見ておられるんだ。その端っこで、腹を空かせた連中が小銭をくすねたところで、大局には何の影響もない」

 

「はっ……おっしゃる通りであります」

 

「我々の仕事はね、その有象無象の中から『首輪を噛み切ろうとする狂犬』だけを見つけ出し、間引くことだ。……君たちは、その塩梅(あんばい)を上手く見定めねばならない。違うかね?」

 

「はっ……肝に銘じます」

 

「資金の流れは引き続き追いたまえ。だが、報告書はもっと洗練させろ。閣下の貴重な時間を、退屈な小銭の勘定で奪うな」

 

二人が頷いた、その時である。

 

バンッ、と乱暴な音を立てて酒場の木戸が蹴り開けられた。

 

「憲兵隊だ! 全員動くな!」

 

軍靴の重い足音が店内に雪崩れ込み、酔客たちの悲鳴と怒号が交錯する。懐中電灯の鋭い光が、薄暗い店内を無遠慮に舐め回した。

 

軍刀を吊った猪首の下士官(軍曹)が、奥のテーブルで静かにグラスを傾けている男たち三人の姿を認め、目を細めて歩み寄ってきた。

 

「おい、そこの薄汚い連中。立て」

 

憲兵軍曹は越智のテーブルを軍手でバンと叩き、横柄な声で凄んだ。

 

「こんな時間までコソコソと、何の密談だ。身分証を出せ。荷物も全部開けろ」

 

部下二人が反射的に腰を浮かせかけるが、小柄な男は手でそれ制した。

 

男はグラスの酒をゆっくりと飲み干すと、哀れむような笑みを浮かべた。

 

「……やれやれ、まったく。君も運のない男だな……」

 

小柄な男はゆっくりとグラスを置く。

 

「相手が誰かも知らずに、机を叩いてしまった」

 

「あぁ? なんだと貴様……!」

 

軍曹が顔を真っ赤にして軍刀の柄に手をかけた瞬間、小柄な男は内ポケットから黒革の手帳を取り出し、テーブルの上に無造作に放り投げた。

 

軍曹は反射的にそれを受け取り、硬い指先で確かめる。

 

開かれた手帳の頁。そこには、陸軍省の権威を示す重々しい公印と「軍事機密」の赤い透かし文字。そして――。

 

『特種査察命令』

『参謀本部第二部 差遣』

『陸軍大尉 越智広重』

(発令)陸軍省

(経由)参謀本部第二部

(決裁)第二部長 有末精三

 

その書式は見慣れたものだった。

 

だが――決裁欄の印影の位置が違う。通常より一段上に置かれている。

 

軍曹の顔からスッと血の気が引き、土気色に変わった。

 

陸軍省の中枢から直接特命を帯びている、中央の特務将校。それが目の前の、擦り切れた服を着た小柄な男の正体だった。

 

越智広重(おち・ひろしげ)は背もたれに深く寄りかかったまま、冷え切った眼差しを向けた。

 

「……君の身分証を見せろ」

 

「は、はっ! 申し訳ありませんッ! 当方、昭南憲兵分隊の――」

 

「しーっ……」

 

越智は人差し指を唇に当て、面倒くさそうに顔をしかめた。

 

「どうして君は、そう無駄に声が大きいんだ。ただでさえこの島は暑苦しいというのに……君のその大声のせいで、余計に頭痛がしてくる」

 

越智はゆっくりと立ち上がると、直立不動で震える軍曹の正面に立ち、凍りついた手から身分証をすっと抜き取った。

 

薄暗いランプの光に透かし、嫌味ったらしい視線で文字をなぞる。

 

「……そうか。大島軍曹か」

 

越智は名前を呟くと、ふっと笑みをこぼした。そして抜き取った身分証を、大島の軍衣の胸ポケットへポンと滑り込ませた。

 

そのまま指先で、軍曹の乱れた襟を撫でるように丁寧に直していく。大島の額から、滝のような冷や汗が流れ落ちた。

 

「私が誰の、いや、正確には『どのお方』だな……の指示で、この南方の酒場に身分を隠し、こんな薄汚れた服を着て安酒を飲み、便所のような底辺を這いずり回っているか……軍曹という身分にもなれば、少しは想像がつくと思うがね?」

 

「も、申し訳ありま……」

 

「失礼だがね……私の抱えている仕事に比べれば、君たちのやっている、セコい末端の小遣い稼ぎの取り締まりなど、道端のゴミを拾うような話なんだよ」

 

ポン、と越智は最後に大島の肩の埃を払った。

 

そして、その耳元へ唇を寄せ、蛇のような囁きを落とす。

 

「もし、この店で私たちと会った事を、ほんの少しでも誰かに喋ったり、私の作戦にほんの僅かでも影響するようなことがあれば……君は来月、東部ニューギニア最前線――弾雨の降るジャングルのど真ん中で、勇ましく敵と交える事になるだろう」

 

「……ッ!」

 

「いいかね。君が本当に誰にも喋らなかったとしてもだ……もし、この件がどこかから漏れれば、私は君が喋ったと判断する。その時は運がなかったと思ってくれ」

 

「はっ……! 承知いたしました……ッ!!」

 

「よろしい。では、君のその立派な仕事を続けなさい。……店を出る時は、くれぐれも静かにね」

 

大島軍曹は蒼白な顔のまま、音を立てないように必死で、しかし狂ったような速さで敬礼すると、逃げるように店から出て行った。

 

静寂を取り戻した店内で、越智は微かに乱れた国民服の袖を直し、再び椅子へ腰を下ろした。

 

何事もなかったかのように、グラスへ酒を注ぐ。

 

「しかしまぁ……野良犬のしつけまで、私の仕事だとは思わなかったよ」

 

越智はテーブルの上の手帳を懐にしまいながら、完全に固まっている二人の部下へ人懐っこい笑みを向けた。

 

「さて……話を折られたが、どこまで話したかな?」

 

グラスの酒に、薄暗いランプの光が深い影を落としていた。

 

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