押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第1話 押入れの向こうは市場だった

 貯金が十万円ある、という表示は、スマホの画面の中だけなら少し頼もしく見えた。

 

 口座残高の欄に六桁の数字が並んでいる。六桁というのは、五桁より明らかに偉そうだ。少なくとも、画面の中ではまだ人間らしい生活をしているふりができる。篠原澪はちゃぶ台に片肘をつき、その数字を見下ろしながら、今月の支払い予定を頭の中でひとつずつ引いていった。

 

 まず家賃がある。次にスマホ代がある。電気代とガス代と水道代も、遠慮なくやってくる。来週買わなければならない大学の教材費まで思い出したところで、十万円は急に十万円ではなくなった。画面の中では六桁でも、生活の中ではすでに穴だらけだった。

 

「十万円ある。数字だけなら、ある」

 

 澪はそう言ってから、家賃の予定額を思い出し、スマホを伏せた。さらに冷蔵庫の中身まで思い出してしまい、畳の上で少し背中を丸める。卵二個、豆腐一丁、納豆ひとつ。あと、いつ買ったか忘れたチューブのわさび。お金だけでなく、食生活も薄かった。

 

 練馬区江古田の古いアパートの六畳間は狭い。ただし、澪にとっては必要なものがほとんど手の届く範囲にあるという意味で便利でもあった。窓際には安物のアコースティックギターが立てかけてあり、壁の小さなフックには作りかけの革紐ペンダントがかかっている。ちゃぶ台の上では大学のレポート用紙と読みかけの文庫本、金属用のヤスリ、ピンセット、銀線の切れ端が同じ場所で暮らしていた。端に転がった真鍮板の小さな破片は、蛍光灯を受けて鈍い金色に見える。

 

 他人が見たら、たぶん散らかっていると言う。澪の中では、これは作業中だった。問題があるとすれば、その作業中という状態が三週間ほど続いていることくらいだった。

 

 押入れの前には、百円ショップで買った収納ケースが二つ並んでいる。中には工具、布、レジン、金具、それから使い道の分からない小袋が押し込まれていた。使い道の分からない小袋が収納ケースの中にある時点で、整理整頓には失敗している。澪はそれを見ないふりをして、作業板の上の小さな銀の輪をつまんだ。

 

 それは指輪にするつもりだったものだ。まだ歪んでいて、つなぎ目も少し荒い。澪は指先でその歪みをなぞり、うっかり「私みたい」とつぶやきかけて、すぐに口を閉じた。そういう比喩は、小説の中ならいい。現実の六畳間で口に出すと、少し痛い。

 

 澪は二十歳の大学生だった。大学にはちゃんと通っている。授業も出るし、出席カードも出すし、レポートも締切の少し前には出す。ただ、大学の中で彼女を探そうとすると、案外難しい。教室では端の席に座り、学食では壁際にいる。グループワークでは必要最低限だけ話し、講義が終わると、誰かと雑談する前に帰る。

 

 軽音サークルの新歓に一度だけ行ったことがあった。自己紹介の輪ができかけた瞬間、澪は急に用事を思い出したことにして帰った。用事はなかった。帰って、部屋でギターを弾いただけだった。

 

 ギターは誰かに聴かせるためではない。夜、六畳間の空気が自分の呼吸だけでいっぱいになるのが嫌な時、澪は弦を鳴らす。下手ではない。けれど、うまいと言われる場所へ出たこともない。彫金も似たようなもので、細い銀線を曲げ、真鍮板を切り、ヤスリで角を落として、少しずつ形を整える時間だけが、澪を落ち着かせた。

 

 金属は、人間より分かりやすい。力を入れすぎれば曲がる。熱を当てすぎれば変色する。失敗すれば、失敗した理由がだいたい形に残る。人間関係は、失敗した理由が残らない。ただ、気まずさだけが残る。

 

 その時、部屋が揺れた。

 

 最初は、隣の部屋の住人が壁に何かぶつけたのかと思った。けれど、窓際のギターの弦が、ちゃらん、と頼りなく鳴った。棚の上に積んでいた文庫本が三冊、ぱたぱたと落ちる。スマホには地震通知が出ていた。震度三。揺れ自体はすぐに収まったが、床に落ちた三冊を拾った澪は、背表紙を見て少しだけ顔をしかめた。

 

 一冊目は異世界転移もの。二冊目は異世界で商会を作る話。三冊目は、異世界で税制改革をする話だった。澪は三冊目を棚に戻しながら、自分でもなぜ税制改革まで持っているのか分からなくなる。

 

 その本を棚へ戻そうとした時、押入れの中から風が吹いた。

 

 押入れは、ふつう、風を吹かせない。少なくとも澪が二十年生きてきた範囲では、押入れは布団をしまう場所であり、季節外れの服を押し込む場所であり、見なかったことにしたい荷物をしまう場所だった。風を吹かせる機能はない。

 

 けれど、確かに吹いた。湿った畳や古い布団の匂いではなかった。草の匂いがする。乾いた土の匂いもする。その奥に、焼いた肉のような匂いまで混じっていた。

 

 澪は本を抱えたまま押入れを見た。襖の隙間から、細い光が漏れている。蛍光灯の白い光ではない。窓から差す夕方の光でもない。もっと強く、乾いた、外の光だった。心臓が変な音を立てる。怖い。けれど、見たい。困ったことに、怖いのと見たいのは同時に来る。そして、だいたい見たい方が少しだけ勝つ。

 

 澪はゆっくり押入れへ近づき、襖に手をかけた。

 

 開ける。

 

 押入れの中には、石畳の路地があった。

 

 布団はなかった。冬用毛布も、大学一年の時に買って一度も使っていないヨガマットもなかった。代わりに、石畳が奥へ続いている。左右には土壁と木の柱があり、少し先には布の日除けが張られていた。その下を人が歩いている。荷車が軋み、籠を抱えた女が通り過ぎ、見知らぬ文字の看板が揺れている。

 

 空が見えた。あまりにも普通に青かったので、澪は逆に混乱した。

 

 彼女は無言で襖を閉めた。五秒ほど待ってから、もう一度開ける。石畳の路地は消えずにそこにあった。今度は十秒待ってみたが、やはり同じだった。押入れの向こうは、しつこく異世界だった。

 

「しつこい」

 

 異世界に向かって言う言葉ではなかった。

 

 澪はスマホをつかみ、検索欄を開いた。まず「押入れ 異世界 対処」と打つ。小説投稿サイトが出た。都市伝説まとめが出た。家具修理業者も出た。次に「地震後 押入れ 別世界」と打つ。やはり小説投稿サイトが出た。戻れなくなった主人公が王女に助けられたり、冒険者ギルドに登録したり、チート能力で無双したりする楽しそうなタイトルが並ぶ。

 

 澪はスマホを置いた。

 

「役に立たない。私と同じ趣味の人たちが楽しそうにしてるだけだ」

 

 だが、現実の押入れは消えない。

 

 澪は実験することにした。いきなり体を入れるほど、彼女は勇敢ではない。むしろ、かなり臆病だった。臆病な人間は、少しずつ試す。ちゃぶ台の上から、昨夜コンビニでもらって使わなかった割り箸を一本取り、襖を細く開けて向こうへ差し込んだ。

 

 何も起きない。引き戻して確かめると、焦げても濡れてもいないし、何かに噛まれた跡もなかった。

 

「よし」

 

 次に、レポート用紙を一枚丸めて投げた。紙は石畳の上に落ち、風に転がる。すると、小さな裸足の子どもが走ってきて、それを拾い、路地の奥へ逃げていった。澪は手を伸ばしかけたが、届くはずもない。初回損失はレポート用紙一枚。まだ許せる。

 

 スマホのカメラを向けようとして、すぐにやめた。落としたら終わる。異世界を発見した日にスマホを失う女にはなりたくなかった。

 

 澪は作業机の横にあった三十センチ定規を取った。透明なプラスチックの、どこにでもある定規だ。それを押入れの向こうへ、そっと差し込む。先端が石畳の上に出た瞬間、小さな手が伸びてきた。

 

 大人の手ではなかった。指は細く、爪の間に土が入っていて、手首に赤い紐を巻いている。

 

「ひっ」

 

 澪は声にならない声を出した。定規が引っ張られ、反射的に引っ張り返す。押入れを挟んで、二十歳の女子大生と異世界の子どもが、三十センチ定規を奪い合う。異世界との最初の交流としては、かなり情けない。

 

「返して。それ、私の三十センチ定規」

 

 澪が小声で言うと、向こうから甲高い声がした。

 

「これ、まっすぐだ!」

 

 澪は動きを止めた。

 

 意味が、分かった。

 

 知らない響きなのに、頭の中で日本語のように意味が結ばれる。その一瞬、澪の手から力が抜けた。定規は、すぽんと向こうへ抜ける。

 

「あっ」

 

 小さな足音が遠ざかっていった。澪は押入れの前に座り込み、しばらく開いたままの襖を見つめていた。言葉が分かる。そう気づいた少しあとで、定規を取られたことにも気づいた。

 

 異世界への第一歩は、損失三十センチ定規で始まった。

 

 その日は、それ以上何もできなかった。ギターを弾いてもコードが上の空になる。作業板の上の銀線を曲げようとしても、力加減を間違えそうで怖い。文庫本を開いても、異世界の描写が急に現実味を持ちすぎて読めない。

 

 夜、布団に入っても眠れなかった。押入れの向こうから、かすかに市場の音が聞こえる。人の声、荷車の音、遠くで鳴る鐘のような音。あちらの時間は、こちらと同じではないのかもしれない。あるいは単に、夜でも賑わう場所なのかもしれなかった。

 

 澪は布団の中で、何度も寝返りを打った。怖いのに、気になる。自分の人生で、こんなに大きなことが起きたのは初めてだった。けれど、相談する相手はいない。大学の知り合いに「押入れが異世界につながりました」と言う勇気はない。言ったところで、距離を置かれるだけだ。これ以上距離を置かれる余地があるのかは、少し疑問だったが。

 

 

 

 

 

 翌日、澪は大学へ行った。

 

 講義には出た。だが、内容はほとんど入ってこなかった。教授が前で話している間、澪はノートの端に、昨日から頭を離れないことを小さく書いていた。押入れが市場につながっていること。言葉が通じること。三十センチ定規を取られたこと。最後の一行だけ、妙に生活感があった。

 

 講義が終わると、澪はまっすぐ帰った。誰とも話さない。そこは普段通りだった。

 

 部屋に戻り、押入れの前に座る。何を持っていくか。澪はリュックを広げ、まずスマホを入れようとして手を止めた。写真を撮りたい気持ちはあるが、落としたら終わる。異世界発見二日目にスマホを失う女にはなりたくなかった。

 

 財布も迷った。日本円が向こうで使えるとは思えないし、学生証をなくしたら現代側の生活が普通に詰む。澪は財布をちゃぶ台へ戻し、代わりにハンカチと水の小さなペットボトルを入れた。飴、メモ帳、ボールペン。そこまではまだ分かる。問題は、そのあとだった。

 

 小さな爪切り、安全ピン、昔作った真鍮のペンダントを並べたところで、澪はリュックの中を見下ろした。

 

「勇者の初期装備じゃない」

 

 どちらかといえば、忘れ物の多い大学生の防災ポーチだった。

 

 でも、今の自分に剣を持たせたら、自分の足を切る未来しか見えない。澪は小さな爪切りを手に取った。現代では、どこにでもある道具だ。けれど昨日、向こうの子どもは三十センチ定規を宝物みたいに持っていった。なら、こういう小さな道具にも価値があるのかもしれない。

 

 澪は深呼吸し、襖を開けた。

 

 石畳の路地がある。

 

 靴を履き、押入れの敷居をまたぐ。畳から石畳へ、足裏の感触が変わった。部屋の空気が背中にあり、目の前には乾いた風がある。土と煙と肉の匂い。人の声。布のこすれる音。どこかで鳴く動物の声。

 

 振り返ると、自分の部屋が見えた。ちゃぶ台、ギター、工具、大学のプリント。ちゃんと戻れそうだと少し安心した瞬間、背後から声がした。

 

「おい」

 

 澪は飛び上がった。

 

 振り向くと、大柄な男が立っていた。革の胸当てをつけ、腰に短い剣を下げている。髭が濃く、目つきは悪くない。けれど現代日本の女子大生には、十分すぎるほど怖い。

 

「どこから来た」

 

 澪は固まった。練馬区江古田です、とは言えない。押入れです、はもっと言えない。

 

「東の方から」

 

 男は眉を上げた。

 

「東か」

 

「はい」

 

「どの村だ」

 

「えっと……かなり東です」

 

「かなり東」

 

「だいたい東です」

 

「だいたい」

 

 自分でも、嘘が下手すぎると思った。

 

 男は澪のパーカーとジーンズを見た。リュックを見て、足元のスニーカーも見る。視線が痛い。澪は靴の先を少し内側へ向けた。

 

「妙な服だな」

 

「洗濯しやすいので」

 

「旅人か」

 

「はい。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「旅の途中です」

 

 男はしばらく澪を見ていたが、やがて鼻で笑った。

 

「盗みはするな。揉め事も起こすな」

 

「はい」

 

 澪は勢いよくうなずいた。盗みも揉め事も、どちらも自信がなかった。

 

 市場に入ると、音が一気に増えた。布の日除けが頭上で揺れ、その下に木箱や籠が並んでいる。丸いパン、干し魚、毛皮、木の椀、鉄の釘、薬草の束、色のついた石、革紐、粗い鏡、縫い針。商品は多いのに、現代の店の棚とはまるで違っていた。

 

 澪は歩きながら、つい細かいところを見てしまう。針は太く、少し曲がっているものもある。鏡はあるが、覗くと顔がゆがむ。刃物はある。けれど、どれも手入れが大変そうだった。美しい細工品もあるが、現代の工業製品にある均一さとは違う。

 

 リュックの中の爪切りのことを思い出した。

 

 小さくて、同じ形の金属が、きちんと噛み合う道具。現代では当たり前のものが、ここでは少し違って見える。澪は市場の端で立ち止まり、爪切りを手に取った。売るつもりで構えたわけではない。ただ、見ていただけだった。

 

 そこへ、商人風の男が近づいてきた。年は四十くらい。腕が太く、腰に革袋をいくつも下げている。

 

「それは何だ」

 

 澪はびくっとした。

 

「え、これですか」

 

「小さい刃物か」

 

「爪を切る道具です」

 

「爪を」

 

「はい」

 

「爪を切るためだけの道具?」

 

「はい」

 

 男は真剣な顔をした。

 

「ぜいたくだな」

 

 澪は返事に困った。百円ショップでも買える爪切りが、ぜいたく。世界が違うと、言葉の置き場所が変わる。

 

「使って見せろ」

 

「え」

 

「どう使う」

 

 澪は自分の爪の端を、ほんの少しだけ切って見せた。ぱちん、と小さな音がすると、男が一歩下がる。

 

「音がしたぞ」

 

「します」

 

「痛くないのか」

 

「切る場所を間違えなければ」

 

「間違えると?」

 

「痛いです」

 

「普通の刃物と同じではないか」

 

「そうですね」

 

 男は爪切りをじっと見た。澪は手の中の道具を握る。売っていいのか、いくらなのか、この世界の相場が分からない。そもそも、自分は商売をしていいのか。考え始めると、爪切りが急に重く感じた。

 

 黙っていると、男は革袋から銀色の硬貨を数枚取り出した。

 

「これでどうだ」

 

 澪には、それが高いのか安いのか分からなかった。ただ、男は真面目だった。からかっている顔ではない。澪は少し迷い、爪切りを差し出した。男は銀貨を渡す。

 

 取引が成立した。

 

 あまりにも簡単だった。

 

 澪は手の中の銀貨を見た。冷たくて、重い。見たことのない文字が刻まれている。異世界で、初めて物が売れた。感動するべき場面だったのかもしれない。けれど、澪の最初の感想は違った。

 

「こわ」

 

 小さく、そう言ってしまった。

 

 男は買ったばかりの爪切りを開閉している。ぱちん、ぱちん、と音がするたび、周囲の人が振り向く。その視線が集まり始めた瞬間、澪の背中が冷えた。

 

 まずい。人が集まる。

 

 自分は異世界で物を売った。相場も知らない。誰がいい人かも分からない。ここで囲まれたらどうする。取られたらどうする。帰れなくなったらどうする。そう考えたら、銀貨の重さが急に怖くなった。

 

 澪は銀貨を握りしめ、軽く頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 言い終える前に歩き出した。早足になり、ほとんど逃げていた。

 

 押入れへ戻る途中の路地で、澪は昨日の三十センチ定規を持っている子どもを見つけた。七歳くらいだろうか。裸足で、髪がはねていて、定規を胸に抱えている。剣のように振り回しているのではない。宝物みたいに持っていた。

 

 澪は立ち止まった。子どもも立ち止まる。澪が手を出すと、子どもは定規を背中に隠した。

 

「それ、私の」

 

「拾った」

 

「押入れから奪ったよね」

 

「落ちてた」

 

「落ちてない」

 

「落ちそうだった」

 

「落ちそうでもない」

 

 子どもは真剣な顔で言った。

 

「これは、すごくまっすぐだ」

 

 澪は返す言葉を失った。確かに、まっすぐだった。百円ショップで二本入りだった定規だが、この世界では、たぶんかなりまっすぐなのだ。

 

 返してほしい。ものすごく返してほしい。けれど、子どもの腕の中にある定規は、昨日の澪の部屋にあった時よりも、ずっと大事なものに見えた。澪はしばらく迷ってから、ため息を飲み込む。

 

「……大事にして」

 

 子どもは、ぱっと笑った。そして定規を抱え、路地の奥へ走っていった。澪はその背中を見送りながら、返ってこないのだと理解した。

 

 異世界二日目。売上は銀貨数枚。損失は三十センチ定規一本。経営としてどうなのか、まだ分からなかった。

 

 

 

 

 

 澪は押入れへ戻った。

 

 石畳から畳へ足を戻すと、空気が変わった。部屋に戻った瞬間、膝から力が抜ける。畳に座り込むと、目の前にはちゃぶ台とギターと工具と大学のプリントがあった。さっきまでの市場の音は、押入れの向こうで遠くなっている。

 

 澪は握っていた手を開いた。

 

 銀貨があった。

 

 夢ではない。手のひらには、硬貨の丸い跡が残っている。澪はちゃぶ台の上に銀貨を置き、指先で一枚ずつ並べた。知らない文字。知らない紋章。知らない国の金属。見ていると胸の奥が少し熱くなる。

 

 怖かった。でも、売れた。言葉は通じた。戻ってこられた。

 

 その時、スマホが鳴った。

 

 家賃引き落とし予定日のお知らせだった。

 

 澪は銀貨を見て、スマホを見て、また銀貨を見た。

 

「これ、家賃に使えない」

 

 異世界で売上が出た。でも、現代では謎の金属片だった。世界は、そんなに親切ではない。

 

 澪はしばらくちゃぶ台に突っ伏した。けれど、顔を上げる。爪切りは売れた。定規は返ってこない。銀貨は家賃にならない。それでも、何かは始まっている。

 

 澪はメモ帳を引き寄せた。爪切り、と書いたところで手が止まる。さっきまで百円ショップの道具だったものが、向こうでは銀貨に変わった。なら、手鏡はどうだろう。裁縫針は。髪留めは。小皿や糸切りばさみは、誰かの手間を少し減らすかもしれない。

 

 書けば書くほど、自分が何を始めようとしているのか分からなくなった。

 

「私は何を書いてるんだろう」

 

 それでも、澪は消さなかった。

 

 銀貨は机の引き出しに入れた。鍵はないので、上から大学のレポート用紙をかぶせる。防犯としては最低だったが、今の澪にはそれ以上の方法がなかった。

 

 澪はスマホを手に取り、検索欄に文字を打つ。

 

 百円ショップ 江古田 営業時間

 

 押入れの向こうには市場があった。けれど澪が最初に向かったのは、王都ではなく百円ショップだった。

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