押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第1話 押入れの向こうは市場だった

 六畳一間。

 

 言葉にすると、少しだけ昭和の青春ドラマっぽい。実態は青春よりだいぶ家計寄りだった。

 

 澪はちゃぶ台に肘をつき、スマホの画面をじっと見ていた。家計簿アプリの残高表示。十万円。数字だけ見れば、まだ人間扱いしてもらえそうな額である。少なくとも「全財産、千円札三枚と小銭です」と名乗る段階ではない。そこだけは救いだった。

 

「……よし」

 

 小さくつぶやいてみる。

 

 よし、の意味は本人にもよく分からない。何がどう良いのか説明しろと言われたら、たぶん説明している途中で泣く。

 

 部屋は静かだった。静かというより、生活音が少なすぎて逆に落ち着かない。冷蔵庫がぶぅんと低く唸っている。ありがたい。君は働いていてえらい。こちらはいま、残高確認しかしていない。

 

 夕方の光が窓から入り、畳の毛羽立ちを白っぽく浮かせていた。毛羽立った畳の上には、工具箱と、途中まで磨いた真鍮のパーツと、丸めたレシートと、大学のプリントと、読みかけの本が、仲良くもなく共存している。

 

 散らかっている、と言えばそれまでだった。

 

 だが澪に言わせれば、これは散らかっているのではない。保留の集合体である。片付けると、作業が終わった感じがしてしまうのだ。終わっていない。終わっていないから置いてある。置いてあることで、まだ自分は途中なのだと思える。途中なら、まだ駄目でも言い訳がきく。完成して駄目だったら、さすがにちょっと立ち直れない。

 

「便利だなあ、未完成」

 

 口の端だけで笑う。

 

 自虐は笑うためというより、防寒具に近い。心に冷たい風が吹いたとき、とりあえず一枚羽織るためのものだ。

 

 もう一度、画面を見る。十万円。

 

 そこで思考が、家賃、という単語に触れた。

 

 だめだった。

 

 十万円は一気に十万円でなくなる。家賃。通信費。電気代。ガス代。水道代。教材費。定期代。食費。たまに発生する「なんで今なんだよ」系の出費。数字はまだ画面の中にいるのに、脳内ではきれいに解体されていた。

 

「はい消えたー」

 

 実際には消えていない。残高はまだそこにある。あるのに、ない。現代日本の金は、存在していても予定が先に食べる。早い者勝ちの世界である。ずるい。

 

 澪はスマホを持ったまま、首だけ動かして冷蔵庫を見た。中身は見なくてもだいたい分かる。半分残った麦茶。卵。安売りで買った豆腐。賞味期限との精神戦に入りつつあるもやし。あとは何かしらの調味料。冷蔵庫の中身がそのまま人間関係だったら、かなり寂しいラインナップだな、と考えて、いや人間関係を冷蔵庫で例えるなよと自分で突っ込む。

 

 大学でも似たようなものだった。

 

 話しかけられれば答える。必要があれば笑う。けれど、自分から輪の中へ入っていく方法が、どうにも分からない。入るタイミングを考えているうちに話題が変わり、ようやく口を開こうと思った頃には、みんなだいたい仲良くなっている。自分だけ開始五分前に来た映画館の客みたいな顔になる。

 

「いや、映画館なら静かにしてればいいから、むしろ得意か」

 

 また防寒具を一枚羽織る。少しだけ楽になる。少しだけだ。

 

 スマホを置き、顔をこすってから、澪はギターへ目を向けた。

 

 大学では、だいたい端にいる。

 

 教室の前でも後ろでもなく、端だ。窓際か壁際。できれば、隣の席が最後まで空いていそうな位置。人間は嫌いではない。ただ、近いとうまくできない。距離感とか、会話の入りどころとか、笑うタイミングとか、そのへん一式がどうも標準搭載されていない気がする。

 

 だから澪は、たいてい先に座る。遅れて入ると、空いている席が人の輪の真ん中だったりするからだ。それはもう事故である。こちらは野鳥なので、物音を立てずに茂みに隠れていたい。

 

 講義が始まれば、まだいい。ノートを取り、板書を見て、教授の話を聞く。言葉は黒板に書かれた瞬間から、みんなのものになる。そこに個人の機嫌や空気の読み合いは、あまりない。正しいか間違っているか、要点がどこか、それだけ見ればいい。澪はそういうものには、わりと強かった。

 

 だが、講義が終わると駄目だった。

 

 教室のあちこちで自然発生する「このあとどうする?」の一言が怖い。自然発生というのがまず怖い。事前に議題が配布されていないし、議事録もない。みんな当たり前のように笑う。何をどう経由して、その流れへ入っていけるのか、澪にはよく分からなかった。

 

 分からないので、帰る。

 

 判断が早い。生き物としては正しい。

 

 新歓のときなど、もっとひどかった。輪ができかけたのだ。春先の夕方で、窓がまだ明るくて、配られた紙コップのウーロン茶が妙にぬるかった。隣の女子が「経営学科なんだ、私も」と笑ってくれて、その向こうの男子も「じゃあ授業かぶるかも」と言って、三人くらいの小さな輪が、できかけた。あれはたぶん、普通の人ならそのまま友達になれる流れだったのだと思う。

 

 そこで澪は何を返したか。

 

「へえ……」

 

 へえ、である。

 

 自分でも驚くほど中身のない返事だった。会話の扉が半分開いたところへ、自分の手で静かに戸当たりを差し込んだ感じだった。相手も一瞬だけ、「あ、ここ広がらないんだ」と理解した顔になった。あの短い沈黙がいたたまれなくて、澪はそのあと用事もないのに「すみません、ちょっと」と言って輪から抜けた。

 

 ちょっと、何だったのか。

 

 今でも分からない。たぶん、ちょっと駄目だったのだと思う。

 

 部屋へ帰ると、やっと肩の力が抜けた。

 

「お疲れさまでした、私」

 

 誰も言ってくれないので、自分で言う。

 

 ギターを手に取る。木の胴は、触ればちゃんと温度を返してくる。弦を指でなぞると、ざら、とした感触が腹に落ちる。新品みたいにつるつるではない。弾いた時間のぶんだけ少し荒れて、でもその荒れ方が手になじんでいる。

 

 ぽろん、と一音。

 

 それだけで、部屋の空気が少し変わる。

 

 誰に聴かせるでもない。拍手も感想もない。けれど、その気楽さがよかった。上手いか下手かは録音して聴けば分かるし、音を外したなら外した場所がある。弦を押さえ損ねたなら左手の角度の問題だし、リズムが揺れたなら右手が甘い。理由が残る。原因が拾える。そういう失敗は、まだ付き合える。

 

 数分つま弾いてから、今度は机の上の工具箱を開ける。ペンチ、ニッパー、ヤスリ、銀線。見慣れたものばかりだ。銀線をつまむと、細いくせにちゃんと芯がある。指先に伝わる硬さが、機嫌の悪い人間よりよほど誠実だった。

 

「今日はおまえの方が話が早いな」

 

 誰にともなく言いながら、線を曲げる。ほんの少し力を入れると、銀は素直に形を変える。入れすぎると歪む。戻そうとすると、そのぶんだけ金属疲労の気配が出る。うまくいかなかった理由が、手の中に残る。そこがいい。人間相手だと、あとから「あれは別にそういう意味じゃなくて」とか、「なんか空気が」とか、「タイミングが」とか、見えないものばかり増えていくのに、金属は黙って証拠を出す。

 

 人より金属の方が分かりやすい。そう思うようになったのは、たぶん一度や二度の失敗ではない。

 

 昔、「その髪留めかわいいね」と言われて本気でうれしくなり、次の日、調子に乗って材料と加工工程の話をしたことがある。途中で相手の笑顔が、あ、そういう温度じゃないんだな、という感じに薄くなっていくのを見た。かわいい、に対して、加工工程で返してしまったのである。会話としてはほぼ事故だった。

 

 ものの方が、まだ手順がある。手順があって、原因があって、結果がある。観察すれば前に進める。そこを間違えなければ、少なくとも黙って離れていったりはしない。

 

「まあ、適材適所ということで」

 

 誰が適所に置いてくれるんだ、という問題はあったが、そこは考えないことにした。

 

 その音は、だいたいいつも唐突だ。

 

 ぴろん、ぴろん、ぴろん。

 

 スマホが、緊急地震速報だけは妙に仕事熱心な顔で鳴り出した。普段の通知はどうでもいいタイミングで来るくせに、こういうときだけ「急いでます!」という態度を全身で出してくる。

 

「うわ」

 

 澪は反射で立ち上がりかけ、やっぱり中腰で止まった。避難行動というのは、訓練映像だともっときびきびしている。実際の一人暮らし女子大生は、まず「机の下って、この部屋のどの机」と一瞬考える。ちゃぶ台は下に入るには低い。というか、あれは守ってくれるというより、一緒に潰れる側ではないか。

 

 次の瞬間、床がぐらりと横に揺れた。

 

「うわ、うわ、うわ」

 

 語彙が死ぬ。

 

 ギターケースが壁に軽くぶつかって、ごと、と鳴る。本棚代わりのカラーボックスがみし、と嫌な音を立てた。積んであった本の背表紙が一斉にずれ、次の瞬間、ぱたぱたぱたっ、と数冊まとめて畳に落ちる。

 

「待ってそれはやめて」

 

 地震に対して交渉を始めても無駄だった。

 

 さらに一冊、少し遅れて落ちる。ばさっ。紙の束が畳に叩きつけられる乾いた音は、思ったより心に来る。物が壊れていくというより、自分の生活が雑に揺すられている感じがして、地味につらい。

 

 ギターの弦が、どこかへ軽く触れたのか、びん、と鳴った。乾いた、短い余韻だった。それが消えるころには、揺れもだいぶおさまっていた。

 

 澪はしゃがみこみ、落ちた本を拾う。

 

 一冊目。

『異世界転移後の物流革命』

 

「終わってるな」

 

 二冊目。

『異世界商会、はじめました』

 

「はいはい」

 

 三冊目。

『ゼロからわかる異世界税制改革』

 

 澪は無言で天井を見た。

 なぜ買った。いや、理由は分かる。タイトルに税制改革とあったからだ。異世界でまで税をどうこうする話、逆に気になるだろう。だが、分かるのと納得できるのは別である。

 

「私、もう少しこう……普通の女子大生っぽい蔵書を……」

 

 言いかけて、部屋を見回す。工具箱。銀線。ヤスリ。ギター。家計簿アプリを開いたままのスマホ。無理だった。いまさら普通の女子大生の顔をしようとしても、部屋が全面的に証言してくる。裁判なら完全敗訴である。

 

 それでも少しおかしくなって、澪は息だけで笑った。変な趣味だとは思う。思うけれど、誰にも迷惑はかけていない。たぶん。税制改革の本は何を目指していたのか自分でもよく分からないが、それでも趣味は趣味だった。

 

 拾った本を重ね、立ち上がろうとした、そのときだった。

 

 すう、と。

 何かが、頬をなでた。

 

 風だった。

 

 押入れからである。

 

 押入れは風を吹かせる場所ではない。そこはもう説明の余地がない。布団とか、季節外れの服とか、いったん見なかったことにした箱とか、そういうものを押し込んでおく場所であって、気流を発生させる機能はついていない。少なくとも、賃貸契約の設備欄には書いていなかったはずだ。

 

「……だよね」

 

 もう一度、空気が流れる。

 

 今度は、匂いがした。

 

 最初に来たのは草の匂いだった。切りたてではなく、風に撫でられた草地の、少し乾いた匂い。ついで、乾いた土。雨上がりではない、陽に当たって水気が飛んだあとの土の気配。最後に、焼いた肉。

 

「……えっ」

 

 思わず声が漏れた。

 

 草と土までは、まだ自然っぽい何かで押し通せる余地があった。だが肉はだめだ。急に生活圏が生々しくなる。どこかに人がいて、火があって、食事がある感じがする。押入れから漂ってきていいラインを完全に越えていた。

 

 澪はじっと襖を見た。見た目はいつもの押入れだ。なのに、隙間から漏れてくる空気だけが、まるで別の場所のものだった。

 

 逃げた方がいい。まずそう思った。

 

 だが同時に、見たい、という感情がそのすぐ隣に並んでいるのが最悪だった。怖い。でも気になる。このまま閉めたままにして、見なかったことにしたとして、今夜眠れる気がしない。

 

 襖の隙間から、今度は光が漏れているのに気づいた。部屋の夕方の光とは色が違う。もっとまっすぐで、外の光みたいだった。

 

 押入れの中に、外の光。

 

「は?」

 

 語彙が一文字になった。

 

 本をそっと畳に置き、手のひらをズボンでぬぐう。汗ばんでいた。嫌な汗である。緊張と好奇心が握手した結果の汗だ。歓迎したくない。

 

 引き手に指をかける。汗で少し滑る。ここで本当に開けるのか、と自分に問いかける。問いかけたところで、答えはもう決まっている感じがした。

 

「……責任は未来の私で」

 

 最低の宣言をして、澪は襖を引いた。

 

 するり、と。

 

 音は、あまりにも普通だった。

 

 開いた。

 

 澪は、息を止めた。

 

 石畳の路地があった。

 

「…………は?」

 

 まず目に入ったのは、空だった。青い。びっくりするくらい、ただ青い。そこがいちばん、おかしかった。もっとこう、異世界なら異世界らしくしていてほしい。紫とか、月が三つあるとか、そういう親切な異常がほしい。なのに、見えている空は普通に青い。青すぎて、逆に頭が追いつかない。普通であることが、こんなに不気味だとは思わなかった。

 

 その青の下に、石畳。人が通る幅の路地。壁。木の扉。見たことのない形の樽。遠くから、かすかに人の話し声のようなものもする。

 

 異世界、というより、どこか別の町が押入れの中にそのままはまっているみたいだった。

 

 合成写真のような不自然さはない。夢っぽい霞みもない。むしろ細部がはっきりしている。

 

 澪は押入れを閉めた。すぐに、また開けた。石畳の路地があった。

 

「消えないのか……」

 

 叫ぶほどでもない。叫んだところで何かが改善する気もしない。むしろ六畳間の中で自分だけが騒がしくなる未来しか見えなかった。

 

「こういうとき、現代人はまず……検索……」

 

 ちゃぶ台の上のスマホをつかむ。決まっている。検索である。人類は分からないことがあると、とりあえず検索する。虫の名前も、レポートの書き方も、焦げついた鍋の落とし方も、だいたいそれで何とかなってきた。押入れの向こうに石畳が見える件についても、もしかしたら誰かが先に困っているかもしれない。いてくれ先人。

 

 スマホの白い光の横で、押入れの隙間からは乾いた別の光が漏れている。見慣れた光と、見慣れない光。どちらも同じ部屋にあるのに、まるで所属している世界が違う。

 

 押入れ。向こう。別世界。

 

 入力してから、澪はちょっとだけ真顔になった。終わっている。検索ワードがだいぶ終わっている。履歴を見られたら、「いま大変なんだな」ではなく、「もともとこうなんだな」と思われるタイプの終わり方である。反論しづらい。

 

 検索した。

 

 創作っぽい話がいっぱい出た。怪談っぽい話もいっぱい出た。都市伝説っぽい話もいっぱい出た。

 

「知ってる知ってる知ってる、そういうのがあるのは知ってる」

 

 そう、ある。そういう話はいっぱいある。読んだこともある。だが今ほしいのは面白い導入ではない。対処法である。

 

 検索語を変える。押入れ、風。押入れ、変な匂い。押入れ、外の景色。押入れ、光。押入れ、別の場所。

 

 今度は襖の立て付けとか、隙間風とか、湿気とか、換気とか、そういう現実的な情報が増えた。

 

「違う違う違う、惜しくもない」

 

 いや、惜しいのかもしれない。押入れだし、襖だし、風も吹いている。単語だけ並べればだいぶ近い。だが決定的に足りないものがある。石畳である。あと青空である。あと焼いた肉の匂いである。その三点セットが入った瞬間、建具屋さんの守備範囲を完全に飛び越える。

 

「立て付けの問題で青空が見えるなら、それはもう壁がないのよ……」

 

 検索を続ける。だが役に立たない。

 

 役に立たない、という事実そのものより、役に立つはずのものがきれいに全部ずれている感じが、地味に堪えた。

 

 ネットの向こうには、こういう話を楽しそうに読む人がたくさんいる。書く人もいる。語る人もいる。異世界だの秘密の通路だの、そういうものを安全な距離から眺めて、面白がって、感想を言って終われる人がいる。普段なら、自分もそっち側だった。ちょっとニヤニヤしながら読んで、へえこう来るのかと思って、本を閉じて、麦茶でも飲んで終わる側だった。

 

 なのに今は、現物が家にある。

 

「温度差がすごいな……」

 

 ぼそっとこぼした声は、思ったより拗ねていた。検索結果は悪くない。創作も怪談も悪くない。悪いのはたぶん押入れだ。かなり押入れだ。ここまで来ると、もう押入れ側にも弁明の余地は少ない。

 

 ふと、誰かに相談する、という考えが浮かぶ。友達。家族。大学の知り合い。管理会社。候補は出る。だが、そのあとが続かない。

 

「押入れの向こうがちょっと石畳なんだけど」

 

 そう送って、真顔で受け止めてくれる相手の顔が浮かばない。

 

 家族も同じだ。心配はされるだろう。すごくされるだろう。でも、その心配が押入れを閉じてくれるわけではない。

 

 要するに、相談できない。

 

 そのことが、検索結果が役に立たないことより、少し遅れて胸に落ちた。ああ、と思う。こういうときに連絡していい相手が、ぱっと浮かばない。別に今急に孤独になったわけではない。前からそうだ。前からそうだったのに、押入れの向こうが石畳になった瞬間、急にその事実だけ輪郭を持って見えてしまう。

 

「……自分で試すしかない、のか」

 

 ぜんぜん勇ましくない。主人公の決意というより、担当者不在の雑務を押しつけられた人の声だった。

 

 勇気を出して飛び込む、という発想は最初からなかった。

 

 異世界らしきものが押入れに接続したからといって、急に胆力まで実装されるわけではない。むしろ逆だ。怖いものが増えた分だけ、慎重さが増す。臆病は進化するのだ。

 

「まず、遠隔で試す」

 

 口に出すと少しだけ賢そうに見える。実態は、怖くて近づきたくないだけなのだが、方針と言い換えると急に理性的になる。不思議だ。

 

 使えそうなもの。失って困らないもの。向こうへ落ちても泣かなくて済むもの。最初に目に入ったのは割り箸だった。

 

「君に決めた」

 

 軽い。選出の言葉が軽い。

 

 澪は襖を少しだけ開けた。乾いた光。草と土と、まだうっすら残る焼いた肉の匂い。割り箸の先をそろそろと向こうへ差し出す。石畳の路地。青い空。壁際の影。いまのところ、割り箸に対して敵意を示してくるものはない。

 

 少しだけ差し込み、止める。さらに少し。止める。小刻みである。慎重というより、ほぼへっぴり腰である。

 

「……よし」

 

 何がよしなのかは不明だが、とりあえず数秒保った。そっと引き抜く。割り箸は、割り箸のままだった。

 

 顔の前に持ち上げ、光に透かす。先端に変色はないか。溶けたような跡はないか。謎のぬめりは付着していないか。異世界の空気に触れたことで材質が変質し、突然レア素材になったりしていないか。

 

「そこまではないか……」

 

 少しだけ残念そうに言ってから、いや残念がるところではない、と自分に突っ込む。

 

 次にメモ帳の切れ端をちぎった。小さな紙片を、押入れの向こうへひらりと放る。紙は石畳の上に落ちた。ごく普通に落ちた。

 

「物理法則は……たぶん続いてる」

 

 その紙を、小さな影が拾った。

 

「っ」

 

 肩が跳ねた。子どもだった。小学校低学年くらいだろうか。しゃがみこんで紙をつまみ上げる指は細く、手首には赤い紐が巻かれていた。爪の間に土が入っている。路地の向こうが急に生活のある場所になる。

 

 紙片はすぐに価値を見いだされず、ぽいと投げ捨てられた。

 

「ですよね」

 

 紙が役に立たないことについては、澪も同意だった。

 

 そこで一瞬、スマホを持ち上げる。撮ればいいのでは。証拠。記録。比較。文明の力。考えた瞬間、別の考えがその上から全力で殴ってきた。

 

 落としたら終わる。

 

「終わるな……」

 

 スマホは高い。高い上に、連絡先もメモも家計簿も入っている。人生のかなりの割合が入っている。異世界初日の実験で投げ込むには、あまりにも重い。文明の利器、早々に戦線離脱である。

 

 そこで三十センチ定規を手に取る。透明なプラスチック製。授業でも作業でもたまに使う、ごく普通の文房具だ。割り箸より長い。紙より硬い。スマホより安い。

 

「ちょうどいいな……ちょうどいいって何……」

 

 押入れの向こうへそろそろと差し出す。子どもはまだそこにいた。こちらを見ている。警戒というより、好奇心の顔だった。

 

 澪は定規を少し前へ出した。子どもの目が、その透明な縁を追う。もう少し出した。

 

 その瞬間、向こうから小さな手が伸びてきた。

 

「うわっ」

 

 反射で澪も定規を引く。だが相手もつかんでいる。綱引きになった。

 

 なぜ初交流が文房具の引っ張り合いなのか。もっとこう、あるだろう。異文化接触のマナーとか。平和的な第一印象とか。こちらは今、押入れ越しに三十センチ定規をめぐって幼児と争っている。絵面が情けない。ひどい。

 

「ちょ、ちょっと、それ、返して」

 

 思わず言う。すると子どもが何か言い返した。

 

 その瞬間、澪はぴたりと止まった。

 

 分かった。

 

 言葉が、分かった。

 

 意味の知らない音ではなかった。知らないはずなのに、分かる。頭の中で勝手に意味になる。え、なんで。いや待って。通じるの。そこ、通るの。

 

 驚きが一気に押し寄せたせいで、手の力が抜けた。

 

「あっ」

 

 その一瞬で、定規は向こうのものになった。

 

 子どもはさっと後ろへ下がり、戦利品のように定規を抱えた。赤い紐の巻かれた手首。爪の間の土。細い指に握られた透明な三十センチ定規。情報量が多い。しかも全部が現実だ。

 

 初めて異世界らしき場所とまともに接触した結果。判明したこと、言葉は通じる。失ったもの、三十センチ定規一本。

 

「……情けな」

 

 自分で言って、自分でちょっと傷ついた。だが事実である。壮大な異世界ファーストコンタクトのわりに、成果と損失がたいへん文房具寄りだった。

 

 その日は、もう何をやってもだめだった。

 

 ギターを持てば、最初の一音のあとに石畳の路地が頭へ割り込んでくる。銀線をつまめば、ペンチの先より先に、赤い紐の巻かれた小さな手首が浮かぶ。本を開いても数行で止まり、気づけば内容ではなく「異世界」という単語そのものに、押入れからの嫌味みたいな圧を感じている。そこまでいくと本にも作者にも何の罪もないのだが、では誰が悪いのかといえば、かなりの確率で押入れの方だった。

 

 つまり、何も手につかない。

 

 いや、正確には触っている。ギターにも触ったし、銀線にも触ったし、本のページもめくった。だが、触ることと手につくことは違う。今日の澪は、その当たり前すぎる事実を、異世界接続というだいぶ迷惑な形で学んでいた。

 

 布団に入っても、もちろん落ち着かなかった。襖を閉めたところで、向こうにある石畳の路地が消えるわけではないし、まして取られた三十センチ定規が返ってくるわけでもない。異文化接触の第一歩が文房具の流出で終わった、という事実は、思い返すたびに地味に情けなかった。もっとこう、人類史っぽい始まり方はなかったのかと思うが、現実に起きたのは押入れ越しの綱引きである。ひどい。

 

 しかも、夜になると音がした。

 

 最初は小さな鐘の音だった。からん、と乾いた音が遠くで鳴り、そのあとを追うように、荷車らしい車輪のがらがらという響きが続く。人の話し声も混じっていた。近くではないのに、何人もが行き交う場所のざわめきだと分かる。笑い声がひとつ上がり、少し遅れて誰かの怒鳴り声が飛び、また別のところでは、品物でも売っているらしい長い呼び声が流れていく。

 

 どう考えても市場だった。

 

 押入れの向こうから市場の音がする、という状況は、文字にするとだいぶ頭がおかしい。だが実際に聞こえてくると、頭がおかしいのに妙に生々しいから困る。幽霊のうめき声なら、まだ「怪奇現象だ」でまとめられたかもしれない。けれど、聞こえてくるのは人が働いて、運んで、笑って、腹を立てている音なのだ。怖いくせに生活感がある。その生活感のせいで、怖いだけでは終わってくれない。

 

 相談できる相手がいれば少しは違ったのかもしれない。そう思って、澪は布団の中で少しだけ顔をしかめた。昔、一度だけ、妙に生々しい夢を見て怖くなり、翌日それを学校で話したことがある。最初のうちはみんな普通に聞いてくれていたのに、自分だけがだんだん本気になってしまって、周囲の反応が少しずつ「へえ」から「それで?」へ変わっていくのを、澪は今でも覚えている。話している自分と受け取る相手とで、出来事の温度が噛み合わなかっただけだ。その噛み合わなさが妙に恥ずかしくて、それ以来、説明しづらいことほど最初から口に出さない方がましだと思うようになった。

 

 だから今回も、相談するという発想が途中で止まる。押入れの向こうに市場がある、なんて話、温度差しか生まないに決まっている。正論だ。正論だが、正論は孤独を薄めてくれない。

 

 結局、澪はほとんど眠れなかった。最悪である。人生最大級の異常事態の翌日に、睡眠の質まで最低というのは、イベントの運営が雑すぎる。

 

 それでも大学には行った。休んだところで押入れ問題が消えるわけではないし、一日中向き合う羽目になる。それはそれでしんどい。だったら一度、日常の側へ行ってみる方がまだましだった。

 

 教室に入る。人がいる。いつも通りいる。ノートを開く。教授が来る。講義が始まる。

 

 なのに、全部が少し遠かった。

 

 教授の声は聞こえている。聞こえているのに、意味が頭の表面を滑っていく。黒板に書かれる単語も、ノートに移している最中から手応えがない。何かを学んでいる感覚が薄い。音だけが教室の前から飛んできて、こちらの机の上でうまく着地せずにそのまま落ちている感じだった。

 

 ノートの本文は一応取った。だが、端の余白がだめだった。講義の内容より先に、押入れのことが頭に割り込んでくる。石畳。市場の音。子ども。赤い紐。定規。言葉が通じたこと。そういうものが、教授の説明とは別のところで勝手に会議を開いている。

 

 講義が終わると、周りではいつも通り小さな会話が始まる。昼どうする、とか、次の教室どこだっけ、とか、そういう当たり前のやりとりだ。澪はノートを閉じ、筆箱をしまい、立ち上がった。手順は普段と同じだった。急がず、でも長居はしない。輪ができる前に抜ける。いつも通りの動きだ。

 

 なのに、昨日までとは全然違う。

 

 昨日までは、ただ静かに帰るだけだった。今日は、押入れの向こうへ帰るみたいな気分になる。帰りたくないわけではない。むしろ帰りたい。確認したい。怖い。でも気になる。感情の向きが渋滞していて、自分でもハンドル操作が怪しかった。

 

 翌朝、澪はまず机の上にスマホを置き、それを見つめた。

 

 文明の利器である。連絡先が入っていて、地図が見られて、時間も分かって、家計簿まで入っている。普段なら、これひとつでだいたい生きていける気がする。実際、かなり生きている。

 

 だが今回は駄目だった。

 

 落としたら終わる。

 

 この一言で説明がつく。壊れたら困る、ではない。終わる、である。連絡手段も、予定も、メモも、いろいろなものがまとめて沈む。昨日の時点で一度「撮ればいいのでは」と思いはしたのだが、その直後に「落としたら終わる」が全力で殴り返してきたので、すでに敗者は決まっていた。異世界との接触において、スマホは戦力外通告である。

 

「君は留守番」

 

 スマホを机の中央へ置き直す。机の端だと落ちそうで嫌だった。異世界へ行く前から現世で落としたら、話にならない。

 

 次に財布を持ち上げる。これも駄目だ。現金だけの問題ではない。学生証が入っている。保険証もある。ポイントカードだの会員証だの、地味に生活の下支えになっているものまで入っている。財布は見た目以上に人生である。これを異世界初日の視察に持ち込むのは、あまりにも判断が悪い。

 

「財布も留守番」

 

 机の上に置く。スマホの隣に財布が並ぶ。どちらも重要で、どちらも連れていけない。遠足の朝にいちばん大事なものから荷物検査で落とされていく感じだった。遠足ではないのだが。

 

 代わりに持っていくものを考える。ハンカチ。水。飴。メモ帳。ボールペン。どれも地味だが大事だった。なくしても致命傷にはならないが、ないと困る。そういう意味で優秀だ。

 

 ここまでをリュックへ入れたところで、澪は机の上を見回した。生活用品として必要なものと、異世界で使えるかもしれないものは、似ているようで少し違う。そして昨日、三十センチ定規があちらで妙に価値ありげな顔をしていたのを思い出すと、こちらでは当たり前の小物でも、向こうではそうではない可能性がある。

 

 そこで爪切りを手に取る。次に安全ピン。最後に、真鍮の小さなペンダント。自分で作ったものだ。売り物ではない。だが、金属細工として見たとき、向こうの人がどう反応するのか少し気になった。

 

 机の上に並んだものを見て、澪は思わずつぶやいた。

 

「勇者の初期装備じゃないな……」

 

 剣はない。盾もない。回復薬っぽいものも、せいぜい飴である。異世界へ行く荷物としてはずいぶん地味で、冒険というより、ちょっと気難しい親に「絶対なくすなよ」と言われながら持たされた外出セットみたいだった。

 

 だが澪にとって大事なのは映えではなかった。生きて帰ることと、余計な損をしないことの方が、よほど大事だ。スマホは高いから除外。財布は人生が詰まっているから除外。なくしたら困るものは置いていき、なくしても致命傷ではないものを持つ。そのうえで、向こうで価値があるかもしれない小物を少し混ぜる。

 

 やっていることは商売というより、ほとんど損失管理だった。儲けよう、ではない。まず減らさない、である。

 

 それでも、昨日の自分よりはましだった。少なくとも今日は、何を持っていかないかを先に決めている。その判断の地味さが、むしろ少しだけ頼もしかった。

 

 靴を履く、というだけの動作が、あんなに意味ありげになる日が来るとは思わなかった。

 

 昨日までなら、玄関で靴を履く理由など一つしかない。外へ出るためである。大学へ行くか、買い物へ行くか、その程度だ。ところが今日は違う。靴を履いた先にあるのは、最寄り駅でもコンビニでもなく、押入れの向こうの石畳である。生活動線に異世界を混ぜるな、と澪は心の中で文句を言ったが、言ったところで押入れは反省しなかった。

 

 リュックを背負い、押入れの前に立つ。

 

 襖は閉まっている。見た目はいつもの押入れだ。それが、いまは石畳の路地へ通じる扉の顔をしているのだから、家具というものは本当に信用ならない。

 

 澪は一度、深く息を吸った。怖くないわけがない。だが、怖いからといって今日も見ているだけで終われば、たぶん明日も同じところで止まる。昨日は定規を取られて終わった。今日はせめて、自分の足で一歩だけでも向こうへ入る。そのために、スマホも財布も机の上へ置いてきたのだ。

 

「よし」

 

 襖を開ける。

 

 乾いた光が差した。草と土の匂いが流れ込む。見えるのは、昨日と同じ石畳の路地だ。

 

 澪の視線は、まず安全確認へ走った。右。壁。木の扉。人影なし。左。路地の先。少し先で曲がっている。足元。石畳。上。青い空。こういうとき、もっと感動が先でもよさそうなものなのに、自分の目が最初にしていることは完全に不審者の挙動だな、と澪は思った。だが仕方ない。怖いとき、人間はたいていロマンより先に逃げ道を見る。

 

 敷居の前で、足が止まる。

 

 右足を出せば届く。届くのだが、その一歩が妙に遠い。押入れの縁など、普段ならまたぐことに何の意味もない。ただの木の枠だ。だが今は違う。その細い境目が、六畳間と石畳の路地を分けている。

 

 澪は右足をそろそろと前へ出した。

 

 靴底が石に触れる。

 

 その瞬間、足裏の感触が変わった。畳の、少しやわらかくて、踏み込むとわずかに沈む感じではない。硬い。平らに見えて微妙に凹凸があり、靴底の向こうに、石の冷たさとざらつきがはっきり伝わってくる。

 

「うわ……」

 

 右足は向こう。左足はまだこちら。体の半分だけが境界を越えている感じがして、妙に落ち着かない。背中には、見慣れた六畳間の空気がある。前からは、草と土を含んだ乾いた風が来る。同じ呼吸の中で、二つの空気が混ざる。その感覚が奇妙で、澪は思わず肩をすくめた。

 

 次の一歩を出そうとして、後ろ足が少し遅れた。自分でも分かる。体が、最後の最後で「本当に行くのか」と踏ん張っている。気持ちはもう決めたはずなのに、膝から下だけ妙に現実的だった。

 

「いや、分かるけど。分かるけど今は来て」

 

 だいぶ間抜けだが、こういうとき人間は案外まじめに自分の手足と交渉する。

 

 左足も、ようやく敷居を越えた。

 

 両足が石畳に乗る。それだけで、押入れの前に立っていたときとは世界の厚みが変わった。空気が違う。音の響き方も違う。画面越しに見ていたものの中へ、自分の体が実際に入ってしまったのだと、否応なく分かる。

 

 澪はすぐに振り返った。

 

 そこには、自分の六畳間があった。

 

 思った瞬間、胸の奥の緊張が少しだけほどける。見えている。ちゃんと見えている。ちゃぶ台も、机の上のスマホと財布も、そのままだ。押入れの向こうへ来てしまったのではなく、押入れ越しにまだ部屋へつながっている。戻ろうと思えば戻れる。その事実は大きかった。ものすごく大きい。もしここで背後が見知らぬ壁に変わっていたら、たぶん澪はその場で泣いていた。

 

「戻れる……」

 

 声に出して確認する。すると本当に少し安心した。逃げ道があると分かるだけで、人は急に調子に乗る。いや、調子に乗るというほどではないにせよ、少なくとも二歩目三歩目を考える余裕は生まれる。

 

 澪は改めて前を向いた。

 

 路地はそれほど広くない。人が二、三人すれ違えるくらいの幅で、左右の建物は石と木でできているらしい。少し先には樽が積まれ、どこかから肉を焼いたような匂いがまた流れてきた。遠くで人の声もする。昨日、押入れ越しに見ていたときより、すべてが近い。近い分だけ、見える情報も増える。

 

 そのときだった。

 

「おい」

 

 低い声がして、澪は肩を跳ねさせた。

 

 路地の奥から大柄な男がこちらを見ていた。門番風、としか言いようのない雰囲気だった。見るからに「知らない顔を見たら声をかける側」の人間だった。

 

 澪は思わず背中側の六畳間を意識した。戻れる。いざとなれば戻れる。その確認を心の中で二回してからでないと、次の呼吸に進めなかった。

 

 だが男の視線はもうこちらに来ている。見なかったことにはならない。異世界初上陸の次に待っていたのが職務質問めいた何かだというのは、だいぶ想定外だったが、想定外だからといって逃げ切れる感じでもなかった。

 

 男に声をかけられた瞬間、澪の足先はほんの少し内側へ寄った。自分でも意識していない反応だった。だが、知らない大人に正面から視線を向けられると、昔から体が先にそうなる。肩がわずかに縮み、足先が守りに入る。逃げる準備というほど露骨ではないが、少なくとも堂々とする方向ではない。

 

 男は近づいてきても、怒鳴ったりはしなかった。そこが逆に怖い。現代日本で見かける「ちょっと怖そうな人」とも違う。店員でも、教師でも、警備員でもない。もっと、こちらが勝手にルールを破れば、本当にその場で止められる種類の大人だった。暴力の匂いが強いわけではない。ただ、秩序を背負って立っている感じがある。

 

「おまえ、どこから来た」

 

 低い声だった。

 

 澪は口を開きかけて、止まった。

 

 どこから来た。正しい質問である。正しすぎて困る。練馬区江古田とは言えない。押入れとも言えない。

 

「あの、東の方から……」

 

 とりあえず出たのは、それだった。

 

「東の方って、どこだ」

 

「かなり東です」

 

 さっきより悪化した。

 

 男の眉がわずかに動く。澪はそのわずかな変化にびくっとした。だめか。だめそうだな、と心の中で素早く会議が開かれる。

 

「かなり東、か」

 

 声色は変わらない。怒鳴られたわけではない。だが許された感じもしない。

 

「だいたい東です」

 

 自分で言って、もうだめだと思った。かなり東のあとに、だいたい東。情報が増えていない。むしろあやしさだけが増している。

 

 男は澪を見た。澪も、どうしてそうなったのか分からないまま見返した。数拍おいて、男は短く息を吐いた。呆れたのか、納得したのか、その中間くらいの吐き方だった。

 

「妙な服だな」

 

 話題が変わった。澪は反射で自分の服を見下ろした。パーカーにカットソー、動きやすいパンツ、歩きやすいスニーカー。こちらではただの普段着である。だが、路地の中で見ると、たしかに全部が少しずつ浮いていた。

 

「そう……かもしれません」

 

 男の視線がもう一度、靴へ落ちる。

 

「旅の者か」

 

 その問いには、澪は少しだけ救われた。旅人。それは分かりやすい。少なくとも押入れの管理人よりは社会的だ。

 

「はい」

 

 そこで一度うなずき、ほんの少し間を置いてから、澪は正直に付け足した。

 

「たぶん」

 

 言ったあとで、また余計なことを足したな、と思う。だが引っ込められない。旅人だと言い切るには、こちらも準備不足がすぎた。リュックの中身がハンカチと飴と爪切りの人間を、堂々たる旅人と呼んでいいのか自信がない。

 

 男は最後に、低い声で言った。

 

「盗みはするな。揉め事も起こすな」

 

「はいっ」

 

 澪は勢いよくうなずいた。たぶん今日いちばん元気な返事だった。盗みをする予定はない。揉め事を起こす予定もない。むしろ可能なら、気配を消して平和に生還したい。こちらの基本方針は一貫している。目立たない。損しない。怒られない。異世界初日から掲げる旗としてはずいぶん小さいが、澪にはそのくらいでちょうどよかった。

 

 男はそのうなずきを見て、ようやく少しだけ視線を外した。許可をもらったのか、まだ監視対象なのかは分からない。だが、少なくともその場で追い返されはしなかった。

 

 澪は小さく息を吐いた。緊張で固まっていた肩が、ようやく少し下がる。

 

 異世界社会との第一接触は、華々しいものではなかった。気の利いた名乗りもなければ、堂々たる自己紹介もない。あるのは「東の方から」「かなり東」「だいたい東」という、地図に弱い人みたいな返答だけである。ひどい。ひどいが、それでもどうにか会話は終わった。終わった、という事実が、いまはかなり大きかった。

 

 男との会話をどうにか切り抜けたあと、澪はようやく市場の方へ目を向けた。

 

 昨日から気になっていた場所だった。夜には音だけが押入れの向こうから流れてきて、昼は遠目に人の気配だけが見える。そういう形で散々気を引いておいて、実際に足を踏み入れてみれば、そこにあったのは想像よりもずっと普通の市場だった。

 

 普通、というのも変な話だが、少なくとも「異世界です」と分かりやすく看板を掲げたような景色ではない。布の日除けが渡され、その下に品物が並び、人が立ち、声を張り、値段なのか売り文句なのか分からない調子の言葉が飛び交っている。焼いた肉の匂いが流れ、少し離れたところでは干した魚の塩気が鼻に刺さり、薬草らしい青い匂いがふっと混ざる。地面からは石の照り返しがじわじわ上がってきて、布越しの光はやわらかいのに、足元だけはきっぱり暑い。市場というものは、世界が違っても、どうやら「匂いと音と人の熱気がいっぺんに来る場所」らしかった。

 

 売られているものも、ぱっと見だけなら分かりやすい。パン。干し魚。毛皮。木の椀。鉄釘。薬草。革紐。小さな鏡。針。旅先で珍しい市を見かけた観光客なら、その一つ一つに「わあ」と目を丸くしたのかもしれない。だが澪は、そういう見方をする前に、別のところが気になってしまう。

 

 まず目に入ったのは、針だった。

 

 籠の中に数本まとめて入れられているそれを見て、澪は思わず足を止める。細いには細い。だが、均一ではない。一本ごとに微妙に太さが違い、先端の尖り方にもばらつきがある。まっすぐなものもあれば、ほんのわずかに腹のあたりが曲がっているものもあった。縫えないことはないのだろう。実際、向こうの人はこれで縫っているのだろう。けれど、裁縫箱の底に同じ規格で何本も入っている針を見慣れた目には、その違いがやけにはっきり見えた。

 

 一本一本、手で作っているのだろうか、と澪は思う。だとしたら、そりゃ高い。高いし、揃わない。揃わないし、使う人は慣れるしかない。慣れるしかない、という不便さが、澪にはすぐ想像できた。

 

 隣の鏡も同じだった。丸く磨かれた小さな鏡板が並んでいるのだが、映り方が微妙に落ち着かない。顔がちゃんと見えるものもある。けれど、少し角度を変えるだけで輪郭がゆがむもの、光がまだらに散るもの、端の方だけぼやけるものも混ざっていた。

 

「毎朝これで前髪確認するの、ちょっと嫌だな……」

 

 異世界観光の感想として、だいぶ地味である。もっとこう、「文化の違いに感動した」とか「見たことのない品に胸が躍った」とか、そういう華やかなものはないのかと思うが、澪の目は先に不便を拾ってしまう。すごい、きれい、珍しいより先に、「これ、使うとき大変そう」が来る。

 

 木の椀も、鉄釘も、革紐も同じだった。どれも使えないわけではない。だが、全部が少しずつ不便で、全部に少しずつ手間がかかる。刃物を並べた露店の前を通ると、その感覚はいっそう強くなった。刃の曇り、柄の木の染み込み方。大事にされているのだろうし、研ぎ直しながら長く使うのが普通なのだろう。だが、それは裏返せば、刃物ひとつ手に入れること自体がかなり重い、ということでもある。

 

 市場を歩くうちに、澪はだんだん「珍しいものを見ている」という感覚より、「ここで暮らすと何が面倒か」を数えている気分になってきた。針は揃っていない。鏡は歪む。刃物は維持が重い。釘は規格がばらつく。革紐も幅がまちまちで、同じ長さを何本も揃えたいときには絶対に苦労する。

 

 つまり、全部が少しずつ不便で、全部に少しずつ手間がかかる。

 

 そこで、昨日の爪切りが頭に浮かんだ。

 

 小さくて、金属で、精度が揃っていて、用途がはっきりしている道具。しかも、こちらでは安く手に入る。昨日、定規を抱えた子どもの顔を思い出すと、ああいう「こちらでは普通すぎて価値を考えないもの」が、向こうでは違う顔をするのかもしれないという気がしてくる。

 

 いや、商売だの何だのと格好よく言う段階ではない。澪の頭の中にあるのは、もっと地味で、もっと生活者寄りの計算だった。これ、便利なのでは。これ、向こうの不便を一気に飛ばすのでは。そう考えてしまうのだ。感動より先に、手間の省略が見えてしまう。

 

 作り手の目と、使う側の目。その両方が勝手に働いていた。ものを見たときに「何に使えるか」と「使うときどこで困るか」を先に考えてしまうのは、たぶん昔からの癖だった。

 

 そこで、ふと、リュックの中の爪切りが意識に上ってくる。あれは、小さくて、精密で、用途が分かりやすい。そして向こうには、同じようなものがたぶんない。

 

 ああ、と思う。

 

 これ、たぶん、商売になる。

 

 市場を歩きながら、澪はずっとリュックの中の爪切りを意識していた。

 

 取り出すなら今だろうか。いや、今はだめかもしれない。人通りの少ないところの方がいいのか。でも、人がいなさすぎると、そもそも誰にも見てもらえない。考え始めると、全部がだめに思えてくる。こういうとき、慎重さは役に立つ半面、選択肢を全部じわじわ潰していくので厄介だった。

 

 そのうちに、一人の男が澪の前で足を止めた。

 

 商人風、としか言いようがなかった。服はよく擦り切れているが、汚れているというより使い込まれている感じで、腰の袋も紐も、必要なものが必要な場所に収まっている。目つきは鋭いが、門前にいた男のような「止める側」の怖さではない。もっと、値踏みする側の目だった。品物も人も、ぱっと見て損か得かを考える顔である。

 

 その視線が、澪の服ではなくリュックのあたりに止まった。澪は反射で肩に力を入れる。見られた、と思う。

 

「さっきからきょろきょろしているな」

 

「え」

 

 図星だった。観光客というより、売り場分析に来た同業のスパイみたいな目つきになっていた可能性すらある。まずい。

 

「何を持っている」

 

 直球だった。遠回しな探りではない。澪は一瞬だけ迷い、結局、いちばん見せてもよさそうなものを取り出した。

 

 爪切りだった。

 

 男はそれを見て、眉をひそめた。当然である。こちらから見れば見慣れた爪切りだが、向こうからすれば、小さくて、銀色で、よく分からない形の道具にしか見えないだろう。

 

「これは?」

 

「爪を、切る道具です」

 

 男の顔が止まった。

 

「爪を?」

「はい」

「切るためだけの?」

 

 澪はうなずく。

 

「はい。爪を切るためだけの道具です」

 

 言いながら、用途の限定性が急に心細くなってくる。たしかにそうだ。言葉にすると贅沢である。爪だけである。他に使い道はほぼない。

 

「ぜいたくだな」

 

 やっぱりそう来た。澪は心の中で、ですよね、と思った。

 

 向こうでは刃物ひとつ維持するのも重い。針ですら揃わない。そんな場所で、「これは爪を整える専用の小さな精密道具です」と言われたら、そりゃ贅沢だろう。分かる。分かるのだが、こちらにとってはコンビニの棚に下がっていそうな日用品なので、価値の落差に頭が少しふらつく。

 

「使って見せろ」

 

 男が言った。

 

 たしかにそれがいちばん早い。早いが、自分の爪を異世界の市場で切る日が来るとは、まるで想定していなかった。

 

「ここで……ですか」

「ほかにどこでやる」

 

 それはそうだった。

 

 澪は爪切りを受け取り、恐る恐る親指の爪に当てた。男の視線がある。近くの店の人間も、何をしているのかとちらりと見ている気がする。嫌な緊張だった。演奏会でも発表でもないのに、妙な注目だけが先に集まってくる。

 

 ほんの少しだけ、爪を切る。

 

 ぱちん。

 

 乾いた、小さな音がした。

 

 その瞬間、男が一歩だけ下がった。

 

 澪もびくっとした。いや、自分で鳴らした音なのだから驚くな、と心のどこかが言う。だが、市場のざわめきの中でその「ぱちん」は、思った以上にはっきり響いた。金属の合わせ目がきれいに閉じる、無駄のない音だった。

 

「切れた……」

 

 男が言う。声の中に、さっきまでとは違う種類の興味が混ざっていた。

 

「はい、切れます」

 

 澪は切った爪の先を見ながら答えた。だが、内心はだいぶ落ち着かない。用途を説明し、実演し、相手が驚く。ここまでは分かる。だがその先が分からない。相場が分からない。こちらの常識では安い日用品でも、向こうでは贅沢品かもしれないし、逆に「面白いがいらない」で終わるかもしれない。

 

 その「分からない」の真ん中に、男が銀貨を差し出した。

 

「譲れ」

 

 澪は、銀貨と男の顔を交互に見た。

 

 銀色の丸い硬貨は、日差しを受けて思ったより重い光を返していた。問題は、その価値がまったく分からないことだった。高いのか。安いのか。爪切り一個に対して妥当なのか。向こうの市場全体から見て、いま自分は得をしているのか、それすら分からない。

 

 怖い、と思ったのは、そのときだった。

 

 売れるかもしれない、ではない。売れたらうれしいかもしれない、でもない。最初に来たのは、相場が分からないまま金を受け取ることへの怖さだった。こちらでは百円ショップで買えるような道具が、向こうでは銀貨になる。その落差は魅力より先に危険へ見えた。知らない値段で知らない相手と物をやり取りするのは、思った以上に心臓へ悪い。

 

「……ええと」

 

 受け取っていいのか。断るのも変か。もっと取れるのか。いやそれは分からないし、分からない相手が欲を出すのはたぶん事故の入口である。

 

 澪は一瞬だけ爪切りを見た。次に銀貨を見る。爪切り。銀貨。男の顔。三点を往復して、最後に「今ここで長く迷うのはいちばんまずい」という結論だけが残った。

 

「……ありがとうございます」

 

 そう言って、澪は銀貨を受け取った。

 

 重かった。

 

 大きさのわりに、という意味ではない。手のひらに乗った瞬間、その銀貨は「儲け」より先に「責任」や「危険」の形をしていた。売れた。現金になった。それはたしかにそうなのに、達成感はほとんど湧かない。むしろ、どうしよう、と思う。知らない市場で、知らない価値の金を、知らない相手から受け取ってしまった。そう考えた瞬間、手の中の銀貨が急に目立つものに思えてくる。

 

 しかも、周囲の空気が変わった。

 

 視線が集まるのが分かった。最初は一つか二つだったはずなのに、気づけば近くの露店の人間や通りがかりの客が、さっきよりはっきりこちらを見ている。爪切りの「ぱちん」が目印になったのか、銀貨を渡す場面が見えたのか、その両方か。理由はどうでもよかった。大事なのは、人の注意が自分の周りへ寄ってきているという事実だった。

 

 まずい。

 

 売れた、より先に、その言葉が頭に浮かぶ。まずい。囲まれたらどうする。同じものを見せろと言われたらどうする。値段を聞かれたらどうする。そもそも、銀貨を持っている状態でこの場に立ち続けるのは安全なのか。

 

 商売の快感など一瞬もなかった。あるのは防衛本能だけだ。逃げた方がいい。少なくとも、いったんこの場を離れた方がいい。頭の中の会議は、今度ばかりは驚くほど早く結論を出した。

 

 澪は銀貨を握り込み、頭を下げた。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。気の利いた商人の言葉など出てこない。次もよろしく、などと言える胆力もない。こちらはまだ、異世界で初めて物を売った直後の女子大生であり、しかも最初に思っているのが「相場が分からなくて怖い」と「人が集まってきてまずい」である。商売人の芽はあっても、肝はまだ育っていなかった。

 

 男は何か言いかけたようだったが、その前に澪は半歩下がっていた。さらに一歩。そして、逃げるほど露骨ではない速度を必死に保ちながら、その場を離れる。

 

 視線がまだ背中に刺さる気がする。振り返らない。振り返ったら、たぶんもっと怖くなる。

 

 市場のざわめきの中へ混ざりこみながら、澪は手の中の銀貨を強く握った。冷たい。重い。現実だ。

 

 爪切りは売れた。

 

 異世界で最初に売れたものが武器でも宝石でもなく、爪を切るためだけの小さな道具だった、というのは、あとで落ち着いて考えればかなり澪らしい話なのかもしれない。だが今はそんなことを味わっている余裕はなかった。

 

 売れた、より先に、まずい、が来る。その順番の悪さこそ、たぶん今の澪そのものだった。

 

 爪切りを売ったあと、澪はしばらく市場のざわめきの中を、逃げるようでも歩くようでもない速度で進んでいた。

 

 銀貨はリュックの内ポケットへしまったのに、まだ手のひらに重さが残っている気がする。あれはたぶん、金属の重みというより、知らない値段で物を売ってしまったことの重みだった。売れた、という事実は確かにある。あるのだが、達成感より先に「大丈夫だったのか、あれ」が何度も頭をよぎる。

 

 そんなふうに気持ちが落ち着かないまま路地へ入ったところで、澪はふと足を止めた。

 

 いた。

 

 昨日の子どもだった。

 

 壁際にしゃがみこむようにして、何かを抱えている。その細い腕の中にある透明な板を見た瞬間、澪は思わず息を詰めた。三十センチ定規である。間違いない。自分の部屋の机の上から、押入れ越しの綱引きによって流出した、あの定規だった。

 

「あっ」

 

 声が出る。子どもも顔を上げた。目が合った瞬間、さっと定規を背中へ隠す。その動きがたいへん速い。

 

「いや、隠すんだ……」

 

 そりゃ隠すだろう、と同時に思う。昨日の時点で半分取ったようなものなのだ。相手からすれば、自分は「また取り返しに来た人」に見えて当然である。

 

 子どもは裸足だった。石畳の上へじかに足を置いているのに、それを気にする様子もない。足の甲は日に焼け、踵のあたりは少し硬く見える。昨日も見えた赤い紐が手首に巻かれていて、その細い腕で定規を庇うように抱え込んでいた。抱え方がもう、ただの拾い物に対するそれではない。取られたくないものを守る抱え方だった。

 

 澪は一歩だけ近づいて、それから立ち止まる。

 

「それ……返して、って言ったら、返してくれる?」

 

 自分でも弱い聞き方だと思った。要求というより、ほとんど相談である。

 

 子どもは、じっと澪を見た。警戒している。だが怯えているという感じではない。むしろ、こちらがどこまで本気で取りに来るのかを見ている目だった。小さいのに、妙に芯のある目をしている。こういう目はちょっとずるい、と澪は思う。弱く出ると負けるし、強く出てもたぶん負ける。

 

「それ、私のなんだけど」

 

 もう少しだけはっきり言ってみる。すると子どもは定規を背中から少しだけずらし、しかし手放しはしなかった。

 

「だめ」

 

 短い。たいへん明確である。

 

 澪は困った。もちろん困る。自分の定規なのだ。返してほしい気持ちはある。昨日からずっと、異世界ファーストコンタクトの損失として三十センチ定規一本を計上しているのだから、返ってくるなら返ってきてほしい。それはそうだ。百円ショップで買えると分かっていても、だからといって「ではどうぞ」になるほど気前よくもない。

 

「いや、だめって言われても……」

 

 言いかけて、そこで止まる。子どもは定規をぎゅっと抱え直していた。細い腕に力が入る。昨日の綱引きのときより、明らかに「これは自分のものだ」と思っている抱え方だった。

 

 澪は少ししゃがんで、なるべく目線を近づけた。

 

「そんなにいいの、それ」

 

 聞いてみる。半分は本気で、半分は時間稼ぎだった。

 

 子どもは数秒黙って、それから、背中に隠していた定規を少しだけ前へ出した。まるで、こちらに見せること自体は惜しくないが、渡すつもりは一切ない、という態度だった。筋が通っている。困るが。

 

「これは、すごくまっすぐだ」

 

 真顔で、そう言った。

 

 澪は言葉を失った。

 

 すごくまっすぐ。たったそれだけだった。高いとか、きれいとか、珍しいとかではない。すごくまっすぐ。その言い方に、澪は妙に打たれた。

 

 子どもは定規の縁を指でなぞった。透明な板の中を光が通る。細い指先が、その一直線の辺を確かめるみたいにゆっくり動く。そこには演技もお世辞もなくて、本当にそう感じているのだと分かった。百円ショップで何本もぶら下がっているようなプラスチック定規が、この子には「すごくまっすぐなもの」として見えている。

 

 澪の中で、何かが少しずれた。

 

 こちらでは、定規は定規だ。線を引くための文房具で、なくしても「まあまた買えばいいか」で済む類のものだ。昨日まで澪の部屋にあったときも、たぶんそういう顔しかしていなかった。けれど今、子どもの腕の中にあるその定規は、昨日までよりずっと大事なものに見える。

 

 それが悔しいような、変な気分だった。

 

 損をした。それは事実だ。取られた側なのだから、普通なら腹が立ってもいい。実際、少しは立っている。だが、それと同時に、悪い気もしない。むしろ、昨日自分の机の上にあったときより、ここにある方がこの定規はちゃんと価値を持っているのではないか、とすら思えてしまう。

 

「……そうか」

 

 それ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。

 

 返してほしい。でも、いま無理に取るのは違う。その二つが、同時に胸の中で並んでいる。

 

 静かな路地だった。市場のざわめきは少し遠く、壁際には日陰が落ちている。子どもの裸足の先に石畳の白い照り返しがあり、赤い紐が日に当たって小さく光っていた。腕の中の透明な定規だけが、こちらの世界のものとして、場違いなくらいきれいに真っ直ぐだった。

 

 澪はゆっくり息を吐いた。

 

「……大事にして」

 

 言ってから、自分で少し驚く。本当にそれを言うのか、と心のどこかが確認した。確認したが、口から出たものはもう戻らない。

 

 子どもは目を丸くした。それから、ほんの少しだけ腕の力を緩める。ありがとう、と言ったのか、似たような短い言葉を返した。細かな言い回しまでは分からなくても、その声音に混じる安堵だけははっきり分かった。

 

 三十センチ定規一本。こちらの感覚では、たいした損ではない。けれど、たいした損ではないからこそ、いまここで手放せたのかもしれない。もしこれがスマホだったら絶対に無理だったし、財布だったらたぶん異世界を越えて全力で追いかけていた。定規だから、という現実的な理由もちゃんとある。ちゃんとあるのだが、それだけでもなかった。

 

 価値は、場所が変わると顔まで変わる。

 

 昨日まで自分の机で雑に置かれていたものが、今日ここでは腕に抱えられる。その事実を、澪は頭ではなく身体で理解した気がした。

 

 損をしたのに、悪い気がしない。押しが弱いと言われればその通りだし、甘いと言われても否定できない。それでも、いまこの路地であの子から定規を奪い返すことは、どうしてもできなかった。

 

 澪はもう一度だけ子どもを見た。定規はまだ、しっかりと腕の中にある。その抱え方が、昨日より少しだけ自然に見えた。

 

 たぶん、もうあれは、あの子のものだった。

 

 押入れをまたいで六畳間へ戻った瞬間、澪はその場にしゃがみこんだ。

 

 膝から、力が抜けた。正確には、向こう側にいるあいだ無理やり踏ん張っていた分が、一気に抜けたのだと思う。市場を歩き、門番みたいな男に声をかけられ、爪切りを売り、定規をあきらめて、それでもどうにか自分の部屋まで戻ってきた。戻ってきたと分かった途端、体が「じゃあもういいです」と勝手に職務放棄した感じだった。非常に現金な筋肉である。だが気持ちは分かる。むしろ今までよくもった。

 

 背中の向こうには、いつもの六畳間がある。畳の匂い。ちゃぶ台。机。半端に開いたカーテン。机の上で留守番していたスマホと財布。見慣れたものばかりなのに、いまはそれだけで妙にありがたかった。人は異世界の市場を見たあとだと、自分の散らかった部屋に対しても「帰ってきた……」という感情を抱くらしい。あまり経験したくない種類の気づきだった。

 

 しばらくそのまま息を整えてから、澪は手の中の銀貨を見た。市場で受け取ったものだ。爪切り一個と引き換えに来た、あの銀貨である。

 

 ちゃぶ台の前へ移動し、そっと置く。畳の上ではなく、ちゃんとちゃぶ台の上へ置くあたりに、自分でも無意識の緊張が残っているのが分かった。夢なら消えるかもしれない、とでも思ったのかもしれない。だが銀貨は消えなかった。机の上で、昼の光を受けて、ちゃんと金属の光を返している。

 

 澪は指先でそっと触れた。冷たい。硬い。夢の中の小道具みたいに軽くはない。重みがある。縁のざらつきも、表面の刻みも、指にきちんと引っかかる。

 

「……ある」

 

 声に出して確認すると、その事実が少しずつ胸へ落ちてきた。

 

 怖かった。でも、売れた。言葉が通じた。戻ってこられた。頭の中で出来事を並べると、どれもまだ現実味が変に薄い。異世界の市場だの、押入れ越しの会話だの、定規を抱えた子どもだの、文章にすると全部わりとだめな夢みたいなのに、銀貨だけは黙って現実の顔をしている。そのせいで、夢でした、勘違いでした、疲れていたんです、という逃げ道が一つずつ潰れていく感じがした。

 

 心臓の奥には、まだ熱が残っていた。あれだけ怖かったのに、いや怖かったからこそかもしれないが、体のどこかがまだ興奮している。市場の音。乾いた風。爪切りの「ぱちん」。男の視線。銀貨の重み。全部がばらばらに胸の中へ残っていて、落ち着いたはずなのに、まったく落ち着いていない。

 

「……ほんとに売れたんだ」

 

 笑うしかない、という方が正しいかもしれない。異世界で最初に売れたものが武器でも宝石でもなく、爪を切るためだけの道具だった、というのは、冷静に考えるとだいぶ変だ。だが、変な話のくせに、その結果だけは手の届く現実としてここにある。

 

 そのとき、机の上でスマホが光った。通知だった。家賃引き落とし予定日のお知らせ。

 

 澪は、銀貨とスマホの画面を交互に見た。

 

 片方は、異世界の市場で手に入れた金属の光。

 もう片方は、現代日本の金融システムが容赦なく送りつけてくる無機質な白い通知。

 並べると、ちょっと面白いくらい噛み合っていなかった。

 

「これ、家賃に使えないな……」

 

 ぽつりと出た言葉は、たいへん現実的だった。

 

 そうなのだ。売れた。銀貨はある。だが、だから何だという話でもある。これをそのまま口座へ入れて家賃に変えられるわけではない。コンビニで使えるわけでもなければ、学食の券売機に飲ませられるわけでもない。異世界の売上は、こちらの世界ではただの謎の金属片である。

 

 世界は親切ではなかった。

 

 押入れの向こうに市場をつなげるくらいなら、ついでに現代の換金ルートまで整備しておいてくれてもよさそうなものだが、そういう都合のいい配慮は一切ない。異世界への入口だけ開けて、決済手段は各自で考えてください、という雑なシステムである。利用規約が見たい。かなり文句がある。

 

 だが、文句を言っても銀貨は口座残高にならない。家賃通知は容赦なく現実だし、澪の生活も相変わらず現実だった。

 

 その現実に引き戻された瞬間、逆に頭の中で一つの線がつながった。爪切りは売れた。針は揃っていなかった。鏡は歪んでいた。定規は「すごくまっすぐ」だった。つまり、向こうではこちらの当たり前が、ちゃんと値打ちになる。

 

 澪はメモ帳を引き寄せた。

 

 何を書くのか、自分でもまだよく分からない。だが、手は勝手に動いた。

 

 爪切り。

 手鏡。

 裁縫針。

 髪留め。

 小皿。

 糸切りばさみ。

 

 書いていくうちに、少しずつ項目が増える。どれも高級品ではない。こちらの世界なら、探せば安く、わりと簡単に手に入るものばかりだ。けれど向こうでは、均一で、軽くて、使い勝手がよくて、しかもすぐ役に立ちそうなものに見える。

 

「……何してるんだろ、私」

 

 自分でもそう思う。さっきまで異世界から戻ったばかりで膝が抜けていた人間が、数分後には売るものの候補を書き出しているのだ。回復が早いのか、感覚が麻痺しているのか、そのへんは微妙だった。だが、分からないからといって手を止める気にもなれない。

 

 怖いのは、まだ怖い。市場で人に囲まれそうになった感覚も、門前の男の視線も、全部ちゃんと怖かった。それでも、メモ帳の上に並んだ単語を消す気にはならなかった。むしろ、消したら何か大事なものまで一緒に消えそうな気がした。

 

 異世界で冒険をしたいわけではない。剣を持ちたいわけでも、魔王を倒したいわけでもない。だが、向こうに市場があって、こちらに品物があるのなら、その間に何かが立つかもしれない。そういう、ひどく地味で現実的な発想だけが、怖さのあとにじわじわ残っていた。

 

 最後に澪はスマホを手に取り、検索欄を開いた。王都の場所でもなければ、異世界語の辞書でもない。検索したのは、百円ショップの営業時間だった。

 

 そこまで来て、澪はついに吹き出した。

 

「いや、そっちに行くのか……」

 

 自分で自分に突っ込む。だが、たぶん間違っていない。少なくとも今の澪にとって、異世界への次の一歩は、王都ではなく百円ショップの棚の前にある。

 

 ちゃぶ台の上には銀貨。

 スマホには営業時間。

 メモ帳には売るものの候補。

 

 六畳間のままなのに、昨日までとは景色が違って見えた。

 

 冒険ではない。

 

 けれど、たしかに何かが始まっていた。

 

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