朝の六畳間で、篠原澪はリュックの口を開けたまま、しばらく動けずにいた。
ちゃぶ台の上には、カラビナ、防水ポーチ、小型フック、ホイッスルが、それぞれ小袋に分けられて置かれている。商品そのものは小さい。百円ショップの棚なら、片手でまとめて持てる程度の量だ。けれど押入商会の商品になると、急に顔つきが変わる。カラビナには「重い荷には使わせない」と書いた注意メモが必要で、防水ポーチには「完全防水ではない」と書いた紙を添える必要がある。小型フックは試験用で、ホイッスルは販売ではなく安全用。つまり、ただ袋に入れれば終わりではなかった。
澪はカラビナの袋をリュックに入れ、その隣に防水ポーチの袋を差し込んだ。さらに在庫表の写し、価格表、鑑定結果メモ、注意事項メモ、販売禁止品リスト、リュシアへの相談メモ、レシート控えをクリアファイルに挟んで入れる。紙類は薄いはずなのに、まとめると妙に場所を取った。押入商会は小物商のはずなのに、商品より紙の方が偉そうにリュックの中で場所を主張している。
肩紐を持ち上げた瞬間、澪は嫌な予感を覚えた。重い。商品は軽いのに、管理が重い。物理的にはそこまでではないはずなのに、肩へかかる感覚が昨日より確実に増していた。澪は一度リュックを下ろし、中身を見直す。カラビナはどの袋に入れたか。防水ポーチは何個だったか。ホイッスルは販売用ではなく安全用なので、在庫表のどこに書いたか。頭の中で確認しようとしたが、不安が先に来て、結局リュックの中身を全部出すことになった。
小袋がちゃぶ台の上に戻ってくる。クリアファイルを開き、メモを確認し、また袋を詰め直す。澪は作業の途中で、手を止めた。販売禁止品リストを作った時も思ったが、商売は「持っていく物」だけでは終わらない。持っていかない物、売らない物、相談する物、まだ保留する物まで増えていく。便利な小物商のはずが、代表社員の肩と頭だけが先に重労働になっていた。
澪は、カラビナの小袋をもう一度リュックへ入れながら、思わず心の中でつぶやいた。
収納スキルとかあったら楽なのに。
次の瞬間、澪は自分でその考えを打ち消した。都合がよすぎる。いくら押入れの向こうが異世界だからといって、そんな便利なものが自分に生えてくるとは限らない。それに、もし本当に物をどこかへしまえるようになったとしても、中身を忘れたら大惨事になる。リュックの中でさえ今こうして混乱しているのに、見えない場所へ入れた商品を自分が正確に覚えていられる保証はない。
澪はリュックを背負った。肩紐が、じわりと肩へ食い込む。今日は荷物を増やさない。新商品も増やさない。管理の見直しだけにする。そう決めてから、押入れの襖を開けた。
異世界側の空気が流れ込む。焼いた肉、革、土埃、香草。いつもの市場の匂いだった。澪は肩紐を握り直し、畳から石畳へ足を踏み出した。
リュシアの倉庫へ着くと、澪はまずリュックを慎重に下ろした。
勢いよく置くと、中の小袋が混ざりそうな気がした。実際にはそこまで乱暴に扱わなければ大丈夫なはずだが、今の澪は、在庫表と現物がずれることを何より恐れている。木箱の上にリュックを乗せ、カラビナの袋を出し、メモと照合する。防水ポーチ、小型フック、ホイッスルも順に並べた。
リュシアはその様子を横から見て、少し呆れたように眉を上げた。
「ミオ、また荷物が増えてるわ」
「商品は増やしていません。管理が増えました」
「管理?」
「売る物、相談する物、まだ売らない物、注意が必要な物を分けたら、紙と袋が増えました」
澪はクリアファイルを軽く叩いた。中には在庫表の写し、価格表、鑑定結果メモ、注意事項メモ、販売禁止品リストが入っている。リュシアには文字は読めないが、澪の顔と紙の量で、面倒が増えていることは分かったらしい。
「収納持ちなら楽なのに」
リュシアは何気なくそう言った。
澪の手が止まった。カラビナの袋を開けかけたまま、顔を上げる。
「収納持ち?」
「ええ。少しだけ物をしまえる人がいるの。珍しいけど、市場にも何人かはいるわ。荷運びや神殿の使い走り、職人の手伝いなんかで重宝されるわね」
リュシアは当たり前のように言ったが、澪の中ではその単語が大きく響いた。収納。物をしまえる。リュックが軽くなるかもしれない。紙と小袋と商品に振り回されなくなるかもしれない。いや、そう簡単な話ではないと頭の隅では分かっている。それでも、肩紐の跡が残っている澪には、かなり魅力的な響きだった。
「そんなに食いつくと思わなかったわ」
「荷物が減るなら、食いつきます」
澪はかなり真剣に答えた。リュシアは面白そうに笑い、倉庫の外へ顔を出す。
「トト、近くにいる?」
しばらくして、倉庫の入り口から小柄な子供が顔を出した。十歳前後だろうか。髪は短く、日に焼けた頬をしている。腰には古い袋を下げていて、荷運びの子らしく、動きに無駄がない。けれど目つきはまだ子供で、リュシアを見つけると少し安心した顔になった。
「リュシア姉、呼んだ?」
「この子がミオ。変な品を持ってくるけど、悪い人じゃないわ」
「変な品……」
澪は小さく反応したが、否定はできなかった。百円ショップのカラビナや防水ポーチを異世界へ持ち込んでいる時点で、かなり変な品ではある。
トトは澪のリュックを見た。
「荷物、多いね」
子供の率直な言葉はよく刺さる。澪は少しだけ肩を落とした。
「多いです。管理も多いです」
「管理?」
「ええと、どれが何で、どこにあって、誰に渡すかを忘れないようにすることです」
トトは分かったような、分からないような顔をした。リュシアが横から言う。
「トトは少し収納が使えるの。見せてあげて」
トトの表情が、少し得意げになった。彼は腰袋からではなく、近くの木札を一枚手に取った。手のひらに乗せ、目を閉じる。澪は思わず息を止めた。次の瞬間、木札がすっと消えた。
声が出そうになり、澪は慌てて自分の口を押さえた。倉庫の外へ聞こえたら困る。そんな配慮をしている自分も妙だが、目の前で物が消えたのだから、仕方がない。
トトは澪の反応に満足したらしく、もう一度手を開いた。何もない手のひらを少し振り、それからまた目を閉じる。木札が戻った。
澪はトトの袖口を見た。腰袋も見た。床も見た。現代人としては、手品の可能性を確認したかったのだ。
「隠してないよ」
トトがむっとした。
「ご、ごめんなさい。すごかったから、つい」
「すごいでしょ」
トトはすぐ得意げに戻った。子供らしい切り替えの速さだった。
リュシアは木札を受け取りながら説明する。
「トトの収納は小さいわ。たくさんは入らない。重い物も無理。生き物は入らないし、危ない物や気持ち悪い物は嫌がる。自分の荷物だと分かっている物の方が入りやすいわね」
「自分の荷物だと分かっている物」
「拾っただけの物や、誰かの大事な物は入りにくいの。あと、入れたまま忘れると探すのが面倒よ」
最後の一言で、澪の背筋が少し伸びた。やはり忘れるのは危険なのだ。トトはその危険をあまり気にしていない顔で、胸のあたりを指で押さえた。
「頭の中の袋に、ぽいって入れるんだよ」
「ぽい」
「うん。袋の口を開けて、ぽい。出す時は、袋の中から取る」
説明はかなり感覚的だった。理屈はない。けれどトトは、それで実際に使えている。澪はカラビナを一つ手に取った。軽い金具の感触が指先に伝わる。リュックの重さを思い出す。試してみたい。怖い。でも、試すだけなら、カラビナ一つで済む。
「やってみます」
リュシアは少しだけ楽しそうに目を細めた。
澪はカラビナを手のひらに乗せ、目を閉じた。
まず、頭の中にリュックを思い浮かべた。だが、その瞬間、今朝の六畳間で小袋を入れては出し、入れては出し、結局全部ひっくり返した光景が出てきた。カラビナがどの袋に入ったのか分からなくなる不安が先に来る。手の中のカラビナは、そのままだった。
次に、防水ポーチを思い浮かべる。口が閉まり、小物を守ってくれる袋だ。けれど、同時に「完全防水ではない」という鑑定結果が浮かび、収納のイメージが横へずれた。入れたつもりの物が湿りそうな気がして、また失敗した。
収納ケースも試した。現代側の部屋にある半透明の小物ケースを想像する。だが、その中には彫金の端材、予備の小袋、用途不明の金具が入っている。混ざる未来しか見えない。澪は眉間に力が入るのを感じた。
最後に、押入れを思い浮かべた。
これは最悪だった。
澪にとって押入れは、ただの収納ではない。異世界へつながっている実物の出入口だ。頭の中で襖を開けた瞬間、石畳と市場の匂いとリュシアの倉庫が一気に浮かび、収納どころではなくなった。カラビナをしまうつもりが、異世界へ出勤するイメージになってしまう。
澪は目を開けた。額に少し汗が浮いている。手の中には、当然のようにカラビナが残っていた。
トトが不思議そうに首をかしげる。
「袋、ないの?」
「袋はあるんだけど、頭の中で袋を信用できない」
「信用?」
「入れたあとに、どこへ行ったか分からなくなりそうで」
トトはますます分からない顔をした。リュシアは口元を押さえて少し笑った。
「ミオらしいわ」
「笑うところですか」
「だって、収納を使う前から棚卸しの心配をしてるもの」
澪は言い返せなかった。便利な能力を試しているはずなのに、頭の中で最初に出てくるのが紛失と棚卸しなのは、自分でもどうかと思う。だが、管理できない収納は、澪にとってはただの紛失装置だった。見えない場所に入れられるからこそ、何を入れたか分からなくなった時が怖い。
澪はカラビナを木箱の上に置き、一度手を離した。それから、トトへ向き直る。
「しまう時、どんな感じなの?」
トトは少し考え、自分の胸のあたりを指で押さえた。
「ここじゃなくて、頭の中に袋がある感じ。袋の口を開けるでしょ。手に持ってるものを、ぽいって入れる。出す時は、袋の中に手を入れて、これって思って取る」
「中で混ざらない?」
「混ざることもあるよ。でも、小さい物だけだから」
「混ざるんだ……」
澪はそこに強く反応した。トトは不思議そうに見ている。彼にとっては、大した問題ではないのだろう。だが澪にとっては大問題だった。混ざる。分からなくなる。探す。棚卸し。心臓に悪い。
けれど、そのおかげで少し分かった。
トトにとって収納は袋だ。リュシアにとっても、おそらく袋や箱の延長として理解されている。物を入れる場所。物を取り出す場所。だが、澪にとって安心して物をしまえる場所は、袋ではなかった。
最近、澪が一番信じているもの。
それは、在庫表だった。
商品名。型番。数量。状態。保管場所。注意事項。そこまで分かっていれば、澪は少し安心できる。逆に、それが分からない収納は怖い。澪はカラビナをもう一度手に取った。今度は目を閉じる前から、袋を思い浮かべないようにした。
頭の中に作るのは、袋ではない。罫線のある表だ。
商品名の欄に、カラビナA。
数量の欄に、一。
状態の欄に、未販売。
保管場所の欄に、押入商会管理。
注意事項の欄に、強い荷重には不向き。
最後に、取り出し可。
物を空間へ入れるのではなく、在庫表の一行に登録する。澪は、そこまで頭の中で欄を埋めた。すると、手の中の重みがすっと消えた。
澪は目を開けた。手のひらは空だった。
リュシアもトトも、目を丸くしていた。
「袋じゃない」
トトがぽつりと言った。
「ミオらしいわ」
リュシアは、驚きと呆れと感心が混ざったような声で言った。
澪は喜ぶより先に、頭の奥を確認した。そこに、カラビナAが一つ、収納中として存在している感覚がある。袋の中に入っているのではなく、在庫表の一行が閉じられているような感覚だった。
澪の顔から血の気が引いた。
「これ、在庫表が間違っていたら終わりますよね」
リュシアは一瞬きょとんとし、トトもよく分からない顔をした。澪だけが、在庫と現物の不一致という恐怖を理解していた。
問題は、取り出しだった。
トトは「袋に手を入れて取る感じ」と言ったが、澪にはやはり分からなかった。袋の中から探す、というイメージがもう怖い。どこにあるか分からないものを手探りするのではなく、澪はもう一度、頭の中の在庫表を見ることにした。
カラビナA。
数量、一。
状態、収納中。
取り出し。
在庫表の行を選び、チェックを外す。そんなイメージを作った瞬間、手のひらの上にカラビナが戻った。金属の小さな重みが指に乗る。澪は思わず息を吐いた。手の中にある。ちゃんと戻ってきた。
「出た」
トトが面白そうに言った。
リュシアはカラビナと澪の顔を見比べた。
「収納というより、管理してるのね」
「たぶん、そうしないと怖いです」
「収納の癖かもしれないわ。袋みたいに感じる人もいれば、箱みたいに感じる人も、部屋みたいに感じる人もいるって聞いたことがある。ミオの場合は……表なのね」
「表って何?」
トトが聞いた。澪は説明しようとして、少し詰まる。日本の表計算や在庫管理表を、この子にどう説明すればいいのか。リュシアが代わりに言った。
「ミオの頭の中の荷物札みたいなものよ。何がいくつあって、どこにあって、どう使うかを書いておく札」
澪は、その説明が一番近いかもしれないと思った。荷物札。確かに、表と言うよりは、この世界ではその方が伝わる。
「便利そうだけど、制限は確認した方がいいわ」
リュシアが真面目な顔になった。澪もすぐにうなずく。便利だからこそ危ない。販売禁止品リストを作った時に、散々学んだことだった。
まず、軽い小物から試した。カラビナは入る。防水ポーチも入る。小型フックも、メモ帳も、在庫表の一行として認識すれば入った。入る時の感覚は、いずれも「しまった」というより「登録した」に近い。
次に、倉庫の隅に立てかけていた透明盾を思い浮かべた。正確には持ってきていないが、澪の管理上は押入商会の装備品として認識している。試すだけならと思った瞬間、頭の中の表がうまく収まらない違和感を返してきた。大型、装備品、目立つ、持ち運び注意。欄が足りないというより、そもそも表の種類が違う感じだった。
マチェットを試そうとした時は、もっとはっきり拒否感があった。刃物系。販売禁止品リスト。取り扱い注意。収納の奥が嫌がるような感覚があり、澪はすぐにやめた。
「無理です。刃物系は、かなり嫌な感じがします」
「その方がいいわ」
リュシアは即座に言った。
火関係の道具や薬品も、想像しただけで表に入れたくない感じがある。販売禁止品リストと、収納の感覚がどこかでつながっているのかもしれない。澪はそのことに少しだけ安心した。自分が危ないと判断したものを、収納も嫌がる。少なくとも、今のところは。
金貨を試せるかどうか、少しだけ考えた。金貨を収納できれば安全かもしれない。リュックの中で盗まれる危険も減る。そう思った瞬間、リュシアが澪の顔を見て首を横に振った。
「お金を入れられる収納は、人に知られると危ないわ」
澪はすぐに考えを引っ込めた。
「やめます」
「それがいい。便利すぎるものは、見られた時が怖いの」
食品も試さないことにした。ポカリ騒動と販売禁止品リストを思い出す。収納の中で時間が止まるわけではない。傷む可能性があるものを、いきなり入れるのは危険だった。
トトは、澪の試し方を不思議そうに見ていた。
「なんか、ミオの収納、めんどう」
「私もそう思います」
「ぼくのは、袋だよ」
「うらやましいです」
「でも、ミオのはなくしにくそう」
子供らしい単純な言葉だったが、澪は少しだけ救われた。確かに、面倒な分、なくしにくいかもしれない。管理できれば、の話だが。
リュシアは腕を組み、澪の手元を見ながら言った。
「商売向きかもしれないわね。管理できれば」
「その条件が重いです」
「でも、ミオはもともと重い管理をしているでしょう」
「褒められているのか、仕事を増やされているのか分かりません」
「両方かしら」
リュシアは悪びれずに笑った。澪はカラビナを握り直し、今日のうちに絶対に記録しようと心に決めた。物が消えて戻る。普通なら喜ぶべきことなのかもしれない。けれど澪の頭には、すでに新しい表の枠が見え始めていた。
江古田の六畳間に戻った時、リュックは少し軽かった。
しかし、澪の気分は軽くなかった。物が消えて、戻る。どう考えてもすごい。普通なら、跳ねて喜んでもおかしくない。けれど澪はちゃぶ台の前に座るなり、ノートを広げた。
在庫表。価格表。鑑定練習メモ。自分用管理表。販売禁止品リスト。そこへさらに、新しいページが増える。
収納スキル管理表。
タイトルを書いた瞬間、澪は少しだけ絶望した。便利になったはずなのに、また表が増えた。けれど、書かない方がもっと怖い。収納中の商品を忘れたら、それは紛失と同じだ。目に見えない場所にしまうのだから、記録しなければ危ない。
澪は今日の実験を一つずつ思い出しながら、欄を作った。品名、状態、収納可否、注意、備考。カラビナを入れた時の手の軽さ、防水ポーチがすっと表に収まった感覚、透明盾を思い浮かべた時の収まりの悪さ、マチェットを試そうとした時の拒否感。そうした感覚を、できるだけ言葉に変えていく。
カラビナA、収納可。
防水ポーチA、収納可。
小型フックA、収納可。
メモ帳、収納可。
透明盾、収納不可。
刃物系、不可。
火関係、不可。
金貨、未検証、当面禁止。
食品、未検証、保留。
短い項目を書き終えても、澪はすぐにペンを置かなかった。その横に「在庫表と認識がズレると取り出しにくくなる可能性」と書く。さらに「収納中のものは、寝る前に必ず確認」と書いた。
その瞬間、自分用管理表の睡眠欄が目に入った。
また寝る前の作業が増えた。
澪はペンを持ったまま、しばらく固まった。収納スキルを得たのに、寝る前の確認事項が増える。これは本当に便利になったのだろうか。いや、便利ではある。便利ではあるが、澪の場合、便利になった分だけ管理表が増える。
ふと、澪は自分自身を鑑定してみた。
江古田の森公園で試した時より、少しだけ見え方がはっきりしている。頭の奥に、健康管理アプリと在庫表を混ぜたような感覚が浮かぶ。
篠原澪
体力:36
筋力:28
集中:44
睡眠:やや不足
栄養:改善中
緊張:高め
鑑定:3
収納:1
商才:芽あり
危機回避:学習中
在庫管理:上昇中
課題進捗:危険
澪は「鑑定:3」の文字を見つめた。
最初に物の注意書きのようなものが浮かんだ時、澪は自分の疲れを疑った。江古田の森公園では、鳥や犬を見るたびに、警戒や体力のような数字が勝手に頭の中で並んだ。百円ショップでは、棚の商品を手に取るたびに、売れそうかどうかより先に、怪我や誤用や説明不足の方が見えるようになった。
思い返すと、確かに見え方は少しずつ変わっている。最初はただの備考欄だったものが、今は用途や危険性を先に押し出してくる。
その下の「収納:1」は、いかにも生まれたばかりという顔をしていた。カラビナひとつを入れて出すだけで、澪はここまで神経を使っている。数字が一なのは、かなり正しい気がした。
そこまでは、少しだけ嬉しかった。
だが、その下にある「課題進捗:危険」が、静かに喜びを押し戻してきた。スキルが増えても、大学の課題は減らない。収納に入れて消せたら楽だが、たぶん課題は入らない。入ったとしても、提出できなければ意味がない。
澪は、収納中のカラビナAを頭の中の在庫表で確認した。ある。収納中になっている。取り出し可。そう分かっている。それでも、寝る前に入れっぱなしにするのがどうしても落ち着かなかった。
結局、澪は在庫表の行を選び、チェックを外すようなイメージを作った。手のひらにカラビナが戻る。小さな金属の重みが乗った瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。
ちゃんとここにある。
澪はカラビナの開閉部分を指で押し、ばねが戻る感触を確かめた。それからちゃぶ台の上にそっと置く。収納スキル管理表は開いたまま、自分用管理表も閉じていない。大学の課題ノートも、もちろん終わっていない。
それでも、今夜はこれでいいことにした。
澪は部屋の明かりを少し暗くした。収納スキル初日の夜、押入商会代表は、チート能力より現物確認を信用した。