歓声は、湿地の水面を揺らすほど大きかった。
薬草宿場の者たちは、浅瀬の方を見たまま、泣き笑いのような声を上げていた。水路そのものが動いた、と言われていた親玉は、もうそこにはいない。ラージアリゲーターの巨体は、泥と血と水を連れたまま収納の中へ収められている。
それでも、湿地には跡が残っていた。
折れた葦が水面に倒れ込み、餌場として使った場所の周りでは、血の色が泥に混じって鈍く沈んでいた。浅瀬の縁は大きくえぐれ、そこへ馬小屋の方から流れてきた細い汚水が、何事もなかったように入り込んでいる。
ライナーは水辺から少し離れた場所で、腰が抜けたように座り込んでいた。番頭として旅人の前に立つ時の顔ではない。宿場が潰れずに済んだ者の顔だった。
薬草採りの若い男が、両手で顔を覆っている。馬小屋の方では、馬の鼻息に混じって、人の安堵の声がした。
エレナは、まだ息を整えきれていなかった。目は湿地の浅瀬へ向いている。さっきまで、そこには十メートル級の顎があった。澪が撃ち、真壁が誘導し、宿場を脅かしていた牙は消えた。
澪の手には、まだレールガンの熱が残っているようだった。
だが、真壁だけは違う場所を見ていた。
浅瀬そのものではない。そこへ流れ込む水だった。
馬小屋の方から細く続く泥水、旅人が手を洗う桶、薬草を洗った後の緑がかった水、飲み水を汲む場所へ向かう人の足跡。泥足で宿へ戻ろうとする薬草採りの裾には、湿地の泥が跳ねている。吊るされた薬草の下にも、同じ泥が点々と飛んでいた。
真壁の視線は、ラージアリゲーターのいなくなった水面を越えて、宿場の中へ入っていく。
エレナがその視線に気づいた。
「魔物は倒した。これで宿場は助かったのではないのか」
真壁は、湿った土を杖の先で押した。泥の中から泡が一つ浮き、すぐに潰れる。
「牙は退けました、姫君。ですが、病の入口はまだ閉じておりません」
「病の入口?」
「水です。泥です。寝具です。馬小屋です。剣で斬れぬものほど、領を静かに痩せさせます」
エレナは黙った。
澪は、レールガンの固定具から離した自分の手を見てから、真壁の視線を追った。魔物がいた浅瀬ではなく、宿場の水場。そこに、これから見るべきものがある。
「魔物より、水場を見るんですね」
「魔物は見える。汚れた水は、見ようとしなければ見えぬ」
ライナーが、座り込んだまま顔を上げた。
「水場、ですか」
「ええ」
真壁は宿場の方へ歩き始めた。泥の中へ無造作には入らない。足を置く前に杖で硬さを見て、沈む場所を避ける。濡れた草の縁を踏み、浅い泥では体重を踵へ残さず、抜きやすい角度で足を置く。
オスカーがその足元を一度見た。
「姫様、足元です」
「まだ動いていない」
「動く顔でした」
「今日は顔で何度止められるのだ」
「湿地ですので」
エレナは不満そうにしながらも、オスカーの制止に従った。昨日までなら突っ込んでいたかもしれない足元を、今日は一度見た。
真壁はそれを確認してから、宿場の水場へ向かった。
薬草宿場の水場は、便利な場所にあった。
宿の裏からも近い。馬小屋からも近い。薬草干し場からも近い。旅人が手を洗うにも、薬草採りが泥を落とすにも、桶を洗うにも、馬に水を飲ませるにも、そこへ行けば済む。
便利だった。
だから、すべてが集まっていた。
水面には細かな草の切れ端が浮いていた。桶の縁には泥がこびりついている。馬小屋の方から細い流れができて、浅い溝のように水場の下へ向かっていた。薬草を洗った後の緑がかった水も、同じ場所へ流れている。
ライナーは額の汗を袖で拭った。
「水場は昔からあそこです。旅人も、馬も、薬草採りも使います」
真壁は責めるようには言わなかった。
「それが便利であることは分かります。だが、便利な場所に汚れも集まる」
澪は水面を見た。鑑定10を重ねる。飲み水として使える水と、馬の泥が混じった水と、薬草を洗った水と、手を洗った水が、薄く違って見える。匂いも違う。濁り方も違う。
「飲み水と、洗う水と、馬の水が近いです」
ライナーは困ったように眉を寄せた。
「分けるほど余裕がありませんで」
「余裕がないからこそ、病が入ると宿場が止まる」
真壁の声は静かだったが、濁った水よりも重く落ちた。
エレナが水場を見た。水はただの水に見える。けれど、よく見ると、旅人が手を洗った桶を、次に薬草採りが使おうとしている。馬小屋から来た少年が、同じ柄杓を取ろうとしている。宿の女が、濡れた布を絞ろうとしている。
「水を分けるだけで変わるのか」
真壁はエレナへ向き直った。
「姫君。水を分けるとは、人の動きを分けることです。汚れた手、泥の足、馬の汚れ、薬草を洗う桶。それらが同じ場所で混じれば、薬草宿場が病の宿場になります」
エレナは水場から視線を外し、宿の壁際に積まれた寝具を見た。
澪もそちらへ行く。布は乾いているようで、端が湿っていた。人の汗と湿気と泥の匂いが重なっている。旅人が交代で使う寝床なら、これが何人分もの身体を通っていく。
馬小屋の奥には食料袋が積まれていた。その下に、小さなかじり跡と黒い粒がある。鼠の跡だ。宿場の女衆は気づいているが、忙しさに押されて後回しになっているらしい。
薬草干し場の下には、薬草が落とした細かな葉と、泥の跳ねが混ざっている。乾かすための場所なのに、湿りが近い。
エレナの顔が少し変わった。
「……見えぬ敵か」
「見ようとしなければ、見えませぬ」
オスカーがエレナの足元を見る。
「姫様、足元です」
「今日は本当に足元ばかりだな」
「湿地ですので」
澪は、手元のノートを開いた。大学のゼミで書いていた「商品情報の見える化」という言葉が、頭の奥で揺れる。
これは商品ではない。
けれど、同じだ。
誰が見ても分かるようにする。
迷わないようにする。
入ってはいけない汚れの道を、見えるようにする。
「水場を分けます。飲む水、手を洗う水、馬の水、薬草を洗う水。札も分けます」
ライナーが目を瞬かせた。
「水に札、ですか」
「はい。誰が見ても間違えないようにします」
真壁が、少しだけ口元を緩めた。
「悪くない。水にも荷札を付けるわけだ」
「荷札というより、使い方の札です」
「同じことだね。迷わせぬ札は、商いにも衛生にも効く」
澪は収納10を開いた。頭の中で区画が分かれる。食品ではない。薬品ではない。衛生用品。洗濯用品。注意札。虫用。鼠用。植物用。桶。紐。洗濯ばさみ。布。手袋。
それから、木札の束と筆記具をまとめて収納内へ入れた。
現実の手は一つしかない。ここで一枚ずつ書いていけば、その間にも誰かが泥のついた桶を水場へ戻してしまう。澪は息を整え、収納10の内側に木札の小さな作業区画を作った。
収納の中で、木札は用途ごとに分かれて並ぶ。上流側へ置く札には飲み水の文字を入れる。宿の入口近くに掛ける札には手洗いと書く。馬小屋へ回す札には馬用と入れ、薬草洗いの札には、手洗いとは別にする注意も添える。泥落とし場の札は、宿へ入る前に目に入るよう、少し大きい木札を選んだ。
並行思考2は、考えを増やすというより、散らばりそうなものを収納内の札へ戻してくれた。
水の流れ、宿場の人の動き、薬品の注意、桶の置き場、鼠用駆除用品の危険。別々のことを考えても、札の位置がそれぞれの考えを受け止める。澪は収納内で木札へ文字を入れ、書き終えたものから一つずつ取り出した。
水場の前に、木札が順に並ぶ。
ライナーが目を丸くした。
「もう、書けたのですか」
澪は少しだけ照れた。
「収納の中で、先に分けました。書く場所を分けると、間違えにくいので」
真壁は木札を一枚手に取り、文字と置き場所を確かめた。
「悪くない。並行思考が、道具として働いている」
「頭の中だけで考えるより、収納の中に札を置いた方が分かりやすいです」
「その見方でよい。考えを札にし、札を場所に置く。そうすれば、人の動きが変わる」
澪は最初の札をライナーに渡した。
「これは飲み水です。泥が入りにくい上流側へ置いてください」
ライナーは札を受け取り、すぐに上流側の桶へ目を向けた。
「宿の裏ではなく、あちらですね」
「はい。泥が入りにくい方へ」
次の札は、宿の入口近くに置く。
「これは手洗いです。旅人が中に入る前に使える場所へお願いします」
三枚目を見たオスカーが、馬小屋側の低い水場へ視線を向けた。
「馬用は下流側ですな」
「はい。飲み水とは分けます」
四枚目の札を受け取った薬草採りの女が、濁った桶を抱え直した。
「これも、手洗いとは別ですか」
「別です。薬草を洗った水を、人の手洗いに戻さないようにします」
最後に、澪は泥落とし用の札を持ち上げた。宿の入口から少し離れた、固い草の根が残る場所へ視線を向ける。
「ここで泥を落としてから、宿へ入る形にしたいです」
エレナがその場所へ足を向けかけた。
「泥落とし場を見る」
オスカーが半歩で前に出る。
「姫様、そこは泥を落とす場所です。泥を付けに行く場所ではありません」
「まだ付けていない」
「付ける顔でした」
澪は笑いそうになりながら、木札を一枚ずつ渡していった。
札が人の手に渡るたび、水場の使い方が少しずつ変わっていく。収納の中で分けたものが、現実の宿場の動きになっていく。
真壁はそれを見て、満足そうに杖を引いた。
「水にも荷札を付けたわけだ」
「荷札というより、使い方の札です」
「同じことだね。迷わせぬ札は、商いにも衛生にも効く」
薬草干し場の裏には、小さな畑があった。
畑と呼ぶには湿りすぎている。湿地の縁を少し高く盛り、採ってきた薬草を植え替えて増やす場所らしい。細い葉を持つ株、丸い葉を広げた株、赤い茎の株が、低い木枠の中に分けられていた。
ただ、勢いは弱い。
葉の先が黄色い株がある。虫に食われた穴がある。水を吸いすぎたように、根元が黒ずんでいるものもある。逆に端の方では乾き、葉が丸まっていた。
薬草採りの女が、申し訳なさそうに言った。
「今年は、どうにも勢いが弱くて。湿地の薬草は強いはずなんですが」
澪はしゃがんだ。泥に膝をつかないよう、足場を選ぶ。移動加速2は、速く走るというより、滑らない場所を先に選ばせる。水場の石、固い草の根、沈みにくい土。足を置く位置が見えた。
鑑定10を重ねる。
葉の色だけではない。根の苦しさ。水が抜けない土。虫に弱った部分。乾きすぎた端の株。薬効成分は残っているが、株そのものが疲れている。
「病気というより、根が苦しそうです。水が多すぎる株と、虫に弱っている株があります。あと、こっちは乾きすぎです」
ライナーが目を丸くした。
「草にも、そんな違いが見えるのですか」
「見えるようになりました」
澪は自分で言ってから、少し不思議な気持ちになった。狼の群、大ムカデ、見えない敵、ラージアリゲーター。そういうものを見るために伸びたはずの鑑定が、今は弱った薬草の根を見ている。
エレナが黄色い葉を見つめた。
「薬草にも薬が要るのか」
真壁はエレナの隣に立ち、畑を見下ろした。
「姫君。人を治す薬ではありません。薬になる草を守る薬です」
澪は収納から小さな容器を取り出した。現代側で仕入れていた、植物用の活力剤だ。ラベルはそのままでは読まれて困るので、澪が別の札をつける。
植物用の薬であり、人に使うものではないこと。薄めて使うこと。使いすぎないこと。水はけを直してから使うこと。澪はそれらを、先ほどと同じように収納内で小さな紙片へ整理し、木札へ書いてから取り出した。
「これ、植物用です。人間に使う薬じゃありません」
エレナは興味深そうに容器を覗き込もうとした。
オスカーが止める。
「姫様、顔が近いです」
「匂いを見るだけだ」
「薬は匂いで判断しないでください」
真壁は苦笑せず、畑の水路へ視線を移した。
「これだけで済ませてはなりません。水を逃がし、虫を減らし、土を整え、弱った株へ薄く使う。順番を誤れば、薬も毒になります」
澪は小さな桶に水を取り、活力剤を薄く混ぜた。鑑定で濃さを見る。強すぎない。弱すぎない。傷んだ株の根元に少しずつ流す。
「使う量の札を作ります」
「よい判断だ」
薬草採りたちは半信半疑で見ていた。
当然だ。水をかけた瞬間に葉が伸びるわけではない。黄色い葉が緑へ戻るわけでもない。奇跡のように、畑全体が生き返るわけでもない。
ただ、澪の鑑定には、弱りが止まる方向の反応が薄く返った。根が水に負けている株は、まず排水が必要だ。虫に食われた株は虫を減らす必要がある。土が詰まった場所は、ほぐさなければならない。活力剤は、その後で効く。
「今すぐ元通りじゃないです。でも、弱り方が止まる方向です」
真壁は頷いた。
「それで十分だ。領の薬草は、奇跡ではなく、管理で守る」
エレナは、弱った葉を見たまま言った。
「薬になる草を守れねば、人を治す薬も途切れるのだな」
「おっしゃる通りです、姫君」
エレナは少しだけ唇を結んだ。
魔物を倒した時より、分かりにくい。
だが、この草が枯れれば、薬湯も、乾燥薬草も、旅人が頼る小さな薬も減る。宿場は、少しずつ弱る。
見えない敵は、水だけではなかった。
薬草畑のさらに奥へ進むと、湿地の匂いが濃くなった。
赤い樹皮の木が低く並び、その根元には黒っぽい土が盛り上がっている。草の根が絡まり、踏めばぐずりと沈む。泥とも土とも言い切れない。澪の地図7には、その場所が薄く反応していた。
澪は足元を確かめながら近づいた。真壁は先に杖を入れ、沈み方を見てから足を置く。泥の浅い場所へ足を入れた時、膝を曲げすぎず、体重を逃がして、沈む前に抜く。見ていると簡単そうだが、実際にやれば足を取られる動きだ。
オスカーがそれを見て、低く言った。
「真壁殿、湿地の足運びに慣れておられますな」
「慣れているのではない。沈まぬ場所を選んでいるだけです」
「それを慣れていると言います」
エレナが進もうとした瞬間、真壁は自然に半歩ずれた。進路を塞いだというより、そこに立っていたという自然さだった。
「姫君、その先は柔らかい」
オスカーも同時に言う。
「姫様、足元です」
「二人で言うな」
「湿地ですので」
澪はその動きを見ていた。移動加速とは違う。速く動いているわけではない。けれど、身体が崩れない。泥が抜ける前に、重心が逃げている。エレナを止める位置へ、無理なく立っている。
「移動加速とは違いますね」
真壁は足元の泥を杖で押しながら答えた。
「ええ。これは速さではない。姿勢を崩さぬための身体の使い方だ」
澪は頷いた。自分の移動加速は、撃つための体勢へ入る時にも働いた。だが、真壁が今していることは、速度ではない。泥に負けない身体の扱い方だ。
その先に、黒っぽい土があった。
「これが燃える土か」
エレナの声には、ほんの少し期待が混じっていた。
昨日の白皿丘で、水晶玉を見た。砂が光る大玉になった。ならば、ここでも何か綺麗なものが出るのではないか。そう思っている顔だった。
澪は鑑定をかける。普通の土とは違う。植物が腐りきらず、層のように積もっている。湿っていて重い。今のままでは燃えない。だが、乾かせば燃料候補になる反応があった。
真壁は黒い土を少し掬い、手袋越しに崩した。
「土そのものではありません、姫君。草や木が腐りきらず、長い時間をかけて土のように積もったものです」
澪は小瓶を出す。
「濡れてますけど、燃えるんですか」
「このままでは燃えぬ。乾かして初めて荷になる」
真壁は小さく湿った塊を布の上へ置いた。
「泥炭、と呼べばよいでしょう。乾かせば、長く燃える燃料になる可能性がある」
「白皿丘の窯燃料につながりますか」
「可能性はある。主燃料にはまだ早い。だが、補助燃料として試す価値はある」
エレナは黒い土を見つめていた。
水晶ではない。
宝石でもない。
黒い、湿った、地味な土だ。
澪が小瓶を並べ始めると、エレナはさらに覗き込んだ。黒っぽい泥炭候補。赤茶色の沈殿。湿った薬草地の土。水の入った小瓶。灰色がかった、扱い注意の札が付いた土。
どれも、綺麗ではない。
「……水晶ではないのか」
澪は少し困ったように手を止めた。
「今回は、たぶん違います」
エレナが赤茶色の小瓶に手を伸ばしかける。
「姫様、触る前に確認を」
「見るだけだ」
オスカーは、エレナの横顔を見てから、淡々と言った。
「姫様、肩が少し下がりました」
「下がっていない」
「水晶を期待していた時の肩です」
「その肩を覚えるな」
澪は笑いそうになったが、少しだけ堪えた。
白皿丘では、水晶玉ができた。あれは分かりやすく綺麗だった。領主館に置きたいとエレナが言うのも分かる。
けれど、ここで見つかるものは違う。
湿った土や赤い泥や濁った水が、瓶の中に少しずつ収まっていく。乾かさなければ燃えない泥炭候補も、濡れた今の姿はただ重そうな黒い土にしか見えない。
澪は水路脇の赤茶色い沈殿を指した。
「こっち、赤く光ります。金属……というより、鉄分です」
真壁が頷く。
「湿地の水が運んだ鉄分だろう。鉱山ではない。だが、顔料や釉薬、土の状態を見るには使える」
エレナの目が少し戻った。
「鉄が採れるのか」
「姫君。ここで剣を作るほどの鉄を期待してはなりません。これは湿地が何を含むかを見る札です」
エレナの目がまた少し下がった。
「剣にはならぬのか」
「なりません」
「水晶にもならぬ」
「なりません」
澪は赤茶色の沈殿を小瓶に採った。さらに赤土、薬草畑の土、水質を少量ずつ分ける。飲み水。薬草洗い水。馬用水。湿地水路。混ぜない。ラベルを貼る。収納10の湿地素材区画が、少しずつ埋まっていく。
「薬草畑の土も、場所によって違います。水が多いところ、根が苦しそうなところ、虫が出やすいところで反応が違います」
「薬草は草だけ見ても足りぬ。土と水も見る」
「水質サンプルも分けます。飲み水、薬草洗い、馬用水、湿地水路」
「よい。病の入口を見るなら、水の札も要る」
馬小屋の近くで、澪の鑑定に別の反応がかかった。湿った土。堆積した古い草。馬の汚れ。肥料に近い反応だが、扱いを誤れば危ない気配がある。
「ここ、別の反応があります。肥料っぽい……でも、扱い注意みたいです」
「硝酸塩の候補だね。肥料や土の話にはなるが、扱いを誤ると品がない。今回は採取だけに留める」
「危険物区画ですか」
「そうだ。売る荷ではない。記録する荷だ」
澪は灰色がかった土を、ごく少量だけ採取した。危険物候補として札をつける。売らない。広げない。記録する。
エレナは、並んだ小瓶を順に見ていた。
宝石ではない。
水晶でもない。
それでも、真壁は小瓶を一つずつ、まるで高価な品のように扱っている。
真壁は赤茶色の小瓶を指で軽く叩いた。
「姫君。これは宝石ではありません。ですが、白皿丘の焼き物に必要なものです」
エレナが顔を上げる。
「焼き物に?」
「ええ。こちらは鉄分を含む湿地沈殿。顔料や釉薬の試験に回せます。赤土も同じく、色や焼き上がりを見る材料になる。泥炭候補は、乾かせば窯の補助燃料になる可能性があります」
澪も小瓶を一つずつ並べ直した。
「これは白皿丘の皿を焼く火。これは色。これは薬草畑の土。これは水場の管理用です」
エレナは、黒い土と赤い沈殿と濁った水を見る。
「宝石ではない」
真壁は頷いた。
「宝石ではありません」
「だが、皿を焼くのに要る」
「おっしゃる通りです」
「薬草を育てるのにも要る」
「ええ」
エレナは少し黙った。
昨日なら、綺麗でないものに顔をしかめて終わっていたかもしれない。だが、白皿丘の皿も、宿場の薬草も、道も、水も、ひとつだけでは形にならない。
エレナは息を吸った。
「分かった」
そして、少し背を伸ばした。
「それを祝おう」
澪が目を丸くする。
「祝うんですか」
「水晶玉だけ祝うのは、品がない」
真壁が、ほんの少しだけ目を細めた。
「良いお言葉です、姫君」
オスカーが真顔で頷く。
「姫様、土を掲げるのはお控えください」
「なぜだ」
「落とす顔でした」
「今日はよく顔を読まれる」
「湿地ですので」
澪は笑いながら、小瓶の札を整えた。
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サンプル管理
番号:A-P01
採取地:赤樺湿地と薬草宿場
採取物:泥炭候補
状態:湿潤/植物根混在/黒褐色
鑑定反応:有機質多め/乾燥後燃料候補
用途候補:窯補助燃料/宿場燃料/乾燥試験対象
収納区画:湿地素材/泥炭候補/A-P01
扱い:燃料候補/白皿丘接続確認
備考:濡れたままでは燃料不可
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----------------------------------
サンプル管理
番号:A-M01
採取地:赤樺湿地と薬草宿場
採取物:鉄分沈殿候補
状態:赤茶色沈殿/水路脇
鑑定反応:鉄分多め/湿地沈殿物
用途候補:顔料/釉薬試験/土壌状態確認
収納区画:湿地素材/鉄分沈殿/A-M01
扱い:素材候補/大量採取対象外
備考:鉱床確定ではない
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----------------------------------
サンプル管理
番号:A-S01
採取地:赤樺湿地と薬草宿場
採取物:薬草地土壌
状態:湿潤/根混在/薬草畑周辺
鑑定反応:薬草生育関連反応あり/水分過多地点あり
用途候補:薬草畑管理/土壌改良確認/植物活力剤試験
収納区画:湿地素材/薬草地土壌/A-S01
扱い:栽培管理資料
備考:薬草株の弱り確認と連動
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----------------------------------
サンプル管理
番号:A-W01
採取地:赤樺湿地と薬草宿場
採取物:水質サンプル
状態:飲み水/薬草洗い水/馬用水/湿地水路を分別
鑑定反応:混入差あり/用途分離必要
用途候補:水場用途分離/衛生管理/薬草洗浄確認
収納区画:湿地素材/水質サンプル/A-W01
扱い:宿場衛生確認
備考:飲み水と洗い水を混同しない
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サンプル管理
番号:A-N01
採取地:赤樺湿地と薬草宿場
採取物:硝酸塩候補土
状態:湿潤土/馬小屋・堆積場周辺
鑑定反応:硝酸塩候補/肥料関連反応
用途候補:土壌管理/肥料候補/要注意管理
収納区画:危険物候補/硝酸塩候補/A-N01
扱い:記録保留
備考:販売不可/取扱注意札必須
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表示を確認した澪は、収納10の中で区画を閉じた。水晶玉のような派手さはない。けれど、湿地の土と水が、白皿丘の窯と薬草畑へ線を伸ばしている。
それもまた、荷だった。
宿場中央へ戻る頃には、ライナーの顔つきが変わっていた。
助かった者の顔から、これから直す者の顔へ変わっている。
澪は収納から商品を出す。石鹸やタオル、シーツや洗濯用品を、宿場の者が受け取りやすい位置へ置く。虫用と鼠用の駆除用品は、食料や子供から離すために、最初から別の布の上に置いた。植物活力剤は薬草畑用の札と一緒にし、寝具干し用の紐と洗濯ばさみは宿屋の女衆へ渡す。
全部を一つの山にはしない。
宿場の入口で使うもの、馬小屋で使うもの、薬草畑で使うもの、旅人の寝床に使うもの、食料庫の周りで使うもの。澪は収納内で作った区画を、そのまま地面の上へ写すように品を並べた。
並行思考が、区画を崩させない。札を書く手と、商品を分ける手順と、ライナーへの説明と、エレナの質問への返答が同時に並ぶ。
「宿場用、馬小屋用、薬草畑用、寝具用で分けます」
ライナーは並んだ品を見て、少し圧倒されていた。
「そんなに分けるのですか」
「混ぜると、たぶん使い間違えます」
真壁が鼠用駆除用品の箱を一つ取り、置き場所を示した。
「分けるのは手間ではない。事故を減らす道だ」
エレナは、並んだ品と札を見ていた。
「商品も、水場も、寝具も、土も、水も、分けるのだな」
「おっしゃる通りです。分ければ、汚れの道が見えます」
ライナーは、石鹸を手に取って匂いを嗅ぎかけたが、澪が慌てて止めた。
「あ、それは手洗い用です。食べ物じゃありません」
「食べませんよ」
オスカーがエレナを見た。
「姫様も食べないでください」
「食べる顔ではない」
「珍しい物を見る顔でした」
「見るだけだ」
真壁は、宿場用の品をいくつか前へ出した。
「初回分は試用でよいでしょう。ただし、継続分は宿場と領で負担を決めてください。無償は、続かぬ」
ライナーが品から顔を上げる。
「続けるための値、ですか」
「ええ。暮らしを守る品ほど、続く値を付けねばなりません」
「高すぎれば、旅人宿では使えません」
「だから分ける。毎日使う石鹸と、交換頻度の低いシーツと、扱いに注意する駆除用品では、値も配る量も違う」
真壁は、売りつける顔ではなかった。続けるために、どこへ負担を置くかを見ている顔だった。宿場、領主家、旅人からの宿代、薬草の売り上げ。すべてが、値段の中へ入っていく。
澪は隣で、使い方札を渡していった。石鹸は手洗い場へ置く。タオルは濡れたまま積まない。シーツは干す日を決める。鼠用は食料から離す。虫用は薬草干し場の周辺だけ。植物活力剤は薄める。子供と家畜を近づけない。
書いた札が、ただの札で終わらず、人の手へ渡っていく。
水場には札が立った。飲み水は上流側へ移された。手洗いは宿の入口近くに置く。馬用は下流側へ。薬草洗いの桶は別にする。泥落とし場は宿へ入る前に作る。
エレナが泥落とし場へ近づこうとする。
「泥落とし場を見る」
オスカーが止めた。
「姫様、そこは泥を落とす場所です。泥を付けに行く場所ではありません」
「まだ付けていない」
「付ける顔でした」
「今日も顔で止められている」
「湿地ですので」
真壁は馬小屋の排水溝に仮の線を引いた。杖で泥を浅く切り、水が流れる方向を変える。ほんの少しの溝でも、水は低い方へ流れる。澪は地図7へその線を記録した。
寝具干し場には紐が張られた。湿った寝具が広げられる。乾ききっていない布の匂いが、風に薄く流れた。食料袋は床から上げられ、棚へ置かれた。鼠用の品は、食料から離し、子供と家畜が触れない位置に置く。虫用の品は薬草干し場の周辺に限定する。
真壁は何度も湿地の端を歩いた。
泥の浅い場所へ足を入れ、沈む前に抜く。滑る石へ体重を乗せない。エレナが危ない位置へ出そうになると、先にそこへ立つ。澪が水場から薬草畑へ戻る時には、杖で右の草根を指した。
「そこは右から回りたまえ」
「はい」
その動きは速くない。だが、崩れない。
オスカーは、また真壁の足元を見た。
「真壁殿、やはり湿地の足運びに慣れておられますな」
「慣れているのではない。沈まぬ場所を選んでいるだけです」
「それを慣れていると言います」
真壁は軽く肩をすくめた。
エレナが二人を見比べる。
「足元ばかり言う二人がいる」
「姫様、湿地ですので」
「聞いた」
それでも、エレナの足は止まっていた。見たいものへ飛びつく前に、足元を見る。その一拍が、昨日より増えている。
夕方が近づくと、宿場の空気は朝より少しだけ軽くなっていた。
ラージアリゲーターが消えたからだけではない。
水場に札が立っている。寝具が干されている。薬草畑の弱った株には、細い支えが立っている。泥炭候補の小片は、湿ったままのもの、水切りしたもの、乾燥試験用の薄片に分けられている。鉄分沈殿、薬草地土壌、水質サンプルは、収納の中で区画管理された。硝酸塩候補土は危険物候補として別に置かれている。
馬小屋の排水には仮の溝が引かれ、食料庫の袋は棚へ上がった。虫鼠対策用品は、子供や家畜から離した場所に置かれている。
エレナは、ラージアリゲーターのいた水路ではなく、手洗い札を見ていた。
「魔物は一度倒せば終わる。だが、これは毎日見るものなのだな」
真壁は静かに頷いた。
「おっしゃる通りです、姫君。領を守るとは、剣を振るうことだけではありません」
「薬草を守る薬、水を分ける札、寝具を干す縄、皿を焼くための土……地味だ」
オスカーが横から言った。
「大切です」
「分かっている。地味だが、大切なのだ」
澪はその言葉を聞いて、少しだけ驚いた。
水晶玉ではないものを祝う。
派手な魔物退治ではないものを見る。
エレナの目が、少しずつ領の細部へ向いている。
その時、澪と真壁の視界に、薄い枠が開いた。
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神託達成報告
赤樺湿地と薬草宿場 巡見行商・病の入口
----------------------------------
現在の信託達成
水場用途分離
飲み水・手洗い・馬用水の区分
薬草洗い桶の分離
馬小屋排水確認
旅人寝具の衛生確認
寝具干し場設置
薬草干し場の泥対策確認
虫・鼠対策用品の行商
石鹸・タオル・シーツの行商
手洗い札・水場札の作成
食料庫の鼠跡確認
薬草畑の弱り確認
植物活力剤の試用
植物用薬品の使用札作成
泥炭候補採取
泥炭乾燥試験開始
鉄分沈殿候補採取
赤土・薬草地土壌確認
水質サンプル分別
硝酸塩候補土の記録保留
白皿丘窯燃料候補との接続確認
エレナの領内視察
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取得
行商人経験
行商人系スキル経験
スキル成長
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澪は表示を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「レベルアップは、ありませんね」
「今日は倒す日ではない。整える日だ」
「でも、経験は入ってます」
「当然だ。行商は、売って終わりではない。使える形を残して初めて道になる」
エレナが二人を見る。
「また見えないのか」
「はい。でも、今回は見えない結果より、見える札の方が多いです」
「それは少し悔しいな」
オスカーが、手洗い札を指した。
「姫様、見える札を見ればよろしいかと」
「そうする」
エレナは本当に札を見た。
澪の視界に、次の表示が重なる。
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篠原 澪
現在ジョブ:行商人 Lv9
状態:赤樺湿地宿場衛生整理/水場用途分離/薬草畑確認/植物活力剤試用/湿地素材確認/行商札作成
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基礎能力値
変化なし
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スキル成長
並行思考:2 → 3
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維持
地図:7
移動加速:2
鑑定:10
収納:10
防衛用収納展開:2
錬金:5
雷:8
火:1
収納内時間停止:芽あり
技能:彫金
技能:手仕事
統率個体識別:1
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取得スキルポイント
なし
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SP割振
割振:なし
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現在反映
行商人Lv9
保有SP:31
地図:7
移動加速:2
鑑定:10
収納:10
防衛用収納展開:2
並行思考:3
錬金:5
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成長
水場用途分離:1
宿場導線記録:1
衛生区画管理:1
水場札作成:1
薬草畑鑑定:1
植物用薬品説明:1
衛生用品説明:1
泥炭候補管理:1
湿地素材確認:1
水質分別:1
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澪は小さく息を止めた。
「並行思考、三です」
真壁は驚かない。むしろ当然のように、澪が作った札の束を見た。
「今日は、同時に分けるものが多かった。水、札、薬草、土、商品。伸びる理由はありますな」
「移動加速は変わってません」
「今日は走る日ではない。分ける日だ」
その言い方で、澪は少し笑った。
真壁の表示も開く。
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真壁 久忠
現在ジョブ:行商人 Lv9
状態:宿場衛生導線設計/水場区分指示/馬小屋排水確認/泥炭燃料判断/湿地素材判断/植物用薬品運用判断/湿地踏査
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基礎能力値
変化なし
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スキル成長
体術:4 → 5
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維持
地図:7
移動加速:6
収納:10
鑑定:9
商才:5
交渉:8
指揮:9
軍略:8
錬金:7
威圧:5
異界適応:4
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取得スキルポイント
なし
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SP割振
割振:なし
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現在反映
行商人Lv9
保有SP:12
地図:7
移動加速:6
収納:10
鑑定:9
商才:5
交渉:8
指揮:9
軍略:8
錬金:7
体術:5
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成長
宿場衛生導線設計:1
水場区分指示:1
馬小屋排水判断:1
危険区域分離:1
衛生用品価格設計:1
宿場導入交渉:1
泥炭燃料判断:1
植物用薬品運用判断:1
湿地素材判断:1
硝酸塩候補保留判断:1
湿地足場制御:1
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澪は表示を見て、真壁の足元を思い出した。
「真壁さんは、体術が五に」
「湿地は足元が悪い。姿勢を崩さず見るのも、仕事のうちだ」
オスカーが、珍しくすぐに頷いた。
「それは、私も同意します」
エレナが二人を見た。
「足元ばかり言う二人が増えた」
「姫様、湿地ですので」
「それも聞いた」
風が吹き、寝具干し場の布が揺れた。薬草畑では、支えを立てた弱い株が、少しだけ葉を持ち上げている。泥炭候補の薄片は、まだ湿っている。乾くには時間がかかる。水場の札は、まだ真新しい。
エレナはラージアリゲーターが沈んでいた水路ではなく、手洗い札を見ていた。
「魔物を倒すより、こちらの方が面倒だ」
真壁は穏やかに答えた。
「ええ。ですが、こちらの方が長く効きます」
澪は地図7を見た。
赤い線はない。
水場、干し場、薬草畑、泥炭候補、馬小屋、食料庫。小さな印が増えている。派手ではない。けれど、宿場が生きるための印だった。
「病の入口、少し見えた気がします」
「見えたなら、塞ぐ道も作れる」
赤樺湿地の夕方は、朝より少しだけ静かだった。
牙の跡は水の底へ沈み、宿場には札と縄と乾き始めた寝具が残った。
澪の地図7には、赤い線ではなく、水場、干し場、薬草畑、泥炭候補の小さな印が並んでいる。
病の入口は、まだ完全には塞がっていない。
けれど、入口の場所は、もう見えていた。