押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第105話 寝床も荷

 

 赤樺湿地の夕方は、湿った草の匂いを濃くしていた。

 

 水場には、澪が作った札が立っている。飲み水の桶は上流側へ移され、手洗い用の水は宿の入口へ置かれ、馬用の桶は下流側へ回されていた。寝具干し場には、まだ湿りを残した布が風を受けて揺れている。薬草畑では、弱った株のそばに小さな支えが立ち、植物用の薬を薄めて使うための札が添えられていた。

 

 宿場の人々は、まだ少し落ち着かない顔をしていた。ラージアリゲーターが消えた安堵と、急に水場や寝具や食料庫の使い方を変えることへの戸惑いが、同じ顔の中に残っている。

 

 ライナーは、宿の前で何度か手をこすった。さっきまで泥のついた桶を運んでいたせいで、指の間に湿った土が残っている。

 

「せめて今夜は、うちで休んでいってください。寝床はすぐに整えます」

 

 言葉は、素直な感謝から出ていた。

 

 澪は一瞬、宿屋の方を見た。

 

 壁際に積まれていた寝具は、いくつか干し場へ移された。けれど、まだ全部が乾いたわけではない。入口近くの床には、泥を落とす前に上がった旅人の足跡が薄く残っている。馬小屋の匂いも、風向きによって宿の方へ流れてくる。食料袋の下で見た鼠の跡も、頭から離れなかった。

 

 ここを悪く思いたいわけではない。

 

 むしろ、直り始めた場所だと思う。だからこそ、今夜ここで眠る自分を想像すると、胸の奥が少し重くなった。

 

「……真壁さん」

 

「どうしたね」

 

「今日、寝具を見ましたよね」

 

「見た」

 

「水場も見ましたよね」

 

「見た」

 

「鼠の跡も」

 

「見た」

 

 澪は少しだけ息を吸った。

 

「移動して、適当な所でキャンプしませんか」

 

 言ってから、澪はライナーの方を見ないようにしてしまった。

 

 失礼だろうか。

 

 助けた宿場を避けるように聞こえただろうか。

 

 そう思ったが、真壁は叱らなかった。むしろ、ほんの少しだけ満足したように、宿場の水場と澪を見比べた。

 

「よい判断だ。宿場を侮ったのではない。見たものに合わせて、寝床を選んだのだ」

 

「失礼になりますか」

 

「言い方次第だね」

 

 エレナが、干し場の方を見てから眉を寄せた。

 

「泊まらぬのか。宿場を助けたのに」

 

 真壁はエレナに向き直り、少しだけ頭を下げた。

 

「姫君。改善途中の宿場にこちらが無理に泊まれば、宿場も気を遣います。今夜はこちらが少し離れ、明朝また確かめる。それで礼は通ります」

 

 オスカーは即座に言った。

 

「賛成です」

 

 エレナが振り返る。

 

「早いな」

 

「護衛です」

 

「お前は、宿の寝具を見た時から決めていただろう」

 

「護衛です」

 

 同じ言葉で押し切られ、エレナは少しだけ不満そうに口を閉じた。

 

 真壁はライナーへ向き直った。

 

「今夜は少し離れます。水場札、寝具干し場、鼠用の品、植物用の薬は、先ほどの札通りに扱ってください。明朝、必要があれば確認に戻ります」

 

 ライナーは、困ったように頭を下げた。

 

「承知しました。……こちらが整っていないせいで」

 

「整え始めた宿場に、初日から客を抱え込ませる方が酷です。今日はここまでで十分です」

 

 ライナーの肩から、少し力が抜けた。

 

 澪も、ようやく息を吐いた。

 

 宿場を見捨てるのではない。少し距離を取るだけだ。そう言われると、胸の中の重さは、まだ残っていても形が変わった。判断の形になった。

 

 

 

 

 

 ハイエースがライトを灯すと、夕方の湿地道は急に細く見えた。

 

 宿場の者たちが、灯りの中で手を振っている。ライナーは水場の札を一度見てから、深く頭を下げた。薬草採りの女は、植物用の薬の札を胸の前に抱えていた。

 

 車が動き出すと、水場のざわめきが遠ざかっていく。

 

 タイヤの下で、湿った土が鈍く鳴った。赤い樹皮の木々が、ライトに照らされて両側へ流れていく。湿地の水音はまだ近いが、宿場にいた時のように足元から立ち上がってくる感じは薄れていた。

 

 澪は後部座席で、膝の上に大学ノートを置いたまま窓の外を見ていた。宿場の灯りは、少しずつ小さくなる。

 

「宿場、気を悪くしてませんかね」

 

 真壁はハンドルを握ったまま、前を見ている。

 

「気を悪くするほど余裕があるなら、あの宿場はまだ大丈夫だ」

 

「そういう意味ですか」

 

「冗談だ。だが、君の判断は間違っていない。直す場所と、今夜眠る場所を分けただけだ。水場を分けたのと同じだね」

 

 澪は、水場に立てた札を思い出した。

 

 飲む水と、洗う水と、馬の水。

 

 同じ場所にあったものを分けただけで、人の動きが変わった。なら、宿場を直す場所と、自分たちが今夜眠る場所を分けることも、同じなのかもしれない。

 

「寝床も分けるんですね」

 

「寝床も荷の一部だ」

 

 エレナが、前の座席の背に手を置いた。

 

「寝床も荷か」

 

 真壁は、エレナに言葉を向ける時だけ少し声を整えた。

 

「疲れを落とせぬ寝床で眠れば、翌日の判断が濁ります。行商人にとって、それは荷崩れと同じです」

 

 オスカーは窓の外を見ながら言った。

 

「姫様、私はこの判断を支持します」

 

「お前は宿場の寝床を見た時から支持していただろう」

 

「護衛です」

 

 エレナは少し笑った。

 

 湿地道は、やがてわずかに上り始めた。水音は遠くなり、代わりに、風が赤樺の枝を鳴らす音が近くなる。ライトの先で、道の片側が開けた。

 

 真壁は速度を落とした。

 

 高台だった。

 

 湿地を見下ろすように、赤樺林の間に乾いた草地が広がっている。足元の土は宿場周りより硬く、水が溜まった跡も少ない。風が横から抜けていくため、湿った匂いがこもらない。虫の気配も、宿場の水場ほど濃くなかった。

 

 澪は車を降り、地面に足を置いた。靴裏に返ってくる硬さが、さっきまでと違う。鑑定10を薄く重ねる。水気は少ない。虫の群れも少ない。風向きも悪くない。地図7には、宿場まで戻れる道筋が細く残っている。

 

「ここなら、眠れそうです」

 

 真壁は頷いた。

 

「そう思ったなら、よい判断だ」

 

「宿場を悪く言ったみたいで、少し気になります」

 

「違う。直す場所と、今夜眠る場所を分けた。水場と同じだね」

 

 エレナは高台から、遠くに残る宿場の灯りを見た。

 

「泊まらぬことも、礼になるのか」

 

「姫君。改善途中の宿場に、こちらが無理に泊まれば、宿場は気を遣います。今夜はこちらが少し離れ、明朝また確かめる。それで十分に礼は通ります」

 

 エレナはしばらく灯りを見ていた。

 

「なるほど。泊まらぬことも、礼になるのだな」

 

 オスカーは周囲を見回した。林の密度、車の向き、見通し、湿地からの距離を順に確認している。

 

「この高台なら見張りもしやすいです」

 

「お前は本当に安心しているな」

 

「護衛です」

 

 真壁はハイエースの位置を決めた。逃げ道を塞がず、湿地側からの風が直接車内へ入らない角度。焚き火台を置く場所と、食材を扱う場所と、手洗い用の水を置く場所が自然に離れるよう、少しずつ位置を整える。

 

 澪は収納を開いた。

 

 最初に出したのは、食材ではなかった。

 

 手洗い用の水と石鹸だった。

 

「まず手洗い用の水を出します」

 

 エレナが目を丸くする。

 

「食事より先か」

 

「昨日、見ちゃったので」

 

 エレナは一瞬黙り、それから小さく頷いた。

 

「見たなら、分けるしかないな」

 

 真壁は満足そうに、焚き火台の脚を広げた。

 

「よい。昨日の知識が、今夜の手順になっている」

 

 澪は収納内で、荷物の区画を動かした。食べる物、調理に使う物、手洗いに使う物、食器を洗う物、濡らしてはいけない物、虫を寄せたくない物。並行思考3のおかげで、区画が頭の中で崩れない。

 

 現実側へ出す時も、一度に山にはしなかった。

 

 手洗い用の水は、車の近くではなく、食事の前に通る場所へ置く。飲み水はさらに別にする。食器洗い用の桶は、焚き火台の反対側へ置く。食材は布の上に出し、湿地素材の小瓶や薬品類は収納の奥へ戻したままにする。

 

「水場と同じですね」

 

 澪が言うと、真壁はランタンを吊るす位置を確かめながら答えた。

 

「同じだね。荷も、寝床も、頭の中も、混ぜれば濁る」

 

 オスカーが手洗い用の水の位置を見て、短く頷いた。

 

「護衛としても助かります」

 

「お前も分ける側か」

 

「湿地ですので」

 

 エレナはそう言いながらも、手洗い用の水の前で足を止めた。白皿丘の夜なら、最初に椅子や食事へ目が行っていたはずだ。今は、澪がどこに水を置くかを見ている。

 

 夕食は簡単なものになった。

 

 パンと、保存食を使った温かいスープ。干し肉を少し刻み、茶を淹れる。白皿丘のように、窯火と水晶玉の余韻を楽しむ夜ではない。赤樺林の高台では、火の周りも、食器の置き方も、どこか実務的だった。

 

 それでも、湯気が上がると、エレナは少し表情を緩めた。

 

 高台からは、遠くに宿場の灯りが見える。湿地の水音はもう遠い。虫の声はあるが、耳元でまとわりつくような近さではない。風が抜けるため、焚き火の煙も一か所に溜まらなかった。

 

 エレナはスープを持ったまま、宿場の灯りを見ていた。

 

「あそこに泊まらぬのに、あそこを見ている」

 

 真壁は茶を受け取り、灯りの方へ目を向けた。

 

「領を見るとは、必ず中へ入ることではありません。少し離れた方が、見える形もあります」

 

「今日は、泥も水も、遠くから見ても分かる気がする」

 

 オスカーが横から確認する。

 

「姫様、湿地へ戻る顔ではありませんね」

 

「戻らぬ」

 

「安心しました」

 

 澪は大学ノートを開いた。車内灯ではなく、ランタンの光で書く文字は少し揺れる。

 

 寝床も導線の一部。

 

 見たものを、次の手順にする。

 

 衛生は、迷わせないこと。

 

 そこまで書いて、澪は手を止めた。

 

「商品情報の見える化って、売り場だけじゃないんですね」

 

 真壁が静かに視線を向ける。

 

「売り場まで辿り着く道、売る者の寝床、品を扱う手。全部つながる」

 

「寝床も荷、ですね」

 

「そういうことだね」

 

 その言葉は、澪の中で落ち着いた。

 

 今日、宿場に泊まらなかったことが、逃げではなく判断になる。そう思うと、ノートの文字も少しだけまっすぐになった。

 

 

 

 

 

 夜が深くなると、赤樺林の枝が風で鳴った。

 

 ハイエースの車内には、澪とエレナが入る。エレナを外で寝かせることはない。澪も付き添いとして車内に入り、毛布を広げた。窓には薄い布を掛け、車内灯を弱くする。

 

 エレナは毛布を手にしたまま、まだ外を見ていた。

 

「今日は外では寝ぬのか」

 

「今日も車内です。姫様を外で寝かせるわけにはいきません」

 

 外からオスカーの声が返る。

 

「当然です」

 

「お前は本当に当然が好きだな」

 

「護衛です」

 

 真壁がランタンの光を一段落とした。

 

「姫君。寝床は冒険する場所ではありません。明日も道があります」

 

 エレナは車内から顔だけ出して答えた。

 

「分かった。寝床も荷、だったな」

 

「ええ」

 

 真壁は地図7で周囲を確かめた。赤い反応はない。湿地側にも、宿場側にも、不自然な動きはなかった。遠くの灯りは小さいが、まだ見える。あの灯りの下では、水場札や寝具干し場が、今夜初めて働いているはずだった。

 

 澪は毛布に入りながら、少しだけ目を閉じた。

 

 宿場に泊まらなかった罪悪感が、完全に消えたわけではない。けれど、今夜の手洗いの水、分けた食器、乾いた地面、遠くに見える宿場の灯りが、その判断を支えていた。

 

 見たものを、次の手順にする。

 

 澪はその一文を思い出しながら、静かに眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 翌朝、澪が目を覚ました時、真壁はもう外にいた。

 

 ハイエースの窓は白く曇っていた。布を少し上げると、赤樺林は朝靄の中で赤く沈んでいる。湿地の水音は遠く、代わりに、枝が折れる乾いた音が聞こえた。

 

 澪が外へ出ると、朝の空気は冷たかった。

 

 真壁は赤い樹皮の木々の間に立っていた。足元には、倒木がいくつも重なっている。古いものは苔をまとい、湿ったものは虫を呼びそうに柔らかくなっていた。中には、まだ芯が乾いていて、燃料や木材に使えそうなものもある。

 

「おはようございます。何してるんですか」

 

「林の荷を見ている」

 

「林の荷?」

 

 真壁は杖で倒木の一本を示した。

 

「倒木は、ただの枯れ木ではない。放れば湿気と虫を呼ぶ。道の見通しも悪くなる。だが、乾かせば燃料になり、切れば材にもなる」

 

 澪は赤樺林を見回した。

 

 昨夜は、暗くて気づかなかった。高台は乾いているが、林の縁には倒れた木がいくつもある。風の通りを邪魔し、下草に湿気をためているものもあった。

 

「林も、整理するんですね」

 

「道の脇にあるものは、道の一部だ。寝床の周りなら、なおさらだね」

 

 真壁は生きている木には手を出さなかった。倒れて道を塞ぐもの、湿気を溜めて虫を呼びそうなもの、乾かせば燃料や木工材に回せそうなものだけを選ぶ。

 

 収納へ収めるたび、林の中の風の通りが少し変わった。

 

 澪には真壁の収納の中は見えない。けれど、外へ出された小さな荷札で分かった。赤樺林倒木、燃料候補、材候補。真壁は倒木をただ消しているのではなく、荷として扱っている。

 

 三十分ほどの作業だった。

 

 それでも、高台の周囲は見通しがよくなった。朝の光が林の縁へ入り、足元の湿りも少し見えやすくなる。

 

 エレナが眠そうな顔で車から出てきた。

 

「朝から木を片づけるのか」

 

 真壁は手袋の泥を払った。

 

「姫君。夜に寝る場所を選んだなら、朝にはその場所を整える。これも行商の荷です」

 

 オスカーも外へ出て、林の縁を見た。

 

「見通しが良くなりました。護衛としては助かります」

 

「また足元と見通しか」

 

「朝も湿地ですので」

 

 エレナはそれを聞いて、もう反論しなかった。赤樺林の奥を見て、足元を見て、それから高台の端へ目を向ける。

 

「昨日より、見やすいな」

 

 オスカーが頷いた。

 

「はい」

 

 真壁はそれで十分だというように、朝食の支度へ移った。

 

 

 

 

 

 朝食は、旅の朝らしい簡単なものになった。

 

 澪は、まず手洗い用の水と石鹸を出した。次に飲み水を別に置き、食器洗い用の水は少し離す。食材は地面に直接置かず、布の上へ並べた。パン、干し肉、缶詰、茶。小さな鍋でスープを温める間も、澪は水の位置を何度か確認した。

 

「食べる水と、洗う水は分けます」

 

 エレナが眉を上げる。

 

「朝食でもか」

 

「昨日、見ちゃったので」

 

 エレナは一瞬黙り、それから頷いた。

 

「見たなら、分けるしかないな」

 

 真壁は湯気の上がる茶を受け取り、満足そうに目を細めた。

 

「よい。昨日の知識が、今朝の手順になっている」

 

 オスカーは食器の置き場を見てから、短く言った。

 

「護衛としても助かります」

 

「お前も分ける側か」

 

「湿地ですので」

 

 朝食を終えると、澪は食器を片づけた。洗い水と飲み水を混ぜない。濡れた布は別にする。食べ残しは虫を呼ばないように収納へ戻す。第102話の白皿丘での朝より、手順が細かくなっている。

 

 面倒だとは思わなかった。

 

 昨日の水場を見た後では、混ぜる方が怖かった。

 

 真壁は焚き火跡へ土をかけ、熱が残っていないか確かめた。倒木を収めた林の縁には、朝の光が入っている。昨夜よりも、高台は少しだけ整って見えた。

 

 エレナは高台から、遠くの宿場の方を見た。

 

「宿場へ戻らぬのか」

 

 真壁はハイエースの扉を開けながら答えた。

 

「必要なら戻れます。だが、昨夜の距離なら、異常があれば地図に出る。今は次の候補地へ向かいます」

 

 澪が荷を確認し、収納を閉じる。

 

「銀鹿山旧坑道、ですね」

 

「ええ。ここから先は、土と水ではなく、山と石を見る」

 

 エレナの肩が、ほんの少し上がった。

 

「今度こそ宝石か」

 

 オスカーがすぐに言う。

 

「姫様、期待する肩です」

 

「肩を見るな」

 

 真壁は笑わず、丁重に続けた。

 

「姫君。宝石より先に、入口を見ます。山の腹へ入るには、空気、支柱、落盤、水の流れを見ねばなりません」

 

 澪は車に乗り込みながら、少し身を固くした。

 

「坑道って、入る前から見ることが多いんですね」

 

「入口を侮る者は、奥で困る」

 

 ハイエースは赤樺林の乾いた高台を離れた。

 

 最初は、まだ湿地の匂いが残っていた。赤い樹皮の木々が窓の外を流れ、湿った草が道端に張り付いている。だが、進むにつれて、空気が少しずつ乾いていく。地面に石が増え、タイヤの音が湿った土の鈍さから、砂利を踏む軽い音へ変わった。

 

 赤樺の幹は減り、代わりに低い林と石の多い斜面が増えた。遠くに灰色の山肌が見える。古い荷車道の跡が、草の間から時々顔を出した。地図7には、山へ向かう道筋が途切れ途切れに浮かぶ。

 

 途中、小さな鉱山小屋が見えた。

 

 閉じた鍛冶場の屋根には古い煤が残り、道端の納屋には錆びた道具が積まれている。灰色の粉がついた荷車が、片側の車輪を外したまま置かれていた。人の気配はある。だが、活気ではなく、使われなくなったものを守る気配だった。

 

 エレナは窓の外を見つめた。

 

「ここは、働いていないのか」

 

「完全に死んでいるわけではなさそうです。だが、山へ入る道は細くなっています」

 

 真壁の声は、いつもより少し低かった。

 

 ハイエースはさらに山へ入る。

 

 道は狭くなり、勾配が増えた。枝が車体の横をかすめる。古い道標が傾き、文字の一部が苔で隠れている。澪が鑑定を重ねると、その道標の奥に、かすかな金属反応と、古い湿気の匂いのようなものが返ってきた。

 

 やがて、道が開けた。

 

 そこに、銀鹿山旧坑道の入口があった。

 

 

 

 

 

 坑道は、山の腹に黒い口を開けていた。

 

 入口の支柱は苔をまとい、片側が少し傾いている。周囲には石屑が散らばり、錆びた道具が草に埋もれていた。古い警告札らしき板は、文字が読めるところと読めないところが混じっている。坑道の奥からは、細い風が流れていた。

 

 冷たい。

 

 澪は車を降りた瞬間、その風で腕に鳥肌が立った。

 

 鑑定10を重ねる。入口周りの空気は軽くない。奥で水が染み出している反応がある。落盤した跡らしい乱れがある。さらに奥には、金属を含む何かが薄く光っているが、そこへ行くまでの空間は途切れ途切れにしか見えない。

 

 地図7にも、坑道の奥へ続く細い線が出ていた。だが、白皿丘の道や赤樺湿地の水場のようにはっきりしない。山の中に入った線は、途中でかすれ、また少し先で現れる。

 

 エレナは坑道の入口を見上げた。

 

「ここが、銀鹿山旧坑道か」

 

 真壁は入口の手前で足を止めた。

 

「ええ、姫君。ここから先は、山の腹の中です」

 

 澪は坑道の奥を見た。暗さだけではない。空気が動かない場所の気配がある。

 

「空気が……重いです」

 

「ならば、今日は入口までだ。中へ入るには、準備が要る」

 

 オスカーは、エレナの半歩前へ出た。

 

「賛成です。姫様、入口より先へ出ないでください」

 

「まだ出ていない」

 

「入る顔でした」

 

 エレナは少しだけ口を尖らせたが、今回は足を止めた。

 

 澪は入口の奥を見る。地図7の細い線の先に、途切れた空間があり、そのさらに奥で、薄く光る反応がある。青白いような、重いような、まだ名前にできない反応だった。

 

「奥に、何かあります」

 

 真壁は坑道の支柱と、足元の石屑と、上から染みた水の跡を順に見た。

 

「あるだろう。だが、品よく掘るには、まず入口を見ねばならん」

 

 エレナが坑道の奥を覗き込もうとする。

 

「入らぬのか」

 

 真壁は静かに言った。

 

「準備なしに入るのは、鉱山ではなく墓穴です」

 

 オスカーが即座に頷く。

 

「姫様、強く同意します」

 

 エレナはオスカーを見上げた。

 

「お前は今日、真壁に同意しすぎではないか」

 

「安全ですので」

 

 坑道の奥から、また冷たい風が流れてきた。

 

 赤樺湿地の水音は、もう遠い。

 

 代わりに、山の腹から来る細い風が、澪の袖を揺らしている。地図7には、山の中へ続く古い道が、まだ途切れ途切れにしか見えていなかった。

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