押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第106話 掘る前に帰る道

 

 銀鹿山旧坑道の入口は、山の腹に開いた古い口のようだった。

 

 ハイエースは、その手前の固い地面で止まっている。タイヤの先には、苔のついた石屑と、半ば崩れた作業小屋と、山肌へ沈むように続く黒い穴があった。入口の支柱は古く、ところどころ白く乾いている。湿った冷気が、穴の奥から細く流れてきた。

 

 澪は車を降りて、思わず肩をすくめた。

 

「寒い……というより、重いです」

 

 坑道の奥を見ようとすると、地図七の線が途切れ途切れに浮かぶ。まっすぐな道ではない。ところどころで線が薄くなり、壁の向こうへ逃げ、下へ落ちるように歪む。

 

 真壁はハイエースの前に立ち、しばらく入口を眺めていた。車の白い車体と、坑道の黒い口は、どう見ても釣り合っていなかった。

 

 エレナが一歩前に出る。

 

「入らぬのか」

 

 真壁は、坑道の高さと幅を一度見てから、丁重に首を振った。

 

「姫君。ハイエースを山の腹へ入れる趣味はありません」

 

「道ではないのか」

 

 澪は入口の石屑を見た。車一台が通れる道ではなく、人が荷を背負ってやっと入る古い穴だった。

 

「道、というより穴ですね」

 

「ええ。ここからは徒歩で見る」

 

 オスカーがすでにエレナの半歩後ろに立っていた。鎧の足先が、坑道へ向かう細い轍を踏まない位置で止まっている。

 

「姫様、入口より先へはまだ出ないでください」

 

「まだ出ていない」

 

「出る顔でした」

 

「顔で止めるな」

 

「坑道ですので」

 

 真壁はそのやり取りを聞き流しながら、足元の水跡を見た。入口の端に、細く濡れた筋がある。沢水とは違う、山の中からしみ出した水だった。冷たい風と、湿った石と、古い木の匂いが混じっている。

 

 澪は、背中に小さな緊張が走るのを感じた。

 

 赤樺湿地の水とは違う。水は同じでも、ここでは山の奥から出てくる。見える場所だけを見ていては足りない。

 

 真壁が小さく頷いた。

 

「入口だけで、もう荷が多い」

 

「荷、ですか」

 

「水、空気、支柱、石屑、人の足場。どれも山の腹へ入る前に見る荷だ」

 

 澪は、坑道の奥ではなく、入口の足元を見直した。確かに、そこにはもう、いくつもの問題が重なっていた。

 

     

 

 古い作業小屋の方から、人の足音が近づいた。

 

 先頭に立つ男は、旅の途中で出会った村人や番頭とは違っていた。服は山道用に地味だが、腰の剣と外套の留め具に貴族の品がある。顔つきは細く、目は静かで、口元は固い。後ろには、肩幅の広い鉱夫らしい男が数人ついている。どの顔も、簡単に笑う気配がなかった。

 

 男はエレナに向かって膝を折り、礼を取った。

 

「銀鹿山を預かる、ヴィクトル・クラッセンです。侯爵家の姫君をこのような場所へ迎えることになるとは思いませんでした」

 

 エレナは、少しだけ背を伸ばした。

 

「私は見に来た。危ないなら、なぜ危ないのかを見る」

 

 ヴィクトル・クラッセン子爵は、ゆっくりと坑道入口へ視線を移した。

 

「ならば、見ていただく必要があります。ここは、銀だけでなく、失敗も埋めております」

 

 真壁が一歩進み、礼を返した。

 

「真壁久忠と申します」

 

「あなたが、侯爵家から聞いている押入商会の方か」

 

「ええ。今日は、掘るためではなく、見るために参りました」

 

 ヴィクトルの目が少し細くなる。

 

「外の商人は、皆そう言います。だが山へ来ると、結局は銀の話になる」

 

 後ろの鉱夫たちの顔も動かなかった。口を閉じ、腕を組み、目だけで真壁を測っている。

 

 真壁は、鉱夫たちを見下ろすような立ち方をしなかった。坑道入口から離れすぎず、近づきすぎず、ヴィクトルと鉱夫たちの間に立った。

 

「結構。失敗も、鉱山の荷です。銀だけを見に来たなら、入口で帰るべきでしょう」

 

 鉱夫の一人が、わずかに眉を動かした。

 

 エレナが真壁を見る。

 

「失敗も荷なのか」

 

「姫君。売れる物だけを荷と呼ぶ商人は、道で躓きます。壊れた道具、濁った水、古い噂、帰らなかった者の話。そういうものを運び損ねると、次に同じ穴へ落ちます」

 

 ヴィクトルは無言で聞いていた。だが、その硬い表情の奥で、真壁の言葉を捨ててはいないようだった。

 

「では、見ていただこう。ただし、この山の者は口が重い。外から来た道具にも、外から来た言葉にも、簡単には頷かぬ」

 

 真壁は軽く頷いた。

 

「言葉で済むなら、坑道はここまで傷みません」

 

 澪は、少しだけ嫌な予感と、少しだけ面白そうな気配を同時に感じた。真壁の目が、ほんのわずかに光っていた。

 

     

 

 坑道入口の横には、古い作業小屋と、石を積み上げた廃石場があった。使われなくなった荷車の車輪は半分土に埋もれ、錆びた鉄具が壁際に寄せられている。山肌の下を細い沢が流れ、石に触れた水が薄く茶色を帯びていた。

 

 エレナが廃石場へ近づこうとした時、小さな声がした。

 

「そこ、入っちゃ駄目だよ」

 

 振り向くと、岩の陰から子供が一人顔を出していた。年は十歳前後だろうか。膝に擦り傷があり、袖に石粉がついている。鉱山町の子供らしく、山道の歩き方に慣れているが、大人の顔色を見る目も持っていた。

 

 エレナは目を瞬かせた。

 

「私に言ったのか」

 

「うん。そこ、石が崩れる。光る石は入口じゃない。横の崩れたところの下」

 

「光る石?」

 

 エレナの声が少し明るくなった。オスカーの肩が、即座に硬くなる。

 

 子供は得意そうに頷いた。

 

「夕方になると青く見える。あと、冷たい穴もある。近づくと息が変になる。大人は行かないけど、崖の下に緑の石もある」

 

 エレナの足が、半歩前へ出かけた。

 

「姫様、子供について行かないでください」

 

「まだ行っていない」

 

「行く顔でした」

 

 子供は、そこでようやくエレナの後ろにいるオスカーと、ヴィクトルの姿を見て、口を半開きにした。

 

「ひ、姫様?」

 

 エレナは少し得意そうに胸を張った。

 

「今知ったのなら、普通に話せ」

 

 オスカーが静かに咳払いをする。

 

「普通に崖下へ誘うのはおやめください」

 

 鉱夫代表が渋い顔で子供を見た。

 

「子供の遊び場の話です。相手にするほどのものではありません」

 

 子供は不満そうに頬を膨らませた。

 

「遊びじゃないよ。石を投げると、奥で音が二回返る場所もある」

 

 澪はその言葉に反応した。音が二回返る。単なる穴なら、反響は一つで済む。奥に空間があるか、上下に分かれているのかもしれない。

 

 真壁は、鉱夫代表を責めず、子供を褒めすぎもしなかった。ただ、静かに坑道の方を見た。

 

「いえ。子供の噂は、地図に載らぬ道を拾うことがあります」

 

 ヴィクトルが真壁を見る。

 

「危険な場所を知っている、ということか」

 

「ええ。そして、なぜ大人が近づかぬかも見るべきです」

 

 澪は子供の言葉を頭の中で並べた。

 

 青く光る石。冷たい穴。緑の石。細い道。音が二回返る場所。

 

 それぞれが、ただの宝探しの言葉ではないように思えた。

 

     

 

 澪はしゃがみ、地面の硬い土を指先で払った。小石を拾い、坑道入口を示す線を引く。

 

 地図七を広げる感覚は、平地や湿地とは違っていた。いつもなら、道や反応が面として浮かぶ。だが、銀鹿山の入口に意識を重ねると、線が上下へずれた。坑道の奥へ伸びる細い線が、途中で薄くなり、下へ落ち、横へ逃げる。入口の横に、別の細い反応がある。廃石場の下にも、青白い微かな反応が点ではなく、層のように残る。

 

「……地図が、奥行きを拾ってます。線が平面じゃないです。上と下があります」

 

 真壁は、澪の描いた線を見た。

 

「坑道内マッピングか。面白い」

 

「全部じゃありません。でも、子供さんが言った場所と、細い線が重なっています」

 

 子供がぱっと顔を明るくした。

 

「ほら、言っただろ」

 

 オスカーがすかさず言う。

 

「得意になる前に、近づかないでください」

 

「近づいてないもん」

 

「近づく顔でした」

 

「顔って何だよ」

 

 澪は思わず少し笑いかけたが、すぐに地面の図へ目を戻した。坑道入口、横穴らしき線、冷たい空気の抜ける場所、捨て石場の青白い反応、緑の石のある崖下。線を重ねると、単なる噂が、危険箇所の地図に変わっていく。

 

 真壁が屈み、澪の図の横に小さく線を足した。

 

「話は役に立つ。だが、足で確かめに行くのは別だ」

 

 その時、澪の視界の端に、薄い枠が開いた。真壁も同時に視線を上げる。

 

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神託

銀鹿山旧坑道 巡見行商

山の腹に道を見よ。

子らの噂を軽んじるな。

水の逃げ道を探せ。

空気の通り道を開け。

掘る前に、帰る道を整えよ。

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報酬

行商人レベルアップ

行商人系スキル成長

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「……神託、来ました」

 

 澪の声に、エレナが唇を尖らせる。

 

「また見えぬのか」

 

「はい。でも今回は、地面の絵は見えます」

 

 エレナは澪の描いた図を覗き込み、少しだけ納得した顔をした。

 

「ならば、まだ許す」

 

 真壁は枠が消えるのを見届け、口元だけで笑った。

 

「楽しまれているようだ」

 

 ヴィクトルは、神託そのものは見えない。ただ、真壁と澪の表情が変わったことは見ていた。

 

「何か、ありましたか」

 

「ええ。山へ入る前に、帰る道を見よ、と」

 

 真壁の声は落ち着いていた。

 

「ならば、まず子供の噂から確認しましょう」

 

     

 

 青く光る石は、坑道の奥ではなかった。

 

 子供が指差したのは、入口から少し外れた廃石場の下だった。大人なら見落とす、積まれた石の陰。澪が近づくと、鑑定十が薄い青白い反応を拾った。日中はただの灰色の石に見える。だが、角度を変えると、白っぽい筋の奥に青い光が眠っているように見えた。

 

「これです。青白い反応があります」

 

 エレナが目を輝かせる。

 

「宝石か」

 

 真壁は石を手に取らず、まず周りの石積みを見た。崩れやすい。子供が入り込むには危険だった。

 

「光るから宝ではありません、姫君。だが、鉱山の履歴を読む札にはなる」

 

「札か」

 

「昔の鉱夫が、価値を知らずに捨てた石かもしれません。あるいは、価値はあっても当時の目的には合わなかった石かもしれない。いずれにせよ、廃石場は山の過去を残します」

 

 子供は得意そうだった。

 

「ほら、青いだろ」

 

「君の話は役に立った。だが、石の下へ潜るな。上が崩れれば、光る石より先に頭が割れる」

 

 子供は一瞬黙り、口を尖らせた。

 

「……分かった」

 

 次に、冷たい穴を見に行く。崩れた横穴の奥から、確かに冷気が出ていた。入口に立つだけで、呼吸の感覚が変わる。澪は喉の奥が少し重くなるのを感じた。

 

「空気、変です。冷たいだけじゃないです」

 

 真壁は、持っていた小さな灯りを穴の近くへ寄せた。炎は揺れたが、安定しない。強い風ではない。空気が出ているのに、流れが淀んでいる。

 

「古い通気口か、排水坑の一部でしょう。だが、子供が入る場所ではない」

 

 真壁は木片を一本取り、地面に印をつけた。

 

「ここは立入禁止にします」

 

 ヴィクトルの眉が動いた。

 

「子供が、ここへ入っていたのか」

 

 子供は目をそらした。

 

「ちょっとだけ」

 

 オスカーがエレナの前に立つ。

 

「姫様も、ちょっとだけは禁止です」

 

「まだ言っていない」

 

「言う顔でした」

 

 エレナは不満そうだったが、穴から流れる冷気を見て、何も言わなかった。

 

 崖下の緑の石は、さらに厄介だった。山肌に付いた緑青の岩は、光の加減で確かに美しく見える。エレナが思わず手を伸ばしそうになった瞬間、オスカーがその手首の前に手を入れた。

 

「姫様、触る前に確認を」

 

「見るだけだ」

 

「触る顔でした」

 

「今日はよく顔を読まれる」

 

「鉱山ですので」

 

 澪は水の流れと石を交互に見た。緑の色は石だけでなく、近くの沢水の縁にも薄く残っている。鑑定を重ねると、胸の奥が少しざらつくような反応が返ってきた。

 

「水も、悪いです。赤樺湿地の水とは違います。金属っぽい……触ったまま食べたり、飲み水に混じると、よくない感じです」

 

 真壁は水筋をじっと見た。

 

「鉱毒の入口だな」

 

 ヴィクトルの顔が、そこで初めてはっきり強張った。

 

 昔の坑夫が使った細い道は、子供なら通れそうな崩れた旧道だった。澪の地図七では、坑道本線と薄くつながる。だが、途中の線が細く、上から落ちた空間に触れている。大人が通れば肩が当たり、荷を持てば詰まり、崩れれば逃げ場がない。

 

 真壁は首を振った。

 

「道ではない。危険箇所です」

 

 子供が小さく言う。

 

「でも、昔の人は通ったって」

 

「昔通った道が、今も道とは限らない」

 

 最後に、音が二回返る場所を確かめる。子供が小石を持とうとしたので、オスカーが目で止めた。真壁が代わりに小さな石を選び、坑道入口の外から、崩れた奥へ向けて軽く投げた。

 

 一つ目の音が、すぐに返る。

 

 少し遅れて、二つ目の音が、低く奥から返ってきた。

 

 澪の地図七の線が、そこで上下に割れたように震えた。

 

「空間が、下にもあります。崩れた空洞か、古い坑道が重なっているのかも」

 

 真壁は地面の図に、新しく下の線を足した。

 

「山の腹は一枚ではない。これで、支える場所も逃げる場所も変わる」

 

 エレナは図と坑道を見比べた。

 

「子供の話は、宝の話ではなかったのだな」

 

 真壁は頷いた。

 

「宝の話でもあります。だが、先に危険の話です」

 

 子供は得意そうな顔をしていたが、真壁がそちらを見ると、少し背筋を伸ばした。

 

「君の話は役に立った」

 

「だろ」

 

「だが、次からは一人で近づくな。光る石より、落ちる天井と悪い空気の方が先に来る」

 

「……分かった」

 

 エレナが不思議そうに真壁を見た。

 

「褒めたのに、止めるのか」

 

「姫君。役に立つ話と、危ない行動は別です」

 

 エレナは少し考え、それから子供を見た。

 

「話はまた聞かせろ。だが、一人で行くな」

 

 子供は、姫に命じられたことに戸惑いながら、こくりと頷いた。

 

     

 

 真壁は坑道入口へ戻ると、支柱を軽く叩いた。

 

 乾いた音がした場所と、湿りを含んだ鈍い音がした場所がある。支柱は立っているが、立っているだけだった。上からの力をどう受けるか、横へどう逃がすか、そういう考えが見えない。

 

 足元には水が溜まっている。廃石は通路の片側にきれいに寄せられておらず、人が歩く場所まで転がっている。坑道幅は狭く、背負った荷が支柱に当たりそうだった。入口に置いた灯りの火は、冷たい穴の時ほどではないが、ほとんど揺れない。

 

 真壁は低く言った。

 

「掘り方が若いな」

 

 澪は支柱を見た。

 

「若い、ですか」

 

「岩だけを見て掘っている。水の逃げ道、空気の道、石を運ぶ道が後回しだ」

 

 鉱夫代表が、そこで初めて声を荒げた。

 

「昔から、この掘り方でやってきた」

 

 鉱夫たちの視線が真壁へ集まる。怒りというより、山のやり方を外から否定された時の反射だった。

 

 真壁は、その視線を受けたまま、坑道の奥ではなく足元を指した。

 

「だから、閉じたのでしょう」

 

 空気が一瞬、固まった。

 

 ヴィクトルが真壁を見る。止めるかどうかを測っているようだった。

 

 真壁は声を荒げない。

 

「素掘りは、勇気ではありません。危険を山へ預けているだけです。山は預けた危険を、いつか人へ返します」

 

 鉱夫代表が口を結んだ。

 

 真壁は続けた。

 

「あなた方の経験を軽んじるつもりはありません。経験がなければ、ここまで来る前に人は死にます。だが、経験だけで山を支え、水を抜き、空気を通し、石を運び続けるには限界がある」

 

 澪は、真壁が鉱夫たちを馬鹿にしているのではないと分かった。むしろ、経験だけでここまで耐えてきたことを認めた上で、その先の形を出そうとしている。

 

 真壁の目が、少し楽しそうに細くなった。

 

「言葉で足りぬなら、形を見せましょう」

 

     

 

 真壁は収納の中へ意識を沈めた。

 

 赤樺林の乾いた高台で回収した倒木材が、素材区画に収まっている。澪にその中は見えない。だが、真壁の視線が少し遠くなった瞬間、何が起きているかは想像できた。倒木が一本ずつ見極められ、節の位置、乾き具合、曲がり、芯の硬さで分けられていく。梁に向く材、横木に向く材、楔に向く材、足場板に向く材。レールへ加工できる細長い部分もある。

 

 真壁は倒木材を外へ出さなかった。

 

 収納内で、素材区画から加工区画へ移し、完成形をイメージする。

 

 次に現実へ出てきたのは、倒木そのものではなかった。

 

 寸法の整った梁が一本、坑道入口の石の上へ置かれる。次に横木。楔。足場板。細く揃えられた木製レール。小さな車輪と台枠。ポンプを据えるための架台。送風機を支える枠。さらに、人力削岩機を固定するための支持台まで、順に並んだ。

 

 鉱夫たちが息を呑む。

 

「木が……もう削れている」

 

 澪も思わず声を漏らした。

 

「昨日の倒木ですか」

 

「そうだ。昨朝の林の荷が、山の腹で役に立つ」

 

「倒木まで荷だったんですね」

 

「行商人が拾うべき荷は、店に並ぶものだけではない。道を守る材も荷だ」

 

 ヴィクトルは梁の端へ近づき、手で触れた。切り口は整い、楔の角度も揃っている。

 

「倒木を、坑道の梁にするのか」

 

「使える材を、使える形へ整えただけです。素掘りのまま人を入れるより、こちらの方が品がある」

 

 真壁は梁を持ち上げ、古い支柱の手前へ渡した。横木を組み、楔を打ち、足場板を置く。派手な光はない。収納内で加工された部材が、現場で次々に役割を得ていく。古い入口の前に、仮の支保工が形になった。

 

「山の重さは、根性で受けるものではありません。梁で受け、横木で逃がし、楔で締める」

 

 鉱夫代表が梁を見上げた。

 

「木で山を支えるのか」

 

「木だけではありません。形で支えます」

 

 真壁は楔を軽く叩いた。乾いた音がして、梁と横木が締まる。

 

 オスカーが小さく頷いた。

 

「分かりやすいです」

 

 エレナが横目で見る。

 

「お前は今日、真壁に同意しすぎではないか」

 

「安全ですので」

 

 鉱夫たちは黙っていた。だが、最初のように腕を固く組んだままではなかった。梁の位置を見ている。楔の締まり方を見ている。支柱が、ただ立っているのではなく、上の重さを受ける形になっていることを、目で追っている。

 

     

 

 水溜まりの前で、真壁は螺旋状の軸を持つ装置を組み立てた。

 

 赤樺林の倒木で作った架台へ、金属の軸を据える。鉱夫たちには見慣れない形だったが、子供は興味津々で近づきかけ、オスカーに首根っこを見られて止まった。

 

「これは、何だ」

 

 鉱夫の一人が尋ねる。

 

「水を外へ逃がす道具です」

 

 真壁は螺旋状の軸に手をかけ、ゆっくり回した。水溜まりの端で、濁った水が螺旋に沿って持ち上がる。少しずつ、だが確かに、低い場所に溜まっていた水が上へ運ばれ、横の溝へ流れていく。

 

「水が……上がっている」

 

 鉱夫の声が、思わずこぼれたものになった。

 

「水は山の腹に残すものではない。外へ逃がす道を作る」

 

 ヴィクトルが、流れ始めた水を見つめた。

 

「水を抜けば、奥へ入れるのか」

 

「水だけでは足りません。水が抜けても、空気が死んでいれば人が倒れます」

 

 真壁は次に、送風機を据えた。木の架台に固定された羽根と筒が、坑道の奥へ向く。人が横のハンドルを回すと、低い音を立てて羽根が回り始めた。

 

 入口に置いた小さな灯りの火が揺れる。

 

 澪はその揺れと同時に、鑑定十の感覚で空気の変化を拾った。湿った重さが、ほんの少しだけ動く。安全になったわけではない。だが、停まっていたものが動いた。

 

「空気が、少し動きました」

 

「少しだ。これで安全ではない。だが、道は作れる」

 

 鉱夫代表が、送風機の筒を見た。

 

「空気にも道を作るのか」

 

「山の中では、水より先に空気が人を殺すこともあります」

 

 冷たい穴を知っていた子供が、顔を少し青くした。今さら怖くなったのだろう。エレナはそれに気づき、子供の方へ少しだけ目をやったが、近づけとは言わなかった。

 

 真壁は、次に木製レールを持った。

 

 入口から外へではない。坑道入口から少し内側へ、まるで山の腹へ差し込むように短いレールを敷く。足場板で沈まないよう整え、そこへ小さなトロッコを載せた。トロッコには、廃石場から持ってきた石をいくつか積む。

 

 真壁は鉱夫たちを見た。

 

「廃石置き場へ運ぶ前に、まず坑道の中から入口まで運び出さねばならん。人の背に石を載せるから、疲れ、転び、支柱にぶつかり、逃げ道も塞がる」

 

 鉱夫の一人が呟いた。

 

「背負わずに、出すのか」

 

「トロッコは、山の腹から石を外へ出す道です」

 

 真壁が合図すると、鉱夫の一人が恐る恐るトロッコを引いた。車輪が木製レールの上を転がる。重い石が、人の背ではなく、低い台の上で動いた。入口へ向けて、まっすぐ引き出される。

 

 鉱夫たちの表情が変わった。

 

 背負う重さを知っている者ほど、その意味が分かったのだろう。腰を曲げ、支柱に肩をぶつけ、足元の水に滑り、それでも石を運ばなければならない日々。その重さが、少しだけ別の形に変わった。

 

 エレナが目を見張る。

 

「山が、動きやすくなった」

 

 真壁は振り返り、丁重に答えた。

 

「姫君。山を動かすのではありません。人が潰れずに動ける道を作るのです」

 

「……なるほど」

 

 オスカーがまた頷いた。

 

「分かりやすいです」

 

「お前は本当に真壁の味方だな」

 

「安全ですので」

 

     

 

 真壁は、最後に鉄の枠を取り出した。

 

 それは澪が想像する現代の電動工具とは違っていた。細い鉄の枠に、歯車、太いバネ、先端のタガネ、横に伸びるクランクハンドルがついている。蒸気も、圧縮空気の管もない。人が手で回す形をしていた。

 

 鉱夫代表が目を細める。

 

「これは、何だ」

 

「岩へ穴をあける道具です」

 

 真壁は坑道脇の硬い岩を指し、近づきすぎる者がいないか見てから、装置を固定した。赤樺林の倒木で作った支持台が、削岩機を岩に対して真っ直ぐ支える。

 

「蒸気も、圧縮空気も要りません。人がこのハンドルを回す。中のカムがバネを縮め、解放する。すると、この先のタガネが岩を叩く。同時に少しずつ向きを変え、丸い穴をあける」

 

 真壁がハンドルを回した。

 

 歯車が噛み、内部でバネが縮む低い音がする。次の瞬間、先端のタガネが岩へ打ち込まれた。

 

 乾いた音が、坑道入口に響いた。

 

 もう一度。

 

 さらに一度。

 

 手槌で叩く音とは違った。力の向きが逃げず、同じ場所へ繰り返し入る。タガネはわずかに回りながら、石の表面へ丸い傷を刻んでいく。

 

 鉱夫たちは、完全に黙った。

 

「人の手で、ここまで入るのか」

 

「完全な手掘りよりは早いでしょう。ただし万能ではありません」

 

 真壁は手を止め、タガネの先を確かめた。

 

「刃は減る。バネは傷む。歯車には手入れが要る。扱う者も訓練が要る」

 

 ヴィクトルが削岩機と坑道を交互に見た。

 

「掘る道具にも、段階があるのか」

 

「ええ。いきなり遠い技術を置けば、道具だけが先へ行き、人が置き去りになる。まずは、現地で動かせる形からです」

 

 澪は、真壁の横顔を見た。普段より少し、目が楽しそうだった。

 

「真壁さん、かなり楽しんでませんか」

 

「こういう道具は嫌いではない」

 

「嫌いじゃない顔じゃないです」

 

 真壁は削岩機の枠を軽く叩いた。

 

「結構。山を根性で叩くより、品よく穴をあける方がよい」

 

 鉱夫代表は何か言い返そうとして、結局、口を閉じた。目は削岩機のタガネから離れていない。

 

 真壁はその沈黙を急かさなかった。

 

 道具は見せた。だが、道具を受け入れるには、山の民の中で時間が要る。

 

     

 

 緑の石がある崖下へ向かうと、空気が少し変わった。

 

 沢水が岩肌をなぞり、浅い溝を作っている。その縁に、青緑色の沈殿が細く残っていた。緑青を帯びた岩は、遠目には装飾石のようにも見える。だが、近づくと綺麗というより、どこか肌に残る重さがある。

 

 澪はしゃがみ、直接触れずに鑑定を重ねた。

 

「水、悪いです。石だけじゃなくて、水の方にも反応があります」

 

 エレナが息を詰めた。

 

「鉱毒……毒なのか」

 

 真壁は、岩と水と沢の先を順に見た。沢はやがて町の方へ下りる。畑や井戸へ近づくなら、問題は坑道内だけでは済まない。

 

「姫君。石の中にあるものが、水へ移り、畑へ入り、人の手へ残る。見えぬ形で身体を壊すことがあります」

 

 鉱夫代表の後ろにいた老人が、そこで口を開いた。声は低く、石を噛むようだった。

 

「銀が出なくなったから閉じたんじゃねえ。水が悪くなった。手足が痺れる者、腹を壊す者、咳が止まらぬ者が出た。町を出た家もある」

 

 ヴィクトルの顔が固まった。

 

「……その話は、記録には残っている。だが、詳しく聞く者は少なかった」

 

 老人はヴィクトルを責めるでもなく、ただ沢を見ていた。

 

「書いた者はいたさ。だが、山を開けたい者は、銀の話を先にした。水の話をすると、縁起が悪いと言われた」

 

 真壁は静かに言った。

 

「鉱石は富を生む。だが、鉱毒を流せば、領から人が出ていく」

 

 エレナの顔から、宝石への期待が消えていた。代わりに、領主家の者として見るべきものを見てしまった顔になる。

 

 澪は赤樺湿地の水場を思い出した。飲み水、手洗い、馬用水、薬草洗い。分けなければ病の入口になる。

 

「赤樺湿地の水場と同じで、混ぜたら駄目なんですね」

 

「そうだ。ただし、こちらはもっと長く残る」

 

 真壁は膝をつき、沢の流れを指で追わず、視線だけでたどった。

 

「まず、鉱山の水と生活の水を分けます。鉱石を洗う水、坑道から出る水、沢水、飲み水。混ぜてはなりません」

 

 ヴィクトルが問う。

 

「分ければよいのか」

 

「分けるだけでは足りません。鉱山から出る水は、直接沢へ流さない。沈殿させる池を作り、重いものを落とす。廃石は沢から離し、雨で流れぬよう覆う。鉱石洗い場は畑や井戸から離す。作業者は手を洗い、衣服も分ける」

 

 澪は小瓶を出しかけて、手を止めた。ここで何を採るかも、混ぜてはいけない。

 

「水質も、記録します。飲み水、沢水、坑道水、洗い場の水。混ぜないで、比べます」

 

 真壁が頷く。

 

「採掘再開より先に、毒の道を塞ぐ。そうでなければ、銀鹿山は銀を出して、人を失う」

 

 ヴィクトルは、しばらく何も言わなかった。

 

 坑道の奥ではなく、町へ下る細い道を見ている。そこには、出ていった家々の足跡が残っているわけではない。だが、ヴィクトルには見えたのかもしれない。山を捨てたのだと思っていた人々が、本当は山から追い出されていたのかもしれないということを。

 

「出ていった者たちは、山を捨てたのだと思っていた」

 

 声は低かった。

 

 真壁は首を振る。

 

「山が悪いのではありません。毒の道を見なかっただけです」

 

 ヴィクトルは真壁へ向き直った。

 

「……真壁殿。感謝する。銀を掘る話より先に、聞くべき話だった」

 

「採掘は、山から石を取る仕事ではありません。人が残れる形で、山と付き合う仕事です」

 

 エレナは、ヴィクトルと真壁の間に流れる沈黙を見ていた。華やかな宝石の話ではない。銀の話でもない。だが、領を見るとは、こういう話を聞くことなのだと、少し分かった気がした。

 

     

 

 澪と真壁の視界に、再び枠が開いた。

 

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神託達成報告

銀鹿山旧坑道 巡見行商

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現在の神託達成

銀鹿山旧坑道到達

ヴィクトル・クラッセン子爵立ち会い

鉱山町の子供の噂確認

子供の噂と地図7照合

坑道内立体マッピング

青白い廃石反応確認

冷気孔・通気口確認

崩れ旧道確認

緑青露頭確認

鉱毒水確認

石を投げた反響による空洞確認

素掘り危険確認

支保工実演

赤樺林倒木材活用

排水機構試験

送風試験

坑道内搬出用木製レール試験

トロッコ搬出試験

人力削岩機実演

鉱毒被害聞き取り

鉱毒処理助言

鉱山水と生活水の分離提案

廃石管理提案

沈殿池設置提案

ヴィクトル・クラッセン子爵の理解

エレナの領内視察

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取得

行商人レベルアップ

行商人系スキル成長

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「神託、達成です」

 

 澪の声は、少しだけ驚いていた。

 

 エレナが目を細める。

 

「まだ銀は掘っていないぞ」

 

 真壁は坑道の入口を見た。梁が入り、水が動き、灯りの火が揺れ、短い木製レールの上にトロッコがある。銀はまだ、一欠片も掘っていない。

 

「姫君。銀を掘る前に、人が帰れる道を作る。それが先です」

 

 ヴィクトルが、深く頷いた。

 

「その通りだ」

 

 光が澪の視界を満たし、身体の奥で何かが整う感覚が走った。戦闘の後とは違う。濁った水と、危ない穴と、子供の噂と、支柱と、道具と、鉱毒の話が、それぞれ別の札のように並び、同時に扱える形へ整っていく。

 

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篠原 澪

現在ジョブ:行商人 Lv9 → Lv10

状態:銀鹿山旧坑道到達/子供の噂照合/坑道内立体マッピング/鉱毒水鑑定/危険箇所記録/サンプル管理

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基礎能力値

体力:53 → 54

筋力:36 → 37

器用:78 → 80

知力:90 → 93

判断:92 → 96

精神:93 → 96

集中:88 → 92

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自動成長

地図:7 → 8

並行思考:3 → 4

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維持

移動加速:2

鑑定:10

収納:10

防衛用収納展開:2

錬金:5

雷:8

火:1

収納内時間停止:芽あり

技能:彫金

技能:手仕事

統率個体識別:1

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取得スキルポイント

確認済み保有SP:31

Lv10到達:+3

今回取得SP:+3

割振前SP:34

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SP割振

割振:なし

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現在反映

保有SP:34

地図:8

移動加速:2

鑑定:10

収納:10

防衛用収納展開:2

並行思考:4

錬金:5

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成長

子供の噂照合:1

坑道内立体マッピング:1

青白い廃石反応確認:1

冷気孔確認:1

緑青露頭確認:1

鉱毒水鑑定:1

水質危険判断:1

崩れ旧道記録:1

空洞反響照合:1

坑道安全化記録:1

サンプル分別管理:1

鉱山導線理解:1

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「地図、八……並行思考も四です」

 

 澪は自分の手を見た。手は震えていない。だが、頭の中に、さっきまで見た坑道の線が残っている。平面ではない。上下があり、奥行きがあり、水が低い方へ流れ、空気が動かず、音が二度返る場所がある。

 

「今回は、見えるものが多かった。坑道、横穴、水、空気、毒、子供の噂。混ぜずに扱った結果だろう」

 

「坑道って、地図が平面じゃ足りないんですね」

 

「山の腹は、上下も道だ」

 

 続いて、真壁の前にも表示が開いた。

 

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真壁 久忠

現在ジョブ:行商人 Lv9 → Lv10

状態:銀鹿山旧坑道到達/ヴィクトル子爵立ち会い/素掘り危険判断/支保工実演/排水・送風・トロッコ・人力削岩機実演/鉱毒処理助言

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基礎能力値

体力:84 → 85

筋力:70 → 72

器用:92 → 95

知力:96 → 99

判断:105 → 109

精神:103 → 106

集中:101 → 105

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自動成長

地図:7 → 8

移動加速:6 → 7

錬金:7 → 8

交渉:8 → 9

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維持

収納:10

鑑定:9

商才:5

指揮:9

軍略:8

体術:5

威圧:5

異界適応:4

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取得スキルポイント

確認済み保有SP:12

Lv10到達:+3

今回取得SP:+3

割振前SP:15

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SP割振

割振:なし

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現在反映

保有SP:15

地図:8

移動加速:7

収納:10

鑑定:9

商才:5

交渉:9

指揮:9

軍略:8

錬金:8

体術:5

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成長

坑道危険判断:1

素掘り危険指摘:1

坑道内導線設計:1

支保工実演:1

赤樺林倒木材活用:1

排水機構試験:1

送風機試験:1

坑道内搬出トロッコ試験:1

人力削岩機実演:1

鉱毒処理助言:1

鉱山水分離提案:1

廃石管理提案:1

ヴィクトル子爵説得:1

鉱夫代表説明:1

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 澪は思わず真壁を見た。

 

「真壁さん、移動加速七……」

 

「届いたようだね」

 

「転移、ですか」

 

 真壁は、坑道の奥から流れてくる冷たい風を見た。山の腹で、地図と移動の条件が揃ったことは分かる。だが、ここは試す場所ではない。

 

「使うのはまだ早い。山の腹で試すものではない」

 

「ですよね」

 

「だが、道はつながった。そういうことだ」

 

 エレナは二人のやり取りを見て、少し不満そうにした。

 

「また見えぬ話か」

 

 真壁は丁重に頭を下げた。

 

「姫君。見えぬ話は後にいたしましょう。今見えるのは、この梁と、水の流れと、空気の道です」

 

 エレナは坑道入口を見た。

 

 朝には、ただ黒い口にしか見えなかった。今は違う。梁が入り、水が動き、灯りの火が揺れ、短いレールの上にトロッコがある。削岩機のタガネ跡が、岩に小さな丸い傷を残している。

 

「銀はまだ出ていないのに、山が少し変わった」

 

 真壁は静かに答えた。

 

「掘る前に、帰る道を作りました」

 

 ヴィクトルは、坑道の奥ではなく、町へ下る細い道を見ていた。銀鹿山は、銀を出して人を失った山だった。だが今、坑道の入口には梁が入り、水が動き、空気が通り、石を背負わず運ぶ短いレールが敷かれている。

 

 澪の地図八には、山の奥へ向かう線だけでなく、人が帰ってくるための線が重なっていた。

 

 掘る前に、帰る道を作る。

 

 銀鹿山旧坑道は、ようやくその一歩目を踏み出した。

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