押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第107話 夕焼けの湯

 

 銀鹿山旧坑道の入口には、まだ木の匂いが残っていた。

 

 真壁が組んだ梁と横木は、古い坑道の口を飾るものではなかった。沈みかけていた山の息を、少しだけ整えている。短い木製レールの上には、試しに石を載せて引き出したトロッコが置かれていた。排水の螺旋軸は水を外へ逃がす向きで止まり、送風機の筒は暗い奥へ向けられている。人力削岩機の先端には、試し穿ちの石粉が白く付いていた。

 

 銀はまだ掘っていない。

 

 だが、坑道の前に立つ者たちの目は、朝とは違っていた。

 

 ヴィクトル・クラッセン子爵は、坑道の奥ではなく、沢へ下る水筋を見ている。鉱夫代表も、青緑色の沈殿が残る石をちらりと見てから、排水路の方へ目を移した。掘る前に水を見る。山の民にとって、それは簡単に飲み込める考えではないはずだった。

 

「真壁殿」

 

 ヴィクトルが、外套の裾を払って真壁へ向き直った。山の風が冷たく、裾には石粉が薄く付いている。

 

「採掘再開を急がぬと約束します。まず、水と毒の道を分けます」

 

 真壁は、坑道口に置いた部材を一つずつ見てから、静かに頷いた。

 

「それがよろしい。銀は逃げません。だが人は、失えば戻らぬことがある」

 

「重く受け止めます」

 

 子爵の声には、鉱山を預かる者の重さがあった。銀が出るかどうかだけを見ていれば済む山ではない。水がどこへ流れ、誰の手を汚し、誰の家を出て行かせたのかを見なければならない。

 

 エレナも、坑道口を見ていた。今朝ここへ着いた時のような、宝を探す目ではない。青く光る石、冷たい穴、緑の石、音が二度返る奥。子供の噂から始まったものは、結局、領の痛みへつながっていた。

 

「兄上にも伝える。銀鹿山は、銀より先に水を見るべき場所だった」

 

「それをご自身の言葉で言えるなら、視察は形になっております、姫君」

 

 真壁が丁重に言うと、エレナは少しだけ照れたように顎を上げた。

 

 その足元へ、噂を教えた子供が走り寄りかけ、鉱夫代表の手に肩を押さえられた。子供は不満そうだったが、今日は大人たちの顔色を少し読むようになっている。

 

「姫様、また来る?」

 

「お前が一人で冷たい穴へ近づかぬなら、また話を聞く」

 

「……行かない」

 

 オスカーが子供と鉱夫代表を順に見た。

 

「その約束は、鉱夫の方々にも聞いていただきましょう」

 

 鉱夫代表は渋い顔をしたが、子供の頭に大きな手を置いて頷いた。

 

「聞いた」

 

 澪は、そのやり取りを見ながら、自分の袖をつまんだ。黒っぽい石粉が付いている。靴の縁には山の泥が固まり、指先には、緑青の岩に近づいた時の緊張がまだ残っていた。実際に鉱毒水へ触れたわけではない。それでも、あの水の色を見た後では、石粉も泥も、早く洗い落としたいものに変わっていた。

 

 エレナの髪にも、冷たい坑道風が運んだ細かな粉が絡んでいる。

 

 オスカーは相変わらず背筋を伸ばしていた。けれど籠手を直す時に、一瞬だけ肩を回しかけ、すぐに動きを止める。

 

 真壁はそれを見逃さなかった。

 

「今日は、荷だけでなく人も洗う日だな」

 

 澪は袖の粉を見下ろしたまま、目を瞬かせた。

 

「人も荷扱いですか」

 

「行商人が倒れれば、荷も道も崩れる。人も整えるべき荷だ」

 

 エレナが顔を上げる。

 

「洗うなら、湯がよい」

 

「ええ、姫君。戻れば湯があります」

 

「湯か」

 

 エレナの声が明るくなる。オスカーはすぐに半歩近づいた。

 

「姫様、戻るまでは足元を。坑道の周りはまだ片づいたわけではありません」

 

「分かっている。湯へ走るのは、着いてからだ」

 

「湯へも急がれませんよう」

 

 真壁はわずかに笑い、澪はオスカーの肩をもう一度見た。

 

「オスカーさんも、疲れてますよね」

 

「私は後で構いません。まずは姫様の安全が先です」

 

 返事は早かったが、否定ではなかった。

 

 真壁が、坑道口から町へ下る道へ視線を移す。

 

「護衛も、湯に浸かるべき時は浸かるものです。肩が固まれば、剣も判断も鈍ります」

 

「……承知しました。機会があれば」

 

 エレナが横から言った。

 

「機会は作る。私が命じる」

 

「その時は従います」

 

 オスカーはいつものように控えめだったが、声の端に少しだけ諦めが混じっていた。

 

     

 

 ハイエースは、銀鹿山の細い道を下り始めた。

 

 行きに比べて、帰りの山道は別の道のように感じられた。曲がり角が早めに見える。石の多い場所では自然に速度が落ち、土が湿って轍の深い場所では車体が大きく揺れる前に、真壁が僅かに進路を選び直す。対向の荷車が来そうな細い場所では、広い肩へ寄せるタイミングが早い。

 

 急いでいる。

 

 けれど、乱暴ではない。

 

 澪は後部座席で、膝の上のノートを押さえながら窓の外を見ていた。地図八の感覚では、銀鹿山から採石場秘密基地へ戻る線が、ただの線ではなく、流れのように見える。危ない場所、休める場所、荷が崩れにくい場所、日が落ちる前に抜けるべき場所。それらが、真壁の運転と重なっていた。

 

「速いのに、揺れが少ないです」

 

「急いでいるのではない。無駄を減らしている」

 

 真壁は前を見たまま答えた。

 

 エレナは窓の外の山道と、車内の安定した揺れを比べるようにしていた。

 

「速いのに怖くない。馬車なら、もっと身構える」

 

「道を乱さず進むのが、移動加速の品です」

 

 オスカーは助手席で、窓と前方を見ている。警戒は解いていない。だが、銀鹿山の坑道前に立っていた時より、肩の線が少し落ちていた。

 

「この揺れなら、姫様も休めます」

 

 エレナはすぐに言い返す。

 

「お前も少し休め」

 

「見張りは続けます。ただ、少し楽なのは確かです」

 

 澪は、思わずオスカーの方を見た。

 

「オスカーさんが、楽って言いました」

 

「事実です。山道で無駄に揺れないのは助かります」

 

 真壁が小さく頷く。

 

「警戒と緊張は別です。緊張だけを持ち帰る必要はありません」

 

「覚えておきます」

 

 オスカーは短く答え、また前を見た。

 

 途中の休憩で、真壁は荷の確認をした。銀鹿山の水質サンプル、緑青周りの注意物、石粉の付いた工具類は、食材や飲料から離れた区画に収まっている。澪にはその収納内までは見えないが、真壁が取り出した札と配置で、危険物が混ざっていないことは分かった。

 

 その後、真壁は別の区画から一本のワイン瓶を選んだ。

 

 布に包まれた瓶だった。首元に、細い金色の封が残っている。澪は、その時点で嫌な予感がした。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「それ、いくらしたんですか」

 

 真壁は答えず、瓶を灯りにかざした。

 

「湯の後に飲む酒は、強すぎても品がない。身体が温まった後は、香りの立ち方も変わる」

 

「値段を聞いてます」

 

「姫君をもてなす酒だ。安いものを出す方が品がない」

 

「高いんですね」

 

「値段だけで酒を見るのは、少々野暮だね」

 

「高いんですね」

 

 真壁は、瓶の首を指で撫でるようにして言った。

 

「オレゴンのピノ・ノワールだ。ラズベリーやチェリーの香りがあり、酸がきれいで、口当たりも柔らかい。湯上がりの身体を強く叩かず、静かに落ち着かせるには悪くない」

 

「高いんですね」

 

「澪君、同じ問いを三度重ねるのは品がない」

 

「三度逃げた人に言われたくありません」

 

 エレナが、澪と真壁を交互に見る。

 

「高い酒なのか」

 

 真壁は品よく微笑んだ。

 

「姫君を迎えるに足る酒です」

 

 澪は小さく息を吐いた。

 

「それ、絶対高いやつです」

 

 オスカーは淡々と言う。

 

「姫様は、湯上がりに強い酒はお控えください」

 

「まだ飲むとは言っていない」

 

「先に申し上げておきます」

 

「お前は早いな」

 

 真壁はワイン瓶を丁寧に包み直した。

 

「結構。よい護衛です」

 

 澪は、真壁が結局値段を言わなかったことを覚えておこうと思った。

 

     

 

 夕方、ハイエースは採石場秘密基地へ戻った。

 

 採石場の岩肌には、傾いた陽が赤く当たっている。山の冷たい影を抜けてきた目には、その赤さが柔らかく見えた。基地の入り口には車を停める場所があり、荷を置く台があり、調理場の近くには水場がある。少し離れた場所には洗い場があり、その向こうからは湯気が上がっていた。

 

 澪は車を降りて、最初に水場を見てしまった。

 

 飲み水の桶、洗い物用の場所、風呂の湯を扱う場所、危険物を置かない場所。どれも、以前ならそこまで意識しなかったかもしれない。だが赤樺湿地で水場を分け、銀鹿山で鉱毒水を見た後では、分かれていることそのものが安心になっていた。

 

「戻ってきたら、最初に水場を見ちゃいますね」

 

「よい癖だ。見ないより、よほどよい」

 

 真壁は荷を降ろしながら答える。鉱毒水関連のサンプルや石粉の付いた道具は、食材から離した位置に仮置きされる。澪も自分の収納内で、食材、風呂道具、衣類、洗い物、サンプルを区画ごとに整えた。並行思考四になってから、分類の線が以前より滑らかに引ける。迷う前に、置き場所が決まる。

 

 エレナは水場を見回し、納得したように頷いた。

 

「ここは、水が分かれているのだな」

 

「はい。飲む水、洗う水、お風呂の水、危ないものを扱う場所。混ぜない方が安心です」

 

「赤樺湿地と、銀鹿山の後だと分かる」

 

 真壁が、積み直した荷札を見てから言った。

 

「見たものが、戻った場所の見方を変える。良い旅です」

 

 その時、エレナの目が、湯気の方へ向いた。

 

 岩で囲われた露天風呂から、夕焼けに染まった湯気が上がっている。湯面には赤い空が揺れていた。外の風は少し冷たい。湯気だけが、その中で白く柔らかく動いている。

 

 エレナは立ち止まった。

 

「外で湯に入るのか」

 

「露天風呂です」

 

「外で、湯に……空が見えているぞ」

 

「それがいいんです」

 

 エレナが一歩前へ出ると、オスカーが横に並んだ。

 

「姫様、湯へ急がれませんよう。足元が濡れております」

 

「まだ走っていない」

 

「濡れた石は滑ります。歩いてください」

 

 真壁が穏やかに付け加える。

 

「姫君。湯は逃げません」

 

「分かっている。だが、あれは早く入りたくなる湯だ」

 

 澪はその言い方に笑いそうになったが、エレナの目があまりに真剣だったので、説明を先にすることにした。

 

     

 

 入浴は分けることになった。

 

 真壁とオスカーは後の時間に回る。まず澪がエレナを連れて、脱衣所と洗い場の使い方を説明する。エレナは湯へ入りたい気持ちを抑えつつも、澪の言葉を真剣に聞いていた。赤樺湿地で水場を分けた後だからだろう。洗い場と湯船を分ける理屈は、思ったより早く通じた。

 

「先に洗います。湯船の中では洗いません」

 

「湯に入ってから洗うのではないのか」

 

「洗う場所と、浸かる場所は別です」

 

 エレナは、少し考えてから言った。

 

「水場と同じか」

 

「はい。赤樺湿地の水場と同じです。混ぜると汚れます」

 

「なるほど。湯にも札が要るのだな」

 

「今回は口で説明します」

 

 澪は、シャンプーの容器を手に取った。エレナの髪には、銀鹿山の石粉が細かく絡んでいる。澪自身の髪も、坑道の冷たい風を含んでいた。湯で流す前に、まず汚れを落とす。

 

 手のひらにシャンプーを出して泡立てると、エレナが目を丸くした。

 

「泡が増える。これは薬か」

 

「髪を洗うものです。目に入ると痛いので、動かないでください」

 

「目に入ると痛いのか。危険な品だな」

 

「普通に使えば大丈夫です」

 

「普通とは難しい」

 

 エレナは真剣な顔で動かないようにしている。澪は少し笑いそうになりながら、丁寧に髪を洗った。泡は銀鹿山の石粉を包み、湯と一緒に流れていく。坑道の冷たい匂いが薄れ、代わりに柔らかな香りが残った。

 

「次は、リンスです」

 

「洗ったのに、また付けるのか」

 

「髪の手触りを整えるものです。これも最後に流します」

 

 エレナは半信半疑だったが、流し終えた後に自分の髪を指で触り、動きを止めた。

 

「髪が、別の布のようになった」

 

「リンスです。最後にちゃんと流してください」

 

「これは貴族の品か」

 

「高級品じゃないです。私たちのところでは、普通のお店で買えます」

 

「普通の店で、髪が別の布になるのか」

 

「そこまでは、たぶん言いすぎです」

 

 エレナはしばらく黙った。

 

「普通とは、恐ろしいな」

 

 澪は今度こそ少し笑った。

 

 自分も同じように髪を洗い、坑道の匂いと石粉を落としていく。湯が足元を流れ、洗い場から排水へ向かう。その流れを見ていると、銀鹿山の水筋を思い出した。混ぜてよい水と、混ぜてはいけない水。洗い流せる汚れと、土地に残る毒。

 

 ここでは、洗ったものがきちんと流れる。

 

 それだけで、ずいぶん安心できた。

 

     

 

 露天風呂の湯には、セルマが調合した入浴剤が入っていた。

 

 色は派手ではない。夕焼けの赤と湯気の白に混じり、薄く落ち着いた色を作っている。薬草の香りは強すぎず、湯面から上がる湯気の中で、ほんの少しだけ甘く、少しだけ草の青さを残していた。

 

 澪は湯に浸かり、息を吐いた。

 

 銀鹿山の冷気が、身体の奥からほどけていくようだった。肩に残っていた緊張が、湯の温かさに押し出される。坑道の暗さ、緑青の沢水、子供の噂、ヴィクトル子爵の重い顔。それらが消えるわけではない。けれど、今は湯気の向こうに置いておける。

 

 エレナは湯船の中で、完全に落ち着きを失っていた。

 

「空を見ながら湯に入るなど、贅沢すぎる」

 

 岩の縁に手を置き、湯面に映る赤い空を見て、また顔を上げる。風が頬だけを冷やすたびに、湯の温かさを確かめるように肩を動かす。

 

「長く入りすぎるとのぼせますよ」

 

「のぼせるとは何だ」

 

「頭がぼーっとして、ふらふらします」

 

「湯で負けるのか」

 

「勝ち負けではないです」

 

 澪の忠告は、半分ほどしか届いていなかった。

 

 夕焼けが、採石場の岩肌をさらに赤く染める。湯気の向こうに見える空は、山道で見た夕方とは違っていた。そこには冷たい坑道の口も、緑の石もない。ただ、今日の疲れを受け止める湯がある。

 

 しばらくして、エレナの返事が遅くなった。

 

「エレナ様?」

 

「うむ。これは……大変……」

 

「出ましょう」

 

「まだ見ている」

 

「出ましょう」

 

 澪は慌ててエレナを湯から出し、風の当たる場所に座らせ、水を飲ませた。エレナの頬は赤く、本人は悔しそうにしているが、目元は少しぼんやりしている。

 

 外からオスカーの声がした。

 

「姫様、大丈夫ですか」

 

「大丈夫です。のぼせただけです。少し休ませます」

 

「無理をされないようお願いします」

 

 エレナは水を飲んでから、深く息を吐いた。

 

「これは……危険だ」

 

「だから言いました」

 

「だが、大変良いものだ」

 

「気に入ったんですね」

 

「気に入った」

 

 澪は笑い、もう一度水を渡した。

 

     

 

 澪とエレナの後、真壁とオスカーが湯を使うことになった。

 

 オスカーは最初、見張りを理由に後回しにしようとした。採石場秘密基地の周囲を確認し、ハイエースの位置を見て、風下と水場を確かめる。その動きは普段通りだったが、籠手を外した手首には、坑道で緊張していた跡が残っている。

 

 真壁が声をかけた。

 

「オスカー殿。見張りは交代でよい。まず湯で肩を戻されるとよろしい」

 

「私は後で構いません。姫様の周囲を先に確認します」

 

「結構。では、一巡後に入りたまえ。動けぬ護衛は、姫君の荷になります」

 

 湯上がりで髪を拭いていたエレナが、即座に言った。

 

「オスカー、入れ。私の荷になるな」

 

 オスカーは一瞬だけ言葉に詰まり、それから頭を下げた。

 

「……承知しました。ただし、先に周囲を一巡してからにします」

 

「それでよい」

 

 オスカーは本当に一巡してから戻ってきた。

 

 湯に肩まで沈むと、初めて深く息を吐いた。本人は短く済ませるつもりだったのだろう。だが、岩に背を預けた瞬間、坑道で固めていた肩が湯の中で少しずつほどけていく。

 

 真壁は隣で湯を受けながら、静かに言った。

 

「護衛も、休む順番を誤れば判断が鈍ります」

 

「認めます。坑道の後は、少し肩が重かった」

 

「よい護衛ほど、疲れを隠す。だが隠した疲れは消えません」

 

 オスカーはしばらく湯面を見ていた。

 

「今後は、休むタイミングも任務に含めます」

 

「それがよろしい」

 

 採石場の夕焼けは、男湯の時間にはもう薄くなっていた。だが湯の温かさは変わらない。オスカーは何も言わず、もう少しだけ肩を沈めた。

 

     

 

 湯上がりの食事は、温かいものから始まった。

 

 白皿丘で見た器に、赤樺湿地の薬草の香りを少し加えたスープが入る。銀鹿山で得た山羊乳は小さな器で温められ、燻製肉は薄く切られてパンに添えられた。現代の調味料は目立ちすぎない程度に使われている。旅で見た土地のものが、少しずつ食卓へ戻ってきていた。

 

 真壁は、先ほど選んだワイン瓶を手に取った。

 

 澪はその手元をじっと見る。

 

「やっぱり、それを開けるんですね」

 

「賓客をもてなすための酒だ。飾っておく方が無粋です」

 

「値段は」

 

「澪君」

 

「はい」

 

「湯上がりに重い酒を急ぐのは品がありません。香りを見るなら、少し温度を戻す。喉で飲むのではなく、食事と合わせる」

 

「また逃げましたね」

 

 真壁は栓を抜いた。強い香りではない。だが、すぐに赤い果実を思わせる柔らかな匂いが広がる。湯上がりの温まった身体に、重くのしかかる香りではなかった。

 

「ピノ・ノワールは、湯の後には悪くない。ラズベリーやチェリーの香りが軽く立ち、酸が舌を整える。脂の強い肉で押すより、今日のようなスープや燻製肉と合わせる方が品よくまとまる」

 

 澪はグラスを見てから、真壁を見る。

 

「説明が長い時は、高い時です」

 

「学習したね」

 

「認めたようなものです」

 

 エレナが興味深そうに杯を見る。

 

「酒にも札が要るのか」

 

「良い酒ほど、飲み方を誤ると損をします」

 

 オスカーはエレナの前に、別のグラスを置いた。

 

「姫様は、まずこちらを。湯上がりですので、ゆっくり飲まれるのがよろしいかと」

 

「これは酒ではないのか」

 

「サイダーです」

 

 澪が説明すると、エレナはグラスを覗き込んだ。

 

 透明な液の中で、細かな泡が次々に上がっている。エレナはそれをじっと見た。

 

「泡が上がっている。これは生きているのか」

 

「生きてはいません。炭酸です」

 

 エレナは恐る恐る口をつけた。

 

 次の瞬間、目を丸くする。

 

「水が噛んだ」

 

「炭酸です」

 

「炭酸は、水を噛ませる技術なのか」

 

 真壁が、ワインの香りを見ながら口元を緩めた。

 

「悪くない表現ですな」

 

 オスカーは落ち着いた声で言う。

 

「姫様、急に飲まれますとむせます。少しずつどうぞ」

 

「うむ。これは急ぐものではない。噛まれる」

 

 真壁は丁寧に注いだワインを手にしたまま、エレナがサイダーの泡に完全に心を奪われているのを見た。

 

 澪は声を殺して笑う。

 

「賓客用の高いワインより、サイダーですね」

 

「澪君」

 

「はい」

 

「それもまた、良い経験です」

 

「今、ちょっと悔しそうでした」

 

「気のせいだ」

 

 澪は笑いながら、自分のサイダーを掲げた。真壁はワインを、オスカーは控えめにサイダーの杯を持つ。

 

「では、ひとまずの無事に」

 

 真壁の言葉で、杯が小さく合わさった。

 

 旅が終わったわけではない。

 

 けれど、今日を越えたことを確かめるには、それで十分だった。

 

     

 

 食事が落ち着いた頃、エレナはグラスを両手で持ったまま、少し静かになった。

 

 サイダーの泡はまだ上がっている。だが、彼女の目は泡ではなく、採石場の夜へ向いていた。夕焼けは消え、岩肌は暗くなり、露天風呂の方から湯気だけが白く見える。

 

「私は、宝を見るつもりで来た」

 

 エレナがぽつりと言った。

 

「水晶や銀や、珍しいものを見れば、領を見たことになると思っていた」

 

 澪は、黙って聞いた。

 

「普通は、そう思うかもしれません」

 

「だが、水車町では鼠を見た。白皿丘では皿の売り方を見た。赤樺湿地では水を分ける札を見た。銀鹿山では、銀より先に人が帰る道を見た」

 

 真壁は、杯を置いてエレナへ向き直った。

 

「それを、ご自身の言葉で言えたなら、十分です」

 

 エレナは首を振る。

 

「まだ十分ではない。だが、宝だけでは領は良くならぬのだな。鼠を防ぐ札も、皿を売る見本も、水を分ける札も、山から人が帰る道も、領の宝なのだ」

 

 澪は、その言葉に胸が少し温かくなった。

 

 白皿丘の水晶玉に目を輝かせていたエレナが、泥や水や札や道を、宝と言った。それは、旅の中で彼女が見たものが、ちゃんと積み重なっている証のように思えた。

 

 エレナは真壁と澪を見た。

 

「押入商会に感謝する。私は、領を見る目を少しもらった」

 

 真壁は、丁寧に頭を下げた。

 

「もらったのではありません、姫君。ご自身で見たのです」

 

 エレナは少し驚いたように瞬きをし、それから小さく頷いた。

 

「そうか。では、忘れぬようにする」

 

 オスカーも、何も言わずに頭を下げた。湯に入った後の肩は、銀鹿山を離れる時よりも少し軽そうだった。

 

     

 

 澪は食後にノートを開いた。

 

 採石場秘密基地の休憩場所は、夜になると静かだった。遠くで風が岩肌を撫でる音がする。露天風呂の湯気が、灯りの届く範囲だけ白く浮かぶ。エレナはサイダーを気に入ったらしく、もう少し欲しそうにグラスを見ていたが、オスカーに「湯上がりですので、ほどほどに」と静かに止められていた。

 

 澪はペンを持ち、ノートの上に日付を書こうとして、少し手を止めた。

 

 異世界のことは書けない。

 

 だが、見た筋は書ける。

 

 大学ゼミのテーマは、小規模店舗における商品情報の見える化と若年層の初回来店行動。最初は、商品札や価格、用途説明、店の入りやすさの話だと思っていた。

 

 澪はノートに「商品」と書いた。

 

 そこから線を引き、「用途」と書く。少し考えて、「価格」と書く。さらに「入り口」と書いたところで、ペンが止まった。

 

 違う。

 

 それだけでは、今日見たものに届かない。

 

 澪は「入り口」の横に、小さく「帰る道」と書き足した。

 

 銀鹿山で、真壁は銀を掘る前に帰る道を作った。赤樺湿地では、飲み水と洗い水を分けた。白皿丘では、石や皿の見せ方を整えた。水車町では、鼠を防ぐ札が穀物を守った。

 

 澪は「商品」の下に「客が安心して戻れる道」と書き、それから少し恥ずかしくなって、横に小さく「言い換える」と付け足した。

 

「商品情報の見える化って、売る物だけじゃないですね」

 

 少し離れた場所でワインを飲んでいた真壁が、ノートを覗き込みすぎない距離のまま答えた。

 

「そうだね。客が入る道、選ぶ道、休む場所、帰る道。そこまで見えて、初めて店になる」

 

「人も荷、ですか」

 

「人を雑に扱う店は、荷も雑に扱う」

 

 澪はペン先を止めた。

 

「異世界のことは書けませんけど」

 

「書く必要はない。見た筋を、大学の言葉へ置き換えればよい」

 

 澪は頷き、もう一度ノートへ向かった。

 

 商店街の店に、初めて入る若者は何を見るのか。値段か。用途か。入り口の雰囲気か。店員の距離か。買わずに出てもよい空気か。帰る道の安心か。

 

 押入商会で見たもの、水車町で見たもの、白皿丘で見たもの、赤樺湿地で見たもの、銀鹿山で見たものが、そのままではなく、線になってノートの上へ移っていく。

 

 真壁は静かにワインの杯を置いた。

 

「形になっていますな」

 

「まだ、メモです」

 

「メモでよい。君は、旅を課題へ戻している」

 

 澪は少しだけ笑った。

 

 戻ってきたのに、まだ戻りきっていない。

 

 それでいいのだと思えた。

 

     

 

 採石場の夜に、湯気だけが白く残っていた。

 

 エレナは初めての露天風呂とサイダーを、領の宝と同じくらい真剣に気に入っていた。オスカーは見張りの位置に戻ったが、肩の動きは来た時よりも軽い。真壁は地図八の感覚で、採石場秘密基地、水車町、白皿丘、赤樺湿地、銀鹿山、そして六畳間へ続く道を静かに確かめていた。

 

 転移は使わない。

 

 だが、道は以前より確かにつながっている。

 

 澪はノートを閉じた。表紙に指を置くと、湯上がりの温かさがまだ少し残っていた。

 

 帰ってきたのに、旅はまだ終わっていなかった。

 

 それは、澪の大学の課題へ、静かにつながっていた。

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息抜き二次創作▼ガンダム世界でオリキャラを主戦場でうろちょろさせたいと思い書きました。▼息抜きなのでエタっても泣かない▼注 作者ガンダム作品詳しくないので調べながらやってますが、皆さんのコメントで教えてもらうことも多いのでガチでコメント頼りにしてます!▼ガノタや有識者!情報求む!▼艦船や地上兵器はガンガン他のSF作品や既存兵器を参考にしますので、こんなのあっ…


総合評価:5998/評価:7.89/連載:38話/更新日時:2026年02月02日(月) 22:34 小説情報

SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に来ちゃいました。 魔法と知識で日本を発展させます。(作者:Lavian)(オリジナル歴史/戦記)

セララ・シュトーレンは転生者だ。天使っぽい種族で魔法も使える。▼だけどワープ事故で戦国時代に漂着。▼困ってる人を助けたら神様と勘違いされてしまった。▼人々を助けていたら有名になり、尾張の殿様に呼ばれて……▼信長の友人として過ごす日々が始まった。


総合評価:871/評価:8.12/連載:25話/更新日時:2026年05月27日(水) 21:20 小説情報

自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ (作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

システムエンジニア、工藤創一(30代・独身)。 彼の仕事は、誰が作ったかも分からない継ぎ接ぎだらけのシステムを延命させる「運用保守」。創造性のかけらもない、謝罪と徹夜の日々だった。▼ある夜、帰宅した彼のもとに謎の荷物が届く。 送り主は『賢者・猫とKAMI』。中に入っていたのは、異惑星『テラ・ノヴァ』へと繋がるゲート・キューブだった。▼「鉄鉱石の埋蔵量、480…


総合評価:17441/評価:8.88/連載:231話/更新日時:2026年05月28日(木) 15:36 小説情報


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