銀鹿山旧坑道の入口には、まだ木の匂いが残っていた。
真壁が組んだ梁と横木は、古い坑道の口を飾るものではなかった。沈みかけていた山の息を、少しだけ整えている。短い木製レールの上には、試しに石を載せて引き出したトロッコが置かれていた。排水の螺旋軸は水を外へ逃がす向きで止まり、送風機の筒は暗い奥へ向けられている。人力削岩機の先端には、試し穿ちの石粉が白く付いていた。
銀はまだ掘っていない。
だが、坑道の前に立つ者たちの目は、朝とは違っていた。
ヴィクトル・クラッセン子爵は、坑道の奥ではなく、沢へ下る水筋を見ている。鉱夫代表も、青緑色の沈殿が残る石をちらりと見てから、排水路の方へ目を移した。掘る前に水を見る。山の民にとって、それは簡単に飲み込める考えではないはずだった。
「真壁殿」
ヴィクトルが、外套の裾を払って真壁へ向き直った。山の風が冷たく、裾には石粉が薄く付いている。
「採掘再開を急がぬと約束します。まず、水と毒の道を分けます」
真壁は、坑道口に置いた部材を一つずつ見てから、静かに頷いた。
「それがよろしい。銀は逃げません。だが人は、失えば戻らぬことがある」
「重く受け止めます」
子爵の声には、鉱山を預かる者の重さがあった。銀が出るかどうかだけを見ていれば済む山ではない。水がどこへ流れ、誰の手を汚し、誰の家を出て行かせたのかを見なければならない。
エレナも、坑道口を見ていた。今朝ここへ着いた時のような、宝を探す目ではない。青く光る石、冷たい穴、緑の石、音が二度返る奥。子供の噂から始まったものは、結局、領の痛みへつながっていた。
「兄上にも伝える。銀鹿山は、銀より先に水を見るべき場所だった」
「それをご自身の言葉で言えるなら、視察は形になっております、姫君」
真壁が丁重に言うと、エレナは少しだけ照れたように顎を上げた。
その足元へ、噂を教えた子供が走り寄りかけ、鉱夫代表の手に肩を押さえられた。子供は不満そうだったが、今日は大人たちの顔色を少し読むようになっている。
「姫様、また来る?」
「お前が一人で冷たい穴へ近づかぬなら、また話を聞く」
「……行かない」
オスカーが子供と鉱夫代表を順に見た。
「その約束は、鉱夫の方々にも聞いていただきましょう」
鉱夫代表は渋い顔をしたが、子供の頭に大きな手を置いて頷いた。
「聞いた」
澪は、そのやり取りを見ながら、自分の袖をつまんだ。黒っぽい石粉が付いている。靴の縁には山の泥が固まり、指先には、緑青の岩に近づいた時の緊張がまだ残っていた。実際に鉱毒水へ触れたわけではない。それでも、あの水の色を見た後では、石粉も泥も、早く洗い落としたいものに変わっていた。
エレナの髪にも、冷たい坑道風が運んだ細かな粉が絡んでいる。
オスカーは相変わらず背筋を伸ばしていた。けれど籠手を直す時に、一瞬だけ肩を回しかけ、すぐに動きを止める。
真壁はそれを見逃さなかった。
「今日は、荷だけでなく人も洗う日だな」
澪は袖の粉を見下ろしたまま、目を瞬かせた。
「人も荷扱いですか」
「行商人が倒れれば、荷も道も崩れる。人も整えるべき荷だ」
エレナが顔を上げる。
「洗うなら、湯がよい」
「ええ、姫君。戻れば湯があります」
「湯か」
エレナの声が明るくなる。オスカーはすぐに半歩近づいた。
「姫様、戻るまでは足元を。坑道の周りはまだ片づいたわけではありません」
「分かっている。湯へ走るのは、着いてからだ」
「湯へも急がれませんよう」
真壁はわずかに笑い、澪はオスカーの肩をもう一度見た。
「オスカーさんも、疲れてますよね」
「私は後で構いません。まずは姫様の安全が先です」
返事は早かったが、否定ではなかった。
真壁が、坑道口から町へ下る道へ視線を移す。
「護衛も、湯に浸かるべき時は浸かるものです。肩が固まれば、剣も判断も鈍ります」
「……承知しました。機会があれば」
エレナが横から言った。
「機会は作る。私が命じる」
「その時は従います」
オスカーはいつものように控えめだったが、声の端に少しだけ諦めが混じっていた。
ハイエースは、銀鹿山の細い道を下り始めた。
行きに比べて、帰りの山道は別の道のように感じられた。曲がり角が早めに見える。石の多い場所では自然に速度が落ち、土が湿って轍の深い場所では車体が大きく揺れる前に、真壁が僅かに進路を選び直す。対向の荷車が来そうな細い場所では、広い肩へ寄せるタイミングが早い。
急いでいる。
けれど、乱暴ではない。
澪は後部座席で、膝の上のノートを押さえながら窓の外を見ていた。地図八の感覚では、銀鹿山から採石場秘密基地へ戻る線が、ただの線ではなく、流れのように見える。危ない場所、休める場所、荷が崩れにくい場所、日が落ちる前に抜けるべき場所。それらが、真壁の運転と重なっていた。
「速いのに、揺れが少ないです」
「急いでいるのではない。無駄を減らしている」
真壁は前を見たまま答えた。
エレナは窓の外の山道と、車内の安定した揺れを比べるようにしていた。
「速いのに怖くない。馬車なら、もっと身構える」
「道を乱さず進むのが、移動加速の品です」
オスカーは助手席で、窓と前方を見ている。警戒は解いていない。だが、銀鹿山の坑道前に立っていた時より、肩の線が少し落ちていた。
「この揺れなら、姫様も休めます」
エレナはすぐに言い返す。
「お前も少し休め」
「見張りは続けます。ただ、少し楽なのは確かです」
澪は、思わずオスカーの方を見た。
「オスカーさんが、楽って言いました」
「事実です。山道で無駄に揺れないのは助かります」
真壁が小さく頷く。
「警戒と緊張は別です。緊張だけを持ち帰る必要はありません」
「覚えておきます」
オスカーは短く答え、また前を見た。
途中の休憩で、真壁は荷の確認をした。銀鹿山の水質サンプル、緑青周りの注意物、石粉の付いた工具類は、食材や飲料から離れた区画に収まっている。澪にはその収納内までは見えないが、真壁が取り出した札と配置で、危険物が混ざっていないことは分かった。
その後、真壁は別の区画から一本のワイン瓶を選んだ。
布に包まれた瓶だった。首元に、細い金色の封が残っている。澪は、その時点で嫌な予感がした。
「真壁さん」
「何かね」
「それ、いくらしたんですか」
真壁は答えず、瓶を灯りにかざした。
「湯の後に飲む酒は、強すぎても品がない。身体が温まった後は、香りの立ち方も変わる」
「値段を聞いてます」
「姫君をもてなす酒だ。安いものを出す方が品がない」
「高いんですね」
「値段だけで酒を見るのは、少々野暮だね」
「高いんですね」
真壁は、瓶の首を指で撫でるようにして言った。
「オレゴンのピノ・ノワールだ。ラズベリーやチェリーの香りがあり、酸がきれいで、口当たりも柔らかい。湯上がりの身体を強く叩かず、静かに落ち着かせるには悪くない」
「高いんですね」
「澪君、同じ問いを三度重ねるのは品がない」
「三度逃げた人に言われたくありません」
エレナが、澪と真壁を交互に見る。
「高い酒なのか」
真壁は品よく微笑んだ。
「姫君を迎えるに足る酒です」
澪は小さく息を吐いた。
「それ、絶対高いやつです」
オスカーは淡々と言う。
「姫様は、湯上がりに強い酒はお控えください」
「まだ飲むとは言っていない」
「先に申し上げておきます」
「お前は早いな」
真壁はワイン瓶を丁寧に包み直した。
「結構。よい護衛です」
澪は、真壁が結局値段を言わなかったことを覚えておこうと思った。
夕方、ハイエースは採石場秘密基地へ戻った。
採石場の岩肌には、傾いた陽が赤く当たっている。山の冷たい影を抜けてきた目には、その赤さが柔らかく見えた。基地の入り口には車を停める場所があり、荷を置く台があり、調理場の近くには水場がある。少し離れた場所には洗い場があり、その向こうからは湯気が上がっていた。
澪は車を降りて、最初に水場を見てしまった。
飲み水の桶、洗い物用の場所、風呂の湯を扱う場所、危険物を置かない場所。どれも、以前ならそこまで意識しなかったかもしれない。だが赤樺湿地で水場を分け、銀鹿山で鉱毒水を見た後では、分かれていることそのものが安心になっていた。
「戻ってきたら、最初に水場を見ちゃいますね」
「よい癖だ。見ないより、よほどよい」
真壁は荷を降ろしながら答える。鉱毒水関連のサンプルや石粉の付いた道具は、食材から離した位置に仮置きされる。澪も自分の収納内で、食材、風呂道具、衣類、洗い物、サンプルを区画ごとに整えた。並行思考四になってから、分類の線が以前より滑らかに引ける。迷う前に、置き場所が決まる。
エレナは水場を見回し、納得したように頷いた。
「ここは、水が分かれているのだな」
「はい。飲む水、洗う水、お風呂の水、危ないものを扱う場所。混ぜない方が安心です」
「赤樺湿地と、銀鹿山の後だと分かる」
真壁が、積み直した荷札を見てから言った。
「見たものが、戻った場所の見方を変える。良い旅です」
その時、エレナの目が、湯気の方へ向いた。
岩で囲われた露天風呂から、夕焼けに染まった湯気が上がっている。湯面には赤い空が揺れていた。外の風は少し冷たい。湯気だけが、その中で白く柔らかく動いている。
エレナは立ち止まった。
「外で湯に入るのか」
「露天風呂です」
「外で、湯に……空が見えているぞ」
「それがいいんです」
エレナが一歩前へ出ると、オスカーが横に並んだ。
「姫様、湯へ急がれませんよう。足元が濡れております」
「まだ走っていない」
「濡れた石は滑ります。歩いてください」
真壁が穏やかに付け加える。
「姫君。湯は逃げません」
「分かっている。だが、あれは早く入りたくなる湯だ」
澪はその言い方に笑いそうになったが、エレナの目があまりに真剣だったので、説明を先にすることにした。
入浴は分けることになった。
真壁とオスカーは後の時間に回る。まず澪がエレナを連れて、脱衣所と洗い場の使い方を説明する。エレナは湯へ入りたい気持ちを抑えつつも、澪の言葉を真剣に聞いていた。赤樺湿地で水場を分けた後だからだろう。洗い場と湯船を分ける理屈は、思ったより早く通じた。
「先に洗います。湯船の中では洗いません」
「湯に入ってから洗うのではないのか」
「洗う場所と、浸かる場所は別です」
エレナは、少し考えてから言った。
「水場と同じか」
「はい。赤樺湿地の水場と同じです。混ぜると汚れます」
「なるほど。湯にも札が要るのだな」
「今回は口で説明します」
澪は、シャンプーの容器を手に取った。エレナの髪には、銀鹿山の石粉が細かく絡んでいる。澪自身の髪も、坑道の冷たい風を含んでいた。湯で流す前に、まず汚れを落とす。
手のひらにシャンプーを出して泡立てると、エレナが目を丸くした。
「泡が増える。これは薬か」
「髪を洗うものです。目に入ると痛いので、動かないでください」
「目に入ると痛いのか。危険な品だな」
「普通に使えば大丈夫です」
「普通とは難しい」
エレナは真剣な顔で動かないようにしている。澪は少し笑いそうになりながら、丁寧に髪を洗った。泡は銀鹿山の石粉を包み、湯と一緒に流れていく。坑道の冷たい匂いが薄れ、代わりに柔らかな香りが残った。
「次は、リンスです」
「洗ったのに、また付けるのか」
「髪の手触りを整えるものです。これも最後に流します」
エレナは半信半疑だったが、流し終えた後に自分の髪を指で触り、動きを止めた。
「髪が、別の布のようになった」
「リンスです。最後にちゃんと流してください」
「これは貴族の品か」
「高級品じゃないです。私たちのところでは、普通のお店で買えます」
「普通の店で、髪が別の布になるのか」
「そこまでは、たぶん言いすぎです」
エレナはしばらく黙った。
「普通とは、恐ろしいな」
澪は今度こそ少し笑った。
自分も同じように髪を洗い、坑道の匂いと石粉を落としていく。湯が足元を流れ、洗い場から排水へ向かう。その流れを見ていると、銀鹿山の水筋を思い出した。混ぜてよい水と、混ぜてはいけない水。洗い流せる汚れと、土地に残る毒。
ここでは、洗ったものがきちんと流れる。
それだけで、ずいぶん安心できた。
露天風呂の湯には、セルマが調合した入浴剤が入っていた。
色は派手ではない。夕焼けの赤と湯気の白に混じり、薄く落ち着いた色を作っている。薬草の香りは強すぎず、湯面から上がる湯気の中で、ほんの少しだけ甘く、少しだけ草の青さを残していた。
澪は湯に浸かり、息を吐いた。
銀鹿山の冷気が、身体の奥からほどけていくようだった。肩に残っていた緊張が、湯の温かさに押し出される。坑道の暗さ、緑青の沢水、子供の噂、ヴィクトル子爵の重い顔。それらが消えるわけではない。けれど、今は湯気の向こうに置いておける。
エレナは湯船の中で、完全に落ち着きを失っていた。
「空を見ながら湯に入るなど、贅沢すぎる」
岩の縁に手を置き、湯面に映る赤い空を見て、また顔を上げる。風が頬だけを冷やすたびに、湯の温かさを確かめるように肩を動かす。
「長く入りすぎるとのぼせますよ」
「のぼせるとは何だ」
「頭がぼーっとして、ふらふらします」
「湯で負けるのか」
「勝ち負けではないです」
澪の忠告は、半分ほどしか届いていなかった。
夕焼けが、採石場の岩肌をさらに赤く染める。湯気の向こうに見える空は、山道で見た夕方とは違っていた。そこには冷たい坑道の口も、緑の石もない。ただ、今日の疲れを受け止める湯がある。
しばらくして、エレナの返事が遅くなった。
「エレナ様?」
「うむ。これは……大変……」
「出ましょう」
「まだ見ている」
「出ましょう」
澪は慌ててエレナを湯から出し、風の当たる場所に座らせ、水を飲ませた。エレナの頬は赤く、本人は悔しそうにしているが、目元は少しぼんやりしている。
外からオスカーの声がした。
「姫様、大丈夫ですか」
「大丈夫です。のぼせただけです。少し休ませます」
「無理をされないようお願いします」
エレナは水を飲んでから、深く息を吐いた。
「これは……危険だ」
「だから言いました」
「だが、大変良いものだ」
「気に入ったんですね」
「気に入った」
澪は笑い、もう一度水を渡した。
澪とエレナの後、真壁とオスカーが湯を使うことになった。
オスカーは最初、見張りを理由に後回しにしようとした。採石場秘密基地の周囲を確認し、ハイエースの位置を見て、風下と水場を確かめる。その動きは普段通りだったが、籠手を外した手首には、坑道で緊張していた跡が残っている。
真壁が声をかけた。
「オスカー殿。見張りは交代でよい。まず湯で肩を戻されるとよろしい」
「私は後で構いません。姫様の周囲を先に確認します」
「結構。では、一巡後に入りたまえ。動けぬ護衛は、姫君の荷になります」
湯上がりで髪を拭いていたエレナが、即座に言った。
「オスカー、入れ。私の荷になるな」
オスカーは一瞬だけ言葉に詰まり、それから頭を下げた。
「……承知しました。ただし、先に周囲を一巡してからにします」
「それでよい」
オスカーは本当に一巡してから戻ってきた。
湯に肩まで沈むと、初めて深く息を吐いた。本人は短く済ませるつもりだったのだろう。だが、岩に背を預けた瞬間、坑道で固めていた肩が湯の中で少しずつほどけていく。
真壁は隣で湯を受けながら、静かに言った。
「護衛も、休む順番を誤れば判断が鈍ります」
「認めます。坑道の後は、少し肩が重かった」
「よい護衛ほど、疲れを隠す。だが隠した疲れは消えません」
オスカーはしばらく湯面を見ていた。
「今後は、休むタイミングも任務に含めます」
「それがよろしい」
採石場の夕焼けは、男湯の時間にはもう薄くなっていた。だが湯の温かさは変わらない。オスカーは何も言わず、もう少しだけ肩を沈めた。
湯上がりの食事は、温かいものから始まった。
白皿丘で見た器に、赤樺湿地の薬草の香りを少し加えたスープが入る。銀鹿山で得た山羊乳は小さな器で温められ、燻製肉は薄く切られてパンに添えられた。現代の調味料は目立ちすぎない程度に使われている。旅で見た土地のものが、少しずつ食卓へ戻ってきていた。
真壁は、先ほど選んだワイン瓶を手に取った。
澪はその手元をじっと見る。
「やっぱり、それを開けるんですね」
「賓客をもてなすための酒だ。飾っておく方が無粋です」
「値段は」
「澪君」
「はい」
「湯上がりに重い酒を急ぐのは品がありません。香りを見るなら、少し温度を戻す。喉で飲むのではなく、食事と合わせる」
「また逃げましたね」
真壁は栓を抜いた。強い香りではない。だが、すぐに赤い果実を思わせる柔らかな匂いが広がる。湯上がりの温まった身体に、重くのしかかる香りではなかった。
「ピノ・ノワールは、湯の後には悪くない。ラズベリーやチェリーの香りが軽く立ち、酸が舌を整える。脂の強い肉で押すより、今日のようなスープや燻製肉と合わせる方が品よくまとまる」
澪はグラスを見てから、真壁を見る。
「説明が長い時は、高い時です」
「学習したね」
「認めたようなものです」
エレナが興味深そうに杯を見る。
「酒にも札が要るのか」
「良い酒ほど、飲み方を誤ると損をします」
オスカーはエレナの前に、別のグラスを置いた。
「姫様は、まずこちらを。湯上がりですので、ゆっくり飲まれるのがよろしいかと」
「これは酒ではないのか」
「サイダーです」
澪が説明すると、エレナはグラスを覗き込んだ。
透明な液の中で、細かな泡が次々に上がっている。エレナはそれをじっと見た。
「泡が上がっている。これは生きているのか」
「生きてはいません。炭酸です」
エレナは恐る恐る口をつけた。
次の瞬間、目を丸くする。
「水が噛んだ」
「炭酸です」
「炭酸は、水を噛ませる技術なのか」
真壁が、ワインの香りを見ながら口元を緩めた。
「悪くない表現ですな」
オスカーは落ち着いた声で言う。
「姫様、急に飲まれますとむせます。少しずつどうぞ」
「うむ。これは急ぐものではない。噛まれる」
真壁は丁寧に注いだワインを手にしたまま、エレナがサイダーの泡に完全に心を奪われているのを見た。
澪は声を殺して笑う。
「賓客用の高いワインより、サイダーですね」
「澪君」
「はい」
「それもまた、良い経験です」
「今、ちょっと悔しそうでした」
「気のせいだ」
澪は笑いながら、自分のサイダーを掲げた。真壁はワインを、オスカーは控えめにサイダーの杯を持つ。
「では、ひとまずの無事に」
真壁の言葉で、杯が小さく合わさった。
旅が終わったわけではない。
けれど、今日を越えたことを確かめるには、それで十分だった。
食事が落ち着いた頃、エレナはグラスを両手で持ったまま、少し静かになった。
サイダーの泡はまだ上がっている。だが、彼女の目は泡ではなく、採石場の夜へ向いていた。夕焼けは消え、岩肌は暗くなり、露天風呂の方から湯気だけが白く見える。
「私は、宝を見るつもりで来た」
エレナがぽつりと言った。
「水晶や銀や、珍しいものを見れば、領を見たことになると思っていた」
澪は、黙って聞いた。
「普通は、そう思うかもしれません」
「だが、水車町では鼠を見た。白皿丘では皿の売り方を見た。赤樺湿地では水を分ける札を見た。銀鹿山では、銀より先に人が帰る道を見た」
真壁は、杯を置いてエレナへ向き直った。
「それを、ご自身の言葉で言えたなら、十分です」
エレナは首を振る。
「まだ十分ではない。だが、宝だけでは領は良くならぬのだな。鼠を防ぐ札も、皿を売る見本も、水を分ける札も、山から人が帰る道も、領の宝なのだ」
澪は、その言葉に胸が少し温かくなった。
白皿丘の水晶玉に目を輝かせていたエレナが、泥や水や札や道を、宝と言った。それは、旅の中で彼女が見たものが、ちゃんと積み重なっている証のように思えた。
エレナは真壁と澪を見た。
「押入商会に感謝する。私は、領を見る目を少しもらった」
真壁は、丁寧に頭を下げた。
「もらったのではありません、姫君。ご自身で見たのです」
エレナは少し驚いたように瞬きをし、それから小さく頷いた。
「そうか。では、忘れぬようにする」
オスカーも、何も言わずに頭を下げた。湯に入った後の肩は、銀鹿山を離れる時よりも少し軽そうだった。
澪は食後にノートを開いた。
採石場秘密基地の休憩場所は、夜になると静かだった。遠くで風が岩肌を撫でる音がする。露天風呂の湯気が、灯りの届く範囲だけ白く浮かぶ。エレナはサイダーを気に入ったらしく、もう少し欲しそうにグラスを見ていたが、オスカーに「湯上がりですので、ほどほどに」と静かに止められていた。
澪はペンを持ち、ノートの上に日付を書こうとして、少し手を止めた。
異世界のことは書けない。
だが、見た筋は書ける。
大学ゼミのテーマは、小規模店舗における商品情報の見える化と若年層の初回来店行動。最初は、商品札や価格、用途説明、店の入りやすさの話だと思っていた。
澪はノートに「商品」と書いた。
そこから線を引き、「用途」と書く。少し考えて、「価格」と書く。さらに「入り口」と書いたところで、ペンが止まった。
違う。
それだけでは、今日見たものに届かない。
澪は「入り口」の横に、小さく「帰る道」と書き足した。
銀鹿山で、真壁は銀を掘る前に帰る道を作った。赤樺湿地では、飲み水と洗い水を分けた。白皿丘では、石や皿の見せ方を整えた。水車町では、鼠を防ぐ札が穀物を守った。
澪は「商品」の下に「客が安心して戻れる道」と書き、それから少し恥ずかしくなって、横に小さく「言い換える」と付け足した。
「商品情報の見える化って、売る物だけじゃないですね」
少し離れた場所でワインを飲んでいた真壁が、ノートを覗き込みすぎない距離のまま答えた。
「そうだね。客が入る道、選ぶ道、休む場所、帰る道。そこまで見えて、初めて店になる」
「人も荷、ですか」
「人を雑に扱う店は、荷も雑に扱う」
澪はペン先を止めた。
「異世界のことは書けませんけど」
「書く必要はない。見た筋を、大学の言葉へ置き換えればよい」
澪は頷き、もう一度ノートへ向かった。
商店街の店に、初めて入る若者は何を見るのか。値段か。用途か。入り口の雰囲気か。店員の距離か。買わずに出てもよい空気か。帰る道の安心か。
押入商会で見たもの、水車町で見たもの、白皿丘で見たもの、赤樺湿地で見たもの、銀鹿山で見たものが、そのままではなく、線になってノートの上へ移っていく。
真壁は静かにワインの杯を置いた。
「形になっていますな」
「まだ、メモです」
「メモでよい。君は、旅を課題へ戻している」
澪は少しだけ笑った。
戻ってきたのに、まだ戻りきっていない。
それでいいのだと思えた。
採石場の夜に、湯気だけが白く残っていた。
エレナは初めての露天風呂とサイダーを、領の宝と同じくらい真剣に気に入っていた。オスカーは見張りの位置に戻ったが、肩の動きは来た時よりも軽い。真壁は地図八の感覚で、採石場秘密基地、水車町、白皿丘、赤樺湿地、銀鹿山、そして六畳間へ続く道を静かに確かめていた。
転移は使わない。
だが、道は以前より確かにつながっている。
澪はノートを閉じた。表紙に指を置くと、湯上がりの温かさがまだ少し残っていた。
帰ってきたのに、旅はまだ終わっていなかった。
それは、澪の大学の課題へ、静かにつながっていた。