ミニテーブルの上に、小さな時計が置かれていた。
百円ショップで買った丸型の時計である。
その横にはスマホと収納スキル管理表、大学の課題ノートが並び、壁には安いカレンダーが掛かっている。
澪は時計とスマホを見比べた。
「やりますか……」
昨夜から気になっていた。
収納へ入れた物は、そこでどうなるのか。
カラビナは入れる前も取り出した後も正常だった。けれど、10分入れても、1時間入れても同じなのかはまだ分からない。
食品を試す前に、そこを確認しておきたかった。
カレンダーへ目をやると、赤い数字がまとまっている。
世間はそろそろゴールデンウィークだった。
押入れの向こうへ初めて足を踏み出してから、もう1か月近い。
最初は、押入れが異世界につながっているだけで頭がいっぱいだった。
今はミニテーブルの上に在庫表や価格表、鑑定のメモ、販売禁止品リスト、収納スキル管理表まで積み上がっている。
六畳間は女子大生の部屋というより、小さな商会の事務所に近づいていた。しかも社員は1人で、社長も経理も仕入れ担当も倉庫係も同じ人物である。
ブラック企業というより、押入れ企業だった。
「……増えたなあ」
澪は収納スキル管理表を開いた。
軽い小物は入る。透明盾はまだ無理。刃物には抵抗があり、火や薬品は試していない。金貨は人に知られた時の危険を考えて使わないことにした。
食品については、まだ保留のままだ。
時間が普通に進むなら、収納は運搬には使えても保存庫にはならない。
もし止まるなら。
澪は時計を見る。
「……止まったら、かなり便利なんだけど」
便利すぎるものは、だいたいあとで怖くなる。
昨日収納を覚えたばかりなのに、もう保存まで期待している。
期待するだけなら無料なので、そこは許すことにした。
秒針は規則正しく進んでいる。
澪はスマホの時刻と時計を合わせてから、収納へ意識を向けた。
時計そのものは1個のまま、保管場所だけを手元から収納へ移す。
手のひらから重みが消えた。
昨日よりはずっと簡単だった。
「小型時計、収納中」
頭の中の在庫表を確かめると、小型時計Aはきちんと残っていた。数量は1で、状態欄には収納した時の『動作中』が残っていた。用途は時間経過確認、保管場所は押入商会管理となっており、取り出しもできる。
自分に確認するようにつぶやいてから、スマホのタイマーを10分に設定する。
待っているだけではもったいない。
目の前には大学の課題もある。
「10分あれば、少しくらい進むよね」
課題ノートを開き、問題文を2行ほど読んだところで、澪の視線がスマホへ動いた。
残り9分12秒。
「まだ48秒しか経ってない……」
課題へ戻る。
時計は収納の中で動いているのか。
止まっていたら便利だ。
でも、時間が止まるなら電池はどうなるのだろう。
電池も止まるから時計も止まるのか。それとも時計だけ止まって見えるのか。
澪はペンを握り直した。
3行ほど読んだ。
またスマホを見る。
残り7分51秒。
「課題やってる時だけ時間遅くない?」
もちろん遅くない。
むしろ収納の中の時間を調べている最中に、外の時間が遅く感じるという、少し面倒な状態になっていた。
結局、10分で進んだ課題はわずかだった。
スマホのタイマーが鳴った瞬間、澪はペンを置いた。
収納から小型時計を手元へ戻す。
掌に軽い重みが戻った。
針を見る。
「……進んでる」
スマホの時刻と比べる。
ほとんどずれていない。
澪は秒針をしばらく見つめた。
期待していた時間停止はなかったらしい。
「普通に10分……」
時計は何事もなかったように動いている。
澪は収納スキル管理表を引き寄せた。
昨日書いた『時間経過:未確認』の横へ、
『10分経過を確認。時間停止なし』
と書き足す。
少し考えて、もう一言。
『今の収納1では保存庫として使わない』
食品を長時間入れる理由も、今のところなかった。
「ポカリでややこしくなったんだから、食べ物で追加実験はしない」
誰も止めてくれないので、自分で止める。
澪は時計をミニテーブルへ戻した。
そのすぐ横で、スマホの画面が光った。
銀行アプリの通知だった。
「…………」
銀行アプリを開くと、澪は小型時計より強い現実を見た。
家賃、通信費、電気代、カードの支払い。
毎月あることは知っている。
知っていても、同じ画面に並ぶと効く。
金貨を換金して少し増えた口座から、ゲンダイで暮らすためのお金が順番に出ていく。
しかも、残高の全部を使っていいわけではない。
次の仕入れがある。
金属を精錬したり分析したりする費用もいる。
まるごと生活費として使ってしまったら、あとで自分が自分に怒られる。
税金用に残しておく分がある。そうしなければ、あとで税務署というさらに大きな現実が来る。
澪は画面を閉じた。
「金貨、もう少し換えておこう」
収納へ入れることは考えなかった。
金貨を隠せる収納を持っていると知られる方が危ない、とリュシアに言われたばかりだ。
今のところはポーチへ入れ、その上から布で包み、バッグの奥へしまう。
現物がそこにある。
何度かバッグを手で確かめてから、澪は飯島貴金属へ向かった。
◇ ◇ ◇
飯島修一郎は、澪が持ってきた金貨を見ても驚かなかった。
「また少し持ってきたんだね」
「はい。生活費と、税金用の分を分けておきたくて」
「なるほど」
異世界については話さない。
金貨をどこで手に入れているかも話せない。
それでも、生活費や税金のために現金が必要なのは本当だった。
修さんは余計なことを聞かず、金貨を一枚ずつ確認していく。
重さを量り、金の含有を見て、精錬後の見込みを出す。
澪はその手元を眺めていた。
向こうでは小金貨として渡された物が、こちらへ来ると金属になる。
いつ見ても少し不思議だった。
修さんが端末を確認して、眉をわずかに動かした。
「このところ、金の価格が少し下がってきてるね」
「下がってるんですか?」
「うん。前に持ってきた時より、見込みは少し少なくなると思う」
「同じ金貨なのに」
「金そのものが変わったわけじゃないよ。相場が動いてる」
修さんはそう言って、手数料と入金見込みを説明してくれた。
澪は頭の中で、生活費と税金用、それに次の仕入れ資金へ分けていく。
いざという時の分も残しておきたい。
金額が前より少し下がると聞いた途端、使えるお金まで全部小さくなったように感じるのは困ったものだった。
「無理はしてない?」
修さんが手を動かしたまま聞いた。
「え?」
澪は反射的に「大丈夫です」と答えかけた。
口を開いたところで止まる。
自分を鑑定すれば『睡眠不足/軽度疲労』と出る人間の「大丈夫」は、あまり信用できない。
「大丈夫にするために、分けています」
修さんが笑った。
「それなら、まだ大丈夫寄りかな」
「寄り」
「入金があっても、全部使えるわけじゃないって分かってるならね」
「分かりたくなかったです」
「でも、分かった方が長く続くよ」
「そういう正しい話、だいたい聞きたくないんですよね」
「聞いてるなら大丈夫」
修さんはそう言って、また金貨へ目を戻した。
澪も黙って明細を確認することにした。
時計は収納の中でも進むし、生活費は銀行口座の中で減る。
どちらも、かなり公平に厳しかった。
◇ ◇ ◇
帰りの駅前は、いつもより人が多かった。
家族連れや友人同士がゆっくり歩いている。
ゴールデンウィークらしい。
大学の講義も一部休みになる。
澪にも休みはある。
ただし課題がなくなるわけではなく、押入商会の在庫整理もある。金貨を換えた分の整理や、収納スキル管理表への追記も必要だった。リュシアへ話しておきたいこともあるし、次の仕入れや食料の買い足しもしたい。
休日という言葉は、澪の管理表の上では『作業可能日』に変換されがちだった。
◇ ◇ ◇
アパートへ戻った澪は、自分用管理表を開いてから、自分自身へ鑑定を向けた。
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篠原 澪
分類:人間/異界渡航者
役割:押入商会代表
現在ジョブ:商人
状態:睡眠不足/軽度疲労
疲労度:22%
身体異常:なし
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基礎能力値
体力:39
筋力:28
器用:49
知力:66
判断:51
精神:54
集中:41
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既得スキル
鑑定:3
収納:1
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成長傾向
商才:芽あり
危機回避:学習中
在庫管理:上昇中
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表示された数字を自分用管理表へ写す。
食事の欄は、納豆だけで済ませていた頃よりはましになっていた。卵や味噌汁も付けるようにしているので、そこは改善中と思っておきたい。
問題は、その横に置いた大学の課題ノートだった。
収納へ入れて、目の前から見えなくすることはできる。
けれど、提出できなければ何の意味もない。むしろ見えなくした分だけ、忘れる危険が増えそうだった。
「ゴールデンウィークって、金色じゃなくて課題色ですね」
口にしてから、澪は首を傾げた。
「……うまくない」
幸い、誰も聞いていなかった。
澪は夏物を探しに行くことにした。
異世界市場は暑い日が増えている。
日差しの中を歩けばリュックの肩紐が汗を吸うし、今の服のままでは夏がつらそうだった。
だからといって、ゲンダイの大きなロゴや派手な柄を向こうへ持ち込むのも避けたい。
新品を何着もそろえる余裕もない。
◇ ◇ ◇
澪は江古田の古着屋へ向かった。
店内には、布と洗剤の匂いが混ざっていた。
ハンガーを動かすたび、かちゃかちゃと金属音がする。
澪は薄手の上着を何枚かめくり、大きなロゴや派手なプリントは戻した。ファスナーや金具が目立ちすぎる物も避けていく。
夏服を買いに来たはずなのに、気分は潜入装備選びだった。
無地に近い薄手のシャツを手に取り、鑑定する。
薄手で通気性はあるが、一部にほつれがある。
「これは悪くないかな」
次に手にしたシャツも着るには問題なさそうだったが、大きなロゴが目立つ。異世界市場へ着ていけば、そちらの方が先に目に入りそうだ。
「戻そう」
服まで鑑定すると、買い物がなかなか進まない。
それでも異世界市場で浮かず、ゲンダイでも普通に着られ、洗えて、動きやすく、値段も高くない物を探すには役立った。
試着室で薄手の上着を羽織る。
鏡を見る前に肩を回し、袖をまくり、ポケットへ手を入れた。
次にリュックを背負って、肩が突っ張らないか確認する。
鏡の中には、かなり地味な女子大生がいた。
「……よし」
似合うかどうかより、走れそうかどうかを先に見ている時点で、普通の服選びから少し離れていた。
結局、薄手の上着と動きやすいシャツを1枚ずつ買った。
受け取ったレシートは、財布の他の物に紛れないよう別のポケットへ入れる。
あとで整理するためだ。
「服を買っただけなんだけどなあ」
最近は、何を買っても最後に紙が増える。
◇ ◇ ◇
古着屋を出たところで、昼をかなり過ぎていることに気づいた。
空腹も自覚すると急に強くなる。
澪は近くのカフェへ入った。
昼食を抜いて、また自分の生活管理表に三角を増やすのは避けたい。
木のテーブルへ座り、水を一口飲む。
焼いたパンとコーヒーの匂いが漂っていた。
ランチプレートが運ばれてくると、澪は思っていた以上の勢いで食べ始めた。
「ちゃんと食べてる」
澪は途中でスマホを開いた。
百円ショップのネット注文画面だった。
虫眼鏡やカラビナ、防水ポーチなど、向こうで使う小物の在庫を確認する。
収納を覚えたのだから、少しくらい多く買っても運べる。
数量を増やしかけて、指が止まった。
「いや」
運べることと、管理できることは別だった。
収納は万能倉庫ではない。容量は小さく、今の澪には管理表に記録できる範囲でしか扱えない。
何より、買った物が増えれば在庫表も増える。
澪は数量を1つ戻した。
少し考えて、別の商品も1つ減らした。
チート能力を得た人間のすることが、ネット注文の数量を減らすことなのは、どう考えても地味だった。
でも、今までより持てるからといって、今までより買わなければならない理由はない。
スマホを伏せ、残りのランチを食べた。
食事を終えて会計を済ませると、受け取ったレシートを、あとで他の分と一緒に整理できるよう財布へしまった。
ゴールデンウィークのランチすら、押入商会の周辺費用に見えてくるのは、あまりよくない。
◇ ◇ ◇
帰りにスーパーへ寄った。
卵、納豆、野菜、冷凍食品、インスタント味噌汁、それから米の小袋。
会計を済ませ、袋詰め台で卵を上に置く。
冷凍食品は別にして、野菜を詰める。
米を持ち上げたところで、買い物袋の持ち手が手のひらへ食い込んだ。
「収納……」
一瞬だけ考えた。
すぐ周囲を見る。
人がいる。
防犯カメラもある。
会計前の商品を収納するなど論外だが、会計が終わったからといって、店内で急に品物を消していいことにはならない。
ゲンダイで収納を使うなら、自分の物かどうかだけでは足りなかった。
誰かに見られない場所で使う必要がある。
「普通に持って帰ろう」
収納は使わなかった。
袋は重かった。
便利な能力を覚えた翌日に、普通に米を下げて歩いている。
少し釈然としないが、人通りのある道で米袋を消すよりはずっといい。
◇ ◇ ◇
アパートに着くと、澪は靴を脱ぐより先に買い物袋を台所へ運びたくなった。
さすがに靴は脱いだが、まず冷蔵品を片づける。
卵と納豆を冷蔵庫へ入れ、野菜は野菜室へ。冷凍食品は冷凍室へ押し込んだ。
扉を閉めてから、もう一度押す。
「閉まってる」
米とインスタント味噌汁は台所の棚へ置いた。
そこで澪の手が止まる。
時計の実験では、収納内でも10分は普通に進んだ。
保存には使わない。
けれど、常温で置ける未開封品を、自室で短時間だけ収納するならどうだろう。
澪はインスタント味噌汁を1袋取った。
「保存じゃない。運ぶだけ」
誰に言い訳しているのかは分からない。
頭の中の在庫表へ『インスタント味噌汁A』として登録する。数量は1、状態は未開封の常温食品。目的は保管ではなく短時間の運搬確認で、取り出しは即時と決めた。
そのまま小袋を収納へ移し、すぐに取り出す。
手のひらへ戻った袋は、見たところ何も変わっていない。
だからといって、長時間入れる気にはならなかった。
収納スキル管理表には、常温の未開封品を短時間の運搬に使う程度にしておく、と書き足す。
冷蔵品や冷凍品は、最初から試さない。
そこまで書いて、澪は冷蔵庫を見る。
収納を使えば荷物は軽くなる。
しかし卵を冷たくしてくれるわけではない。
「冷蔵庫は偉い」
冷蔵庫は何も答えず、いつもの低い音を立てていた。
◇ ◇ ◇
夜。
ミニテーブルには、今日増えた紙が集まっていた。
古着屋とカフェ、スーパーのレシートに、百円ショップで注文する物のメモ、飯島貴金属でもらった金額を確認した紙、家賃とスマホ代の引き落としを確認したメモ、それに収納スキル管理表まで並んでいる。
澪はそれらを重ねすぎないよう端へ寄せた。
紙の山を見ていると、収納より先に六畳間の整理能力を上げた方がいい気がしてくる。
金貨を換えた分は、生活費や税金用、次の仕入れに使う分として分けて考える。
銀行口座の残高は収納に入らない。
澪は収納スキル管理表を閉じる。
課題ノートは朝からずっと開いたままだった。こちらを責めずに待っているふりをしながら、実は無言で圧をかけ続けているように見える。
「……はい」
澪はレシートをまとめて端へ寄せた。
収納スキル管理表も重ねる。
課題ノートだけを、自分の正面へ引き寄せた。
ペンを持つ。
最初の一行を書き終えたところで、ミニテーブルの端に置いた小型時計の秒針が、また一つ先へ進んだ。