押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第110話 表示と導線

 

 九月の連休が明けると、大学へ向かう朝の道は、何事もなかったようにいつもの顔をしていた。

 

 駅へ続く歩道には、会社員と学生と買い物袋を持った人が混じっている。誰も全力で急いではいない。けれど、誰も完全にのんびりしているわけでもない。朝の町は、そういう中途半端な速度で流れていた。

 

 澪も、その流れに乗って歩いているつもりだった。

 

 つもりだったのだが、気づくと前を歩いていた会社員の横に出ていた。

 

 澪は足を止めかけ、すぐに止めるのをやめた。後ろから来る人にぶつかられる。代わりに歩幅を小さくする。だが、小さくしたはずの歩幅が、妙に滑らかに次の一歩へつながった。

 

 人と人の隙間が見える。

 

 右肩を少し引けば抜けられる。鞄を左へ寄せればぶつからない。前の人が次に避ける方向まで、なんとなく分かる。分かるから、身体が勝手にそこへ行きたがる。

 

 澪は口元を押さえた。

 

「……これ、急いでないのに急いでる人だ」

 

 自分の声は小さかったが、言った瞬間に恥ずかしくなった。

 

 行商人としての移動加速は、湿地や山道では便利だった。ぬかるみを避ける時、足場を選ぶ時、ハイエースへ戻る時、身体の置き場所が自然に見えた。

 

 だが、現代の通学路では少し困る。

 

 駅の階段で、それはもっとはっきりした。

 

 澪は普通に一段ずつ上っている。上っているはずなのに、足の置き方に無駄がなさすぎる。前の学生との距離が詰まり、慌てて速度を落とす。

 

 落としすぎた。

 

 後ろから来たサラリーマンに、すっと抜かれた。

 

 澪は、ほんの少しだけ悔しくなった。

 

 通学は勝負ではない。

 

 階段で勝ってはいけない。

 

 それでも、抜かれると少し悔しい。人間とは面倒なものだと、澪は自分で自分に呆れた。

 

 改札を抜ける前に、深呼吸する。

 

 普通に歩く。

 

 普通に大学へ行く。

 

 普通の女子大生としてゼミに出る。

 

 その普通が、今朝は少し難しかった。

 

     

 

 ゼミ室に入ると、佐伯はもう席に着いていた。

 

 机の上にはノートとタブレットが開かれている。資料を見る場所と、話し合いのメモを書く場所が分かれている。進行役の机というのは、こういう形になるのかもしれない。

 

「おはよう、篠原さん」

 

「おはようございます」

 

 澪は軽く頭を下げ、自分の席へ向かった。

 

 神谷は少し遅れて入ってきた。片手に紙を数枚持ち、もう片方の手でスマホをいじっている。

 

「おはよー。連休明けのゼミ、脳がまだ戻ってない」

 

「戻ってないなら、戻しながらやるしかないでしょ」

 

 佐伯が淡々と言うと、神谷は椅子に座りながら肩をすくめた。

 

「佐伯さん、朝から現実的」

 

「十二月に泣きたくないから」

 

「泣きたくない」

 

「じゃあやる」

 

 三浦はその後に入ってきた。小さなノートに付箋がいくつも貼られている。表紙の端に、商店街の名前らしき文字が見えた。

 

「三浦さん、ちゃんと歩いてきた感じ?」

 

 神谷が聞く。

 

「見てきただけ。聞き取りはまだ」

 

「偉い」

 

「偉いかどうかは、使えるメモかどうか次第」

 

 三浦らしい答えだった。

 

 澪は鞄からクリアファイルを出した。中には、自分が作ってきた項目表が入っている。

 

 前回のゼミで決まった宿題は、四人で分かれていた。

 

 佐伯は、若者目線で入りやすい店と入りにくい店の例を持ってくる。

 

 神谷は、先行研究と統計の候補を探してくる。

 

 三浦は、店頭観察のメモを持ってくる。

 

 澪は、商品情報の項目表を作る。

 

 そこまでは普通だ。

 

 問題は、澪の表が、作っているうちに少し増えたことだった。

 

 商品名、価格、用途、誰向けか、量、見本、注意点。質問しなくても分かること。ここまでは、前回の担当通りだと思う。

 

 だが、五連休の間に、澪の頭には別のものが入り込んでいた。

 

 入口で何が見えるか。

 

 店内の流れが分かるか。

 

 会計まで迷わないか。

 

 買わずに出てもよい雰囲気があるか。

 

 質問しても迷惑ではなさそうか。

 

 初めて入る人向けか、もう一度来る人向けか。

 

 書いている時は必要だと思った。だが、いざゼミ室で出すとなると、細かすぎる気がしてくる。

 

 澪は項目表の端を指で押さえた。

 

 やりすぎたかもしれない。

 

 教授が来て、短く始まりの挨拶をした。

 

「今日は、前回決めた課題の持ち寄りですね。すぐ調査に入る前に、何を見るのかを少し整理しましょう」

 

 教授はそれだけ言って、学生たちに目を向けた。

 

 佐伯が自然に進行を始める。

 

「じゃあ、私からでいいですか。商店街を少し歩いて、入りやすい店と入りにくい店の例を見てきました。写真は、今回は撮ってません。店名も出さずに、店頭の印象だけメモにしています」

 

 佐伯のメモには、外から野菜や惣菜が見える店、手書きの価格が出ている店、入口が半分閉まっていて中が見えにくい店などが書かれていた。

 

「外から商品が見える店は、やっぱり入りやすかったです。値段も見えると、買うかどうかの判断がしやすい。逆に、何を売っているか分からない店は、入っていいのか分からない感じがありました」

 

 三浦が頷いた。

 

「分かる。中が見えない店って、常連向けに見える」

 

 神谷がメモを覗き込みながら言った。

 

「知らない人が入っていいか分からないってやつだよね。若者目線だと大きいかも」

 

 佐伯はペンを持ったまま、少し困った顔をした。

 

「ただ、入りやすい、入りにくいだけだと感想で終わるんだよね。どう分けるかが難しい」

 

 次に三浦がノートを開いた。

 

「私は店頭観察。価格表示がある店、外から商品が見える店、入口が暗い店、POPはあるけど内輪っぽい店、店内が見えるけど店員さんと目が合いやすい店。いくつか見てきた」

 

「店員さんと目が合いやすい店、ある」

 

 神谷が笑う。

 

「悪いわけじゃないんだけど、何も買わずに出づらい」

 

「そう。それをどう項目にするか、まだ迷ってる」

 

 三浦のノートには、短い観察文が並んでいた。実地感はある。ただ、それを調査項目として使うには、まだ形がそろっていない。

 

 神谷は紙の束を机に置いた。

 

「私は先行研究と統計候補。まだ本文をちゃんと読んだわけじゃないよ。タイトルと要旨と、掲載元とキーワードを拾ってきただけ。商店街の来街者調査、若年層の購買行動、POP広告、店舗ファサード、価格表示、地域小売業の再来店要因、あと心理的障壁っぽいやつ」

 

「多い」

 

 佐伯が即答する。

 

「多いよね」

 

 神谷も即答した。

 

 机の上に資料が増えた。

 

 佐伯の事例。

 

 三浦の観察メモ。

 

 神谷の文献候補。

 

 情報が増えた分だけ、何を中心にするのかが少し見えにくくなる。

 

 澪は、手元のクリアファイルを開いた。

 

 出すなら、ここだ。

 

 ただ、出すのが少し怖い。

 

「あの」

 

 三人の視線が澪に向いた。

 

 澪は項目表を机の中央へそっと置いた。

 

「商品情報の項目表、作ってきました」

 

 佐伯が紙を手に取った。

 

「ありがとう。……え、すごい細かい」

 

 神谷が横から覗き込む。

 

「篠原さん、これ……調査会社のチェックシートみたい」

 

 澪は肩を小さくした。

 

「やりすぎましたか」

 

「いや、便利だけど。便利だけど、なんか急に仕事感が出た」

 

 三浦は真顔で表を見ていた。

 

「これ、店頭観察に使える」

 

「使えますか」

 

「使える。少なくとも、私のメモをここに入れられる」

 

 澪は少しだけ安心した。

 

 褒められているのか、引かれているのかは分からない。だが、完全に場違いではないらしい。

 

 佐伯が、自分のメモを指で押さえた。

 

「じゃあ、この『外から野菜が見えて入りやすい店』は、どこに入る?」

 

 澪は表へ視線を落とした。

 

 文字が、ただの文字ではなく、置き場所を持って見えた。異世界で品を見た時のように、これは何に使えるかが薄く浮かぶ。もちろん、価値が確定するわけではない。論文でもない。けれど、話の分類先だけは分かる。

 

「商品そのものというより、入口で何が見えるか、価格が見えるか、誰向けかが分かるか、に分けた方がいいと思います」

 

 言ってから、澪は動きを止めた。

 

 返事が早かった。

 

 早すぎたかもしれない。

 

 神谷が目を丸くする。

 

「おお」

 

 佐伯も少し驚いた顔をした。

 

「なるほど。入口で見える情報、か」

 

 三浦は自分のノートをめくった。

 

「じゃあ、私の『外から何を売ってるか分からない店』は?」

 

 澪は、今度は一呼吸置いた。早すぎると変に見える。けれど、頭の中ではもう分かれている。

 

「商品情報不足と、入口の見え方と、買わずに出づらい感じは、分けた方がいいです」

 

「三つに分けるんだ」

 

「はい。何を売っているか分からないのと、入った後に出づらそうなのは、たぶん別です」

 

 神谷が、自分の文献候補を一枚持ち上げる。

 

「これは? 地域小売業の再来店要因。面白そうだけど、初回来店とは違う気もする」

 

「今回は初回来店なので、中心ではなく補助にした方がいいかもしれません」

 

 澪は言い終えた後、内心で頭を抱えた。

 

 また早かった。

 

 しかも、少し真壁っぽい言い方だった。

 

 中心ではなく補助。

 

 採るものと、外すものを分ける言い方だ。

 

 神谷が、にやりと笑う。

 

「篠原さん、連休中にインターンでも行った?」

 

「インターンではないです」

 

 澪は即答した。

 

 嘘ではない。

 

 狼の群、大ムカデ、見えない虎、ラージアリゲーター、坑道、鉱毒、侯爵家への請求書は、インターンではない。

 

 ただ、世間一般のインターンより実務だった可能性はある。

 

 佐伯が少し笑いながら言った。

 

「でも、前より整理が速い気がする」

 

「整理は、少し……慣れました」

 

 三浦が真顔で頷く。

 

「助かる。これ、調査票に落とせる」

 

 澪は目線を少し落とした。

 

 嬉しい。

 

 怖い。

 

 目立ちたくないが、役に立てるのは嬉しい。

 

 その二つが、胸の中で変な形に混ざった。

 

 澪は、手元のノートに短いメモを戻す。現実のノートには、長い文章は書かない。話を聞きながら、収納内に入れてある紙片へ、内容を仮置きしていく。

 

 佐伯の店頭例は、入口で見える情報へ。

 

 三浦の観察メモは、外から見える範囲と、店内に入った後の流れへ。

 

 神谷の文献候補は、初回来店に使えるものと、再来店寄りのものへ。

 

 収納内の紙片は、机の上には見えない。誰にも見えない場所で、澪の頭の中の作業だけが進む。現実側では、澪が時々短い言葉を書いているだけだ。

 

 それでも、以前よりずっと取りこぼしが少ない。

 

 自分でも、それは分かった。

 

     

 

 教授は、しばらく黙って学生たちのやり取りを見ていた。

 

 そして、澪の項目表を手に取った。

 

「整理はできています」

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

 怒られるのか、褒められるのか、まだ分からない。

 

「ただ、今のままだと項目が多いです。調査票で聞けるもの、店頭で観察できるもの、今回は扱わないものに分けてください。全部を入れると、結論がぼやけます」

 

 教授は紙を机へ戻した。

 

「それと、見える化という言葉に頼りすぎないこと。何が、誰に、どう見えるのか。それを決めてください」

 

 それ以上、教授は具体的に絞らなかった。

 

 答えを出したのではない。

 

 分け方だけを渡したのだ。

 

 佐伯がペンを持ち直した。

 

「じゃあ、商品情報は残したい。価格とか用途とか、外から分かるか」

 

 三浦が頷く。

 

「入口と店内の見え方は観察できる。写真は注意だけど、メモなら取れる」

 

 神谷は文献候補を見ながら言った。

 

「心理的な入りづらさは、文献を見て質問項目にできるか確認した方がいいかも。買わずに出づらいとか、店員さんに話しかけられたくないとか」

 

 澪は、表の端に小さく印を付けた。

 

「買わずに出られるか、質問しやすいか、という聞き方なら分けられると思います」

 

 佐伯はノートに三つの欄を作った。

 

「まず、価格や用途みたいに、商品について外から分かる情報。次に、入口から店内、会計までの流れ。最後に、買わなくても出られるとか、質問しても迷惑じゃないとか、そういう安心感。仮でこの三つにする?」

 

「いいと思う」

 

 三浦が頷く。

 

「多すぎないし、観察と質問に分けやすい」

 

 神谷も頷いた。

 

「文献もその三つで探してみる。再来店要因は補助に回す」

 

 澪は、佐伯が書いた三つの欄を見ながら、自分のノートに写した。

 

 ただ写すだけではなく、横に小さな余白を残す。そこに、次回までに自分が表にする内容を書き込めるようにする。

 

 決まった。

 

 教授が決めたのではない。班で話して、決めた。

 

 それが少しだけ嬉しかった。

 

 担当も、その流れで決まっていった。

 

 佐伯は、全体進行と商店街の事例整理。

 

 神谷は、先行研究と統計候補から、初回来店や心理的障壁に近い文献を探す。

 

 三浦は、店頭観察の項目案を作る。

 

 澪は、商品について外から分かる情報、入口から会計までの流れ、買わずに出られる安心感を比較できる表と、観察項目のたたき台を作る。

 

「篠原さん、表お願いしていい?」

 

 佐伯が聞いた。

 

 澪は一瞬だけ迷ってから、頷いた。

 

「はい。表にまとめます」

 

 言えた。

 

 発表役ではない。議論を引っ張る役でもない。けれど、自分にできる役割は言えた。

 

 神谷が、少し面白そうに澪を見る。

 

「篠原さん、今日ちょっと実務の人だね」

 

「実務の人」

 

「なんか、会議に一人いると助かる人」

 

 澪は困った。

 

「それ、褒めてますか」

 

「褒めてる褒めてる」

 

 三浦が真顔で言う。

 

「かなり褒めてる」

 

「なら、いいです」

 

 澪は小さく頷いた。

 

 ただ、胸の中では、真壁の影響がまた一つ見つかった気がした。

 

 会議に一人いると助かる人。

 

 それは、かなり真壁側の役割ではないだろうか。

 

     

 

 ゼミが終わる頃には、澪のノートは朝より重くなっていた。

 

 紙の量はそれほど増えていない。けれど、次にやることがはっきりした分だけ、重く感じる。

 

 廊下へ出ると、神谷が後ろから声をかけた。

 

「篠原さん」

 

「はい」

 

「今日、ちょっと速かったよね」

 

 澪は、資料整理の話だと思った。

 

「整理は、少し慣れました」

 

「いや、そっちもだけど。歩くのも」

 

 澪は止まった。

 

 佐伯が横で頷く。

 

「ゼミ室来る時、廊下で見かけたけど、けっこう速かった」

 

 三浦も淡々と言った。

 

「急いでない速さだった」

 

「急いでない速さ」

 

 澪はその言葉を繰り返した。

 

 よくない。

 

 移動加速2が漏れている。

 

「急いでた?」

 

 佐伯が聞く。

 

「急いでないです」

 

「急いでないのに速いんだ」

 

 神谷が楽しそうに言う。

 

「……気をつけます」

 

 三浦が真面目に続けた。

 

「廊下は急に曲がる人いるから」

 

「はい。廊下では抑えます」

 

 神谷が噴き出した。

 

「抑えますって、スキル制御みたい」

 

 澪は固まった。

 

 佐伯が笑う。

 

「篠原さん、たまに言葉がゲームっぽいよね」

 

「気のせいです」

 

 即答した。

 

 早すぎた。

 

「即答も速い」

 

 神谷がさらに笑う。

 

 澪は鞄の持ち手を握り直した。

 

 便利なものほど、使う場所を分ける。

 

 真壁の言葉が、頭の中に戻ってくる。

 

 通学路で移動加速を無意識に使うのは、たぶん品がない。少なくとも、大学の廊下で「急いでない速さ」と言われるのはよくない。

 

     

 

 帰り道、澪は意識してゆっくり歩いた。

 

 歩幅を小さくし、前の人との距離を開ける。人波の隙間が見えても行かない。行けるから行く、はやめる。現代の歩道は、魔物から逃げる場所ではない。

 

 そう思っていたら、後ろから来た小学生に抜かれた。

 

 澪は少しだけ傷ついた。

 

 勝負ではない。

 

 勝負ではないが、小学生に抜かれるほど抑える必要はあったのだろうか。

 

 改札前で立ち止まり、澪はノートを少しだけ開いた。今日のメモの端に、一行だけ書き足す。

 

 移動加速は、通学路では要制御。

 

 書いてから、これはゼミのメモではないと気づいた。

 

 慌てて、その横に小さく括弧を付ける。

 

 私用。

 

 澪はノートを閉じ、鞄にしまった。

 

 五連休で得たものは、派手な発表力ではなかった。人前で堂々と話せるようになったわけでもない。雑談が急にうまくなったわけでもない。

 

 けれど、聞いたことを分け、項目にし、表へ戻す力は確かに働いていた。

 

 そして、歩く速度まで少し変わっていた。

 

 現代の大学でも、異世界で身についたものは少しだけ漏れる。

 

 それは便利だが、少し困る。

 

 澪は改札を抜け、今度こそ普通の女子大生らしい速さで歩こうとした。

 

 また少し速くなった。

 

 澪は足元を見て、小さく呟いた。

 

「……普通って、難しい」

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