九月の連休が明けると、大学へ向かう朝の道は、何事もなかったようにいつもの顔をしていた。
駅へ続く歩道には、会社員と学生と買い物袋を持った人が混じっている。誰も全力で急いではいない。けれど、誰も完全にのんびりしているわけでもない。朝の町は、そういう中途半端な速度で流れていた。
澪も、その流れに乗って歩いているつもりだった。
つもりだったのだが、気づくと前を歩いていた会社員の横に出ていた。
澪は足を止めかけ、すぐに止めるのをやめた。後ろから来る人にぶつかられる。代わりに歩幅を小さくする。だが、小さくしたはずの歩幅が、妙に滑らかに次の一歩へつながった。
人と人の隙間が見える。
右肩を少し引けば抜けられる。鞄を左へ寄せればぶつからない。前の人が次に避ける方向まで、なんとなく分かる。分かるから、身体が勝手にそこへ行きたがる。
澪は口元を押さえた。
「……これ、急いでないのに急いでる人だ」
自分の声は小さかったが、言った瞬間に恥ずかしくなった。
行商人としての移動加速は、湿地や山道では便利だった。ぬかるみを避ける時、足場を選ぶ時、ハイエースへ戻る時、身体の置き場所が自然に見えた。
だが、現代の通学路では少し困る。
駅の階段で、それはもっとはっきりした。
澪は普通に一段ずつ上っている。上っているはずなのに、足の置き方に無駄がなさすぎる。前の学生との距離が詰まり、慌てて速度を落とす。
落としすぎた。
後ろから来たサラリーマンに、すっと抜かれた。
澪は、ほんの少しだけ悔しくなった。
通学は勝負ではない。
階段で勝ってはいけない。
それでも、抜かれると少し悔しい。人間とは面倒なものだと、澪は自分で自分に呆れた。
改札を抜ける前に、深呼吸する。
普通に歩く。
普通に大学へ行く。
普通の女子大生としてゼミに出る。
その普通が、今朝は少し難しかった。
ゼミ室に入ると、佐伯はもう席に着いていた。
机の上にはノートとタブレットが開かれている。資料を見る場所と、話し合いのメモを書く場所が分かれている。進行役の机というのは、こういう形になるのかもしれない。
「おはよう、篠原さん」
「おはようございます」
澪は軽く頭を下げ、自分の席へ向かった。
神谷は少し遅れて入ってきた。片手に紙を数枚持ち、もう片方の手でスマホをいじっている。
「おはよー。連休明けのゼミ、脳がまだ戻ってない」
「戻ってないなら、戻しながらやるしかないでしょ」
佐伯が淡々と言うと、神谷は椅子に座りながら肩をすくめた。
「佐伯さん、朝から現実的」
「十二月に泣きたくないから」
「泣きたくない」
「じゃあやる」
三浦はその後に入ってきた。小さなノートに付箋がいくつも貼られている。表紙の端に、商店街の名前らしき文字が見えた。
「三浦さん、ちゃんと歩いてきた感じ?」
神谷が聞く。
「見てきただけ。聞き取りはまだ」
「偉い」
「偉いかどうかは、使えるメモかどうか次第」
三浦らしい答えだった。
澪は鞄からクリアファイルを出した。中には、自分が作ってきた項目表が入っている。
前回のゼミで決まった宿題は、四人で分かれていた。
佐伯は、若者目線で入りやすい店と入りにくい店の例を持ってくる。
神谷は、先行研究と統計の候補を探してくる。
三浦は、店頭観察のメモを持ってくる。
澪は、商品情報の項目表を作る。
そこまでは普通だ。
問題は、澪の表が、作っているうちに少し増えたことだった。
商品名、価格、用途、誰向けか、量、見本、注意点。質問しなくても分かること。ここまでは、前回の担当通りだと思う。
だが、五連休の間に、澪の頭には別のものが入り込んでいた。
入口で何が見えるか。
店内の流れが分かるか。
会計まで迷わないか。
買わずに出てもよい雰囲気があるか。
質問しても迷惑ではなさそうか。
初めて入る人向けか、もう一度来る人向けか。
書いている時は必要だと思った。だが、いざゼミ室で出すとなると、細かすぎる気がしてくる。
澪は項目表の端を指で押さえた。
やりすぎたかもしれない。
教授が来て、短く始まりの挨拶をした。
「今日は、前回決めた課題の持ち寄りですね。すぐ調査に入る前に、何を見るのかを少し整理しましょう」
教授はそれだけ言って、学生たちに目を向けた。
佐伯が自然に進行を始める。
「じゃあ、私からでいいですか。商店街を少し歩いて、入りやすい店と入りにくい店の例を見てきました。写真は、今回は撮ってません。店名も出さずに、店頭の印象だけメモにしています」
佐伯のメモには、外から野菜や惣菜が見える店、手書きの価格が出ている店、入口が半分閉まっていて中が見えにくい店などが書かれていた。
「外から商品が見える店は、やっぱり入りやすかったです。値段も見えると、買うかどうかの判断がしやすい。逆に、何を売っているか分からない店は、入っていいのか分からない感じがありました」
三浦が頷いた。
「分かる。中が見えない店って、常連向けに見える」
神谷がメモを覗き込みながら言った。
「知らない人が入っていいか分からないってやつだよね。若者目線だと大きいかも」
佐伯はペンを持ったまま、少し困った顔をした。
「ただ、入りやすい、入りにくいだけだと感想で終わるんだよね。どう分けるかが難しい」
次に三浦がノートを開いた。
「私は店頭観察。価格表示がある店、外から商品が見える店、入口が暗い店、POPはあるけど内輪っぽい店、店内が見えるけど店員さんと目が合いやすい店。いくつか見てきた」
「店員さんと目が合いやすい店、ある」
神谷が笑う。
「悪いわけじゃないんだけど、何も買わずに出づらい」
「そう。それをどう項目にするか、まだ迷ってる」
三浦のノートには、短い観察文が並んでいた。実地感はある。ただ、それを調査項目として使うには、まだ形がそろっていない。
神谷は紙の束を机に置いた。
「私は先行研究と統計候補。まだ本文をちゃんと読んだわけじゃないよ。タイトルと要旨と、掲載元とキーワードを拾ってきただけ。商店街の来街者調査、若年層の購買行動、POP広告、店舗ファサード、価格表示、地域小売業の再来店要因、あと心理的障壁っぽいやつ」
「多い」
佐伯が即答する。
「多いよね」
神谷も即答した。
机の上に資料が増えた。
佐伯の事例。
三浦の観察メモ。
神谷の文献候補。
情報が増えた分だけ、何を中心にするのかが少し見えにくくなる。
澪は、手元のクリアファイルを開いた。
出すなら、ここだ。
ただ、出すのが少し怖い。
「あの」
三人の視線が澪に向いた。
澪は項目表を机の中央へそっと置いた。
「商品情報の項目表、作ってきました」
佐伯が紙を手に取った。
「ありがとう。……え、すごい細かい」
神谷が横から覗き込む。
「篠原さん、これ……調査会社のチェックシートみたい」
澪は肩を小さくした。
「やりすぎましたか」
「いや、便利だけど。便利だけど、なんか急に仕事感が出た」
三浦は真顔で表を見ていた。
「これ、店頭観察に使える」
「使えますか」
「使える。少なくとも、私のメモをここに入れられる」
澪は少しだけ安心した。
褒められているのか、引かれているのかは分からない。だが、完全に場違いではないらしい。
佐伯が、自分のメモを指で押さえた。
「じゃあ、この『外から野菜が見えて入りやすい店』は、どこに入る?」
澪は表へ視線を落とした。
文字が、ただの文字ではなく、置き場所を持って見えた。異世界で品を見た時のように、これは何に使えるかが薄く浮かぶ。もちろん、価値が確定するわけではない。論文でもない。けれど、話の分類先だけは分かる。
「商品そのものというより、入口で何が見えるか、価格が見えるか、誰向けかが分かるか、に分けた方がいいと思います」
言ってから、澪は動きを止めた。
返事が早かった。
早すぎたかもしれない。
神谷が目を丸くする。
「おお」
佐伯も少し驚いた顔をした。
「なるほど。入口で見える情報、か」
三浦は自分のノートをめくった。
「じゃあ、私の『外から何を売ってるか分からない店』は?」
澪は、今度は一呼吸置いた。早すぎると変に見える。けれど、頭の中ではもう分かれている。
「商品情報不足と、入口の見え方と、買わずに出づらい感じは、分けた方がいいです」
「三つに分けるんだ」
「はい。何を売っているか分からないのと、入った後に出づらそうなのは、たぶん別です」
神谷が、自分の文献候補を一枚持ち上げる。
「これは? 地域小売業の再来店要因。面白そうだけど、初回来店とは違う気もする」
「今回は初回来店なので、中心ではなく補助にした方がいいかもしれません」
澪は言い終えた後、内心で頭を抱えた。
また早かった。
しかも、少し真壁っぽい言い方だった。
中心ではなく補助。
採るものと、外すものを分ける言い方だ。
神谷が、にやりと笑う。
「篠原さん、連休中にインターンでも行った?」
「インターンではないです」
澪は即答した。
嘘ではない。
狼の群、大ムカデ、見えない虎、ラージアリゲーター、坑道、鉱毒、侯爵家への請求書は、インターンではない。
ただ、世間一般のインターンより実務だった可能性はある。
佐伯が少し笑いながら言った。
「でも、前より整理が速い気がする」
「整理は、少し……慣れました」
三浦が真顔で頷く。
「助かる。これ、調査票に落とせる」
澪は目線を少し落とした。
嬉しい。
怖い。
目立ちたくないが、役に立てるのは嬉しい。
その二つが、胸の中で変な形に混ざった。
澪は、手元のノートに短いメモを戻す。現実のノートには、長い文章は書かない。話を聞きながら、収納内に入れてある紙片へ、内容を仮置きしていく。
佐伯の店頭例は、入口で見える情報へ。
三浦の観察メモは、外から見える範囲と、店内に入った後の流れへ。
神谷の文献候補は、初回来店に使えるものと、再来店寄りのものへ。
収納内の紙片は、机の上には見えない。誰にも見えない場所で、澪の頭の中の作業だけが進む。現実側では、澪が時々短い言葉を書いているだけだ。
それでも、以前よりずっと取りこぼしが少ない。
自分でも、それは分かった。
教授は、しばらく黙って学生たちのやり取りを見ていた。
そして、澪の項目表を手に取った。
「整理はできています」
澪は背筋を伸ばした。
怒られるのか、褒められるのか、まだ分からない。
「ただ、今のままだと項目が多いです。調査票で聞けるもの、店頭で観察できるもの、今回は扱わないものに分けてください。全部を入れると、結論がぼやけます」
教授は紙を机へ戻した。
「それと、見える化という言葉に頼りすぎないこと。何が、誰に、どう見えるのか。それを決めてください」
それ以上、教授は具体的に絞らなかった。
答えを出したのではない。
分け方だけを渡したのだ。
佐伯がペンを持ち直した。
「じゃあ、商品情報は残したい。価格とか用途とか、外から分かるか」
三浦が頷く。
「入口と店内の見え方は観察できる。写真は注意だけど、メモなら取れる」
神谷は文献候補を見ながら言った。
「心理的な入りづらさは、文献を見て質問項目にできるか確認した方がいいかも。買わずに出づらいとか、店員さんに話しかけられたくないとか」
澪は、表の端に小さく印を付けた。
「買わずに出られるか、質問しやすいか、という聞き方なら分けられると思います」
佐伯はノートに三つの欄を作った。
「まず、価格や用途みたいに、商品について外から分かる情報。次に、入口から店内、会計までの流れ。最後に、買わなくても出られるとか、質問しても迷惑じゃないとか、そういう安心感。仮でこの三つにする?」
「いいと思う」
三浦が頷く。
「多すぎないし、観察と質問に分けやすい」
神谷も頷いた。
「文献もその三つで探してみる。再来店要因は補助に回す」
澪は、佐伯が書いた三つの欄を見ながら、自分のノートに写した。
ただ写すだけではなく、横に小さな余白を残す。そこに、次回までに自分が表にする内容を書き込めるようにする。
決まった。
教授が決めたのではない。班で話して、決めた。
それが少しだけ嬉しかった。
担当も、その流れで決まっていった。
佐伯は、全体進行と商店街の事例整理。
神谷は、先行研究と統計候補から、初回来店や心理的障壁に近い文献を探す。
三浦は、店頭観察の項目案を作る。
澪は、商品について外から分かる情報、入口から会計までの流れ、買わずに出られる安心感を比較できる表と、観察項目のたたき台を作る。
「篠原さん、表お願いしていい?」
佐伯が聞いた。
澪は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「はい。表にまとめます」
言えた。
発表役ではない。議論を引っ張る役でもない。けれど、自分にできる役割は言えた。
神谷が、少し面白そうに澪を見る。
「篠原さん、今日ちょっと実務の人だね」
「実務の人」
「なんか、会議に一人いると助かる人」
澪は困った。
「それ、褒めてますか」
「褒めてる褒めてる」
三浦が真顔で言う。
「かなり褒めてる」
「なら、いいです」
澪は小さく頷いた。
ただ、胸の中では、真壁の影響がまた一つ見つかった気がした。
会議に一人いると助かる人。
それは、かなり真壁側の役割ではないだろうか。
ゼミが終わる頃には、澪のノートは朝より重くなっていた。
紙の量はそれほど増えていない。けれど、次にやることがはっきりした分だけ、重く感じる。
廊下へ出ると、神谷が後ろから声をかけた。
「篠原さん」
「はい」
「今日、ちょっと速かったよね」
澪は、資料整理の話だと思った。
「整理は、少し慣れました」
「いや、そっちもだけど。歩くのも」
澪は止まった。
佐伯が横で頷く。
「ゼミ室来る時、廊下で見かけたけど、けっこう速かった」
三浦も淡々と言った。
「急いでない速さだった」
「急いでない速さ」
澪はその言葉を繰り返した。
よくない。
移動加速2が漏れている。
「急いでた?」
佐伯が聞く。
「急いでないです」
「急いでないのに速いんだ」
神谷が楽しそうに言う。
「……気をつけます」
三浦が真面目に続けた。
「廊下は急に曲がる人いるから」
「はい。廊下では抑えます」
神谷が噴き出した。
「抑えますって、スキル制御みたい」
澪は固まった。
佐伯が笑う。
「篠原さん、たまに言葉がゲームっぽいよね」
「気のせいです」
即答した。
早すぎた。
「即答も速い」
神谷がさらに笑う。
澪は鞄の持ち手を握り直した。
便利なものほど、使う場所を分ける。
真壁の言葉が、頭の中に戻ってくる。
通学路で移動加速を無意識に使うのは、たぶん品がない。少なくとも、大学の廊下で「急いでない速さ」と言われるのはよくない。
帰り道、澪は意識してゆっくり歩いた。
歩幅を小さくし、前の人との距離を開ける。人波の隙間が見えても行かない。行けるから行く、はやめる。現代の歩道は、魔物から逃げる場所ではない。
そう思っていたら、後ろから来た小学生に抜かれた。
澪は少しだけ傷ついた。
勝負ではない。
勝負ではないが、小学生に抜かれるほど抑える必要はあったのだろうか。
改札前で立ち止まり、澪はノートを少しだけ開いた。今日のメモの端に、一行だけ書き足す。
移動加速は、通学路では要制御。
書いてから、これはゼミのメモではないと気づいた。
慌てて、その横に小さく括弧を付ける。
私用。
澪はノートを閉じ、鞄にしまった。
五連休で得たものは、派手な発表力ではなかった。人前で堂々と話せるようになったわけでもない。雑談が急にうまくなったわけでもない。
けれど、聞いたことを分け、項目にし、表へ戻す力は確かに働いていた。
そして、歩く速度まで少し変わっていた。
現代の大学でも、異世界で身についたものは少しだけ漏れる。
それは便利だが、少し困る。
澪は改札を抜け、今度こそ普通の女子大生らしい速さで歩こうとした。
また少し速くなった。
澪は足元を見て、小さく呟いた。
「……普通って、難しい」