九月の終わりの風は、夏の残りを少しだけ抱えていた。
町の外れへ出ると、土の匂いが濃くなる。石畳が途切れ、車輪の跡が残る細い道へ変わると、澪はハンドルを握る手に少しだけ力を入れた。
中古のママチャリは、収納から出した時と同じように、少しくたびれた音を立てていた。籠は頑丈で、荷台もある。華やかさはないが、農道へ行くにはこれくらいの方が気楽だった。
隣を走るリュシアも、同じ型の自転車に乗っている。
前にこの道を走った時、リュシアはペダルを踏むたびに眉を寄せていた。二輪で立つ道具など、人間の脚を食うものではないかと本気で疑っていた顔だった。
ところが、今日は違った。
リュシアの自転車は、轍の間をすっと抜けていく。前輪が石を避ける角度も、腰を少し浮かせるタイミングも、荷台を揺らさない重心の置き方も、妙に滑らかだった。
澪は、自分の足を少し抑えながら横を見た。
「リュシアさん、前よりずっと上手くなってませんか」
「そうかい?」
リュシアは、道の先を見たまま答えた。
「商品を揺らさぬ道を選んでいるだけだよ」
「それ、たぶん移動加速です」
リュシアの足が、少しだけ止まった。自転車は惰性で進み、リュシアは器用に片足を地面へ落とす。
「移動加速?」
「足運びとか、道の選び方が妙に滑らかになるやつです」
リュシアは自分の足元を見た。靴の裏に付いた土を軽く落とし、それから首を傾げる。
「そういえば最近、荷を持って歩くのが楽だと思っていたね」
「商人が移動加速を取ると、自転車にも効くんですね……」
「便利なら良いじゃないか」
「便利ですけど、大学の廊下で出ると困ります」
リュシアは、真面目な顔で澪を見た。
「大学の廊下で自転車に乗るのかい?」
「乗りません」
「なら大丈夫だね」
澪は前を向き直した。
違う。そこではない。
だが、リュシアにとって速度とは、荷が揺れないか、商品が傷まないか、道を損しないかで決まるらしい。大学の廊下で急いでいないのに速い人になることとは、問題の種類が違うのだろう。
澪はペダルを踏み直した。
自分は抑えている。抑えているはずだ。だが、横のリュシアがすいすい進むので、普通の速度が分からなくなる。
畑道の向こうに、以前訪ねた農家の屋根が見えた頃、澪は小さく息を吐いた。
予定より、少し早く着いた。
商人が移動加速を取ると、町と農家の距離感まで変わってしまうのかもしれない。
便利だ。
便利だが、少し困る。
農家の男は、納屋の前で二人を迎えた。
手には土が付いていた。袖をまくり、額に汗を浮かべている。顔つきは前より明るいが、完全に安心した顔ではない。
「来てくれたか」
「様子を見に来ました」
澪が自転車を立てると、リュシアは荷台の革袋を下ろした。中には、今回持ってきたラージラット対策の薬が入っている。
澪は畑の端へ歩いた。
草の倒れ方、土の削れ方、納屋裏の小さな穴。前に見た通り道とは少し位置が違う。完全に消えたわけではない。古い筋が薄くなり、新しい筋が別の草むらへ寄っていた。
しゃがみ込むと、土の湿りと、草の折れ方が目に入る。
「前より減っています。でも、こっちに移ってますね」
農家の男は、顔をしかめた。
「やっぱり、まだ来ているか」
「はい。でも、前より通り道は細いです。薬を置く場所を変えれば、もっと減らせると思います」
リュシアが革袋を開いた。
「今回は売り物として持ってきたよ。前に試したものと同じ種類だ。続けて使うなら、置き方を覚えてもらう」
農家の妻が、家の方から出てきた。手には布巾を持っている。小さな子供が、その後ろから顔だけを出した。
澪はそれを見て、薬の包みを持つ手を少し慎重にした。
リュシアも同じものを見ていた。商人の目が、すぐに農家の暮らしの目へ変わる。
「まず、子供と家畜が触れないところ。食べ物の近くには置かない。雨で濡れる場所にも置かない。置いた日と場所は、忘れないように残す。触った後は手を洗う」
リュシアは一つ一つ、農家の男へ示した。
澪は農家の作業台を借り、小さな板と紙を出した。書こうとして、最初の言葉で手が止まる。
難しく書けば、読めない人がいる。
軽く書けば、危ない。
子供が間違えて手に取らないこと。家畜が食べないこと。食料袋と一緒に置かないこと。どれも大事だが、全部を詰め込むと読まれない。
澪は一度書いた文字を消し、少し大きく書き直した。
「ここには、薬を入れた箱だと分かる印を付けます。子供さんには、この印の箱は開けないって教えてください」
農家の妻が、子供の頭へ手を置いた。
「分かった。見せて覚えさせる」
リュシアは、薬の包みを数えながら言った。
「売るのは薬だけじゃない。使い方まで込みだよ。間違えて使えば、薬も損になる」
澪は、作った注意書きを納屋の入口と、薬を置く予定の箱に合わせてみた。文字の大きさを少し直す。これも、大学ゼミで言えば表示と導線なのだろう。だが今は、そんな言葉は出さない。
農家が迷わず、間違えず、続けられること。
それだけを考えて、澪は板を押さえた。
大豆畑は、芋畑ほど目立たなかった。
土の上に並ぶ葉は、見るからに腹を満たす姿ではない。芋の山のような迫力もない。けれど、澪はその畑の前で足を止めた。
「豆も育った」
農家の男は、少し誇らしげに言った。
「芋ほど派手じゃないが、思ったより手はかからなかった。ただ、食い方と売り方は、まだよく分からん」
澪は畝の間にしゃがんだ。葉の下を見て、土の付き方を見る。根元を勝手に掘り返すわけにはいかないので、農家の男に確認してから、端の一株だけ少し土を崩してもらった。
小さな粒が根に付いている。
「大豆は、できれば増やしたいです」
農家の男が澪を見た。
「芋よりか」
「役目が違います。お芋はお腹を満たします。でも大豆は、子供たちの身体を作ります」
「身体を?」
「肉は高いですよね。毎日、子供に肉を食べさせられる家ばかりじゃないと思います。でも豆なら、乾かして残せます。煮てもいいですし、粉にして混ぜてもいい。肉ほどではなくても、身体を作る力を食事に足せます」
農家の妻が、後ろにいる子供を見た。
リュシアの表情も少し変わった。値段を見る顔ではない。町の子供たちが、屋台の前で匂いだけを吸い込んでいる時の顔を、思い出したような目だった。
「肉は高いからね」
「はい。だから、大豆は売る豆だけじゃなくて、子供たちの身体を作る豆なんです」
農家の男は、崩した土を指でつまんだ。
「豆で、そんなに違うのか」
「全部を変えるわけではありません。でも、少しずつ足せます。それに、大豆は夏に育てられます」
澪は畑の向こうを見た。麦を刈った後の畑。夏の強い日差し。冬から初夏に麦を育て、収穫後に大豆を入れる形。
「冬から初夏に麦を育てて、麦を刈った後の夏に大豆を育てる形ができるかもしれません」
「麦の後に、豆を植えるのか」
「はい。大豆は根に小さな粒を作って、土に力を戻す働きがあるみたいなんです。全部が肥料になるわけではないですけど、次の麦の助けになると思います」
農家の男は、土を手のひらで崩した。指の間から、乾いた土が落ちる。
「豆が、土を肥やすのか」
「はい。大豆は、売る豆だけじゃなくて、畑を育てる豆でもあります」
リュシアが、畝を見渡した。
「腹を満たす芋。身体を作る豆。次の麦を助ける畑。そういうことかい」
澪は頷いた。
「はい。それに、大豆は豆のまま売るだけじゃありません。私の国では、味噌や醤油という調味料に加工します。毎日の食事に使うものです。そういうものが作れるようになれば、大豆がたくさん出回っても需要を増やせます」
「毎日使う調味料なら強いね」
「はい。大豆が広まって安くなっても、食卓に残せます」
農家の妻が、少し首を傾げた。
「その、味噌とか醤油とかいうものは、豆を煮ればできるのか」
「いえ。たぶん、発酵の種みたいなものが必要になります。そこは、ネリスさんに相談したいです」
リュシアが、すぐに反応した。
「キノコマスターの出番かい」
「たぶん」
農家の男は、キノコマスターという言葉に少し困った顔をした。だがリュシアが当然のように頷いているので、深く聞くのをやめたらしい。
澪は、大豆の葉を指先でそっと避けた。
芋のように派手ではない。
けれど、この豆は、子供の身体と、次の麦と、いつか食卓に置かれる調味料へつながっている。
そう思うと、畑の緑が少し違って見えた。
「問題は、こっちだ」
農家の男がそう言って、納屋の戸を開けた。
その瞬間、澪は甘い土の匂いを感じた。
納屋の中には、芋が積まれていた。
大きなもの、細長いもの、丸いもの、皮の色が少し違うもの。土を落としきれていないものもあれば、洗えばすぐに売れそうな形のものもある。浅い傷があるもの、端が欠けているもの、早く使った方がよさそうな柔らかさのものもあった。
農家の男は、嬉しそうで、困った顔をしていた。
「採れた。採れすぎた」
リュシアが納屋の中へ一歩入る。
「それは良い困りごとだね」
「食う分はある。種にする分もある。だが、全部は食いきれん。売るにも、どれをどう売ればいいか分からん」
澪は、芋の山の前で少し息を止めた。
大学のゼミで、商品について外から分かる情報、入口から会計までの流れ、買わずに出られる安心感を分けた時の感覚が、頭の奥で動いた。
だが、ここでその言葉を使うのは違う。
目の前にあるのは、商品棚ではない。農家の納屋だ。土の匂いがあり、芋の重みがあり、来年の畑がある。
澪は一つ、形の良い芋を手に取った。ずっしりと重い。皮もきれいで、町へ持っていけば目を引きそうだった。
リュシアが横から覗き込む。
「これは見た目がいい。町で売るなら、まずこれだね」
農家の男が別の芋を差し出した。
「これはどうだ。傷がある」
澪は切り口を見た。深くはない。だが置きすぎると傷むかもしれない。
「早めに食べるなら使えます。加工にも回せるかもしれません」
「加工か」
「はい。売りにくいから捨てる、にしない方がいいと思います」
今度は、芽の状態が良い芋を農家の妻が持ってきた。
「これは種に残す方がいいのかね」
澪はすぐに答えず、農家の男を見る。畑の土、芋の育ち方、この家の作付けの都合は、澪だけでは決められない。
「畑に合って、よく育った株のものなら、種に残す候補です。これは、どの場所で採れましたか」
農家の男が畑の方を指した。
「あっちの上の畑だ。水は遠いが、腐りにくかった」
リュシアが、少し口角を上げる。
「なら、上の畑に合う芋として残す価値があるね」
澪は籠を一つ引き寄せた。分類名を書こうとして、一度止める。短く書けば早い。だが、農家が後で見て分からなければ意味がない。
澪は板に「来年植える候補」と書き、農家へ見せた。
「この籠は、種に残す候補です。最終的には、農家さんが畑を見て決めてください」
農家の男は、板を見て頷いた。
「これなら分かる」
澪は少しだけ安心した。
表示とは、相手が分かる形にすることだ。
大学の言葉ではなくても、ここでも同じことをしている。
籠が少しずつ増えていった。
町へ売れそうな形の良いものは、リュシアが厳しい目で選ぶ。
畑に戻す候補は、農家が場所を思い出しながら選ぶ。
傷が浅く、早く使えば問題ないものは、澪が別の籠へ移す。
傷が深く、周りまで悪くしそうなものは、農家の妻が渋い顔で分ける。
澪は、手に土が付くたびに布で拭き、また芋を持った。
そのうち、農家の男が不安そうに言った。
「こんなに分けても、売れなきゃ同じじゃないのか」
澪は、手にしていた芋を見た。
今は珍しい。
だから売れる。
けれど、それだけでは足りない。
「今は、珍しいから高く売れると思います」
澪は、芋の山を見ながら言った。
「でも、お芋はきっと広まります。美味しいですし、育て方が分かれば、他の農家さんも作ると思います」
農家の男の顔が少し曇った。
「そうすると、安くなるのか」
「はい。でも、それは悪いことだけじゃありません。たくさんの人が食べられるようになるってことですから」
澪は、傷のある芋を一つ手に取った。形は悪い。町の店先に積むには、少し見劣りする。けれど、ずっしり重く、甘い匂いもある。
「だから、安くなった後でも作れる需要を、先に作りたいんです。食べるお芋、種にするお芋、保存するお芋、干すお芋、お菓子にするお芋、粉にするお芋。それでも余るなら、発酵やお酒の試しも考えられます」
農家の妻が、傷のある芋を見る。
「安くなっても、作れるようにするのか」
「はい。私は、農家さんが安心して美味しいお芋を作れるようにしたいんです。高く売れる間だけ喜ぶんじゃなくて、安くなった後も困らない形にしたいんです」
リュシアは、すぐには何も言わなかった。
代わりに、形の悪い芋を一つ持ち上げ、農家の男へ見せた。
「これにも値が付くなら、来年も作れる」
農家の男は、芋とリュシアを見比べた。
「売れない芋が、売れる芋になるのか」
「売れる品に変えられればね。澪が見ているのは、そこだよ」
納屋の中が、少し静かになった。
豊作の山が、ただの喜びではなくなる。
売り切れなければ腐るかもしれない山ではなく、分ければ次の畑と、町の食卓と、加工の試しへつながる山になる。
農家の男は、もう一度芋の山を見た。
その顔に、少しだけ違う色が差した。
「それと……」
澪は、言いかけて一度止まった。
干し芋。菓子。粉。保存食。そこまでは言える。
だが、次の言葉は、この世界でどう受け止められるか分からない。
リュシアが、澪の顔を見た。
「まだあるね」
「はい」
澪は、傷の浅い芋が入った籠へ視線を落とした。
「このお芋を原料にした蒸留酒って、作れませんか」
農家の男が目を丸くした。
「芋で酒だと?」
農家の妻も、子供を後ろへ寄せながら、芋の籠を見た。
リュシアは笑わなかった。少し考える顔になり、芋の山全体を見た。
澪は慌てて続けた。
「全部じゃありません。食べる分と種に残す分は別です。形が悪いものや、傷が浅くて早く使いたいもの、保存に向かないものを、加工試験に回せないかなって」
「酒にする芋と、食う芋を分けるのか」
「はい。蒸留酒だけじゃなくて、干し芋やお菓子や粉もです。いくつか使い道があれば、お芋の値段が下がっても困りにくくなると思います」
リュシアが、傷のある芋を指で転がした。
「芋を芋のまま売らない道を作るわけだね」
「はい」
「酒は、できるかどうかを見る必要がある。けれど、干す、菓子にする、粉にする。そこまで含めて考えるなら、試す価値はあるね」
農家の男は、まだ驚いていた。
「そんなものまで作れるのか」
「できるかどうかは、これから見る」
リュシアは、農家の男へ向き直った。
「けれど、試せる形に分けておけば、捨てる芋が減る。値が付く場所が増える」
澪は頷いた。
「発酵が関わるなら、ネリスさんに相談したいです。味噌や醤油も、お酒も、たぶんそこが大事なので」
「大豆も芋も、キノコマスターの出番かい」
「たぶん、そうです」
農家の妻が、少し不安そうに言った。
「そのネリスという人は、芋を酒にできるのかい」
「お酒そのものというより、良い発酵と悪い腐り方を見分けるのが得意な人です」
リュシアが、すぐに補った。
「まずは少しだけ持って帰る。全部動かすわけじゃないよ。試す分だけだ」
農家の男は、しばらく考えた後、頷いた。
「売れない芋に値が付くなら、試してくれ」
澪は、小さく息を吐いた。
「はい。大豆も少し、持っていきます」
農家の妻が、袋を用意してくれた。澪は芋を選び過ぎないように気をつけながら、形の良いもの、傷のあるもの、保存に向きそうなものを少しずつ分けて入れた。
サンプルは多すぎてはいけない。
これから試すのは、農家の芋を奪うことではない。
来年も作れる形を探すことだ。
帰り道、リュシアの自転車は、芋と大豆を載せてもあまり揺れなかった。
荷台には袋が括りつけられ、前籠には小さめの芋と大豆の袋が入っている。畑道の小石を避けるたび、リュシアの自転車はすっと流れた。
澪は横で見ながら、少し呆れた。
「リュシアさん、やっぱり速いです」
「芋を揺らさないように走っているだけだよ」
「それが速いんです」
「荷が安定しているなら、良い速さだね」
澪は、商人の移動加速は荷物基準なのかもしれないと思った。
大学の廊下では、人にぶつからないことが大事だった。
農家への道では、芋を揺らさないことが大事になる。
同じ移動でも、何を守るかで速度の意味が変わる。
そんなことを考えていると、農家の男の声が頭に戻った。
安くなるのか。
売れない芋が、売れる芋になるのか。
澪は前籠の芋を見た。小さな袋の中で、土の匂いがしている。
値段が下がることが怖いのではない。
美味しいものが広まって、多くの人が食べられるようになるのは、きっと良いことだ。
ただ、その時に作る人が困ってはいけない。
だから、安くなった後でも残る需要を作る。
澪はハンドルを握り直した。
町の屋根が見え始めたところで、リュシアが少し速度を落とした。
「澪」
「はい」
「これは、押入商会だけで抱える話じゃないね」
澪は横を見た。
リュシアは前を向いていた。いつもの軽い笑いではなく、少し考え込んだ顔だった。
「大豆とお芋の話ですか」
「大豆、芋、干し芋、菓子、粉、味噌、醤油、発酵、酒の試し。そこへ農家との買い取り、保存、倉、乾燥場、説明札、町への売り先まで入る」
澪は前籠に載せた芋を見た。
農家の納屋では、芋は豊作に見えた。
帰り道では、それが商売の山に見えてくる。
「押入商会は、もう鉱物も、侯爵家との取引も、衛生用品も、行商も抱えている。そこへ食品まで全部入れたら、棚が壊れるよ」
「分けた方がいい、ですか」
「分けた方がいい」
澪は、第110話のゼミ室を思い出した。
項目が多い。
聞けるもの、観察できるもの、今回は扱わないものに分ける。
商会も同じなのかもしれない。
全部を押入商会の棚に乗せれば、どの荷がどこへ行くのか分からなくなる。
「食品は、別にする」
澪が言うと、リュシアは頷いた。
「そう。農家と食卓をつなぐ商いは、別に立てる。芋を買う。大豆を買う。乾かす。加工する。説明して売る。農家に次の作付けを頼めるようにする」
「リュシアさんが、見るんですか」
リュシアは、自転車のハンドルを軽く握り直した。
笑ってはいる。
だが、目は商人の目になっていた。
「私が見るよ。食品の商いは、私が受ける」
澪は少し驚いた。
リュシアは、押入商会の商品を売るだけの人ではなくなる。
農家から買い、加工し、町へ流す側へ回る。
「食品会社、ですか」
「会社という言い方は、澪の国の言葉だろう? でも、分かる。押入商会が出資して、私が食品の商いを立てる。農家から買って、加工して、町へ売る」
「押入商会が出資」
「溜まっている金貨があるだろう?」
澪は一瞬、言葉に詰まった。
押入商会には、異世界側で得た金貨が増えている。現代側へ持ち帰っても、そのまま使える金ではない。けれど、この世界で農家から芋を買い、大豆を買い、倉を借り、乾燥場を作り、人を雇い、道具を揃えるなら、金貨はそのまま働く。
金貨は、持って帰るだけなら荷だった。
けれど、この世界で農家に払えば、来年の畑になる。
倉を作れば、芋が腐らずに済む。
乾燥場を作れば、干し芋や大豆の保存ができる。
ネリスの作業場を整えれば、味噌や醤油や発酵の試験ができる。
「現地で使えば、金貨が仕事になるんですね」
「そういうことだね。押入商会が抱えているだけなら金貨は重い。でも農家へ渡れば、畑が増える。職人へ渡れば、道具が増える。人を雇えば、仕事になる」
「農家さんにも、利益を残したいです」
「そこが大事だよ」
リュシアは、町の入口へ続く道を見た。
「安く買い叩いたら、来年の芋は細る。ちゃんと作ってもらいたいなら、ちゃんと払う。代わりに、品質と量と保存の約束をもらう」
澪は頷いた。
農家と食卓をつなぐ商い。
芋と大豆を買い、分け、乾かし、加工し、説明して売る。
大豆は、子供たちの身体を作る豆になる。
芋は、腹を満たし、広まって安くなっても加工で値を残す作物になる。
そして、その二つを扱う商いは、押入商会の中だけでは収まりきらなくなっていた。
「名前は、まだ決めなくていいですよね」
澪が言うと、リュシアは少し笑った。
「名前より先に、扱うものを決める。芋と大豆。農家。保存。加工。まずはそこだね」
「じゃあ、最初にやることは」
「ネリスに相談すること」
「発酵のことですね」
「味噌も醤油も、澪の言う酒の試しも、そこが見えないと始まらない。食品会社を立てるなら、最初の職人はネリスかもしれないね」
「キノコマスターが、食品会社の最初の技術担当」
「悪くないだろう?」
澪は少し笑った。
大豆と芋の話は、農家の納屋で終わらなかった。
それは、町へ戻る自転車の籠の上で、食品会社の形に変わり始めていた。
町の入口で、二人は自転車を降りた。
人通りが増える。荷を載せたまま速度を出すには向かない。リュシアは何も言われなくても、自転車を押す側へ切り替えた。移動加速は便利だが、町の中では別の道の選び方があるらしい。
澪も並んで自転車を押した。
籠の中で、芋と大豆の袋が揺れる。
リュシアはそれを一度押さえた。
「押入商会だけで抱えるには、荷が増えすぎたね」
「鉱物も、侯爵家の取引も、衛生用品もありますし」
「そこへ食品を全部入れたら、何がどこへ行くのか分からなくなる。食品は、食品で分ける」
「リュシアさんが見るんですね」
「私が見る。農家から買って、加工して、町へ流す。押入商会は出資と知恵を出す。それでいい」
澪は、籠の芋を見た。
「金貨、使えますね」
「使える。農家へ払う金、倉を借りる金、乾燥場を作る金、人を雇う金。現地の金は、現地で働かせるのが一番だよ」
澪は、押入商会に溜まっていた金貨が、ようやくただの重い荷ではなくなるのを感じた。
リュシアは、町の奥へ視線を向ける。
「まずはネリスだね」
「はい。味噌も醤油も、お酒の試しも、麹がないと進みません」
「なら、キノコマスターの出番だ」
「ネリスさん、驚きそうです」
「驚くだろうね。けれど、あの子の鼻がいる」
澪は、自転車の籠に載せた芋と大豆を見た。
農家の畑で採れたものが、町へ戻る道の途中で、別の形を取り始めている。
大豆は、子供たちの身体を作る豆になる。
芋は腹を満たし、安くなっても加工で値を残す作物になる。
そして、その二つを食卓へ届けるための商いは、押入商会の中だけでは収まりきらなくなっていた。
リュシアは、自転車の籠を軽く押さえた。
「行こう、澪。食品の商いを始めるよ」
澪は頷いた。
まだ会社の名前も、店の場所も、作業場も決まっていない。
けれど、最初に相談する相手は決まっている。
キノコマスター、ネリス。
芋と大豆を、ただの豊作で終わらせないための道が、町の方へ伸びていた。