押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第111話 リュシアの食品会社

 

 九月の終わりの風は、夏の残りを少しだけ抱えていた。

 

 町の外れへ出ると、土の匂いが濃くなる。石畳が途切れ、車輪の跡が残る細い道へ変わると、澪はハンドルを握る手に少しだけ力を入れた。

 

 中古のママチャリは、収納から出した時と同じように、少しくたびれた音を立てていた。籠は頑丈で、荷台もある。華やかさはないが、農道へ行くにはこれくらいの方が気楽だった。

 

 隣を走るリュシアも、同じ型の自転車に乗っている。

 

 前にこの道を走った時、リュシアはペダルを踏むたびに眉を寄せていた。二輪で立つ道具など、人間の脚を食うものではないかと本気で疑っていた顔だった。

 

 ところが、今日は違った。

 

 リュシアの自転車は、轍の間をすっと抜けていく。前輪が石を避ける角度も、腰を少し浮かせるタイミングも、荷台を揺らさない重心の置き方も、妙に滑らかだった。

 

 澪は、自分の足を少し抑えながら横を見た。

 

「リュシアさん、前よりずっと上手くなってませんか」

 

「そうかい?」

 

 リュシアは、道の先を見たまま答えた。

 

「商品を揺らさぬ道を選んでいるだけだよ」

 

「それ、たぶん移動加速です」

 

 リュシアの足が、少しだけ止まった。自転車は惰性で進み、リュシアは器用に片足を地面へ落とす。

 

「移動加速?」

 

「足運びとか、道の選び方が妙に滑らかになるやつです」

 

 リュシアは自分の足元を見た。靴の裏に付いた土を軽く落とし、それから首を傾げる。

 

「そういえば最近、荷を持って歩くのが楽だと思っていたね」

 

「商人が移動加速を取ると、自転車にも効くんですね……」

 

「便利なら良いじゃないか」

 

「便利ですけど、大学の廊下で出ると困ります」

 

 リュシアは、真面目な顔で澪を見た。

 

「大学の廊下で自転車に乗るのかい?」

 

「乗りません」

 

「なら大丈夫だね」

 

 澪は前を向き直した。

 

 違う。そこではない。

 

 だが、リュシアにとって速度とは、荷が揺れないか、商品が傷まないか、道を損しないかで決まるらしい。大学の廊下で急いでいないのに速い人になることとは、問題の種類が違うのだろう。

 

 澪はペダルを踏み直した。

 

 自分は抑えている。抑えているはずだ。だが、横のリュシアがすいすい進むので、普通の速度が分からなくなる。

 

 畑道の向こうに、以前訪ねた農家の屋根が見えた頃、澪は小さく息を吐いた。

 

 予定より、少し早く着いた。

 

 商人が移動加速を取ると、町と農家の距離感まで変わってしまうのかもしれない。

 

 便利だ。

 

 便利だが、少し困る。

 

     

 

 農家の男は、納屋の前で二人を迎えた。

 

 手には土が付いていた。袖をまくり、額に汗を浮かべている。顔つきは前より明るいが、完全に安心した顔ではない。

 

「来てくれたか」

 

「様子を見に来ました」

 

 澪が自転車を立てると、リュシアは荷台の革袋を下ろした。中には、今回持ってきたラージラット対策の薬が入っている。

 

 澪は畑の端へ歩いた。

 

 草の倒れ方、土の削れ方、納屋裏の小さな穴。前に見た通り道とは少し位置が違う。完全に消えたわけではない。古い筋が薄くなり、新しい筋が別の草むらへ寄っていた。

 

 しゃがみ込むと、土の湿りと、草の折れ方が目に入る。

 

「前より減っています。でも、こっちに移ってますね」

 

 農家の男は、顔をしかめた。

 

「やっぱり、まだ来ているか」

 

「はい。でも、前より通り道は細いです。薬を置く場所を変えれば、もっと減らせると思います」

 

 リュシアが革袋を開いた。

 

「今回は売り物として持ってきたよ。前に試したものと同じ種類だ。続けて使うなら、置き方を覚えてもらう」

 

 農家の妻が、家の方から出てきた。手には布巾を持っている。小さな子供が、その後ろから顔だけを出した。

 

 澪はそれを見て、薬の包みを持つ手を少し慎重にした。

 

 リュシアも同じものを見ていた。商人の目が、すぐに農家の暮らしの目へ変わる。

 

「まず、子供と家畜が触れないところ。食べ物の近くには置かない。雨で濡れる場所にも置かない。置いた日と場所は、忘れないように残す。触った後は手を洗う」

 

 リュシアは一つ一つ、農家の男へ示した。

 

 澪は農家の作業台を借り、小さな板と紙を出した。書こうとして、最初の言葉で手が止まる。

 

 難しく書けば、読めない人がいる。

 

 軽く書けば、危ない。

 

 子供が間違えて手に取らないこと。家畜が食べないこと。食料袋と一緒に置かないこと。どれも大事だが、全部を詰め込むと読まれない。

 

 澪は一度書いた文字を消し、少し大きく書き直した。

 

「ここには、薬を入れた箱だと分かる印を付けます。子供さんには、この印の箱は開けないって教えてください」

 

 農家の妻が、子供の頭へ手を置いた。

 

「分かった。見せて覚えさせる」

 

 リュシアは、薬の包みを数えながら言った。

 

「売るのは薬だけじゃない。使い方まで込みだよ。間違えて使えば、薬も損になる」

 

 澪は、作った注意書きを納屋の入口と、薬を置く予定の箱に合わせてみた。文字の大きさを少し直す。これも、大学ゼミで言えば表示と導線なのだろう。だが今は、そんな言葉は出さない。

 

 農家が迷わず、間違えず、続けられること。

 

 それだけを考えて、澪は板を押さえた。

 

     

 

 大豆畑は、芋畑ほど目立たなかった。

 

 土の上に並ぶ葉は、見るからに腹を満たす姿ではない。芋の山のような迫力もない。けれど、澪はその畑の前で足を止めた。

 

「豆も育った」

 

 農家の男は、少し誇らしげに言った。

 

「芋ほど派手じゃないが、思ったより手はかからなかった。ただ、食い方と売り方は、まだよく分からん」

 

 澪は畝の間にしゃがんだ。葉の下を見て、土の付き方を見る。根元を勝手に掘り返すわけにはいかないので、農家の男に確認してから、端の一株だけ少し土を崩してもらった。

 

 小さな粒が根に付いている。

 

「大豆は、できれば増やしたいです」

 

 農家の男が澪を見た。

 

「芋よりか」

 

「役目が違います。お芋はお腹を満たします。でも大豆は、子供たちの身体を作ります」

 

「身体を?」

 

「肉は高いですよね。毎日、子供に肉を食べさせられる家ばかりじゃないと思います。でも豆なら、乾かして残せます。煮てもいいですし、粉にして混ぜてもいい。肉ほどではなくても、身体を作る力を食事に足せます」

 

 農家の妻が、後ろにいる子供を見た。

 

 リュシアの表情も少し変わった。値段を見る顔ではない。町の子供たちが、屋台の前で匂いだけを吸い込んでいる時の顔を、思い出したような目だった。

 

「肉は高いからね」

 

「はい。だから、大豆は売る豆だけじゃなくて、子供たちの身体を作る豆なんです」

 

 農家の男は、崩した土を指でつまんだ。

 

「豆で、そんなに違うのか」

 

「全部を変えるわけではありません。でも、少しずつ足せます。それに、大豆は夏に育てられます」

 

 澪は畑の向こうを見た。麦を刈った後の畑。夏の強い日差し。冬から初夏に麦を育て、収穫後に大豆を入れる形。

 

「冬から初夏に麦を育てて、麦を刈った後の夏に大豆を育てる形ができるかもしれません」

 

「麦の後に、豆を植えるのか」

 

「はい。大豆は根に小さな粒を作って、土に力を戻す働きがあるみたいなんです。全部が肥料になるわけではないですけど、次の麦の助けになると思います」

 

 農家の男は、土を手のひらで崩した。指の間から、乾いた土が落ちる。

 

「豆が、土を肥やすのか」

 

「はい。大豆は、売る豆だけじゃなくて、畑を育てる豆でもあります」

 

 リュシアが、畝を見渡した。

 

「腹を満たす芋。身体を作る豆。次の麦を助ける畑。そういうことかい」

 

 澪は頷いた。

 

「はい。それに、大豆は豆のまま売るだけじゃありません。私の国では、味噌や醤油という調味料に加工します。毎日の食事に使うものです。そういうものが作れるようになれば、大豆がたくさん出回っても需要を増やせます」

 

「毎日使う調味料なら強いね」

 

「はい。大豆が広まって安くなっても、食卓に残せます」

 

 農家の妻が、少し首を傾げた。

 

「その、味噌とか醤油とかいうものは、豆を煮ればできるのか」

 

「いえ。たぶん、発酵の種みたいなものが必要になります。そこは、ネリスさんに相談したいです」

 

 リュシアが、すぐに反応した。

 

「キノコマスターの出番かい」

 

「たぶん」

 

 農家の男は、キノコマスターという言葉に少し困った顔をした。だがリュシアが当然のように頷いているので、深く聞くのをやめたらしい。

 

 澪は、大豆の葉を指先でそっと避けた。

 

 芋のように派手ではない。

 

 けれど、この豆は、子供の身体と、次の麦と、いつか食卓に置かれる調味料へつながっている。

 

 そう思うと、畑の緑が少し違って見えた。

 

     

 

「問題は、こっちだ」

 

 農家の男がそう言って、納屋の戸を開けた。

 

 その瞬間、澪は甘い土の匂いを感じた。

 

 納屋の中には、芋が積まれていた。

 

 大きなもの、細長いもの、丸いもの、皮の色が少し違うもの。土を落としきれていないものもあれば、洗えばすぐに売れそうな形のものもある。浅い傷があるもの、端が欠けているもの、早く使った方がよさそうな柔らかさのものもあった。

 

 農家の男は、嬉しそうで、困った顔をしていた。

 

「採れた。採れすぎた」

 

 リュシアが納屋の中へ一歩入る。

 

「それは良い困りごとだね」

 

「食う分はある。種にする分もある。だが、全部は食いきれん。売るにも、どれをどう売ればいいか分からん」

 

 澪は、芋の山の前で少し息を止めた。

 

 大学のゼミで、商品について外から分かる情報、入口から会計までの流れ、買わずに出られる安心感を分けた時の感覚が、頭の奥で動いた。

 

 だが、ここでその言葉を使うのは違う。

 

 目の前にあるのは、商品棚ではない。農家の納屋だ。土の匂いがあり、芋の重みがあり、来年の畑がある。

 

 澪は一つ、形の良い芋を手に取った。ずっしりと重い。皮もきれいで、町へ持っていけば目を引きそうだった。

 

 リュシアが横から覗き込む。

 

「これは見た目がいい。町で売るなら、まずこれだね」

 

 農家の男が別の芋を差し出した。

 

「これはどうだ。傷がある」

 

 澪は切り口を見た。深くはない。だが置きすぎると傷むかもしれない。

 

「早めに食べるなら使えます。加工にも回せるかもしれません」

 

「加工か」

 

「はい。売りにくいから捨てる、にしない方がいいと思います」

 

 今度は、芽の状態が良い芋を農家の妻が持ってきた。

 

「これは種に残す方がいいのかね」

 

 澪はすぐに答えず、農家の男を見る。畑の土、芋の育ち方、この家の作付けの都合は、澪だけでは決められない。

 

「畑に合って、よく育った株のものなら、種に残す候補です。これは、どの場所で採れましたか」

 

 農家の男が畑の方を指した。

 

「あっちの上の畑だ。水は遠いが、腐りにくかった」

 

 リュシアが、少し口角を上げる。

 

「なら、上の畑に合う芋として残す価値があるね」

 

 澪は籠を一つ引き寄せた。分類名を書こうとして、一度止める。短く書けば早い。だが、農家が後で見て分からなければ意味がない。

 

 澪は板に「来年植える候補」と書き、農家へ見せた。

 

「この籠は、種に残す候補です。最終的には、農家さんが畑を見て決めてください」

 

 農家の男は、板を見て頷いた。

 

「これなら分かる」

 

 澪は少しだけ安心した。

 

 表示とは、相手が分かる形にすることだ。

 

 大学の言葉ではなくても、ここでも同じことをしている。

 

     

 

 籠が少しずつ増えていった。

 

 町へ売れそうな形の良いものは、リュシアが厳しい目で選ぶ。

 

 畑に戻す候補は、農家が場所を思い出しながら選ぶ。

 

 傷が浅く、早く使えば問題ないものは、澪が別の籠へ移す。

 

 傷が深く、周りまで悪くしそうなものは、農家の妻が渋い顔で分ける。

 

 澪は、手に土が付くたびに布で拭き、また芋を持った。

 

 そのうち、農家の男が不安そうに言った。

 

「こんなに分けても、売れなきゃ同じじゃないのか」

 

 澪は、手にしていた芋を見た。

 

 今は珍しい。

 

 だから売れる。

 

 けれど、それだけでは足りない。

 

「今は、珍しいから高く売れると思います」

 

 澪は、芋の山を見ながら言った。

 

「でも、お芋はきっと広まります。美味しいですし、育て方が分かれば、他の農家さんも作ると思います」

 

 農家の男の顔が少し曇った。

 

「そうすると、安くなるのか」

 

「はい。でも、それは悪いことだけじゃありません。たくさんの人が食べられるようになるってことですから」

 

 澪は、傷のある芋を一つ手に取った。形は悪い。町の店先に積むには、少し見劣りする。けれど、ずっしり重く、甘い匂いもある。

 

「だから、安くなった後でも作れる需要を、先に作りたいんです。食べるお芋、種にするお芋、保存するお芋、干すお芋、お菓子にするお芋、粉にするお芋。それでも余るなら、発酵やお酒の試しも考えられます」

 

 農家の妻が、傷のある芋を見る。

 

「安くなっても、作れるようにするのか」

 

「はい。私は、農家さんが安心して美味しいお芋を作れるようにしたいんです。高く売れる間だけ喜ぶんじゃなくて、安くなった後も困らない形にしたいんです」

 

 リュシアは、すぐには何も言わなかった。

 

 代わりに、形の悪い芋を一つ持ち上げ、農家の男へ見せた。

 

「これにも値が付くなら、来年も作れる」

 

 農家の男は、芋とリュシアを見比べた。

 

「売れない芋が、売れる芋になるのか」

 

「売れる品に変えられればね。澪が見ているのは、そこだよ」

 

 納屋の中が、少し静かになった。

 

 豊作の山が、ただの喜びではなくなる。

 

 売り切れなければ腐るかもしれない山ではなく、分ければ次の畑と、町の食卓と、加工の試しへつながる山になる。

 

 農家の男は、もう一度芋の山を見た。

 

 その顔に、少しだけ違う色が差した。

 

     

 

「それと……」

 

 澪は、言いかけて一度止まった。

 

 干し芋。菓子。粉。保存食。そこまでは言える。

 

 だが、次の言葉は、この世界でどう受け止められるか分からない。

 

 リュシアが、澪の顔を見た。

 

「まだあるね」

 

「はい」

 

 澪は、傷の浅い芋が入った籠へ視線を落とした。

 

「このお芋を原料にした蒸留酒って、作れませんか」

 

 農家の男が目を丸くした。

 

「芋で酒だと?」

 

 農家の妻も、子供を後ろへ寄せながら、芋の籠を見た。

 

 リュシアは笑わなかった。少し考える顔になり、芋の山全体を見た。

 

 澪は慌てて続けた。

 

「全部じゃありません。食べる分と種に残す分は別です。形が悪いものや、傷が浅くて早く使いたいもの、保存に向かないものを、加工試験に回せないかなって」

 

「酒にする芋と、食う芋を分けるのか」

 

「はい。蒸留酒だけじゃなくて、干し芋やお菓子や粉もです。いくつか使い道があれば、お芋の値段が下がっても困りにくくなると思います」

 

 リュシアが、傷のある芋を指で転がした。

 

「芋を芋のまま売らない道を作るわけだね」

 

「はい」

 

「酒は、できるかどうかを見る必要がある。けれど、干す、菓子にする、粉にする。そこまで含めて考えるなら、試す価値はあるね」

 

 農家の男は、まだ驚いていた。

 

「そんなものまで作れるのか」

 

「できるかどうかは、これから見る」

 

 リュシアは、農家の男へ向き直った。

 

「けれど、試せる形に分けておけば、捨てる芋が減る。値が付く場所が増える」

 

 澪は頷いた。

 

「発酵が関わるなら、ネリスさんに相談したいです。味噌や醤油も、お酒も、たぶんそこが大事なので」

 

「大豆も芋も、キノコマスターの出番かい」

 

「たぶん、そうです」

 

 農家の妻が、少し不安そうに言った。

 

「そのネリスという人は、芋を酒にできるのかい」

 

「お酒そのものというより、良い発酵と悪い腐り方を見分けるのが得意な人です」

 

 リュシアが、すぐに補った。

 

「まずは少しだけ持って帰る。全部動かすわけじゃないよ。試す分だけだ」

 

 農家の男は、しばらく考えた後、頷いた。

 

「売れない芋に値が付くなら、試してくれ」

 

 澪は、小さく息を吐いた。

 

「はい。大豆も少し、持っていきます」

 

 農家の妻が、袋を用意してくれた。澪は芋を選び過ぎないように気をつけながら、形の良いもの、傷のあるもの、保存に向きそうなものを少しずつ分けて入れた。

 

 サンプルは多すぎてはいけない。

 

 これから試すのは、農家の芋を奪うことではない。

 

 来年も作れる形を探すことだ。

 

     

 

 帰り道、リュシアの自転車は、芋と大豆を載せてもあまり揺れなかった。

 

 荷台には袋が括りつけられ、前籠には小さめの芋と大豆の袋が入っている。畑道の小石を避けるたび、リュシアの自転車はすっと流れた。

 

 澪は横で見ながら、少し呆れた。

 

「リュシアさん、やっぱり速いです」

 

「芋を揺らさないように走っているだけだよ」

 

「それが速いんです」

 

「荷が安定しているなら、良い速さだね」

 

 澪は、商人の移動加速は荷物基準なのかもしれないと思った。

 

 大学の廊下では、人にぶつからないことが大事だった。

 

 農家への道では、芋を揺らさないことが大事になる。

 

 同じ移動でも、何を守るかで速度の意味が変わる。

 

 そんなことを考えていると、農家の男の声が頭に戻った。

 

 安くなるのか。

 

 売れない芋が、売れる芋になるのか。

 

 澪は前籠の芋を見た。小さな袋の中で、土の匂いがしている。

 

 値段が下がることが怖いのではない。

 

 美味しいものが広まって、多くの人が食べられるようになるのは、きっと良いことだ。

 

 ただ、その時に作る人が困ってはいけない。

 

 だから、安くなった後でも残る需要を作る。

 

 澪はハンドルを握り直した。

 

 町の屋根が見え始めたところで、リュシアが少し速度を落とした。

 

「澪」

 

「はい」

 

「これは、押入商会だけで抱える話じゃないね」

 

 澪は横を見た。

 

 リュシアは前を向いていた。いつもの軽い笑いではなく、少し考え込んだ顔だった。

 

「大豆とお芋の話ですか」

 

「大豆、芋、干し芋、菓子、粉、味噌、醤油、発酵、酒の試し。そこへ農家との買い取り、保存、倉、乾燥場、説明札、町への売り先まで入る」

 

 澪は前籠に載せた芋を見た。

 

 農家の納屋では、芋は豊作に見えた。

 

 帰り道では、それが商売の山に見えてくる。

 

「押入商会は、もう鉱物も、侯爵家との取引も、衛生用品も、行商も抱えている。そこへ食品まで全部入れたら、棚が壊れるよ」

 

「分けた方がいい、ですか」

 

「分けた方がいい」

 

 澪は、第110話のゼミ室を思い出した。

 

 項目が多い。

 

 聞けるもの、観察できるもの、今回は扱わないものに分ける。

 

 商会も同じなのかもしれない。

 

 全部を押入商会の棚に乗せれば、どの荷がどこへ行くのか分からなくなる。

 

「食品は、別にする」

 

 澪が言うと、リュシアは頷いた。

 

「そう。農家と食卓をつなぐ商いは、別に立てる。芋を買う。大豆を買う。乾かす。加工する。説明して売る。農家に次の作付けを頼めるようにする」

 

「リュシアさんが、見るんですか」

 

 リュシアは、自転車のハンドルを軽く握り直した。

 

 笑ってはいる。

 

 だが、目は商人の目になっていた。

 

「私が見るよ。食品の商いは、私が受ける」

 

 澪は少し驚いた。

 

 リュシアは、押入商会の商品を売るだけの人ではなくなる。

 

 農家から買い、加工し、町へ流す側へ回る。

 

「食品会社、ですか」

 

「会社という言い方は、澪の国の言葉だろう? でも、分かる。押入商会が出資して、私が食品の商いを立てる。農家から買って、加工して、町へ売る」

 

「押入商会が出資」

 

「溜まっている金貨があるだろう?」

 

 澪は一瞬、言葉に詰まった。

 

 押入商会には、異世界側で得た金貨が増えている。現代側へ持ち帰っても、そのまま使える金ではない。けれど、この世界で農家から芋を買い、大豆を買い、倉を借り、乾燥場を作り、人を雇い、道具を揃えるなら、金貨はそのまま働く。

 

 金貨は、持って帰るだけなら荷だった。

 

 けれど、この世界で農家に払えば、来年の畑になる。

 

 倉を作れば、芋が腐らずに済む。

 

 乾燥場を作れば、干し芋や大豆の保存ができる。

 

 ネリスの作業場を整えれば、味噌や醤油や発酵の試験ができる。

 

「現地で使えば、金貨が仕事になるんですね」

 

「そういうことだね。押入商会が抱えているだけなら金貨は重い。でも農家へ渡れば、畑が増える。職人へ渡れば、道具が増える。人を雇えば、仕事になる」

 

「農家さんにも、利益を残したいです」

 

「そこが大事だよ」

 

 リュシアは、町の入口へ続く道を見た。

 

「安く買い叩いたら、来年の芋は細る。ちゃんと作ってもらいたいなら、ちゃんと払う。代わりに、品質と量と保存の約束をもらう」

 

 澪は頷いた。

 

 農家と食卓をつなぐ商い。

 

 芋と大豆を買い、分け、乾かし、加工し、説明して売る。

 

 大豆は、子供たちの身体を作る豆になる。

 

 芋は、腹を満たし、広まって安くなっても加工で値を残す作物になる。

 

 そして、その二つを扱う商いは、押入商会の中だけでは収まりきらなくなっていた。

 

「名前は、まだ決めなくていいですよね」

 

 澪が言うと、リュシアは少し笑った。

 

「名前より先に、扱うものを決める。芋と大豆。農家。保存。加工。まずはそこだね」

 

「じゃあ、最初にやることは」

 

「ネリスに相談すること」

 

「発酵のことですね」

 

「味噌も醤油も、澪の言う酒の試しも、そこが見えないと始まらない。食品会社を立てるなら、最初の職人はネリスかもしれないね」

 

「キノコマスターが、食品会社の最初の技術担当」

 

「悪くないだろう?」

 

 澪は少し笑った。

 

 大豆と芋の話は、農家の納屋で終わらなかった。

 

 それは、町へ戻る自転車の籠の上で、食品会社の形に変わり始めていた。

 

     

 

 町の入口で、二人は自転車を降りた。

 

 人通りが増える。荷を載せたまま速度を出すには向かない。リュシアは何も言われなくても、自転車を押す側へ切り替えた。移動加速は便利だが、町の中では別の道の選び方があるらしい。

 

 澪も並んで自転車を押した。

 

 籠の中で、芋と大豆の袋が揺れる。

 

 リュシアはそれを一度押さえた。

 

「押入商会だけで抱えるには、荷が増えすぎたね」

 

「鉱物も、侯爵家の取引も、衛生用品もありますし」

 

「そこへ食品を全部入れたら、何がどこへ行くのか分からなくなる。食品は、食品で分ける」

 

「リュシアさんが見るんですね」

 

「私が見る。農家から買って、加工して、町へ流す。押入商会は出資と知恵を出す。それでいい」

 

 澪は、籠の芋を見た。

 

「金貨、使えますね」

 

「使える。農家へ払う金、倉を借りる金、乾燥場を作る金、人を雇う金。現地の金は、現地で働かせるのが一番だよ」

 

 澪は、押入商会に溜まっていた金貨が、ようやくただの重い荷ではなくなるのを感じた。

 

 リュシアは、町の奥へ視線を向ける。

 

「まずはネリスだね」

 

「はい。味噌も醤油も、お酒の試しも、麹がないと進みません」

 

「なら、キノコマスターの出番だ」

 

「ネリスさん、驚きそうです」

 

「驚くだろうね。けれど、あの子の鼻がいる」

 

 澪は、自転車の籠に載せた芋と大豆を見た。

 

 農家の畑で採れたものが、町へ戻る道の途中で、別の形を取り始めている。

 

 大豆は、子供たちの身体を作る豆になる。

 

 芋は腹を満たし、安くなっても加工で値を残す作物になる。

 

 そして、その二つを食卓へ届けるための商いは、押入商会の中だけでは収まりきらなくなっていた。

 

 リュシアは、自転車の籠を軽く押さえた。

 

「行こう、澪。食品の商いを始めるよ」

 

 澪は頷いた。

 

 まだ会社の名前も、店の場所も、作業場も決まっていない。

 

 けれど、最初に相談する相手は決まっている。

 

 キノコマスター、ネリス。

 

 芋と大豆を、ただの豊作で終わらせないための道が、町の方へ伸びていた。

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セララ・シュトーレンは転生者だ。天使っぽい種族で魔法も使える。▼だけどワープ事故で戦国時代に漂着。▼困ってる人を助けたら神様と勘違いされてしまった。▼人々を助けていたら有名になり、尾張の殿様に呼ばれて……▼信長の友人として過ごす日々が始まった。▼※5/28にタイトル変更しました。


総合評価:904/評価:8.07/連載:27話/更新日時:2026年05月29日(金) 21:20 小説情報

自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ~運用保守はもう終わり。現代の物資と無限の資源で、銀河規模の自動化帝国を築き上げます~ (作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

システムエンジニア、工藤創一(30代・独身)。 彼の仕事は、誰が作ったかも分からない継ぎ接ぎだらけのシステムを延命させる「運用保守」。創造性のかけらもない、謝罪と徹夜の日々だった。▼ある夜、帰宅した彼のもとに謎の荷物が届く。 送り主は『賢者・猫とKAMI』。中に入っていたのは、異惑星『テラ・ノヴァ』へと繋がるゲート・キューブだった。▼「鉄鉱石の埋蔵量、480…


総合評価:17512/評価:8.89/連載:233話/更新日時:2026年05月29日(金) 14:31 小説情報


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