押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第112話 水のある工場

 

 町の門をくぐる頃には、自転車の前籠から、まだ土の匂いがしていた。

 

 農家から分けてもらったさつまいもは、麻袋の中で互いに触れ合い、道の細かな揺れに合わせてかすかな音を立てている。荷台には大豆の袋も括りつけてあった。

 

 リュシアは、自転車を押しながら一度だけ荷台を確かめた。

 

「崩れてないね」

 

「リュシアさんが、ほとんど揺らさずに走るからです」

 

「荷を落とさずに運ぶのは、商人なら普通だよ」

 

「普通のママチャリは、あの農道をあんなに滑らかには走りません」

 

 澪が言うと、リュシアは少しだけ笑った。

 

「便利になったなら、良いじゃないか」

 

 澪は返事をしなかった。

 

 大学の廊下で、急いでもいないのに歩く速度だけが上がっていた自分を思い出したからだ。

 

 移動加速は便利だ。

 

 ただし、人が多い場所では、使い方を考えなければならない。

 

 それはリュシアも同じらしい。町の中へ入ると、彼女はすぐに自転車を降りた。行き交う荷車や買い物客の間を無理に抜けようとはしない。商人の速度は、ただ速ければよいものではないのだろう。

 

 リュシアは、自分のシマへ続く道の手前で足を止めた。

 

「ネリスを連れてくるよ」

 

「屋台にいるんじゃないんですか」

 

「あの子は、人の多いところに出っぱなしじゃない。家の方にいるはずだよ」

 

「分かりました」

 

 リュシアは澪の前籠を見た。

 

「澪は先に屋台で待ってて。芋は見せすぎると食べられるよ」

 

「えっ」

 

「半分冗談、半分本気だね」

 

 そう言って、リュシアは細い路地へ入っていった。

 

 澪は、自転車の籠を見下ろした。

 

 さつまいもは逃げない。

 

 ただし、町の子供たちは、食べ物の匂いを見逃さない。

 

 澪は少しだけ籠へ被せた布を整え、屋台の並ぶ通りへ向かった。

 

     

 

 リュシアのシマは、昼を少し回った時間でも忙しかった。

 

 鍋から立ち上る湯気に、焼いた肉の匂いと煮汁の匂いが混ざる。串を並べる音、皿を置く音、客を呼ぶ声が重なり、通りの空気が絶えず動いていた。

 

 屋台の脇では、子供たちも働いている。

 

 年長の子が皿を運び、その後ろを少し小柄な子が布巾を持って追いかけていた。桶を二人で持ち上げている子もいる。桶の縁から少し水がこぼれ、乾いた土の上に黒い跡を作った。

 

 前に見た時よりも、動きが軽い。

 

 まだ細い腕の子はいる。

 

 それでも、ふらつきは減っていた。呼ばれた時の返事にも、以前より力がある。

 

 澪は、自転車を屋台の横へ寄せながら、少しだけ胸の奥が緩むのを感じた。

 

 食べるものが増えると、人は少しずつ戻る。

 

 大豆を広めたいと思ったのは、こういう子供たちの身体を作る食べ物が必要だと思ったからだ。

 

 肉は高い。

 

 毎日、食卓へ載せられる家ばかりではない。

 

 けれど大豆なら、乾かして残せる。煮ることもできる。粉へ混ぜることもできる。

 

 澪が荷台の紐を確かめていると、すぐ近くで小さな影が止まった。

 

 トトだった。

 

 以前より少し頬に色がある。まだ細いが、目の動きは速い。澪の顔を見た後、すぐに前籠へ視線を移した。

 

「それ、甘い芋?」

 

 布を被せていたはずなのに、なぜ分かるのだろう。

 

「分かるの?」

 

「前の、甘いやつ。焼いたら匂いがする」

 

 トトは迷いなく答えた。

 

 食べ物に対する記憶だけは、かなり確かだった。

 

 澪は布を少し持ち上げ、土の付いたさつまいもを一つ見せた。

 

「農家さんから、試すために持ってきたんです」

 

「食べる?」

 

「全部は食べません。味噌とか、お醤油とか、お酒とか。いろいろ作れるか、相談するためのお芋です」

 

 トトは一度だけ瞬きをした。

 

「甘いのに、お酒にするの?」

 

「お菓子にもできると思います」

 

「お菓子」

 

 声の調子が、少しだけ変わった。

 

「屋台でも出せるようになったら、トト君にも味を見てもらいます」

 

 トトは真剣な顔で頷いた。

 

 そのまま手を伸ばしかけ、途中で止める。

 

 さつまいもの表面には、畑の土が残っている。

 

「焼く前に、ちゃんと洗う?」

 

「もちろん洗います」

 

「土の匂い、強い」

 

 澪は芋を持ち直した。

 

 言われてみれば、確かに土の匂いが濃い。

 

 農家の納屋では、それが収穫したばかりの作物らしく感じられた。けれど、屋台へ持ってくれば話が変わる。

 

 芋を洗う。

 

 手を洗う。

 

 包丁を洗う。

 

 皿を洗う。

 

 澪は、屋台の横へ目を向けた。

 

 先ほどの子供たちが、小さな桶を運んでいる。水場は少し離れているらしい。運んできた水は貴重で、こぼさないように二人とも慎重に歩いていた。

 

 桶の水だけで、これから増える芋や大豆まで扱えるだろうか。

 

 澪が考えている間に、トトはもう一度籠を見た。

 

「まだ食べない?」

 

「まだです」

 

「分かった」

 

 短く言って、トトは屋台へ戻っていった。

 

 諦めたというより、後で確認するつもりの歩き方だった。

 

     

 

 しばらくすると、リュシアが戻ってきた。

 

 その隣に、ネリスがいる。

 

 ネリスは両手を身体の前で重ね、人の多い通りを少し警戒するように見回していた。客の声が上がるたびに視線が動く。屋台から流れてくる煙が風向きを変えると、ほんの少し眉が寄った。

 

「急にすみません」

 

 澪が頭を下げると、ネリスも小さく頭を下げた。

 

「芋と豆の話だと聞きました」

 

「それと、麹の話だね」

 

 リュシアが言うと、ネリスは首を傾げた。

 

「こうじ?」

 

「私の国で、味噌とかお醤油を作る時に使うものです」

 

 澪は、どこから説明すればよいか少し迷った。

 

 麹菌はキノコそのものではない。

 

 けれど、ネリスの感覚と無関係でもない。

 

「キノコそのものじゃないんですけど、良い発酵を助ける種みたいなものです。穀物とか豆とかに付いて、味や匂いを変えていきます」

 

 ネリスは澪の言葉を聞きながら、籠の芋へ視線を落とした。

 

「お酒にも使うんですか」

 

「たぶん。お芋を蒸留酒にできないかと思っていて」

 

「お酒は、分かりません」

 

 ネリスは、少し困ったように言った。

 

「お酒そのものじゃなくていいんです。良い匂いに変わるものと、嫌な匂いに落ちるものが分かれば、すごく助かります」

 

 ネリスは頷いた。

 

 澪は、屋台の奥にある小さな作業台を借りた。土を落としたさつまいもの欠片と、袋から出した大豆を少しだけ並べる。

 

 ネリスは台へ近づいた。

 

 だが、すぐには手を伸ばさない。

 

 鼻を少し動かし、周囲を見た。

 

 串焼きの煙が流れてくる。

 

 油の匂いがする。

 

 鍋からは香草と煮汁の匂いが立ち上り、人が通るたびに、汗や衣服の匂いまで重なった。

 

「ここだと、匂いが多いです」

 

「多い?」

 

「芋だけを見たいのに、串焼きと油と、人の匂いが来ます」

 

 ネリスは、少し申し訳なさそうに言った。

 

 リュシアが屋台を見回す。

 

「ここは食わせる場所だからね。匂いが多い方が、客は寄ってくる」

 

「でも、ネリスさんが見る場所には向かない」

 

 澪が言うと、リュシアは頷いた。

 

「分けた方が良さそうだね」

 

 澪は、屋台のさらに奥へネリスを案内した。完全に匂いが消えるわけではないが、通りに面した場所よりは少し静かだった。

 

 ネリスは、さつまいもの欠片を一つ手に取った。

 

 表面を見る。

 

 匂いを確かめる。

 

 少し指先で押す。

 

「これは落ち着いています」

 

「落ち着いている?」

 

「置いても、すぐ嫌な匂いには行かないと思います」

 

 次に、少し傷のある欠片を持った。

 

 顔がわずかに曇る。

 

「これは嫌です」

 

「傷んでますか」

 

「置くと、周りも嫌になります」

 

 リュシアが、ネリスの手元を覗き込んだ。

 

「腐りが移るってことかい」

 

「たぶん。嫌なものが増えます」

 

 ネリスは、それ以上難しい言葉を使わなかった。

 

 けれど、澪には十分だった。

 

 農家の納屋で分けた芋も、時間が経てば状態が変わる。良いものと悪いものを一緒に置けば、使えるはずだった芋まで失う。

 

 大豆も同じだ。

 

 味噌や醤油を作るなら、良い変化と悪い変化を見分ける人が必要になる。

 

 ネリスは、台の上の大豆を一粒ずつ確かめていた。

 

 人の多い場所では落ち着かない。

 

 それでも、素材を見る時の目は真剣だった。

 

「ネリス」

 

 リュシアが声をかける。

 

「匂いが混ざらない場所があれば、もう少し見られるかい」

 

 ネリスは少し考えた。

 

「はい。嫌な匂いを、別に置ける場所も欲しいです」

 

「分かった」

 

 リュシアの返事は短かった。

 

 けれど、その目はもう屋台ではなく、別の場所を見ているようだった。

 

     

 

「話は聞いた」

 

 戸口から声がした。

 

 澪が振り向くと、真壁が立っていた。

 

 いつからそこにいたのだろう。

 

 真壁の視線は、作業台の上にある大豆ではなく、前籠から出したさつまいもへ向いている。

 

「真壁さん」

 

「芋を原料にした蒸留酒。実に面白い」

 

 声はいつも通り落ち着いている。

 

 だが、反応は明らかに早かった。

 

 真壁は、さつまいもを一つ手に取った。重さを確かめ、土の付いた皮を見ている。

 

「さつまいもは、澪君の国でも酒に化ける。麹で芋の力を引き出し、発酵させ、蒸留する。そこから先がまた――」

 

「真壁さん」

 

 澪は、もう一度呼んだ。

 

「何かね、澪君」

 

「この話は、リュシアさんの食品会社で進めます」

 

 真壁は黙った。

 

 怒ったわけではない。

 

 ただ、手にした芋を見たまま、澪の言葉を待っている。

 

「農家さんが安心して、美味しいお芋と大豆を作れるようにする話です。蒸留酒だけの話にしないでください」

 

 澪は、自分でも少し緊張していた。

 

 真壁の説明は、役に立つ。

 

 知識もある。

 

 設備も作れる。

 

 けれど、そのまま進めれば、芋の話が酒の話になりかねない。

 

 農家の納屋で、傷のある芋を持っていた男の顔を思い出す。

 

 大豆畑の土を触っていた手を思い出す。

 

 子供たちの身体を作る豆と、腹を満たす芋。

 

 そこを見失ってはいけない。

 

 リュシアが、少しだけ笑った。

 

「真壁殿が本気で喋ると、芋が酒になる前に蔵と瓶と帳簿になるからね」

 

 真壁は、手にしていた芋を籠へ戻した。

 

「承知した」

 

 声は静かだった。

 

「食品の商いは、リュシア君と澪君が進めるとよい。蒸留酒の話が必要になれば、呼びたまえ」

 

「はい。必要になったらお願いします」

 

 澪が答えると、真壁は頷いた。

 

 その視線が、一度だけ芋の籠へ戻った。

 

 本当に一度だけだった。

 

 澪は、それ以上は言わなかった。

 

     

 

 澪は、屋台の横に置かれた小さな水桶を見た。

 

 子供たちが、また水を運んでいる。

 

 一人が前を持ち、もう一人が後ろを持っている。足元に気をつけながら歩いているが、桶の縁から少しずつ水がこぼれた。

 

 ネリスは、屋台から流れてくる煙を避けるように、少しだけ身体をずらしている。

 

 リュシアは、細い裏道を見ていた。

 

 荷車が一台入れば、人が避けなければならない幅しかない。

 

 澪は、自分の中で言葉を整理した。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「食品会社の場所を探してもらえませんか」

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 屋台の水桶を見る。

 

 土の付いた芋を見る。

 

 匂いの多さに少し困っているネリスを見る。

 

 細い裏道へ視線を向け、荷車が通り過ぎるのを待った。

 

「水桶では足りぬ」

 

「水桶、ですか」

 

「芋を洗う水、手を洗う水、道具を洗う水。そこへ、流してよい水と、流してはならぬ水が加わる」

 

 真壁は、桶の縁からこぼれた水が土へ染み込んでいくのを見た。

 

「ここで始めれば、食品ではなく混ぜ物になる」

 

 リュシアが、屋台の裏道へ目を向けた。

 

「荷車も入らないね」

 

「道も要る。農家から荷が入り、町へ出る道だ」

 

 ネリスが、小さく言った。

 

「匂いが混ざらないところがいいです」

 

 真壁は頷いた。

 

「ならば、それも荷だ。鼻が乱れる場所では、発酵は見られぬ」

 

 少しだけ風が吹いた。

 

 串焼きの煙が通りへ流れていく。

 

 真壁は、その動きも見た。

 

「水、道、風。まず、その三つを見よう」

 

 澪は、ほっと息を吐いた。

 

 条件の合う場所を、いくつか見てもらう。

 

 リュシアと相談し、その中から使いやすい場所を選ぶ。

 

 そのつもりだった。

 

     

 

 翌日、澪が押し入れを抜けると、真壁はすでに戻っていた。

 

 六畳間には、昨日のまま大学のノートが置かれている。商会用に分けた紙片も、机の端にまとめてあった。

 

 真壁は、机の上に一枚の紙を置いた。

 

 リュシアとネリスも、少し遅れて六畳間へ入ってくる。

 

「水は見つけた」

 

 真壁が言った。

 

「見つかったんですか」

 

「湧き水です。飲み水に向く。洗い水にも使える。排水は別へ逃がせる」

 

 リュシアが紙を覗き込んだ。

 

「道は?」

 

「農家からの荷車が入る。町へ出す道も細すぎぬ」

 

 澪は安心した。

 

 思ったより早い。

 

 けれど、真壁なら一日で候補地を見つけても不思議ではない。

 

 地図もある。

 

 移動加速もある。

 

 水源と道を確かめるだけなら、十分に可能なのだろう。

 

「土地の話も済ませた」

 

 真壁が続けた。

 

 澪は、少しだけ止まった。

 

「土地の話、ですか」

 

「ええ。権利者と条件を合わせました」

 

 机の上の紙は、候補地の地図ではなかった。

 

 契約の控えらしい。

 

 リュシアが紙を持ち上げ、目を細める。

 

「早いね」

 

「条件が良かった」

 

 澪は、真壁を見た。

 

「確認させてください。場所を探す、という話でしたよね」

 

「水と道を見る話でした。どちらも良かった」

 

 真壁は、淡々と言った。

 

 それから、少しだけ間を置いた。

 

「器も整えた」

 

「器?」

 

「工場です」

 

 六畳間が静かになった。

 

 澪はすぐには言葉を返せなかった。

 

 リュシアも、契約書を持ったまま真壁を見ている。

 

 ネリスだけが、小さく首を傾げた。

 

「工場?」

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「そこまでは頼んでません」

 

「食品を扱う場所は、ただの空き地では足りぬ」

 

「候補地の話でした」

 

「候補地としても良い場所です」

 

「工場が建っている候補地は、候補とは言いにくいです」

 

 リュシアが、小さく息を漏らした。

 

 笑ったのだと思う。

 

 真壁は表情を崩さない。

 

「見るだけでは、使えるか分かりません」

 

「建てなくても、相談はできます」

 

「建てれば、より確かです」

 

 澪は、しばらく黙った。

 

 何を言っても工場はもう建っている。

 

 そこだけは、間違いないらしい。

 

「見に行きます」

 

「それがよい」

 

 真壁は、静かに頷いた。

 

     

 

 町を外れ、少し緩やかな坂を下りると、水の音が聞こえた。

 

 道は、農家の荷車が通れる程度には広い。町から離れすぎてはいないが、家々が密集する場所からは少し外れている。

 

 風が通る。

 

 土と草の匂いがする。

 

 屋台のように煙と油が重なる場所ではない。

 

 木々の間から、建物が見えた。

 

 派手ではない。

 

 石と木で作られた、横に長い建物だった。

 

 壁は厚すぎず、窓は小さすぎない。屋根の高さも、作業場として使いやすそうな程度に抑えられている。入口までの道には、荷車の車輪が通れる幅が残されていた。

 

 真壁は、立ち止まらずに中へ入った。

 

 澪たちも後に続く。

 

 最初に聞こえたのは、水の音だった。

 

 建物の脇から引かれた水が、石で囲まれた洗い場へ流れている。流れは細すぎず、濁りもない。手を洗う場所と、芋や大豆を洗う場所が少し離れていた。さらに、汚れた水は別の溝へ逃がせるようになっている。

 

 澪は、石の縁へ手を置いた。

 

 水へ指を入れる。

 

 冷たい。

 

 思ったよりも冷たく、澄んでいる。

 

「トト君が言っていました」

 

 澪は、水面を見たまま言った。

 

「焼く前に、ちゃんと洗うのかって」

 

 リュシアが、隣で水を見た。

 

「子供は、食べるところを見るからね」

 

「食品は、洗うところから始まる」

 

 真壁が言った。

 

「水が悪ければ、味も信用も落ちる」

 

 澪は、屋台の横で子供たちが運んでいた桶を思い出した。

 

 あの小さな水桶では足りない。

 

 芋を洗う。

 

 大豆を洗う。

 

 道具を洗う。

 

 働く人が手を洗う。

 

 食べ物を作る場所には、最初から水の流れが必要なのだ。

 

 澪が手を上げると、指先から冷たい雫が落ちた。

 

     

 

 洗い場の奥には、広めの作業台が並んでいた。

 

 リュシアは、まず入口から台までの距離を見た。

 

 次に、反対側にある扉を開ける。

 

 外には、荷車が直接寄せられる場所があった。

 

「ここまで入れるなら、農家も運びやすい」

 

 リュシアは、道の幅を確かめながら言った。

 

「荷を下ろして、すぐに洗えるね」

 

「はい」

 

 澪は作業台へ手を置いた。

 

 農家の納屋で、芋を籠へ分けた時のことを思い出す。

 

 町へ売るもの。

 

 来年の種に残すもの。

 

 早く使った方がよいもの。

 

 加工へ回せるもの。

 

 あの時は、納屋の床へ籠を並べた。

 

 ここでは、同じ考え方が建物の中の流れになっている。

 

「ここで洗って、あちらで分けるんですね」

 

 澪が言うと、真壁は頷いた。

 

「混ざる前に分ける場所が要る。食品は、あとから言い訳が利きません」

 

 作業場の奥へ進むと、風の抜ける場所があった。

 

 窓の位置が少し高い。

 

 屋根の下にも空気の通り道が作られている。

 

 干した芋や大豆を並べても、湿気がこもりにくい。

 

 リュシアは、指先で棚の間隔を確かめた。

 

「干し芋も試せる。豆も置ける」

 

「農家さんから買ったものを、すぐに全部売らなくてもいいんですね」

 

「そうだね。売る時期を選べる」

 

 倉庫には、棚が並んでいた。

 

 まだ空だ。

 

 それでも、澪には芋や大豆の袋が入った時の姿が少し見えるようだった。

 

 真壁は、倉庫の扉を開けたまま言った。

 

「荷は、入ればよいものではない。出せなければ倉が墓場になる」

 

 リュシアが、倉庫の奥から入口までを見た。

 

「どこに何を置くか、最初に決める必要があるね」

 

「はい。札も作ります」

 

 澪が答えると、リュシアは少し笑った。

 

「澪は、そこが早くなったね」

 

 澪は返事をしなかった。

 

 大学のゼミで、項目を増やしすぎたと教授に言われたことを思い出したからだ。

 

 分ければよいというものでもない。

 

 だが、食品は混ざると困る。

 

 分ける場所と、まとめる場所を考えなければならない。

 

     

 

 次の部屋へ入ると、ネリスが足を止めた。

 

 作業場より小さい。

 

 窓があり、風が穏やかに抜けている。

 

 棚と台が置かれているが、まだ何も載っていない。

 

 隣には、扉の重い部屋がある。

 

「こちらは、匂いを分ける部屋だ」

 

 真壁が言った。

 

「試すものは、一度に持ち込みすぎぬ方がよい」

 

 ネリスは、小さな袋を抱えたまま、部屋の中へ入った。

 

 台の上に芋の袋を置く。

 

 鼻を少し動かした。

 

 屋台にあった煙の匂いはしない。

 

 油もない。

 

 香草も煮汁も、人の汗も混ざらない。

 

「ここなら、芋だけ見られます」

 

 ネリスの声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「屋台だと、匂いが多いって言ってましたもんね」

 

 澪が言うと、ネリスは頷いた。

 

 リュシアは、隣の重い扉を開けた。

 

「こっちは?」

 

「悪くなったものを、別に置く部屋だ」

 

 真壁が答える。

 

「一つの失敗で、残りまで駄目にする必要はない」

 

 ネリスは扉の中を見た。

 

「嫌なものを、ここに置けます」

 

「それがよい」

 

 真壁は短く言った。

 

 リュシアは、確認部屋と隔離する部屋を交互に見た。

 

「発酵を見るなら、鼻を休ませる場所も要るわけだ」

 

「鼻が乱れる場所で品質を見るのは、品がない」

 

 真壁の言葉に、ネリスは少しだけ姿勢を緩めた。

 

 人の多い屋台では、ずっと肩に力が入っていた。

 

 この部屋なら、無理に人混みの中へ出なくてもよい。

 

 ネリスが芋の袋を持ち直す。

 

 その動作は、屋台にいた時よりも少しだけ落ち着いていた。

 

     

 

 工場を出た後も、建物は終わらなかった。

 

 少し離れた場所に、別の棟がある。

 

 煙突からは、まだ細い湯気が上がっていた。

 

 澪は、足を止めた。

 

「真壁さん。あちらは何ですか」

 

「寮だ」

 

「寮」

 

 澪は、思わず繰り返した。

 

 リュシアも隣で足を止めている。

 

「遠くの農家から来る者、町で雇う者、夜明け前の仕込みをする者が使える」

 

 真壁は、当然のように言った。

 

 澪は建物を見た。

 

 窓が並んでいる。

 

 大きくはない。

 

 けれど、人が寝泊まりするには十分な部屋数がありそうだった。

 

 ネリスが、湯気の方を見る。

 

「あちらは……」

 

「湯殿です」

 

 真壁は言った。

 

「食品を扱う手が汚れていては、品が落ちる」

 

 澪は、湯気の向こうへ視線を移した。

 

 その隣には、さらに別の入口がある。

 

「その隣は」

 

「食堂です」

 

「そこまで作ったんですか」

 

「食を扱う会社が、働く者の食を軽んじるのは品がない」

 

 澪は、すぐに言葉を返せなかった。

 

 工場の場所を探してほしい。

 

 確かに、そう頼んだ。

 

 けれど、寮まで頼んだ覚えはない。

 

 入浴施設も頼んでいない。

 

 食堂も頼んでいない。

 

 リュシアは驚いていた。

 

 だが、すぐに建物の配置を見始めた。

 

 工場から寮までの距離。

 

 湯殿の水。

 

 食堂へ荷を運ぶ道。

 

 屋台で働いている子供たち。

 

 農家から来る者。

 

 町で新しく雇う者。

 

 ネリスのように、人混みが苦手でも働ける者。

 

「これは、ただの工場じゃないね」

 

 リュシアが言った。

 

「食品会社の器です」

 

 真壁は、静かに答えた。

 

 澪は工場を振り返った。

 

 やりすぎている。

 

 間違いなく、やりすぎている。

 

 けれど、必要ではないと言い切れない。

 

 それが、一番困るところだった。

 

     

 

「こちらも見ておきたまえ」

 

 真壁が、工場の奥にある扉を開けた。

 

 保管庫だった。

 

 棚が並んでいる。

 

 そこまでは分かる。

 

 食品を扱うなら、器や道具を置く場所は必要だ。

 

 だが、澪は入口で足を止めた。

 

 棚には、ガラス瓶が並んでいた。

 

 大小の瓶がある。

 

 細口の瓶もある。

 

 広口の瓶もある。

 

 箱の中には、コルクの栓が詰められている。

 

 少しではない。

 

 かなりの量だった。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「これも用意したんですか」

 

「液体を扱うなら、器が要ります」

 

 真壁は、棚へ視線を向けた。

 

「発酵試験液、調味料の見本、小分けの保存、品質確認。瓶は役に立つ」

 

「味噌やお醤油の試験用、という意味ですね」

 

「無論です」

 

 リュシアが、棚の奥まで見た。

 

「量が多いね」

 

「試験は一つでは足りません」

 

 澪は、細口の瓶が並ぶ棚を見た。

 

 同じ大きさの瓶が、きれいに揃っている。

 

 中身を少しずつ変えて、比べるには使いやすそうだった。

 

 たとえば、蒸留した酒を小分けにして、条件を変える時にも。

 

「蒸留酒の試験にも、使うつもりですね」

 

 真壁は、少しだけ間を置いた。

 

「液体ですので」

 

「今、少し間がありました」

 

「澪君。器は用途を選びません」

 

「使う人が選びます」

 

 リュシアが、小さく笑った。

 

 真壁はそれ以上言わず、棚の奥へ進んだ。

 

 澪も後に続いた。

 

 そして、保管庫のさらに奥で、小さな札を見つけた。

 

 熟成室。

 

 澪は、その文字を見た。

 

 次に、真壁を見た。

 

 真壁は、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「これは、何の部屋ですか」

 

「将来、蒸留酒候補が出た時に、置き場所が必要になるでしょう」

 

「食品会社のためですか」

 

「食品には、時を置くものもあります」

 

 澪は、黙ったまま真壁を見た。

 

 真壁も黙った。

 

 リュシアは、扉の横に立ったまま、少し面白そうに二人を見ている。

 

「……蒸留酒候補が出た時にも、使えます」

 

 真壁が付け加えた。

 

「澪。頼む相手を間違えたね」

 

 リュシアが言った。

 

「少し、そう思っています」

 

「水と道と器を整えただけです」

 

「熟成室まで頼んだ覚えはありません」

 

「先に部屋を作っておけば、酒が来ても慌てません」

 

「酒が来る前提ですね」

 

 真壁は答えなかった。

 

 ただ、品よく少しだけ微笑んだ。

 

 澪は、その扉を閉めた。

 

 完全に閉めてから、念のためもう一度札を見た。

 

 熟成室。

 

 見間違いではなかった。

 

     

 

 工場の外へ出ると、午後の風が草を揺らしていた。

 

 湧き水の音が聞こえる。

 

 荷車が通れる道がある。

 

 工場の中では、芋と大豆を洗える。

 

 分けられる。

 

 乾かせる。

 

 悪くなったものは、別に置ける。

 

 ネリスは、人混みの中へ無理に出なくても、匂いを確かめられる。

 

 働く人は、食堂で食べられる。

 

 身体を洗える。

 

 寮で休める。

 

 澪は、リュシアを見た。

 

 リュシアは工場の入口に立ち、道を見ている。

 

 農家から荷が来る道。

 

 町へ品物を出す道。

 

 人が働きに来る道。

 

 視線は忙しく動いているが、表情は落ち着いていた。

 

「澪」

 

「はい」

 

「これは、もう始められる形だね」

 

「早すぎますけど」

 

「早すぎる。でも、悪くない」

 

 リュシアは、工場を振り返った。

 

「農家から芋と豆を買う。ここで洗って、分けて、乾かす。ネリスに見てもらう。屋台で試す。町へ出す。人も雇える」

 

 押入商会に溜まっていた金貨が、澪の頭に浮かんだ。

 

 現代へ持ち帰っても、そのままでは使いにくい金貨。

 

 収納の中に置いておけば、ただ重いだけの荷。

 

 けれど、この世界で農家へ払えば、来年の畑になる。

 

 人を雇えば、仕事になる。

 

 道具を買えば、工場が動く。

 

 食堂で使えば、誰かの食事になる。

 

 寮を使う人が増えれば、寝床になる。

 

「金貨が、やっと働きますね」

 

 澪が言うと、リュシアは頷いた。

 

「寝かせておくより、ずっといい」

 

 その言葉に、澪は一瞬だけ熟成室の方を見た。

 

 真壁も、少しだけそちらを見た。

 

 澪は何も言わなかった。

 

 今は、食品会社の話だ。

 

 蒸留酒は、まだ先でよい。

 

 たぶん。

 

     

 

 澪は、もう一度洗い場へ戻った。

 

 石の縁へ手を置き、水に指を浸す。

 

 冷たい。

 

 澄んでいる。

 

 農家の土が付いた芋を洗う水。

 

 大豆を洗う水。

 

 働く人の手を洗う水。

 

 トトが気にした、焼く前に洗う水。

 

「まずは、洗うところからですね」

 

 澪が言うと、リュシアも水場へ近づいた。

 

「食品の商いは、清い水からだね」

 

 ネリスは、芋の入った小袋を抱え、発酵を見る部屋の方を見た。

 

「ここなら、嫌なものを分けられるかもしれません」

 

「お願いします」

 

 澪が言うと、ネリスは小さく頷いた。

 

 真壁も満足そうに頷いた。

 

 そのまま、熟成室の扉をそっと閉めようとする。

 

 澪は見逃さなかった。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「その部屋は、後で確認します」

 

「品よくお願いします」

 

「確認する側の台詞です」

 

 リュシアが笑った。

 

 水の音は変わらず続いている。

 

 工場は、少し早すぎた。

 

 まだ会社の名前も決まっていない。

 

 味噌も醤油も、干し芋も、菓子も、蒸留酒も、これから試すものばかりだ。

 

 それでも、水がある。

 

 荷を運ぶ道がある。

 

 働く人が食べ、身体を洗い、眠れる場所がある。

 

 ネリスが発酵を見られる部屋がある。

 

 リュシアの食品会社は、名前より先に、動き出すための器を得ていた。

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