倉庫の中には、まだ新しい木の匂いが残っていた。
扉を開けると、乾いた床板の上を、外から入った光が長く滑っていく。壁際には棚があり、大小のガラス瓶が並び、箱に収められたコルク栓が、使われる時を待っていた。
瓶はある。
袋もある。
荷札も、紐も、秤もある。
けれど、中央には広い空間が残っていた。
澪は、倉庫の入口で足を止めた。
工場の中を初めて歩いた時には、真壁が用意した設備の多さに気を取られていた。洗い場があり、発酵を試す部屋があり、失敗したものを分ける部屋まであった。寮も、湯殿も、食堂もある。
あまりにも揃いすぎていた。
そのため、もっと単純なことを見落としていた。
「空ですね」
澪が言うと、隣に立っていたリュシアも、倉庫の中を見回した。
「広いね」
「そうではなくて」
「分かってるよ」
リュシアは小さく笑った。
棚の前では、ネリスがガラス瓶を一つ手に取っていた。瓶の口を覗き込み、次にコルク栓を指先でつまむ。人の多い屋台にいた時よりも、呼吸が少しだけ静かだった。
真壁は、倉庫の奥へ歩いていった。壁、棚、床、搬入口を順に見てから戻ってくる。本人が作った建物なのだから、今さら確認する必要もなさそうだったが、真壁は何も言わなかった。
澪は、収納から農家で預かった芋を数本だけ出した。
土の付いたさつまいもを机へ置く。続けて、小さな袋に分けていた大豆を出した。
帳面を開き、鉛筆を持つ。
農家で食べる分。
次に植える分。
種芋として残す分。
大豆は、次の夏に播く分も必要になる。
全部を加工へ回してよいわけではない。
澪は、数字を書いては消した。
線を引き直した。
芋の横に置いた大豆を、指で数粒だけ動かす。
帳面の中で用途を分けるたびに、加工へ回せる欄が細くなっていった。
リュシアが、澪の肩越しに帳面を見る。
「足りない?」
「足りません」
澪は、鉛筆を止めた。
「これ、加工へ回したら駄目です。種芋も必要ですし、大豆も次に植える分を残さないと」
リュシアは、帳面の種芋と書かれた欄を指先でなぞった。
「最初の商品を作ったら、次の畑が空になるね」
「はい」
澪は、机の上の芋を見た。
農家の納屋に積まれていた時には、たくさんあるように見えた。
けれど、売る分、食べる分、植える分へ分けると、急に少なくなる。
「農家さんに、安心して作り続けてもらうための会社です。最初から使い切るわけにはいきません」
ネリスが、大豆を数粒だけ掌へ載せた。
「増やす分は、残す?」
「はい」
「食べる分も、残す?」
「残します」
澪が頷くと、ネリスは少しだけ安心した顔をした。大豆を袋へ戻し、口を丁寧に閉じる。
「加工の試験に使う分は、別に用意します」
それまで黙っていた真壁が、棚の前で頷いた。
「結構」
声は静かだった。
「畑を痩せさせて倉を満たすなど、商いとしては少々品がない」
澪は、空いた倉庫をもう一度見た。
瓶と棚だけが、整然と並んでいる。
「最初の分は、私の世界から持ってきます」
リュシアは少し驚いたが、すぐに倉庫の中央へ目を戻した。
「持ってこられるのかい」
「量を出してみないと、分かりません」
澪は帳面を閉じた。
「たぶん、少しでは済まないと思います」
真壁が、倉庫の扉を開けた。
「では、六畳間で勘定を整えよう」
言い方は穏やかだった。
けれど、澪には少しだけ嫌な予感がした。
六畳間の卓上へ、帳面と電卓が並んだ。
本棚の最上段には、古い燭台が白い布の上に置かれている。その横の水は、朝のうちに取り替えてあった。
澪は電卓のボタンを押した。
味噌を試す。
醤油も試す。
芋は、干す。粉にする。焼く。蒸す。保存する。
子供たちにも食べてもらいたい。
農家にも見本を渡したい。
失敗した時には、何が駄目だったのか比べる分も要る。
一度に大量生産するわけではない。
けれど、一回だけ作って終わるわけにもいかない。
現地に残せる形にするなら、何度か試し、記録し、作り方を分けなければならない。
澪は数字を書き直した。
電卓を叩く。
もう一度、書き直す。
さつまいもの欄で、手が止まった。
「二トン……」
「ふむ」
向かい側に座っていた真壁が答えた。
澪は、帳面を見たまま顔を上げない。
「真壁さん。芋を二トン買うことになりました」
真壁は、澪の帳面へ視線を落とした。
「紙の上では二文字だが、受け取れば二トンだ」
「読み上げないでください」
「数字は、口に出した方が重さを持つ」
澪は返事をしなかった。
芋の下へ、大豆の欄を作る。
計算する。
数字を書き込む。
「大豆、五百キロ」
「味噌と醤油を試すなら、豆は外せまい」
真壁は、落ち着いた声で言った。
「畑へ戻す分を削るより、こちらから入れる方が筋だ」
「五百キロも、ですか」
「芋よりは軽い」
「比較する相手が二トンだからです」
澪は、少しだけ真壁を見た。
真壁は真顔だった。
冗談で言っているわけではない。
そのことが、余計に困る。
澪は視線を帳面へ戻した。
「塩も要ります」
「無論だ」
保存する。
味噌にも使う。
醤油にも使う。
腐らせないためにも必要になる。
塩は、保存が利く。
最初から多めに買っておいても困らない。
澪は、少し迷ってから数字を書いた。
「塩、三百キロ」
「悪くない」
真壁は、帳面の端を軽く押さえた。
「工場へ入れる荷だ。買い物籠で済む量ではあるまい」
「普通の買い物ではなくなっています」
「左様」
「工場を作ったのは、真壁さんです」
「器を整えただけだ」
「寮とお風呂と食堂まで付いた器でしたけど」
真壁は、その部分には答えなかった。
数秒ほど帳面を見てから、別の紙片へ目を移す。
「麹菌も要るな」
「あ」
澪は止まった。
そのまま、鉛筆を持ち直す。
「忘れてました」
「食を扱う商いで、種を忘れるのは感心せんな」
「すみません」
澪は欄を増やした。
乾燥米麹。
麹を作るための米。
醤油を試すなら小麦も要る。
種麹。
酵母。
保存する袋。
容器。
荷札。
真壁が横から、必要なものを一つずつ拾う。
澪は、言われるたびに帳面へ書き足した。
項目が増える。
数字も増える。
書く場所が足りなくなり、別の紙を出した。
「真壁さん」
「何かね、澪君」
「食品会社って、こんなに買うんですか」
「まだ試しの荷にすぎん」
「それで二トンです」
「左様」
真壁は、わずかに目を細めた。
「始める前に重さを知る。悪くないことだ」
澪は、机の上に増えた紙を見た。
工場を作る。
原料を入れる。
試す。
保存する。
売る。
農家へ次の注文を出す。
頭の中で、今まで別々に見えていたものが、少しずつつながっていく。
つながるたびに、数字も増えていった。
「明日、大学なんですが」
「承知している」
「仕入先を調べて、電話して、受取日を決めて、二トンの芋を受け取る段取りまで、今日中に全部は無理です」
真壁は、澪が書いた紙を手に取った。
「私が交渉してこよう」
澪は顔を上げた。
「君は大学へ行きたまえ」
「任せて大丈夫ですか」
「必要な荷は、澪君が決めた」
真壁は、紙を一枚ずつ重ねた。
「私は、それを動かせる形へ整えるだけだ」
澪は、少しだけ迷った。
「勝手に増やさないでください」
「承知した」
澪は、真壁を見る。
真壁も、澪を見る。
静かな間があった。
「努力はしよう」
「今、言い直しましたよね」
真壁は返事をせず、携帯電話を手に取った。
電話は、思ったより早く進んだ。
真壁は、卓上に置かれた帳面を開いたまま、必要な箇所へ細い紙片を挟んでいた。
「加工用の芋を、二千キロお願いします」
電話の向こうで、少し長い返事があった。
「形は問いません。傷みだけは、分けていただきたい」
真壁は、鉛筆で一つ印を付けた。
「無論、こちらで引き取ります。二日後で結構」
通話を切る。
次の番号を押す。
「大豆は五百キロ」
短く確認する。
「塩は三百キロです。袋は分けてください。札はこちらで付けます」
また印が増える。
乾燥米麹。
米。
小麦。
種麹。
酵母。
保存用の袋と容器。
真壁は、電話の向こうへ必要なことだけを伝えた。相手の返事を待ち、受取日と数量を確認し、紙の端へ小さく書き込む。
別の電話では、発酵試験用の資材を確認する。
「発酵試験用です」
短い間を置く。
「種類ごとに分けてください。混ぜる必要はありません」
長く話さない。
けれど、抜けがない。
澪は、大学へ持っていく鞄へ教科書を入れながら、その様子を見ていた。
「もう決まったんですか」
「荷を買う話だ」
真壁は、次の紙へ印を付けた。
「要るものが見えているなら、長話は無粋だろう」
「私がやったら、もっと時間がかかります」
「最初は、それでよい」
真壁は、電話を置いた。
「早さより、札を違えぬことだ」
澪は、鞄の口を閉じた。
急がなくてよいと言われた気がした。
同時に、真壁が澪の代わりに全部決めたわけではないことにも気づく。
何を買うかは、澪が決めた。
真壁は、それを荷として動かせる形へ整えただけだ。
「行ってきます」
「気を付けて行きたまえ」
澪は靴を履いた。
扉を閉める直前に、もう一度だけ振り返る。
「本当に、増やさないでください」
真壁は、別の電話番号を押しながら答えた。
「善処しよう」
「減ってます」
講義室の窓から入る光は、少しだけ秋らしくなっていた。
澪は、教授の話を聞きながら、ノートへ要点を書き留める。
教室の前方では、スクリーンへ資料が映されている。
隣の席では、誰かが小さくキーボードを叩いていた。
いつもの大学だった。
ただし、澪の収納の中では、別の帳面も開いていた。
講義の要点。
レポートの提出期限。
ゼミの連絡。
受取日は二日後。
芋は二トン。
大豆は五百キロ。
塩は三百キロ。
麹関係の資材は、種類ごとに分ける。
保存容器は、発酵試験用と見本用を混ぜない。
収納内の紙片が、順番に分かれていく。
以前なら、一つ気になることがあるだけで、頭の中がいっぱいになっていた。
今も、不安がなくなったわけではない。
むしろ、食品会社を始めると決めてから、考えることは増えている。
けれど、一つずつ分ければ、全部を同時に抱えなくてもよい。
講義が終わり、昼休みになった。
澪は学食へ移動した。
混雑する時間を少し外し、端の席へ座る。
小鉢の中に、煮物が入っていた。
その中に、さつまいもが数切れあった。
澪は、箸を止めた。
十キロの箱なら、二百箱。
目の前にあるのは、三切れ。
買うのは、二トン。
想像しようとしたが、うまくいかない。
「篠原さん、どうしたの?」
向かい側から声をかけられた。
澪は、顔を上げた。
「芋が……少し多くて」
相手は、小鉢を見る。
「その小鉢?」
「いえ。何でもありません」
澪は、煮物を一切れ口へ入れた。
甘い。
普通の味だった。
その普通の味を、異世界の子供たちにも食べてもらいたい。
農家には、安心して作り続けてもらいたい。
そのために必要な量が、二トンだった。
澪は、もう一切れ食べた。
数字はまだ重かった。
けれど、買う理由は、少しだけ分かっていた。
大学から帰ると、六畳間の卓上に書類が並んでいた。
澪は鞄を下ろしかけて、動きを止めた。
紙の束が、種類ごとに分けられている。
見積書。
受取予定。
請求書の控え。
振込記録。
保存資材の一覧。
真壁は、書類の端を揃えていた。
「おかえり、澪君」
「ただいま戻りました」
澪は、卓上を見た。
「もう全部、決まったんですか」
「左様」
真壁は、一枚の紙を澪の方へ向けた。
「およそ百二十万円だ」
澪は、鞄を置く途中で止まった。
「百二十万円」
「左様」
「芋と大豆と塩ですよね」
「麹菌と保存資材も含む」
「入っていても、百二十万円です」
澪は椅子へ座った。
紙を見る。
数字を見る。
もう一度、紙を見る。
自分の一か月分の給料よりは少ない。
けれど、大学生が気軽に払える金額ではない。
食品会社へ出資すると決めたのは、自分だ。
リュシアにやってもらうと言っておいて、最初の原料代だけ誰かに任せるわけにもいかない。
「私が出します」
澪は言った。
「食品会社へ出資すると決めたのは、私ですから」
「その必要はない」
真壁は、書類の端を揃えた。
「でも」
「会社の荷を、澪君の財布で買う必要はあるまい」
真壁は、別の紙を重ねる。
「押入商会の口座から出す」
澪は瞬きをした。
「会社の口座から?」
「左様」
「百二十万円ですよ」
「芋を二トン買って傾くようでは、商会を名乗るには少々心許ない」
「基準がおかしくなっています」
澪は、書類を一枚ずつ見た。
振込記録。
受取日。
数量。
保存方法。
荷札。
真壁は、全部を動かす前に、すでに紙の上で分けていた。
「法人口座から出して、大丈夫なんですか」
「明石君とは、すでに筋を通してある」
澪は顔を上げた。
「もう相談したんですか」
「荷を動かす前に、札を付けた。それだけだ」
「私が大学にいる間に?」
「君は大学へ行く日だった」
真壁は、何でもないことのように言った。
澪は、卓上に並んだ紙を見る。
明石さんと話す。
仕入先へ連絡する。
受取日を決める。
振込記録を残す。
その全部が、澪が講義を受け、学食で芋を見ていた間に進んでいた。
「早すぎませんか」
「遅らせる理由もあるまい」
真壁は、一枚の紙へ指を置いた。
「今回は、荷を買うだけの話でもない」
澪は、真壁の指先を見る。
「これで、何が変わるんですか」
真壁は、少し間を置いた。
「既にある白金にも、ようやく道が付く」
澪は、すぐに返事ができなかった。
「白金のストック、ですか」
「左様」
押入商会の収納には、すでに白金がある。
異世界側で集め、出所を分け、必要な分だけ錬成し、保管してきた。
価値は高い。
けれど、高いからこそ扱いが難しい。
突然、大量に現代側へ出せば、説明が付かない。
「現物だけが積み上がるのは、美しくない」
真壁は、並べた書類を見た。
「仕入れも、出資も、記録も揃えば、明石君も筋を引ける」
澪は、請求書の控えを手に取った。
現代側で商品を仕入れる。
リュシアの会社へ、出資として原料を入れる。
向こうで、実際に食品会社が動く。
帳面が残る。
荷札が残る。
全部を一度に理解できたわけではない。
けれど、白金だけが不自然に積み上がるよりは、商売として説明できるものが増える。
「換金しやすくなるんですね」
「必要な分を、必要な時に動かす」
真壁は頷いた。
「それでよい」
澪は、少し息を吐いた。
「現代側は、しばらく大丈夫そうですね」
「白金だけに寄せる必要もない」
真壁は、書類を一つにまとめた。
「白砂もある。チタンもある」
澪は、真壁を見る。
「荷の道は、幾筋かあった方がよい」
真壁の声は静かだった。
白金だけに頼る。
白砂だけに頼る。
チタンだけに頼る。
それでは、どこかで詰まる。
澪にも、少しだけ分かる。
「分かりました」
澪は、百二十万円と書かれた紙を、もう一度見た。
「でも、二トンですよ」
「無論だ」
「本当に一人で受け取るんですか」
「二日後に、私が行こう」
真壁は、書類袋の口を閉じた。
「収納は、そのためにある」
二日後の朝。
真壁は、書類袋の中身を確認していた。
受取予定表。
納品書。
荷札。
筆記具。
収納の食品区画。
塩の保管区画。
麹関係の資材を入れる区画。
保存容器。
澪は、大学へ向かう準備をしながら、その様子を見ていた。
「では、行ってくる」
「本当に、一人で大丈夫ですか」
「順序は決めてある」
真壁は、書類袋を持ち上げた。
「後は、札を違えなければよい」
「二トンですよ」
「収納は、荷を持ち帰るためのものだ」
澪は、少しだけ視線を逸らした。
「最近まで、武器ばかり入っていた気がします」
「ようやく商人らしい使い方になった、と言ってくれたまえ」
「武器を入れている時も、商人だと言っていましたよね」
「道を守る荷だった」
「今回は芋です」
「暮らしを守る荷だ」
真壁は、何もおかしいことを言っていない顔で答えた。
「大差はあるまい」
「あります」
澪は、小さく息を吐いた。
「行ってらっしゃい」
「行ってくる」
真壁は六畳間を出ていった。
その後の受け取りは、澪が見ていないところで進んだ。
真壁は、芋の箱を受け取り、納品書と数を照合した。
大豆の袋を分ける。
塩は、湿気を避けられる区画へ入れる。
麹関係の資材は、他の食品と混ぜない。
保存容器は、割れないようにまとめる。
箱と袋へ、内容、重量、受取日を書いた札を付ける。
薬品とも、防衛装備とも、混ぜない。
収納の中へ入れれば、外から見える荷はない。
けれど、見えないからこそ、順序を崩さない。
夕方。
澪が六畳間へ戻ると、真壁はすでに座っていた。
「受け取りは済んだ」
服装は、朝とほとんど変わっていない。
澪は、真壁を見た。
「二トンの芋を持って帰ってきた人には見えません」
「そう見えぬよう運ぶための収納だ」
真壁は、少しだけ頷いた。
「中では、整然としている」
「見えないのが、余計に怖いです」
「見せる必要もあるまい」
真壁は立ち上がった。
「では、向こうへ運ぼう」
工場の倉庫へ入ると、前に見た時と同じように、中央には広い空間が残っていた。
リュシアは、記録机の前に立っている。
ネリスは、確認部屋から出てきたところだった。
トトたち子供も、少し離れたところから倉庫の中を覗いている。
「持ってきたのかい」
リュシアが聞いた。
「無論だ」
真壁は、倉庫の床を見た。
通路。
棚。
搬入口。
人が動ける幅。
しばらく考えてから、最初の箱を出した。
木箱が、床へ静かに置かれる。
次の箱。
その隣へ、もう一箱。
土の匂いが、倉庫へ入った。
新しい木材と乾いた棚の匂いしかなかった空間へ、畑の匂いが少しずつ混ざっていく。
真壁は、無造作に積まない。
札の向きを揃える。
通路を残す。
箱を高くしすぎない。
澪は、帳面を持ち、札を確認した。
「加工用さつまいも。十キロ」
確認する。
次も、十キロ。
また次も。
箱が増える。
床の一角が埋まる。
壁際へ列が伸びる。
リュシアは、最初のうちは黙って見ていた。
けれど、箱が二十を超え、三十を超えても、真壁が次を出すため、さすがに口を開いた。
「まだあるのかい」
「まだ半分にも届いていない」
真壁は、次の箱を置いた。
リュシアは、倉庫の奥を見る。
「二トンって、こういう量なんだね」
「私も、数字で見ていた時は分かっていませんでした」
澪は、帳面へ線を引いた。
紙の上では、二トンと書くだけだった。
けれど、箱にすれば、場所を取る。
通路を考える。
積み方を考える。
崩れないようにする。
湿気も考える。
数字に、重さと場所が付いた。
芋箱が積み終わると、次は大豆の袋が出された。
袋を棚へ並べる。
塩は別の棚へ置く。
ざらりとした袋の表面へ、札を付ける。
ネリスは、芋の山よりも、別の小箱へ近づいた。
真壁が、乾燥米麹と種麹を分けて置く。
ネリスは、箱のふたを少しだけ開けた。
中へ顔を近づける。
「これが、良い菌の種?」
「はい」
澪は、ネリスの隣に立った。
「最初は、少しずつ試します。成功したものも、失敗したものも、分けて記録します」
ネリスは、匂いを確かめた。
「嫌なものと、違うものを残す?」
「お願いします」
ネリスは、箱のふたを静かに閉じた。
その間にも、トトたちは芋箱の前から動かなかった。
積み上がった箱を見上げている。
「これ、全部食べていいのか」
トトが聞いた。
リュシアが、振り向いた。
「全部食べたら、最初の日に会社が潰れるよ」
トトは、少し考えた。
「少しは?」
澪は笑った。
「味を見る分は、作りましょう」
トトの顔が明るくなる。
隣にいた子供たちも、少しだけ前へ出た。
リュシアは、その様子を見てから、記録机へ向かった。
帳面を開く。
芋箱の札を一枚、手に取る。
重さ。
内容。
受け取った日。
押入商会から入った荷であること。
一つずつ書く。
次に、大豆の袋。
塩。
麹関係の資材。
保存容器。
リュシアは、急がなかった。
ただ積まれた荷として扱わない。
澪は、現代側の納品書を開き、数字を照らし合わせる。
真壁は、二人の手元を見た。
「工場だけじゃないんだね」
リュシアが、帳面へ書きながら言った。
「はい」
澪は、次の札を渡した。
「最初の試験を始める分です」
リュシアは、札を受け取った。
芋箱を見る。
棚を見る。
ネリスが抱えた麹の箱を見る。
少し離れたところで、芋を見上げる子供たちを見る。
「分かった」
リュシアは、帳面へ書いた。
「預かった荷を、食べて終わりにはしないよ」
「お願いします」
「農家から買う道も、子供たちへ出す道も、ここから作る」
真壁が、静かに頷いた。
「結構」
倉庫には、荷が入った。
けれど、置いただけでは終わらない。
「荷は、置いただけでは仕事にならぬ」
真壁は、積み上がった箱を見る。
「動いてこそ、商いになる」
リュシアは、帳面を閉じなかった。
まだ書くことがある。
これからも増える。
そのことを理解した顔で、次の札を手に取った。
記録が一段落した頃、トトが芋箱の前へ戻った。
少し迷ってから、一番上ではなく、手の届くところにある箱を見た。
「一個だけ、焼いていい?」
リュシアが、帳面から顔を上げる。
「一個だけだよ」
「みんなで分ける」
トトは、両手で芋を一本持ち上げた。
澪は、その表面に付いた土を見る。
「洗ってからにしてください」
「分かってる」
トトは、芋を持って、洗い場へ向かった。
工場の水源から引いた水が、澄んだ音を立てて流れている。
冷たい水。
土の付いた芋を洗う水。
手を洗う水。
道具を洗う水。
トトが前に、焼く前にきちんと洗うのかと聞いた。
あの時は、屋台の横に、小さな水桶しかなかった。
今は、芋一本を洗うには、少し大きすぎるほどの洗い場がある。
トトは、小さな手で芋を持った。
冷たい水へ入れる。
土がゆっくりと落ちていく。
澪は、記録机へ戻った。
帳面の最後を確認する。
現代側で買った荷。
押入商会から、リュシアの会社へ入れた原料。
工場で受け取った記録。
紙の上では、数行で終わる。
けれど、顔を上げれば、倉庫の奥まで箱と袋が並んでいる。
味噌は、まだない。
醤油も、まだない。
干し芋も、菓子も、粉も、まだない。
真壁が気にしている蒸留酒も、もちろんまだない。
それでも、始めるための荷は入った。
現代側では、仕入れの記録が残った。
異世界側では、受け取った記録が残った。
収納の中に積み上がっていた白金にも、必要な時に動かすための道が、少しずつできていく。
澪は、帳面を閉じた。
真壁は、倉庫の箱と札を見て、静かに頷いた。
「空の倉よりは、いくらか品が出た」
「芋が積まれただけですよ」
「荷が入れば、倉も仕事を始める」
洗い場の方から、水音が聞こえた。
子供たちの小さな声も聞こえる。
澪は、そちらを見た。
冷たい水の下で、最初の芋から土が落ちていった。