押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第114話 醸造の授業

 

 六畳間の卓上には、朝から普段とは違う物が並んでいた。

 

 澪は、ノートパソコンの画面を指先で送りながら、保存しておいた動画を一つずつ開いていく。小型のプロジェクターは充電済みで、畳んだ白布の横には延長コードと温度計を置いた。帳面には昨夜のうちに大きく二本の線を引き、味噌と醤油、それぞれの工程を自分なりに整理してある。

 

 初めて見る人へ、一度に全部を教えるのは無理だ。

 

 澪自身も、調べ始めた時には、味噌と醤油が同じような材料から別々の道へ進むことに少し戸惑った。

 

 大豆を洗って、水へ浸すところまでは似ている。

 

 だが、味噌は柔らかくした豆を潰し、米麹と塩を合わせて樽へ詰める。

 

 醤油は蒸した大豆へ炒った小麦を混ぜ、醤油用の種麹を付けるところから始まる。そこから数日掛けて醤油麹を育て、塩水と合わせ、さらに長い時間を待つ。

 

「味噌だけでも、半年なんですよね……」

 

 澪は、動画の再生位置を確かめながら呟いた。

 

「醤油は、その前の麹作りからですし」

 

 卓上には、食品工場へ持ち込むために小分けした材料も置いてある。

 

 米麹の袋。

 

 塩。

 

 醤油用種麹。

 

 名前が似ている。

 

 けれど、役割は同じではない。

 

 説明する自分が混乱したら、聞く方はもっと困る。

 

 澪が帳面へ短い補足を書き加えていると、背後から静かな声がした。

 

「澪君」

 

「はい」

 

 振り返る。

 

 真壁は、机の上ではなく、本棚の最上段を見ていた。

 

 白い布を敷いた棚には、教会から預かった古い燭台が置かれている。その傍らには、朝のうちに替えた水が供えてあった。

 

「燭台の神さまにも、見ていただくべきだ」

 

 澪は、ボールペンを持ったまま止まった。

 

「神さまにも、ですか」

 

「左様」

 

 真壁は、ごく自然なことを口にしている顔だった。

 

「蔵には神棚が要る。職人だけで、麹を育てるものではない」

 

「……真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「急に、不思議なことを言い始めましたね」

 

「不思議ではない」

 

 真壁は、燭台から目を離さなかった。

 

「麹は生き物だ。人が手を掛け、火を見て、水を見て、時を待つ。ならば、見守っていただく方が品がよい」

 

 澪は、すぐには返事をしなかった。

 

 普通なら、神さまにも授業を見てもらおうと言われても困る。

 

 けれど、本棚の上にいる同居人は、普通ではない。

 

 朝の挨拶を確認する。

 

 水を替えたかどうかも見ている。

 

 何かを加工しようとすれば、磨きすぎるな、由来を消すな、盛るな、磨けと、鑑定欄を通して細かな注文を出してくる。

 

 声はない。

 

 けれど、意思はある。

 

 しかも、かなり細かい。

 

 澪は、古い燭台へ鑑定を掛けた。

 

────────────

古い燭台

現在地:本棚最上段

状態:暫定安置

供え:水

水交換:済

外出予定:食品工場

目的:味噌・醤油製法教育/麹育成準備

評価:見学希望

付記:水、携行推奨

────────────

 

 澪は、表示を読み終えてから、しばらく黙った。

 

「見学希望だそうです」

 

「結構」

 

「お水も持っていくように書いてあります」

 

「蔵へお招きするのだ。礼を欠いてはいかん」

 

 真壁は本気だった。

 

 澪は小さく息を吐き、水差しと供え用の器を収納へ入れた。それから、古い燭台へ両手を伸ばし、白い布ごと丁寧に持ち上げる。

 

 雑に収納へ放り込む気にはなれなかった。

 

「真壁さん」

 

「何かね」

 

「一緒に来るつもりですよね」

 

「無論だ」

 

 返事が早い。

 

「授業を見るだけですよ」

 

「承知している」

 

「口を出さないでくださいね」

 

 真壁は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「澪君が教えたまえ」

 

 妙に素直だった。

 

 その素直さが、澪には少しだけ気になった。

 

 

 

 

 

 食品工場の作業場には、朝の涼しい風が通っていた。

 

 大きな窓を開けると、洗い場から流れる水音がよく聞こえる。昨日までは新しい木材の匂いが強かった建物にも、運び込んだ芋の土と、乾いた大豆の匂いが少しずつ馴染み始めていた。

 

 作業台の前では、リュシアが帳面を開いている。

 

 ネリスは、その隣で米麹の袋を両手に持っていた。袋はまだ閉じたままだが、中身が気になって仕方がないらしい。

 

 トトと子供たちも集まっていた。

 

 だが、今日はそれだけではない。

 

 洗い場の近くには、腕まくりをした女性がいる。別の女性は頭巾を結び直し、排水溝へしゃがみ込んで、水がきちんと流れるかを確かめていた。大豆袋を載せた台車の車輪を押して、床の段差を見ている者もいる。

 

 全部で五人。

 

 年齢は少しずつ違う。

 

 けれど、どの手も、日々の炊事と水仕事で荒れていた。

 

「人が増えていますね」

 

 澪が言うと、リュシアは帳面から顔を上げた。

 

「子供だけで、豆を洗って樽へ詰められると思っていたのかい」

 

「いえ。そこまでは」

 

「百キロ動かすなら、大人の手が要るよ」

 

 腕まくりをした女性が、洗浄槽へ手を掛けた。

 

「洗い場は広いね。これなら、順番に流せる」

 

 排水溝を見ていた女性も立ち上がる。

 

「水が溜まらないなら悪くないよ。足元が滑ると、鍋より先に人が倒れるからね」

 

 澪は、真壁が工場を整えた時、水と排水を先に見ていたことを思い出した。

 

 あの時は、やりすぎではないかと思った。

 

 今も、少し思っている。

 

 けれど、実際に人が集まり、作業を始めようとすると、水が流れる場所と、荷を置く場所と、人がすれ違える道が必要になる。

 

「澪、それは何だい」

 

 リュシアが、澪の腕の中へ目を向けた。

 

「神さまです」

 

 口にしてから、澪は少しだけ迷った。

 

「……神さまの燭台です」

 

 リュシアは瞬きをした。

 

「授業を見てもらうのかい」

 

「そうなりました」

 

「誰が決めたんだい」

 

 澪は、隣に立つ真壁を見た。

 

 リュシアも見る。

 

 真壁は作業場をゆっくり見回し、壁際の小さな棚へ目を止めた。

 

「水の跳ねぬ場所がよい」

 

 作業台からは少し離れている。

 

 人が歩く通路からも外れていた。

 

 それでも、作業場と発酵試験室の扉を見渡せる。

 

「こちらなら、悪くない」

 

「最初から置く場所まで考えていましたよね」

 

 澪が聞いても、真壁は答えなかった。

 

 澪は棚を拭き、白い布を敷いた。その上へ燭台を置き、供え用の器へ水を注ぐ。

 

 トトが、少し離れた場所から覗き込んだ。

 

「それも、授業を見るのか」

 

「たぶん」

 

「分かるのか」

 

 澪は、白い布の上へ置かれた燭台を見た。

 

「私たちより、分かっているかもしれません」

 

 トトは少し考えた。

 

「味噌、食べたことあるのか」

 

「それは、私にも分かりません」

 

 リュシアが吹き出した。

 

 真壁は、燭台の位置と水の器を確かめると、作業場の後方へ下がった。

 

「真壁さんも、本当に見学するんですね」

 

「せっかくの授業だ」

 

 真壁は壁際へ立つ。

 

「見学しておこう」

 

「口を出さないでくださいね」

 

「承知した。澪君が教えたまえ」

 

 澪は、まだ少しだけ疑いながら、収納から白布とノートパソコンを取り出した。

 

 

 

 

 

 作業場の壁へ白布を掛け、小型のプロジェクターを台の上へ置く。

 

 澪が延長コードを壁際まで伸ばすと、トトの隣にいた子供が、コードの先を目で追った。

 

「そこから、火が来るのか」

 

「火ではありません」

 

 澪は、壁際の蓄電池へコードを差し込んだ。

 

 残量表示を確認する。

 

 授業に使う程度なら、まだ十分に余裕がある。

 

「屋根に付けた板が、太陽の光を電気に変えています。この箱に、少しずつ貯めてあります」

 

 トトが、蓄電池へ顔を向けた。

 

「太陽を箱に入れたのか」

 

「太陽そのものは入っていません」

 

「光だけ?」

 

「そう思っておいてください」

 

 リュシアが壁際の箱を眺めながら笑った。

 

「太陽そのものが入っていたら、工場が燃えるね」

 

 子供たちも笑う。

 

 澪はプロジェクターの電源を入れた。

 

 白布へ四角い光が浮かぶ。

 

 一人の子供が光の前へ手を伸ばし、白布へ大きな影を作った。面白そうに指を動かし始めたところで、澪が声を掛ける。

 

「あとで少しだけにしてください」

 

 子供は手を止めた。

 

「先に、食べ物の話をします」

 

 名残惜しそうに手を引っ込める。

 

 澪は最初の動画を再生した。

 

 白布の上で、水に浸された大豆が揺れる。

 

「最初は、味噌です」

 

 作業台へ、乾燥大豆の入った小袋を置く。その隣へ、米麹と塩を並べた。

 

「使うものは、この三つです」

 

 トトが、机へ身を乗り出す。

 

「豆と、塩と……これは?」

 

「米麹です」

 

 澪は袋を開けた。

 

 作業場へ、わずかに甘い匂いが広がる。

 

「お米に、良い働きをする菌を育てたものです」

 

 ネリスが、すぐに袋へ近づいた。

 

 澪が少量を手渡すと、ネリスは米麹を掌へ載せ、壊さないように指先でそっと転がした。

 

 匂いを確かめる。

 

 表面を見る。

 

 やがて、少しだけ目を細めた。

 

「います」

 

「菌が、ですか」

 

「はい」

 

 ネリスは、米麹を掌へ載せたまま頷いた。

 

「嫌なものじゃないです」

 

 少し間を置く。

 

「これは、元気です」

 

 人の多い場所では、いつも少しだけ小さくなるネリスの声が、今は僅かに明るい。

 

 澪は頷き、洗い場へ目を向けた。

 

「でも、汚れた手や道具で触ると、別のものも一緒に増えるかもしれません。だから、最初に手と道具を洗います」

 

 白布の上では、大豆を洗う手元が大きく映っている。

 

 澪は、豆が水の中で転がるところで動画を止めた。

 

「洗った大豆は、たっぷりの水へ浸します。乾いたままだと、火を入れても中まで揃いません」

 

「今日、作れないのか」

 

 トトが聞いた。

 

「今日だけでは作れません」

 

 動画を進める。

 

 水を吸った豆が鍋で煮られ、指で簡単に潰せる柔らかさへ変わっていく。画面が切り替わると、煮上がった大豆は、手の中で少しずつ形を失っていった。

 

「豆を潰すのか」

 

「はい」

 

「形、なくなるのか」

 

「なくなります」

 

 隣にいた子供が、白布を見たまま言った。

 

「泥みたいだ」

 

「食べ物を見て、最初に泥と言うんじゃないよ」

 

 リュシアが呆れた声を出す。

 

 澪は、動画の中の潰した大豆を見た。

 

「見た目は、少し似ていますけど」

 

「澪まで認めるのかい」

 

 子供たちが笑った。

 

 炊事に慣れた女性たちも、顔を見合わせて笑っている。

 

 澪は少しだけ恥ずかしくなりながら、動画を止めた。

 

 画面の中では、手袋をした手が米麹をほぐし、塩を加えていた。全体へ行き渡るように、底から丁寧に返していく。

 

「米麹と塩をよく混ぜます。これを、塩切り麹と言います」

 

 トトが、口の中で言葉を転がした。

 

「しおきり……」

 

「覚えにくかったら、最初は、麹と塩をよく混ぜると覚えてください」

 

「それなら分かる」

 

 潰した大豆が人肌程度まで冷まされ、塩切り麹と混ざる。手袋をした手は、固さを確かめながら、必要な時だけ茹で汁を少しずつ加えていた。

 

 やがて、出来上がったものが容器へ詰められる。

 

 手のひらで押し込むようにして、隙間を減らしていく。

 

「空気が残らないように詰めます」

 

 澪が説明すると、樽詰めを見ていた女性が、少しだけ頷いた。

 

「保存食と同じだね。隙間へ余計なものが入り込む」

 

「はい。空気へ触れるところは、なるべく少なくします」

 

 ネリスも、画面の中の手元を見つめていた。

 

「嫌なものが、入りにくくなる?」

 

「そうです」

 

 蓋を閉じた容器は、冷暗所の棚へ置かれた。

 

 札には、仕込んだ日が書かれている。

 

 画面が切り替わるたびに時間が進み、中の味噌は少しずつ色を深くしていった。

 

 トトは、動画と机の上の大豆を見比べた。

 

「これ、明日には食べられる?」

 

「無理です」

 

「明後日?」

 

「それも無理です」

 

 トトは、しばらく考えた。

 

「いつ?」

 

「半年くらい待ちます」

 

「半年……」

 

 子供たちも顔を見合わせた。

 

 半年という時間を、自分たちの暮らしへ当てはめているらしい。

 

 リュシアは、保管庫の方を見た。棚へ並ぶ樽と、まだ空いている区画を目で追いながら、帳面へ何かを書き込む。

 

「作って終わりじゃないんだね」

 

「はい」

 

 澪は頷いた。

 

「置いている間も、匂いと温度と表面を見ます。作った日と、確認した日も残します」

 

 リュシアは、帳面へ書き加えた。

 

「置く場所と札。それに、見る人も要るね」

 

 

 

 

 

 澪が次の動画へ切り替えると、白布へ蒸し上がった大豆が映った。

 

 その横では、小麦が香ばしく炒られている。

 

「次は、醤油です」

 

 澪は、小麦の入った袋を作業台へ置き、その隣へ醤油用種麹の小さな袋を並べた。

 

「醤油も大豆を使います。ただ、味噌より工程が多いです」

 

 白布の上では、炒った小麦が粉になる手前で粗く砕かれ、蒸した大豆と合わせられていた。職人の手が、その表面へ種麹を薄く振っていく。

 

「最初に、大豆と小麦を使って、醤油用の麹を育てます」

 

 澪は、醤油用種麹の袋へ指先を添えた。

 

「これは、醤油用の種麹です」

 

 トトは、米麹と小袋を交互に見た。

 

「味噌の白いのと違うのか」

 

「違います」

 

「名前、似てるのに」

 

「私も、最初は少し混乱しました」

 

 澪が袋を開けると、ネリスがすぐに顔を寄せた。

 

 米麹を見た時よりも、少し長く黙る。

 

 それから、指先を近づけた。

 

「こっちは、違います」

 

「違いますか」

 

「広がり方が違います」

 

 ネリスは、醤油用種麹の袋から、作業台の小麦へ目を移した。

 

「豆と小麦を待っています」

 

 澪は動画を進める。

 

 布の上には、大豆と小麦が薄く広げられている。

 

 職人が温度計を確かめ、熱がこもり始めると、固まりかけた材料を手でほぐしていく。空気を入れ、熱を逃がし、少し時間を置いてから、また温度計へ目を戻す。

 

 ネリスが、一歩だけ前へ出た。

 

「温かくなるんですか」

 

「麹自身が、熱を出します」

 

「熱すぎると?」

 

「良いものまで弱ります」

 

 澪は、職人が温度計を確認しているところで動画を止めた。

 

「だから、温度を見ます。必要なら、広げて冷まします」

 

「何度も見るんですか」

 

「はい。特に、増え始めた後は気を抜けません」

 

 ネリスは画面を見たまま、少し考えた。

 

「苦しくなる前に、分かればいい?」

 

「分かるんですか」

 

 澪が聞き返す。

 

 ネリスは、小さく頷いた。

 

「たぶん」

 

 白布の中では、醤油麹へ塩水が加えられ、どろりとした状態へ変わっている。

 

「これが、もろみです」

 

 画面の中では、時間の経過とともにもろみの色が深くなっていく。職人は定期的に中身を混ぜ、状態を見ていた。

 

 やがて、熟成したもろみが布へ移される。

 

 ゆっくり圧を掛けると、黒褐色の液体が細く流れ落ちた。

 

 トトが、思わず身を乗り出す。

 

「豆が、黒い汁になるの?」

 

「豆だけではありません」

 

 澪は、小麦と塩を指で示した。

 

「小麦と塩も使います」

 

 画面は、火入れと瓶詰めへ進んでいく。

 

 トトは、少し呆然とした顔で動画を見た。

 

「味噌より、ずっと遠いな」

 

「遠いです」

 

 澪が即答すると、子供たちが笑った。

 

 リュシアは、醤油用種麹の袋を手に取った。中身をこぼさないように慎重に持ち、袋の重さを確かめる。

 

「最初から全部を、この町で作るわけじゃないんだね」

 

「はい」

 

 澪は頷いた。

 

「最初は、現代側から持ってきた種麹を使います。作り方が分かってから、この町で作れる部分を増やします」

 

 リュシアは、小袋を机へ戻した。

 

「最初から欲張って失敗したら、豆も小麦も無駄になる」

 

「はい」

 

「なら、順番だね」

 

 リュシアは、動画の中で使われていた温度計を見た後、発酵試験室の扉へ目を向けた。

 

「味噌より、見る回数が多そうだ」

 

「多いです」

 

 澪も帳面へ書き加えた。

 

「混ぜる日も、温度を見る日も、忘れないように残します」

 

 作業場の後ろでは、真壁が一度だけ発酵試験室の扉へ目を向けた。

 

 本当に口は出さない。

 

 けれど、妙に真剣だった。

 

 澪は、少しだけ気になった。

 

 

 

 

 

 最後の動画が終わった。

 

 プロジェクターを止めると、白布から光が消える。

 

 リュシアは、机の上へ置かれた大豆へ手を伸ばした。

 

 指先で数粒を転がしたところで、動きが止まる。

 

「……あれ」

 

「どうしました?」

 

 澪が聞く。

 

 リュシアは、自分の胸元へ手を当てた。

 

 鑑定を掛けている。

 

 やがて、表示を見たまま少し目を見開いた。

 

「醸造スキル、生えている」

 

「えっ」

 

 澪も、反射的に自分自身へ鑑定を掛けた。

 

────────────

篠原 澪

取得:醸造1

────────────

 

 今までなかった技能が増えていた。

 

 澪は表示を見た後、古い燭台へ目を向けた。

 

 白い布の上で、燭台は何も言わない。

 

 供えた水の表面だけが、ほんの少し揺れている。

 

 ネリスも、自分へ鑑定を掛けた。

 

「私にも、あります」

 

 驚いている。

 

 けれど、それ以上に、机の上の米麹が気になるらしい。

 

 指先へ載せた米麹を改めて見ながら、少し首を傾げた。

 

「前より、分かります」

 

「何がですか」

 

「増えようとしているのが」

 

 ネリスは、米麹を壊さないように掌へ戻した。

 

「嬉しいです」

 

 リュシアは、すぐにトトを見た。

 

「トト。ちょっと、じっとしてな」

 

「何だ?」

 

「いいから」

 

 リュシアが鑑定を掛ける。

 

 表示を確かめると、今度は子供たちへ顔を向けた。

 

「あんた達も並びな」

 

「何で?」

 

「いいから。順番だよ」

 

 子供たちは互いの顔を見た。

 

 何が始まるのか分からないまま、作業台の前へ一列に並ぶ。

 

 リュシアは、一人ずつ鑑定を掛けた。

 

 昨日、水桶を運んでいた子。

 

 白布の前へ手を出しかけた子。

 

 札を書くことが気になっている子。

 

 炒った小麦の映像が流れた時、少しだけ鼻を動かしていた子。

 

 最後の一人まで確かめると、リュシアは小さく息を吐いた。

 

「……あんた達も生えている」

 

 トトが首を傾げた。

 

「何が?」

 

「醸造1だよ」

 

 トトは、自分の両手を見る。

 

「これで、味噌が早くできる?」

 

「それは早くなりません」

 

 澪が答えた。

 

「待つ時間は、待たないと駄目です」

 

「何だ」

 

 トトは、少し残念そうだった。

 

 リュシアは、今度は大人の女性たちへ顔を向けた。

 

「そっちの皆もだよ」

 

「私たちもかい」

 

「授業を聞いていたんだから、確認する」

 

 少し笑いながら前へ出た女性たちへ、リュシアは順番に鑑定を掛けていく。

 

 最後の一人を見終えると、帳面を持ったまま頷いた。

 

「全員、生えている」

 

 澪は、その言葉を聞いてから、作業場の後方へ目を向けた。

 

 真壁も、自分の表示を確認していた。

 

 静かに。

 

 何でもないことのように。

 

 その仕草を、澪は見逃さなかった。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「こうなること、予測していましたか」

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 古い燭台を見る。

 

 次に、机の上へ並んだ材料を見る。

 

「可能性は見ていた」

 

「だから、神さまにも見ていただくべきだと言ったんですか」

 

「蔵へ神さまをお招きしたのだ」

 

 真壁は、静かに答える。

 

「何も起こらぬ方が、少々不自然だろう」

 

 澪は、疑うような目を向けた。

 

「真壁さんも、醸造1を取っていますよね」

 

「授業は、静かに聞いていた」

 

「口を出さなかっただけですよね」

 

「学ぶ機会を逃すのは、品がない」

 

「最初から、そのつもりだったんですね」

 

「さて」

 

 真壁は、それ以上答えなかった。

 

 澪は、小さく息を吐いた。

 

 授業の途中で口を出さなかった理由まで、何となく分かった気がした。

 

 

 

 

 

 作業場から倉庫へ移ると、昨日運び込まれた大豆袋が壁際へ積まれていた。

 

 机の上に置いた一皿とは、量が違う。

 

 袋の列を見上げたトトが、目を丸くする。

 

「全部、洗うのか」

 

「全部は動かさない」

 

 リュシアは即座に答え、帳面を開いた。

 

「初めての仕事で、五百キロ全部を使って失敗したら、次がない」

 

 袋の列から、洗い場の方へ視線を移す。

 

「最初は百キロだね」

 

 澪は、帳面を覗き込んだ。

 

「味噌と醤油は、どう分けますか」

 

「味噌に七十。醤油に三十」

 

 リュシアは、鉛筆を動かした。

 

「残り四百は、乾いたまま倉へ置く」

 

 澪は頷く。

 

 食品会社としては、少なすぎない。

 

 けれど、最初から全部を賭けるほど無謀でもない。

 

 リュシアは、大人の女性たちを見る。

 

「子供だけで百キロの豆を動かす気はないよ。火を見る人、水を見る人、運ぶ人、札を見る人に分かれる」

 

 腕まくりをした女性が、洗い場の方へ歩いた。

 

「水はこちらで見るよ」

 

 頭巾を結び直していた女性は、台車へ載せた小分け容器を押す。

 

「豆は、持ち上げるんじゃなくて運びな。腰を痛めたら、明日の鍋が見られないよ」

 

 子供たちは、札と帳面と小さな網を持つ。

 

 トトは、網を掲げた。

 

「これで取るのか」

 

「軽いごみだけだよ」

 

 リュシアは、洗浄槽の脇へ立つ。

 

「豆まで捨てるんじゃないよ」

 

 

 

 

 

 味噌用として量った乾燥大豆七十キロは、小分けにして台車で運んだ。

 

 リュシアは、洗浄槽へ入れる前に、掌へ少量の豆を載せる。

 

 指先で転がし、色の違うものを一つ取り分けた。欠けた豆も別の皿へ移す。

 

 その上で、鑑定を掛けた。

 

────────────

鑑定結果

品名:乾燥大豆

用途候補:味噌仕込み

状態:概ね良好

乾燥状態:保管適正

混入:薄皮/微細な土埃/軽い夾雑物あり

要分離:変色豆/割れ豆/虫食い豆/異臭豆

次工程:洗浄

────────────

 

「豆そのものは悪くないね」

 

 リュシアは、掌に残った大豆を槽へ戻した。

 

「洗えば進められる。色の違うものと、割れたものは先に分けるよ」

 

 女性の一人が、取り分け用の皿を持つ。

 

「虫に食われた豆も、こっちでいいかい」

 

「そっちへ分けておいて。捨てるかどうかは、まとめて見てから決める」

 

 洗浄槽へ水を流す。

 

 底の近くから細かな泡が上がり、投入された大豆が緩やかに動き始めた。

 

 最初の排水は、少し濁っていた。

 

 水面には、薄い皮と軽いごみが浮いてくる。

 

 トトと子供たちは、小さな網を使って順番に掬った。

 

「これ、取る?」

 

「軽いごみは、そっちへ」

 

 リュシアは、水面へ目を向けた。

 

「豆まで捨てるんじゃないよ」

 

 排水を見ていた女性が、槽の脇へしゃがみ込む。

 

「まだ少し濁ってるね。もう一度流せばいい」

 

 ネリスは、分けられた豆を指先へ載せた。

 

 しばらく見てから、小さく眉を寄せる。

 

「これは、少し嫌です」

 

「なら、混ぜない」

 

 リュシアは、すぐに別の皿を指した。

 

「別の札を付けておくよ」

 

 水が澄んできたところで、洗い終えた大豆を味噌用の浸水槽へ送る。

 

 札を書く係になった子供は、リュシアへ時刻を確かめながら、浸水を始めた時間を書き込んだ。

 

 続いて、醤油用の大豆三十キロを洗う。

 

 洗浄槽は同じだ。

 

 けれど、札と浸水槽は別だった。

 

 トトは、二つの槽を見比べる。

 

「同じ豆なのに、分けるのか」

 

「洗うところまでは同じでいい」

 

 リュシアは、醤油用の札を槽へ掛けた。

 

「でも、ここから進む道が違う」

 

 澪も、隣から補足する。

 

「味噌にする豆は、明日柔らかくします。醤油にする豆は、蒸してから小麦と合わせます」

 

「同じ豆なのに?」

 

「同じ豆だからだよ」

 

 リュシアは、札の向きを直した。

 

「札を間違えたら、明日には分からなくなる。だから、最初から分けるんだよ」

 

 トトは、少しだけ納得した顔で札を見た。

 

 

 

 

 

 醤油用の小麦三十キロは、一度に炒らなかった。

 

 作業台の近くへ火口を用意し、大人の女性たちが交代で鍋を見る。

 

 木べらで粒を返していくと、乾いた小麦の匂いが少しずつ変わった。

 

 やがて、香ばしい匂いが作業場へ広がる。

 

 子供たちが自然に集まってきた。

 

 トトも鼻を動かす。

 

「これ、食べられる?」

 

 火加減を見ていた女性が、木べらを動かしながら笑った。

 

「今日は醤油にする分だよ」

 

「少しも?」

 

「少しも」

 

 トトは、鍋の中を惜しそうに見た。

 

 リュシアは、炒った小麦へ鑑定を掛ける。

 

 まだ少し早い。

 

 女性へ合図する。

 

「もう少しだけ」

 

 木べらが動く。

 

 粒の色が、もう少し深くなる。

 

 香りも強くなった。

 

 リュシアは、もう一度鑑定を掛けた。

 

「今だね」

 

 火を止める。

 

 炒った小麦は、広げて熱を逃がした後、粗く砕く。

 

 粉にはしない。

 

 一粒が、いくつかに割れる程度。

 

 子供たちは、何回目の鍋か、何時に炒り終えたかを札へ書く。

 

 ネリスも、冷ました小麦へ顔を近づけた。

 

「嫌じゃないです」

 

「豆と混ぜたら、どうなりますか」

 

 澪が聞く。

 

 ネリスは少し考えた。

 

「変わると思います」

 

 その言い方が、どこか楽しそうだった。

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 澪が食品工場へ入ると、保管庫の前で足が止まった。

 

 昨日まで普通だった木樽の蓋から、見覚えのない細い棒が伸びている。

 

 棒の先には、外から読める目盛りが付いていた。

 

 温度計だった。

 

 樽の横には、札を差し込むための細い枠も増えている。

 

 澪は、まだ使っていない樽へ近づき、札を一枚めくった。

 

────────────

樽番号:

仕込日:

樽内温度:

室温:

前回確認:

匂い:

表面状態:

次回確認:

────────────

 

 隣に置かれた保温箱を見る。

 

 醤油麹を育てるための箱にも、外から読める温度計が付いていた。

 

 蓋を開けなくても、中の温度が分かる。

 

 箱の脇には札差しがあり、確認した時刻と品温、室温、手入れをしたかどうかを書き込める紙が用意されている。

 

 澪は、ゆっくり振り向いた。

 

 真壁がいた。

 

 何事もなかったように、温度計の目盛りを確認している。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「何をしましたか」

 

「温度を見えるようにした」

 

 真壁は簡潔に答えた。

 

「聞いていません」

 

「醸造は、見えぬ変化を扱う仕事だ」

 

 真壁は、樽へ付けた温度計を見る。

 

「ならば、見えるものは増やした方がよい」

 

 澪は、保温箱へ目を向けた。

 

「こちらにも付いています」

 

「麹は、自ら熱を出す」

 

 真壁は、箱の蓋へ指先を置いた。

 

「見落としを、働く者の根性で埋めるのは品がない」

 

「醤油樽は、まだ使いませんよね」

 

「いずれ使う」

 

 真壁は、将来使う樽へ目を向けた。

 

「後から慌てて整える必要もあるまい」

 

「また、頼んだ範囲を超えています」

 

 真壁は、少しだけ間を置いた。

 

「醸造1を得た者として、最低限の仕事をしたまでだ」

 

「最低限ではありません」

 

 澪が言うと、後ろから足音がした。

 

 リュシアとネリス、それに大人の女性たちが入ってくる。

 

 リュシアは札差しを確かめ、保温箱と配線を見比べた後、最後に真壁を見る。

 

「困るけど、使えるね」

 

「使えるなら、よい器だ」

 

 真壁は、温度計の目盛りを確かめた。

 

「器は、扱う者の手を助けるためにある」

 

 澪は反論しようとした。

 

 だが、ネリスはすでに保温箱の温度計へ顔を近づけている。

 

 トトも札と鉛筆を持って走ってきた。

 

「数字、読むのか」

 

「今日からです」

 

 澪が答える。

 

 トトは、少しだけ胸を張った。

 

 

 

 

 

 一晩浸水させた味噌用の大豆は、水を吸って大きく膨らんでいた。

 

 リュシアは、柄杓ですくった豆を掌へ載せる。

 

 指先で押し、鑑定を掛けた。

 

────────────

鑑定結果

品名:浸水済み大豆

用途:味噌仕込み

吸水状態:概ね良好

吸水むら:少

異臭:なし

次工程:蒸煮

注意:加熱後、指で潰れる柔らかさを確認

────────────

 

「水は、ちゃんと入っているね」

 

 リュシアは、浸水槽から大鍋へ移す女性たちを見る。

 

「次は柔らかくする。煮上がったら、指で潰して見るよ」

 

「鍋は分けて回すよ」

 

 火口の前へ立った女性が答える。

 

「一度に詰め込みすぎたら、煮え方が揃わないからね」

 

 浸水した豆は、乾いた時よりも重い。

 

 台車と小分け容器を使い、子供たちには持たせない。

 

 トトたちは、火口から離れた場所で札を書き、鍋ごとの時刻を記録する。

 

 湯気が立つ。

 

 豆の匂いが、作業場へ広がる。

 

 煮上がった大豆を、女性の一人が指先で摘まんだ。

 

 力を入れなくても、豆は柔らかく崩れる。

 

「これなら潰せるね」

 

 隣の女性が、湯気の向こうから声を掛けた。

 

「冷えすぎる前に、順番に運びな」

 

 潰した大豆は、人肌程度まで冷ます。

 

 その間に、別の作業台では米麹と塩を混ぜていた。

 

 ネリスは、米麹を掌へ載せる。

 

 しばらく見てから、頷いた。

 

「います」

 

 澪が隣へ立つ。

 

「元気ですか」

 

「はい」

 

 ネリスは、少しだけ嬉しそうに目を細めた。

 

「ちゃんと残っています」

 

 リュシアも米麹へ鑑定を掛ける。

 

────────────

鑑定結果

品名:米麹

用途:味噌仕込み

状態:良好

香り:正常

麹の広がり:概ね均一

異臭:なし

異常発熱:なし

次工程:塩切り麹

注意:湿気と汚れを避けること

────────────

 

「状態は悪くないね」

 

 リュシアは、麹を混ぜている女性たちへ声を掛けた。

 

「底も返して。上だけ混ぜて終わりにするんじゃないよ」

 

「分かってるよ」

 

 女性は笑いながら、大きな容器の底から麹を返した。

 

「保存食は、見えないところを雑にしたら、後で泣くことになるからね」

 

 塩切り麹と潰した大豆を合わせる。

 

 大人の女性たちは、手分けして混ぜた。

 

 子供たちは、樽番号を書き、仕込みの日付を記録する。

 

 混ぜ終えた味噌は、複数の中型樽へ分けて詰める。

 

 樽詰めを担当した女性は、手のひらで端まで丁寧に押し込んだ。

 

「隙間を残すんじゃないよ」

 

 トトが、少し離れた場所から見る。

 

「空気が入ったら駄目なのか」

 

「余計なものが増えやすくなる」

 

 リュシアが答えた。

 

「だから、最初に丁寧に詰めるんだよ」

 

 樽の蓋を閉じる。

 

 札差しへ、仕込日と樽番号を書いた札を入れる。

 

 真壁が付けた温度計の目盛りを、子供の一人が読み上げた。

 

 リュシアは、それを帳面へ書き込んだ。

 

 

 

 

 

 醤油用の大豆三十キロも、一晩のうちに水を吸っていた。

 

 こちらは、味噌用とは別の槽から取り出す。

 

 別の台車へ載せる。

 

 蒸した後は、表面の余分な水分を飛ばしながら冷ます。

 

 澪は温度計を見た。

 

 まだ少し高い。

 

「もう少し待ちます」

 

 リュシアが、隣から温度計を見る。

 

「熱いままだと駄目なんだね」

 

「はい。良い菌まで弱ります」

 

 ネリスも、蒸した大豆と小麦へ顔を近づけた。

 

「まだ、少し待った方がいいです」

 

 大人の女性たちは、手を止めた。

 

 急がない。

 

 待つ。

 

 温度計の針が少し下がる。

 

 ネリスは、もう一度、大豆と小麦の表面を見た。

 

「今なら、大丈夫です」

 

 澪は、醤油用種麹の袋を開けた。

 

 ネリスは、少しだけ目を細める。

 

「こっちは、広がり方が違います」

 

「豆と小麦を待っていたんですよね」

 

「はい」

 

 澪が言うと、ネリスは小さく頷いた。

 

「待ってました」

 

 種麹を、全体へ薄く振る。

 

 一か所へ偏らせない。

 

 大人の女性たちは、蒸した大豆と粗く砕いた小麦を丁寧に混ぜていく。

 

 リュシアは、種付け直後の状態へ鑑定を掛けた。

 

────────────

鑑定結果

品名:醤油麹仕込み

状態:種付け直後

混合:概ね均一

種麹の偏り:少

品温:経過観察

異臭:なし

次工程:製麹

注意:厚く積みすぎないこと

次回確認:指定時刻

────────────

 

「一か所へ固めない」

 

 リュシアは、保温箱へ運ぶ女性たちへ声を掛けた。

 

「箱へ薄く広げるよ。熱がこもったら、良いものまで弱る」

 

「子供たちは、札を持ちな」

 

 女性の一人が、トトたちへ声を掛ける。

 

「箱の番号を間違えるんじゃないよ」

 

 材料は、複数の保温箱へ分けて広げた。

 

 トトは、箱番号と開始時刻を書き込む。

 

 温度計の目盛りも見る。

 

「これで、醤油になるのか」

 

「まだです」

 

 澪が答えた。

 

「まず、醤油麹を育てます」

 

「まだ遠いな」

 

「遠いです」

 

 澪が答えると、トトは少しだけ肩を落とした。

 

 けれど、札へ次の確認時刻を書き込む手は止めなかった。

 

 

 

 

 

 種付けから時間が経った。

 

 発酵試験室は、静かだった。

 

 窓から入る光は弱く、保温箱の外へ付けられた温度計だけが、少しずつ変化している。

 

 トトが、前回の札と温度計を見比べた。

 

「数字、上がってる」

 

 リュシアが、箱の脇へ差し込まれた札を抜く。

 

 前回の確認時刻と、前回の品温を見た後、温度計へ目を向ける。

 

 数字は、確かに上がっている。

 

 リュシアは、保温箱へ鑑定を掛けた。

 

────────────

鑑定結果

品名:醤油麹

状態:製麹初期

品温:上昇中

麹の広がり:良好

異臭:なし

異常反応:なし

注意:品温変化を継続確認

次工程:経過観察

────────────

 

「上がり始めているね」

 

 リュシアは、ネリスを見る。

 

「見てもらえるかい」

 

 ネリスは、保温箱へ近づいた。

 

 外側の温度計を見る。

 

 それから、蓋を少しだけ開ける。

 

 箱の中から、わずかに温かい空気が漏れた。

 

 ネリスは、大豆と小麦の表面をじっと見つめる。

 

 指先を近づける。

 

 触れない。

 

 しばらく黙っている。

 

 トトも、隣から覗き込んだ。

 

「いるのか」

 

 ネリスは、ゆっくり頷いた。

 

「増えてます」

 

「どこに?」

 

「ここです」

 

 ネリスは、大豆と小麦の表面へ指先を近づけた。

 

「ちゃんと広がっています」

 

 澪も、箱の中を見る。

 

 自分の目には、まだはっきりとは分からない。

 

「嫌なものは、混じっていませんか」

 

 ネリスは、箱の端から端までゆっくり見た。

 

 やがて、少しだけ笑う。

 

「嫌なものは、まだいません」

 

 温度計へ目を向ける。

 

「この温度、好きみたいです」

 

 リュシアが、帳面を開いた。

 

「好き?」

 

「はい」

 

 ネリスは、もう一度、保温箱の中を見る。

 

 人混みの中では小さかった声が、少しだけ明るくなった。

 

「この子たち、喜んでます」

 

 指先を、豆と小麦へ近づけたまま続ける。

 

「ちゃんと増えてます」

 

 リュシアは、すぐに温度計へ目を戻した。

 

 目盛りを読む。

 

 箱番号を確かめる。

 

 確認した時刻を書く。

 

 室温も残す。

 

 ネリスが良好と判断したことも、帳面へ短く加えた。

 

「今の温度、書いておくよ」

 

 札を書いていた子供が、帳面を覗き込む。

 

「温度も書くの?」

 

「書くよ」

 

 リュシアは、鉛筆を止めずに答えた。

 

「この子たちが喜ぶ温度なら、次も外さないようにしないとね」

 

 子供は、帳面と温度計を見比べた。

 

「ネリスがいれば、分かるんじゃないのか」

 

「分かるよ」

 

 リュシアは、次の確認時刻を書き込む。

 

「でも、今日うまくいっても、次に同じようにできなければ商売にはならない」

 

 トトは、保温箱の中を見た。

 

「見えない」

 

「でも、います」

 

 ネリスは、嬉しそうに答えた。

 

「本当に喜んでる?」

 

 ネリスは、もう一度、大豆と小麦の表面を見る。

 

「喜んでます」

 

 少し間を置く。

 

「増えてます」

 

 今度は、先ほどよりも少しだけ嬉しそうだった。

 

 リュシアが、帳面へ次の確認時刻を書き加える。

 

 鉛筆の先が紙から離れるのを待っていたように、ネリスは、もう一度、保温箱の中を覗き込んだ。

 

「この子たち、喜んでます」

 

 トトは、まだ自分には見えないものを探すように、豆と小麦の表面へ顔を近づけた。

 

 箱の脇では、真壁が取り付けた温度計の針が、ネリスの言葉を記録へ変えるための位置を、静かに示していた。

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