押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第115話 一晩の麹

 

 食品工場の窓の外が暗くなっても、発酵試験室の灯りは消えなかった。

 

 壁際に据えられた蓄電池から伸びた線が、天井の灯りへ電気を送っている。昼の間は大豆を蒸す湯気と、炒った小麦の香ばしい匂いに満ちていた作業場も、今は水場から聞こえる細い流れの音を残して静まり返っていた。

 

 作業場と発酵試験室を見渡せる棚には、白い布が敷かれている。

 

 その上に安置された古い燭台は、供えられた水とともに、昼から変わらぬ姿で工場を見守っていた。

 

 リュシアは、発酵試験室の扉の前で帳面を開いた。

 

 醤油用として用意した大豆は三十キロ。炒って粗く砕いた小麦も三十キロ。蒸した大豆の熱を十分に逃がしてから、現代側から持ち込まれた醤油用種麹を全体へ薄く振った。

 

 そこまでは、昼間に澪が見せた動画の通りだった。

 

 ただし、その後の材料は一つの箱へ押し込んでいない。

 

 発酵試験室の棚には、真壁が用意した複数の保温箱が並んでいた。大豆と小麦を薄く広げ、熱が一か所へこもらないようにするための箱だ。箱の脇には番号を書いた札が差し込まれ、蓋を開けなくても内側の温度を読めるように、細い温度計が伸びている。

 

 種麹を振った直後は、まだ穀物の形がはっきり見えていた。

 

 それでも、ネリスは夕方の確認で、箱の中へ顔を近づけながら嬉しそうに言った。

 

「増えてます」

「ちゃんと広がっています」

「この温度、好きみたいです」

「この子たち、喜んでます」

 

 リュシアは、その言葉を聞いて終わりにはしなかった。

 

 ネリスが良いと言った時の温度を読み、箱番号と確認した時刻を帳面へ残した。室内の温度も書き添え、次に見る時刻を決めた。

 

 本来なら、もう少し間を置いてもよいはずだった。

 

 だが、ネリスは保温箱から離れる前に、もう一度だけ中を見た。

 

「思っていたより、早いです」

「次は、少し早めに見たいです」

 

 その一言で、夜の当番は予定より細かく組み直された。

 

「夜も見るのか」

 

 隣から声がした。

 

 トトは眠そうな顔をしていたが、手には鉛筆を握っている。その後ろには、昼間から洗い場を見ていた女性が立っていた。髪を布でまとめ、肩へ厚手の上着を掛けている。

 

「見るよ」

 

 リュシアは答えた。

 

「箱へ入れたら終わりじゃない。増え始めたら、自分たちで熱を出すんだろう?」

 

 トトは保温箱を見た。

 

「豆が?」

 

「豆だけじゃないよ」

「ネリスが見ている子たちが、だね」

 

 ネリスは、少し離れたところで保温箱へ顔を向けたまま、小さく頷いた。

 

 リュシアは帳面の端へ書いた当番表を、トトにも見えるように傾けた。

 

「子供だけでは残さない。必ず大人と一緒だよ」

「箱は勝手に開けない。前に書いた数字と比べて、温度計の針が動いていたら札へ書く」

「大きく変わっていたら、触る前に私かネリスを呼ぶんだ」

 

「数字を見るだけなのか」

 

「数字を見るだけでも仕事になる」

 

 トトは、少し不満そうだった。

 

「重い豆を運ぶ方が、仕事みたいだ」

 

「重い物を持てる人には、その仕事を頼むよ」

 

 リュシアは、トトが握っている鉛筆へ目を落とした。

 

「トトに頼んでいるのは、前と違うことへ気づく仕事だ」

「気づかなければ、せっかく育っているものを駄目にする」

 

 トトは、少しだけ背筋を伸ばした。

 

「駄目にしたら、醤油にならない?」

 

「ならないね」

 

「それは困る」

 

「困るだろう?」

 

 リュシアが笑うと、トトは札を持って発酵試験室へ入った。

 

 保温箱の横には、真壁が取り付けた温度計が並んでいる。蓋を開けなくても、内部の熱を読める。札差しも、子供が抜き差しして手を傷つけないよう、角が丸められていた。

 

 やりすぎだとは思う。

 

 しかし、使いやすい。

 

 リュシアは、その二つを心の中だけで認めた。

 

 トトは一番手前の箱へ顔を近づけ、札へ書かれた数字を指で追った。それから温度計の目盛りを見る。

 

「動いてる」

 

「どれだい」

 

「さっきより、上がってる」

 

 女性も隣から覗き込んだ。

 

「本当だね。隣の箱も少し上がっているよ」

 

 急激な変化ではない。

 

 だが、夕方に記録した数字より、明らかに高い。

 

 リュシアは帳面を開き、箱番号を確かめた。前回の時刻と温度へ指先を置き、現在の目盛りを読み直してから、保温箱へ鑑定を掛ける。

 

────────────

鑑定結果

品名:醤油麹

状態:製麹進行中

麹の広がり:良好

品温:上昇中

異臭:なし

異常反応:なし

注意:品温変化を継続確認

────────────

 

「悪くはない」

 

 リュシアは、表示を閉じた。

 

「でも、早いね」

 

「ネリスを呼ぶ?」

 

 トトが聞く。

 

「呼んできておくれ」

 

 トトは鉛筆を握ったまま走っていった。

 

 間もなく、軽い足音が戻ってくる。

 

 ネリスは少し眠そうだった。それでも、保温箱の前へ立つと表情が変わる。

 

「温度が上がっています」

 

 リュシアが言った。

 

「見てもらえるかい」

 

 ネリスは頷き、温度計の目盛りを見た。それから、蓋を少しだけ持ち上げる。

 

 温かな空気が、細い隙間から静かに漏れた。

 

 炒った小麦の香ばしさに、昼にはなかった柔らかな匂いが混じっている。

 

 ネリスは、箱の中へ顔を寄せた。

 

 触れない。

 

 大豆と小麦の表面を、端から端までゆっくり目で追う。

 

 トトは隣へ立ち、何とか中を見ようとして首を伸ばした。

 

「いるのか」

 

 ネリスは、少し遅れて頷いた。

 

「います」

 

「増えてる?」

 

「増えてます」

 

 ネリスの声は、普段より少しだけ明るかった。

 

「ちゃんと広がっています」

 

 リュシアは、保温箱とネリスの顔を交互に見る。

 

「苦しくはないのかい」

 

 ネリスは、すぐには答えなかった。

 

 温度計へ目を移し、もう一度、箱の中を見る。

 

 やがて、小さく首を横へ振った。

 

「大丈夫です」

 

 少しだけ笑う。

 

「この温度、好きみたいです」

 

「好き?」

 

「はい」

 

 ネリスは、目の前にいる小さな生き物へ話し掛けるように言った。

 

「この子たち、喜んでます」

「ちゃんと増えてます」

 

 リュシアは、すぐに帳面へ目を落とした。

 

 箱の番号を確かめ、温度計の目盛りを写す。時刻を書き添え、室温も残した。最後に、ネリスが良好と判断したことを短く書き加える。

 

「今の温度、書いておくよ」

 

 トトが、帳面を覗き込んだ。

 

「ネリスが見れば分かるのに、書くのか」

 

「書くよ」

 

 リュシアは、鉛筆を止めなかった。

 

「この子たちが喜ぶ温度なら、次も外さないようにしないとね」

 

「次も、ネリスが見ればいい」

 

「ネリスには見てもらうよ」

「でも、ネリス一人しか分からないままでは、会社の仕事にはならない」

 

 帳面へ次の確認時刻を書き込む。

 

 最初に決めた時刻より、少し早めた。

 

「今日うまくいっても、次に同じようにできなければ商売にはならないんだよ」

 

 トトは、温度計をもう一度見た。

 

 まだ見えない菌と、目に見える針の動きを、自分の中で何とか結び付けようとしているらしい。

 

「じゃあ、次も見る」

 

「頼むよ」

 

 ネリスは蓋を閉じる前に、もう一度だけ箱の中を見た。

 

「でも、次は早めに見たいです」

 

 リュシアは、書き直した時刻へ丸を付けた。

 

「分かった」

「早く育つなら、見る方も早くしないと追いつかないね」

 

 

 

 

 

 夜が少し深くなった頃、今度は別の子供がリュシアを呼びに来た。

 

「また動いてる」

 

 眠気を堪えながらも、子供の声には少し得意そうな響きがあった。

 

「箱は開けたかい」

 

「開けてない」

「先に呼ぶって言ったから」

 

「それでいい」

 

 発酵試験室へ戻ると、先ほどとは別の女性が温度計の前に立っていた。

 

「前に見た時より、また上がっているよ」

 

 リュシアは札を抜き、前回の数字と比べた。

 

 確かに早い。

 

 危険な温度へ届いているわけではない。だが、澪が見せた動画の中で、職人たちはもっと時間を掛けて変化を追っていた。

 

 ネリスも、保温箱の前へ来る。

 

 蓋を僅かに開け、中の様子を見る。

 

「まだ元気です」

 

「苦しくはない?」

 

「はい」

 

 ネリスは、少し考えた。

 

「でも、次はもっと早く見たいです」

 

 リュシアは、帳面の当番表へ視線を落とした。

 

「確認する間隔を縮めるよ」

 

 女性は頷いた。

 

「この速さなら、その方がいいね」

 

「念のため、布と作業台も整えておいて」

「熱が上がりすぎたら、広げて逃がす」

 

「分かったよ」

 

 女性たちは慌てなかった。

 

 一人が清潔な布を作業台へ広げ、もう一人は水場へ向かって手と道具を洗い直す。使わずに済めば、それでよい。それでも、必要になった時に準備から始めていては遅い。

 

 トトは、その動きを見てからリュシアへ聞いた。

 

「まだ、駄目じゃないのに?」

 

「駄目になってから動いたら遅いんだよ」

 

「数字を見るのも、布を出すのも仕事なのか」

 

「そうだよ」

 

 リュシアは、新しい確認時刻を札へ書いた。

 

「待っている間にも、仕事はある」

 

 白い布の上に安置された古い燭台の傍らで、供えた水の表面が僅かに揺れた。

 

 風ではない気がした。

 

 リュシアは、一瞬だけそちらへ目を向けた後、帳面を閉じる。

 

「次の当番へ渡しておくれ」

 

 トトは札を両手で持ち直した。

 

 

 

 

 

 翌朝、澪が食品工場へ入ると、作業場はすでに目を覚ましていた。

 

 洗い場では、水が細く流れている。

 

 大人の女性たちは、使う予定の桶や棒を洗い、布を広げ、作業台の表面を拭いていた。火口の近くでは大鍋が用意され、塩の袋も運び込まれている。

 

 まだ朝早い。

 

 それなのに、発酵試験室の前には人が集まっていた。

 

「何かありましたか」

 

 澪が声を掛ける。

 

 リュシアは、夜の間に書き足された帳面を持っている。目の下には、少しだけ疲れが見えた。

 

 その隣で、ネリスは保温箱の前へ座り込んでいた。

 

 蓋は閉じたままだ。

 

 けれど、箱の中にいるものを確かめるように、じっと顔を向けている。

 

「ネリス?」

 

 澪が呼ぶ。

 

 ネリスは、ゆっくり振り返った。

 

「育ってます」

 

「昨夜より、増えたということですか」

 

 ネリスは、首を横へ振った。

 

「もう、育っています」

 

 澪は、すぐには意味を受け取れなかった。

 

「もう?」

 

「はい」

 

 ネリスの声には、驚きと喜びが入り混じっている。

 

「この子たち、一晩でここまで来ました」

 

「一晩で?」

 

 ネリスは頷き、保温箱の蓋を持ち上げた。

 

 中から、柔らかな熱気が立ち上る。

 

 昨日、大豆と粗く砕いた小麦を混ぜ、種麹を振った時とは明らかに違っていた。

 

 表面へ菌が広がり、材料の色も匂いも変わっている。

 

 澪は箱の中を見たまま、しばらく言葉を失った。

 

 自分が見せた動画では、職人たちは何度も温度を確かめ、数日掛けて麹を育てていた。

 

 夜を越しただけで、ここまで進むはずではない。

 

 ネリスは、箱の端から端まで丁寧に見る。

 

「嫌なものは、いません」

 

 少し嬉しそうに笑った。

 

「ちゃんと育ちました」

 

 リュシアも、保温箱へ鑑定を掛ける。

 

────────────

鑑定結果

品名:醤油麹

状態:製麹完了

麹の広がり:良好

異臭:なし

異常反応:なし

次工程:出麹/もろみ仕込み

────────────

 

 表示を見たリュシアは、夜の間に何度も開いた帳面へ目を落とした。

 

 前回の温度と確認した時刻を指先で追い、当番の名を確かめる。ネリスが元気だと判断した時の記録へ目を止めると、最後の欄へ鉛筆を走らせた。

 

「……一晩だね」

 

「動画では、何日も掛かるはずでした」

 

 澪が呟く。

 

 少し離れた場所では、真壁が札差しから抜いた夜間記録を見ていた。

 

 大騒ぎする様子はない。

 

 数字を読み、箱を見て、最後に古い燭台へ一度だけ目を向ける。

 

「醸造1を得た者たちが揃って手を掛けた」

 

 静かに言う。

 

「ならば、時も少し急いだのでしょうな」

 

 澪は、ゆっくり真壁を見た。

 

「少し、ですか」

 

「一晩は待った」

 

「基準がおかしくなっています」

 

 真壁は、品よく視線を逸らした。

 

 その仕草が、少しだけ腹立たしい。

 

 けれど、保温箱に温度計と札差しが付いていなければ、夜の変化をこれほど細かく残せなかったことも事実だった。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「温度計を付けたのは、こうなる可能性を考えていたからですか」

 

「可能性は見ていた」

 

「また、それですか」

 

「見えるものを増やして、損はあるまい」

 

 真壁は、帳面へ並んだ夜間記録を見る。

 

「時が急ぐなら、なおさらだ」

 

 澪は反論しようとしたが、その前にリュシアが保温箱の蓋を閉じた。

 

「話は後だよ」

 

 帳面を抱え直す。

 

「育ち切ったなら、次へ進める」

「箱ごとに状態を見るよ」

 

 

 

 

 

 完成した醤油麹は、保温箱から順番に作業台へ運び出された。

 

 大人の女性たちは、箱番号を声に出して確かめてから蓋を開ける。子供たちは札を受け取り、帳面の記録と照らし合わせる。

 

「一番の箱」

 

「札も一番。時刻も合ってる」

 

「こちらへ置くよ」

 

 布を敷いた作業台の上へ、育った麹が少しずつ広げられていく。

 

 ネリスは、一箱ずつ近づき、端から端までじっと見た。

 

「こっちも大丈夫です」

 

 次の箱へ移る。

 

「この箱も、ちゃんと育っています」

 

 もう一つの箱を見る。

 

「嫌なものは、いません」

 

 人の多い作業場では少し緊張していたネリスが、今は自分から箱の間を歩いている。

 

 菌の状態を見る時だけは、周囲の声や視線が気にならないらしい。

 

 リュシアは、ネリスの言葉を聞くたび、帳面へ短く書き添えた。

 

 保温箱を複数に分けたのは、別々の商品を作るためではない。

 

 大豆と小麦を厚く積み上げず、熱を逃がしながら育てるためだ。

 

 それでも、どの箱で育った麹かを残しておけば、次に仕込む時、箱を置いた位置や温度の違いを比べられる。

 

 箱を運んでいた女性が、育った麹を見て感心したように息を吐いた。

 

「昨日入れたばかりだよね」

 

「そうだよ」

 

 リュシアは答えた。

 

「一晩で、ここまで育った」

 

 別の女性は、札へ並んだ記録を見る。

 

「早いのは助かるけど、見る方も気を抜けないね」

 

「その通りだね」

 

 リュシアは帳面を閉じずに、次の頁を開いた。

 

「一晩で終わったなら、次は最初から見る間隔を短くする」

「早く育つなら、仕事の方も変えるよ」

 

 トトが、作業台の上へ広がった醤油麹を覗き込む。

 

「もう醤油なのか」

 

「まだだよ」

 

 リュシアが答える。

 

「まだなのか」

 

「ここから、塩水と合わせる」

 

 トトは、少しだけ遠い目をした。

 

「まだ先がある」

 

「あるね」

 

 

 

 

 

 作業場の火口では、大鍋へ水が張られていた。

 

 女性の一人が、量った塩を少しずつ加え、木べらで底から混ぜていく。白い粒は水の中へ沈み、やがて姿を消した。

 

 鍋から立ち上る湯気が、朝の冷たい空気へ溶ける。

 

 澪は、温度計を持って鍋の脇へ立っていた。

 

「これを、さっきの麹へ入れるのか」

 

 トトが聞く。

 

「冷めてからです」

 

「まだ入れないのか」

 

「熱いまま入れたら、せっかく育った麹が弱ります」

 

 女性が、木べらを動かしながら笑った。

 

「一晩で育っても、最後に急いで駄目にしたら意味がないね」

 

「はい」

 

 澪も頷く。

 

「十分に冷ましてから入れます」

 

 トトは、鍋から上がる湯気と、作業台へ広げられた醤油麹を交互に見た。

 

「また待つのか」

 

「待ちます」

 

「醤油、待つことが多いな」

 

「多いです」

 

 澪が即答すると、女性たちが笑った。

 

 塩水が冷めるまでの間にも、手は止まらない。

 

 使う樽を洗い直す者がいる。

 

 混ぜるための棒を熱湯で洗い、乾いた布の上へ置く者もいる。

 

 子供たちは、札へ書く欄を確かめ、鉛筆を削っている。

 

 待つことと、何もしないことは違う。

 

 昨日、動画で説明した言葉が、工場の中で少しずつ形になっていた。

 

 

 

 

 

 保管庫には、真壁が先回りして整えた大きな醤油樽が一つ置かれていた。

 

 樽の蓋には、外側から中の温度を読める温度計が取り付けられている。横には札差しがあり、仕込時刻と次の確認予定を書き込めるようになっていた。

 

 リュシアは、作業台へ並べた保温箱と大樽を見比べる。

 

「真壁殿」

 

「何かね」

 

「この樽、最初から今日のために整えていたね」

 

 真壁は、札差しが曲がっていないかを確かめた。

 

「器は、使う時を待っていたにすぎん」

 

 澪も、大樽の温度計を見る。

 

「最初から、使う気だったんですね」

 

「使わぬ樽を整えるほど、私は暇ではない」

 

「十分、先回りしています」

 

 澪が言うと、真壁は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「器が足りずに時を逃す方が、品がない」

 

 それ以上は答えず、札差しへ新しい紙を入れる。

 

 少し悔しいが、今回も役に立っている。

 

 澪は、心の中だけで認めた。

 

 リュシアは、保温箱の札を一枚ずつ確かめた。

 

「箱ごとに順番に入れるよ」

 

 トトが、大樽と複数の保温箱を見比べる。

 

「箱は、たくさんあるのに、樽は一つなのか」

 

「箱へ分けたのは、熱を逃がして育てるためだよ」

 

 リュシアは、一番の箱へ手を添えた。

 

「醤油麹が育った後は、一つの大樽へまとめる」

「ただし、どの箱から入れたかは、札へ残す」

 

「混ぜるのに?」

 

「混ぜるからだよ」

 

 リュシアは、トトが持っている札を指した。

 

「次に同じものを作る時、どの箱も同じように育ったか、違いがあったかを思い出せるようにする」

「混ぜて忘れたら、せっかく見た意味がなくなる」

 

 トトは、少し考えた後、札を見た。

 

「一番から?」

 

「一番からだね」

 

 

 

 

 

 塩水が十分に冷めた。

 

 澪が温度計の目盛りを確かめる。

 

「大丈夫です」

 

 大人の女性たちは、完成した醤油麹を大樽へ運び始めた。

 

 一度に放り込まない。

 

 箱番号を声に出して確かめながら、順番に移していく。

 

「一番の箱、入れるよ」

 

「一番、状態は良好」

「帳面にも書いた」

 

 リュシアが応じる。

 

 子供は、樽の脇で札へ印を付けた。

 

「次は二番」

 

「二番も大丈夫です」

 

 ネリスは、作業台へ残った麹を見ながら頷く。

 

「嫌なものは、いません」

 

 最後の箱を入れ終えると、大樽の中には、一晩で育った醤油麹がまとまっていた。

 

 続いて、冷ました塩水を少しずつ注ぐ。

 

 乾いていた麹が水分を抱え、樽の中でゆっくり姿を変えていく。

 

 女性の一人が、清潔な棒を両手で持った。

 

「底から混ぜるよ」

 

 ゆっくりと棒を入れ、底に沈んだ麹を持ち上げるように動かす。

 

 塩水だけが上へ残らないよう、急がず、丁寧に混ぜていく。

 

 トトは、樽の縁へ近づきすぎないよう注意されながら、中を覗いた。

 

「これで醤油?」

 

「まだです」

 

 澪が答える。

 

「一晩で麹になったのに?」

 

「醤油は、ここからです」

 

「まだ遠いな」

 

「遠いです」

 

 澪が答えると、また笑いが起きた。

 

 リュシアは、混ぜ終えた大樽へ鑑定を掛ける。

 

────────────

鑑定結果

品名:醤油もろみ

状態:初回仕込み

混合:概ね良好

異臭:なし

温度:記録開始

次工程:発酵/熟成/定期攪拌

注意:状態変化を継続確認

────────────

 

 表示を閉じると、リュシアは札を引き寄せた。

 

 仕込んだ時刻を残し、温度計の目盛りを見て数字を書き加える。保温箱から順番に移したことも帳面へ記し、次に確かめる時刻を少し早めに設定した。

 

「一晩で育つなら、もろみも普通と同じ速さとは限らない」

 

 リュシアは、帳面にも同じ記録を書き込む。

 

「最初は、早めに見るよ」

 

「夜も?」

 

 トトが聞く。

 

「必要ならね」

 

「また数字を見るのか」

 

「頼むよ」

 

 トトは、少しだけ胸を張った。

 

「分かった」

 

 ネリスは、大樽へ顔を近づけた。

 

 しばらく黙る。

 

 醤油麹として育った時とは、様子が違うらしい。

 

 少し首を傾げている。

 

「どうですか」

 

 澪が聞いた。

 

「びっくりしています」

 

 リュシアが、帳面から顔を上げる。

 

「駄目そうかい」

 

 ネリスは、ゆっくり首を横へ振った。

 

「嫌がってはいません」

 

 大樽の中を、もう一度見る。

 

「今度は、塩の中で頑張るみたいです」

 

 リュシアは、その言葉も帳面の端へ書き加えた。

 

 

 

 

 

 醤油もろみを仕込んだ大樽へ札を掛けた後、リュシアは隣の棚へ目を向けた。

 

 前日に仕込んだ味噌樽が、静かに並んでいる。

 

 こちらにも、真壁が温度計と札差しを付けていた。

 

「味噌も見ておこう」

 

 リュシアが言う。

 

 澪も頷いた。

 

 一晩で醤油麹が完成したのなら、味噌だけが何も変わらないとは考えにくい。

 

 リュシアは札を抜き、前回の温度と現在の目盛りを見比べる。

 

「少し、動いているね」

 

 ネリスは、味噌樽へ顔を近づけた。

 

 蓋を開けずに、しばらく様子を見る。

 

「こっちも、少し早いです」

 

「完成していますか」

 

 澪が聞く。

 

 ネリスは、首を横へ振った。

 

「まだです」

 

 味噌樽の中へいるものへ、落ち着くように話し掛ける声だった。

 

「こっちは、まだ待ちます」

 

 リュシアは、札へ書いていた次回確認予定を消し、少し早い時刻へ直した。

 

「醤油だけじゃないね」

 

 帳面の味噌樽の欄にも、同じ変更を書き込む。

 

「味噌の方も、見る間隔を変えるよ」

 

 澪は、樽から伸びた温度計を見た。

 

 それから、真壁へ目を向ける。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「最初から、こうなる可能性を考えていましたよね」

 

「可能性は見ていた」

 

「また、それですか」

 

 真壁は、味噌樽の札差しへ指先を添えた。

 

「樽へ温度計を付けておいて損はなかった」

「それで十分だろう」

 

「十分ではない気もします」

 

「結果が整っているなら、悪くはない」

 

 真壁は、品よく話を切り上げた。

 

 澪は、まだ少し納得していなかった。

 

 けれど、温度計がなければ、味噌樽の変化にも気づくのが遅れたかもしれない。

 

 やはり、今回は役に立っている。

 

 少し悔しい。

 

 

 

 

 

 記録机の前へ、大人の女性たちと子供たちが集まった。

 

 リュシアは、夜の間に書き足した帳面を開き、当番表を組み直す。

 

 一晩で醤油麹が完成した。

 

 もろみも、味噌も、今まで聞いていた速さだけを前提にはできない。

 

 だからといって、子供たちへ判断まで任せるつもりはなかった。

 

「数字を読むだけでも、仕事になる」

 

 リュシアは、トトたちへ札を見せる。

 

「でも、勝手に触るんじゃないよ」

「前と違ったら、先に呼ぶ」

 

 トトは頷いた。

 

「蓋も開けない?」

 

「勝手には開けない」

 

「混ぜない?」

 

「勝手には混ぜない」

 

「呼んでから?」

 

「そうだよ」

 

 リュシアは、次の当番へ渡す札を一枚ずつ揃えた。

 

「札へ書いたら、次の人へ渡す」

「数字が同じでも書く」

「変わっていたら、必ず呼ぶ」

 

 札を書く係になった子供が、真剣な顔で鉛筆を握る。

 

「字、間違えたら?」

 

「消して書き直す」

「分からないまま残す方が困るよ」

 

「待っている間も仕事なのか」

 

 トトが聞いた。

 

 リュシアは、帳面を閉じる前に、大きな醤油樽の方を見た。

 

「待っている間こそ、忘れたら駄目なんだよ」

 

 トトは、札を持ち直した。

 

 少し前まで、食べられるかどうかだけを気にしていた子供の手に、次の確認時刻が書かれた札がある。

 

 リュシアは、それを見てから帳面を閉じた。

 

 

 

 

 

 昨日まで空だった大きな醤油樽には、新しい札が掛かっていた。

 

 樽の中では、一晩で育った麹が塩水を抱え、ゆっくりと次の姿へ変わり始めている。

 

 真壁が取り付けた温度計の針は、まだ大きくは動いていない。

 

 それでも、今度は誰かが変化を見落とすことはない。

 

 トトたちは札を見る。

 

 大人たちは道具を洗い、次の作業へ備える。

 

 リュシアは帳面へ記録を残す。

 

 ネリスは、もう一度だけ大樽へ顔を近づけた。

 

「今度は、塩の中で頑張るみたいです」

 

 空だった樽は、一晩で育った麹とともに、確かに次の時間を抱え始めていた。

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少年『久遠カナタ』は転移した異世界から現代日本に帰還した。だが、現代では一日しか時間が経っておらず、色々と不思議な事が起こっていた。▼ダンジョンが出現していたこと。▼ダンジョン配信が流行していたこと。▼そして何より、異世界から従魔達が付いてきたこと。▼現代の魔物に比べ、最強の従魔達は明らかに過剰な戦力だ。従魔が暴走する度、主のカナタは勝手に崇められ、大きな注…


総合評価:242/評価:6/連載:57話/更新日時:2026年04月08日(水) 07:06 小説情報

元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

祖父の死に際、元ITエンジニアの御門悠真は、自分が「召喚師の家系」の末裔だと知らされる。▼御門家は、かつて神も悪魔も妖も精霊も呼び出した、万能召喚術の本家本元だった。▼だが、万能であるがゆえに術式はあまりにも複雑化し、始祖以降は衰退の一途を辿る。▼火だけを呼ぶ家、水神だけを祀る家、鬼だけを使う家――分家たちは属性や対象を絞ることで生き残った。▼一方、万能に固…


総合評価:1421/評価:8.55/連載:15話/更新日時:2026年05月28日(木) 21:53 小説情報

尾張水神伝 ~SF世界の天使っぽい種族に転生したけどワープ事故で戦国時代の日本に漂着しました~(作者:Lavian)(オリジナル歴史/戦記)

セララ・シュトーレンは転生者だ。天使っぽい種族で魔法も使える。▼だけどワープ事故で戦国時代に漂着。▼困ってる人を助けたら神様と勘違いされてしまった。▼人々を助けていたら有名になり、尾張の殿様に呼ばれて……▼信長の友人として過ごす日々が始まった。▼※第一章完結のタイミングでタイトル変更しました。


総合評価:980/評価:8.14/連載:30話/更新日時:2026年06月01日(月) 21:20 小説情報

創世のアームズ・ディーラー〜現代と異世界を駆け回る貧乏高校生の武器商売奮戦記!(作者:大和タケル)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

【現実味のあるファンタジーを求める貴方に、超ロマンを届けます!】▼ 西暦2030年、太陽フレアがきっかけで地上に魔物が現れた。自衛隊が交戦するも全く歯が立たず、お手上げ状態。そんな折、一人の青年が覚醒する。▼ 貧乏な高校生、大和創真が手にしたのは先祖の英霊と異世界への扉。▼ 脅威が迫りくる現代。彼は魔物に抗う武器を求めて異世界へと旅立った。自衛隊へ売る為に。…


総合評価:11/評価:3.29/連載:88話/更新日時:2026年04月29日(水) 08:08 小説情報

祖父の遺品整理をしていたら封印AIが起動したので、地球中の異星遺産を回収して成り上がる(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

三十五歳、売れないフリーライターの久世恒一は、親に頼まれて東京にある祖父・久世宗玄の家を整理することになる。▼変人扱いされていた祖父の家で彼が見つけたのは、封印された異星文明の管理AI《イヴ》と、現代ではチート級の価値を持つ超技術だった。▼最初の遺産《セル・チューナー》は、地球のバッテリーを桁違いの高性能品へ変質させる基幹技術。▼スマホは一ヶ月充電不要。死に…


総合評価:2414/評価:7.88/連載:49話/更新日時:2026年05月26日(火) 21:44 小説情報


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