食品工場の窓の外が暗くなっても、発酵試験室の灯りは消えなかった。
壁際に据えられた蓄電池から伸びた線が、天井の灯りへ電気を送っている。昼の間は大豆を蒸す湯気と、炒った小麦の香ばしい匂いに満ちていた作業場も、今は水場から聞こえる細い流れの音を残して静まり返っていた。
作業場と発酵試験室を見渡せる棚には、白い布が敷かれている。
その上に安置された古い燭台は、供えられた水とともに、昼から変わらぬ姿で工場を見守っていた。
リュシアは、発酵試験室の扉の前で帳面を開いた。
醤油用として用意した大豆は三十キロ。炒って粗く砕いた小麦も三十キロ。蒸した大豆の熱を十分に逃がしてから、現代側から持ち込まれた醤油用種麹を全体へ薄く振った。
そこまでは、昼間に澪が見せた動画の通りだった。
ただし、その後の材料は一つの箱へ押し込んでいない。
発酵試験室の棚には、真壁が用意した複数の保温箱が並んでいた。大豆と小麦を薄く広げ、熱が一か所へこもらないようにするための箱だ。箱の脇には番号を書いた札が差し込まれ、蓋を開けなくても内側の温度を読めるように、細い温度計が伸びている。
種麹を振った直後は、まだ穀物の形がはっきり見えていた。
それでも、ネリスは夕方の確認で、箱の中へ顔を近づけながら嬉しそうに言った。
「増えてます」
「ちゃんと広がっています」
「この温度、好きみたいです」
「この子たち、喜んでます」
リュシアは、その言葉を聞いて終わりにはしなかった。
ネリスが良いと言った時の温度を読み、箱番号と確認した時刻を帳面へ残した。室内の温度も書き添え、次に見る時刻を決めた。
本来なら、もう少し間を置いてもよいはずだった。
だが、ネリスは保温箱から離れる前に、もう一度だけ中を見た。
「思っていたより、早いです」
「次は、少し早めに見たいです」
その一言で、夜の当番は予定より細かく組み直された。
「夜も見るのか」
隣から声がした。
トトは眠そうな顔をしていたが、手には鉛筆を握っている。その後ろには、昼間から洗い場を見ていた女性が立っていた。髪を布でまとめ、肩へ厚手の上着を掛けている。
「見るよ」
リュシアは答えた。
「箱へ入れたら終わりじゃない。増え始めたら、自分たちで熱を出すんだろう?」
トトは保温箱を見た。
「豆が?」
「豆だけじゃないよ」
「ネリスが見ている子たちが、だね」
ネリスは、少し離れたところで保温箱へ顔を向けたまま、小さく頷いた。
リュシアは帳面の端へ書いた当番表を、トトにも見えるように傾けた。
「子供だけでは残さない。必ず大人と一緒だよ」
「箱は勝手に開けない。前に書いた数字と比べて、温度計の針が動いていたら札へ書く」
「大きく変わっていたら、触る前に私かネリスを呼ぶんだ」
「数字を見るだけなのか」
「数字を見るだけでも仕事になる」
トトは、少し不満そうだった。
「重い豆を運ぶ方が、仕事みたいだ」
「重い物を持てる人には、その仕事を頼むよ」
リュシアは、トトが握っている鉛筆へ目を落とした。
「トトに頼んでいるのは、前と違うことへ気づく仕事だ」
「気づかなければ、せっかく育っているものを駄目にする」
トトは、少しだけ背筋を伸ばした。
「駄目にしたら、醤油にならない?」
「ならないね」
「それは困る」
「困るだろう?」
リュシアが笑うと、トトは札を持って発酵試験室へ入った。
保温箱の横には、真壁が取り付けた温度計が並んでいる。蓋を開けなくても、内部の熱を読める。札差しも、子供が抜き差しして手を傷つけないよう、角が丸められていた。
やりすぎだとは思う。
しかし、使いやすい。
リュシアは、その二つを心の中だけで認めた。
トトは一番手前の箱へ顔を近づけ、札へ書かれた数字を指で追った。それから温度計の目盛りを見る。
「動いてる」
「どれだい」
「さっきより、上がってる」
女性も隣から覗き込んだ。
「本当だね。隣の箱も少し上がっているよ」
急激な変化ではない。
だが、夕方に記録した数字より、明らかに高い。
リュシアは帳面を開き、箱番号を確かめた。前回の時刻と温度へ指先を置き、現在の目盛りを読み直してから、保温箱へ鑑定を掛ける。
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鑑定結果
品名:醤油麹
状態:製麹進行中
麹の広がり:良好
品温:上昇中
異臭:なし
異常反応:なし
注意:品温変化を継続確認
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「悪くはない」
リュシアは、表示を閉じた。
「でも、早いね」
「ネリスを呼ぶ?」
トトが聞く。
「呼んできておくれ」
トトは鉛筆を握ったまま走っていった。
間もなく、軽い足音が戻ってくる。
ネリスは少し眠そうだった。それでも、保温箱の前へ立つと表情が変わる。
「温度が上がっています」
リュシアが言った。
「見てもらえるかい」
ネリスは頷き、温度計の目盛りを見た。それから、蓋を少しだけ持ち上げる。
温かな空気が、細い隙間から静かに漏れた。
炒った小麦の香ばしさに、昼にはなかった柔らかな匂いが混じっている。
ネリスは、箱の中へ顔を寄せた。
触れない。
大豆と小麦の表面を、端から端までゆっくり目で追う。
トトは隣へ立ち、何とか中を見ようとして首を伸ばした。
「いるのか」
ネリスは、少し遅れて頷いた。
「います」
「増えてる?」
「増えてます」
ネリスの声は、普段より少しだけ明るかった。
「ちゃんと広がっています」
リュシアは、保温箱とネリスの顔を交互に見る。
「苦しくはないのかい」
ネリスは、すぐには答えなかった。
温度計へ目を移し、もう一度、箱の中を見る。
やがて、小さく首を横へ振った。
「大丈夫です」
少しだけ笑う。
「この温度、好きみたいです」
「好き?」
「はい」
ネリスは、目の前にいる小さな生き物へ話し掛けるように言った。
「この子たち、喜んでます」
「ちゃんと増えてます」
リュシアは、すぐに帳面へ目を落とした。
箱の番号を確かめ、温度計の目盛りを写す。時刻を書き添え、室温も残した。最後に、ネリスが良好と判断したことを短く書き加える。
「今の温度、書いておくよ」
トトが、帳面を覗き込んだ。
「ネリスが見れば分かるのに、書くのか」
「書くよ」
リュシアは、鉛筆を止めなかった。
「この子たちが喜ぶ温度なら、次も外さないようにしないとね」
「次も、ネリスが見ればいい」
「ネリスには見てもらうよ」
「でも、ネリス一人しか分からないままでは、会社の仕事にはならない」
帳面へ次の確認時刻を書き込む。
最初に決めた時刻より、少し早めた。
「今日うまくいっても、次に同じようにできなければ商売にはならないんだよ」
トトは、温度計をもう一度見た。
まだ見えない菌と、目に見える針の動きを、自分の中で何とか結び付けようとしているらしい。
「じゃあ、次も見る」
「頼むよ」
ネリスは蓋を閉じる前に、もう一度だけ箱の中を見た。
「でも、次は早めに見たいです」
リュシアは、書き直した時刻へ丸を付けた。
「分かった」
「早く育つなら、見る方も早くしないと追いつかないね」
夜が少し深くなった頃、今度は別の子供がリュシアを呼びに来た。
「また動いてる」
眠気を堪えながらも、子供の声には少し得意そうな響きがあった。
「箱は開けたかい」
「開けてない」
「先に呼ぶって言ったから」
「それでいい」
発酵試験室へ戻ると、先ほどとは別の女性が温度計の前に立っていた。
「前に見た時より、また上がっているよ」
リュシアは札を抜き、前回の数字と比べた。
確かに早い。
危険な温度へ届いているわけではない。だが、澪が見せた動画の中で、職人たちはもっと時間を掛けて変化を追っていた。
ネリスも、保温箱の前へ来る。
蓋を僅かに開け、中の様子を見る。
「まだ元気です」
「苦しくはない?」
「はい」
ネリスは、少し考えた。
「でも、次はもっと早く見たいです」
リュシアは、帳面の当番表へ視線を落とした。
「確認する間隔を縮めるよ」
女性は頷いた。
「この速さなら、その方がいいね」
「念のため、布と作業台も整えておいて」
「熱が上がりすぎたら、広げて逃がす」
「分かったよ」
女性たちは慌てなかった。
一人が清潔な布を作業台へ広げ、もう一人は水場へ向かって手と道具を洗い直す。使わずに済めば、それでよい。それでも、必要になった時に準備から始めていては遅い。
トトは、その動きを見てからリュシアへ聞いた。
「まだ、駄目じゃないのに?」
「駄目になってから動いたら遅いんだよ」
「数字を見るのも、布を出すのも仕事なのか」
「そうだよ」
リュシアは、新しい確認時刻を札へ書いた。
「待っている間にも、仕事はある」
白い布の上に安置された古い燭台の傍らで、供えた水の表面が僅かに揺れた。
風ではない気がした。
リュシアは、一瞬だけそちらへ目を向けた後、帳面を閉じる。
「次の当番へ渡しておくれ」
トトは札を両手で持ち直した。
翌朝、澪が食品工場へ入ると、作業場はすでに目を覚ましていた。
洗い場では、水が細く流れている。
大人の女性たちは、使う予定の桶や棒を洗い、布を広げ、作業台の表面を拭いていた。火口の近くでは大鍋が用意され、塩の袋も運び込まれている。
まだ朝早い。
それなのに、発酵試験室の前には人が集まっていた。
「何かありましたか」
澪が声を掛ける。
リュシアは、夜の間に書き足された帳面を持っている。目の下には、少しだけ疲れが見えた。
その隣で、ネリスは保温箱の前へ座り込んでいた。
蓋は閉じたままだ。
けれど、箱の中にいるものを確かめるように、じっと顔を向けている。
「ネリス?」
澪が呼ぶ。
ネリスは、ゆっくり振り返った。
「育ってます」
「昨夜より、増えたということですか」
ネリスは、首を横へ振った。
「もう、育っています」
澪は、すぐには意味を受け取れなかった。
「もう?」
「はい」
ネリスの声には、驚きと喜びが入り混じっている。
「この子たち、一晩でここまで来ました」
「一晩で?」
ネリスは頷き、保温箱の蓋を持ち上げた。
中から、柔らかな熱気が立ち上る。
昨日、大豆と粗く砕いた小麦を混ぜ、種麹を振った時とは明らかに違っていた。
表面へ菌が広がり、材料の色も匂いも変わっている。
澪は箱の中を見たまま、しばらく言葉を失った。
自分が見せた動画では、職人たちは何度も温度を確かめ、数日掛けて麹を育てていた。
夜を越しただけで、ここまで進むはずではない。
ネリスは、箱の端から端まで丁寧に見る。
「嫌なものは、いません」
少し嬉しそうに笑った。
「ちゃんと育ちました」
リュシアも、保温箱へ鑑定を掛ける。
────────────
鑑定結果
品名:醤油麹
状態:製麹完了
麹の広がり:良好
異臭:なし
異常反応:なし
次工程:出麹/もろみ仕込み
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表示を見たリュシアは、夜の間に何度も開いた帳面へ目を落とした。
前回の温度と確認した時刻を指先で追い、当番の名を確かめる。ネリスが元気だと判断した時の記録へ目を止めると、最後の欄へ鉛筆を走らせた。
「……一晩だね」
「動画では、何日も掛かるはずでした」
澪が呟く。
少し離れた場所では、真壁が札差しから抜いた夜間記録を見ていた。
大騒ぎする様子はない。
数字を読み、箱を見て、最後に古い燭台へ一度だけ目を向ける。
「醸造1を得た者たちが揃って手を掛けた」
静かに言う。
「ならば、時も少し急いだのでしょうな」
澪は、ゆっくり真壁を見た。
「少し、ですか」
「一晩は待った」
「基準がおかしくなっています」
真壁は、品よく視線を逸らした。
その仕草が、少しだけ腹立たしい。
けれど、保温箱に温度計と札差しが付いていなければ、夜の変化をこれほど細かく残せなかったことも事実だった。
「真壁さん」
「何かね、澪君」
「温度計を付けたのは、こうなる可能性を考えていたからですか」
「可能性は見ていた」
「また、それですか」
「見えるものを増やして、損はあるまい」
真壁は、帳面へ並んだ夜間記録を見る。
「時が急ぐなら、なおさらだ」
澪は反論しようとしたが、その前にリュシアが保温箱の蓋を閉じた。
「話は後だよ」
帳面を抱え直す。
「育ち切ったなら、次へ進める」
「箱ごとに状態を見るよ」
完成した醤油麹は、保温箱から順番に作業台へ運び出された。
大人の女性たちは、箱番号を声に出して確かめてから蓋を開ける。子供たちは札を受け取り、帳面の記録と照らし合わせる。
「一番の箱」
「札も一番。時刻も合ってる」
「こちらへ置くよ」
布を敷いた作業台の上へ、育った麹が少しずつ広げられていく。
ネリスは、一箱ずつ近づき、端から端までじっと見た。
「こっちも大丈夫です」
次の箱へ移る。
「この箱も、ちゃんと育っています」
もう一つの箱を見る。
「嫌なものは、いません」
人の多い作業場では少し緊張していたネリスが、今は自分から箱の間を歩いている。
菌の状態を見る時だけは、周囲の声や視線が気にならないらしい。
リュシアは、ネリスの言葉を聞くたび、帳面へ短く書き添えた。
保温箱を複数に分けたのは、別々の商品を作るためではない。
大豆と小麦を厚く積み上げず、熱を逃がしながら育てるためだ。
それでも、どの箱で育った麹かを残しておけば、次に仕込む時、箱を置いた位置や温度の違いを比べられる。
箱を運んでいた女性が、育った麹を見て感心したように息を吐いた。
「昨日入れたばかりだよね」
「そうだよ」
リュシアは答えた。
「一晩で、ここまで育った」
別の女性は、札へ並んだ記録を見る。
「早いのは助かるけど、見る方も気を抜けないね」
「その通りだね」
リュシアは帳面を閉じずに、次の頁を開いた。
「一晩で終わったなら、次は最初から見る間隔を短くする」
「早く育つなら、仕事の方も変えるよ」
トトが、作業台の上へ広がった醤油麹を覗き込む。
「もう醤油なのか」
「まだだよ」
リュシアが答える。
「まだなのか」
「ここから、塩水と合わせる」
トトは、少しだけ遠い目をした。
「まだ先がある」
「あるね」
作業場の火口では、大鍋へ水が張られていた。
女性の一人が、量った塩を少しずつ加え、木べらで底から混ぜていく。白い粒は水の中へ沈み、やがて姿を消した。
鍋から立ち上る湯気が、朝の冷たい空気へ溶ける。
澪は、温度計を持って鍋の脇へ立っていた。
「これを、さっきの麹へ入れるのか」
トトが聞く。
「冷めてからです」
「まだ入れないのか」
「熱いまま入れたら、せっかく育った麹が弱ります」
女性が、木べらを動かしながら笑った。
「一晩で育っても、最後に急いで駄目にしたら意味がないね」
「はい」
澪も頷く。
「十分に冷ましてから入れます」
トトは、鍋から上がる湯気と、作業台へ広げられた醤油麹を交互に見た。
「また待つのか」
「待ちます」
「醤油、待つことが多いな」
「多いです」
澪が即答すると、女性たちが笑った。
塩水が冷めるまでの間にも、手は止まらない。
使う樽を洗い直す者がいる。
混ぜるための棒を熱湯で洗い、乾いた布の上へ置く者もいる。
子供たちは、札へ書く欄を確かめ、鉛筆を削っている。
待つことと、何もしないことは違う。
昨日、動画で説明した言葉が、工場の中で少しずつ形になっていた。
保管庫には、真壁が先回りして整えた大きな醤油樽が一つ置かれていた。
樽の蓋には、外側から中の温度を読める温度計が取り付けられている。横には札差しがあり、仕込時刻と次の確認予定を書き込めるようになっていた。
リュシアは、作業台へ並べた保温箱と大樽を見比べる。
「真壁殿」
「何かね」
「この樽、最初から今日のために整えていたね」
真壁は、札差しが曲がっていないかを確かめた。
「器は、使う時を待っていたにすぎん」
澪も、大樽の温度計を見る。
「最初から、使う気だったんですね」
「使わぬ樽を整えるほど、私は暇ではない」
「十分、先回りしています」
澪が言うと、真壁は、ほんの少しだけ目を細めた。
「器が足りずに時を逃す方が、品がない」
それ以上は答えず、札差しへ新しい紙を入れる。
少し悔しいが、今回も役に立っている。
澪は、心の中だけで認めた。
リュシアは、保温箱の札を一枚ずつ確かめた。
「箱ごとに順番に入れるよ」
トトが、大樽と複数の保温箱を見比べる。
「箱は、たくさんあるのに、樽は一つなのか」
「箱へ分けたのは、熱を逃がして育てるためだよ」
リュシアは、一番の箱へ手を添えた。
「醤油麹が育った後は、一つの大樽へまとめる」
「ただし、どの箱から入れたかは、札へ残す」
「混ぜるのに?」
「混ぜるからだよ」
リュシアは、トトが持っている札を指した。
「次に同じものを作る時、どの箱も同じように育ったか、違いがあったかを思い出せるようにする」
「混ぜて忘れたら、せっかく見た意味がなくなる」
トトは、少し考えた後、札を見た。
「一番から?」
「一番からだね」
塩水が十分に冷めた。
澪が温度計の目盛りを確かめる。
「大丈夫です」
大人の女性たちは、完成した醤油麹を大樽へ運び始めた。
一度に放り込まない。
箱番号を声に出して確かめながら、順番に移していく。
「一番の箱、入れるよ」
「一番、状態は良好」
「帳面にも書いた」
リュシアが応じる。
子供は、樽の脇で札へ印を付けた。
「次は二番」
「二番も大丈夫です」
ネリスは、作業台へ残った麹を見ながら頷く。
「嫌なものは、いません」
最後の箱を入れ終えると、大樽の中には、一晩で育った醤油麹がまとまっていた。
続いて、冷ました塩水を少しずつ注ぐ。
乾いていた麹が水分を抱え、樽の中でゆっくり姿を変えていく。
女性の一人が、清潔な棒を両手で持った。
「底から混ぜるよ」
ゆっくりと棒を入れ、底に沈んだ麹を持ち上げるように動かす。
塩水だけが上へ残らないよう、急がず、丁寧に混ぜていく。
トトは、樽の縁へ近づきすぎないよう注意されながら、中を覗いた。
「これで醤油?」
「まだです」
澪が答える。
「一晩で麹になったのに?」
「醤油は、ここからです」
「まだ遠いな」
「遠いです」
澪が答えると、また笑いが起きた。
リュシアは、混ぜ終えた大樽へ鑑定を掛ける。
────────────
鑑定結果
品名:醤油もろみ
状態:初回仕込み
混合:概ね良好
異臭:なし
温度:記録開始
次工程:発酵/熟成/定期攪拌
注意:状態変化を継続確認
────────────
表示を閉じると、リュシアは札を引き寄せた。
仕込んだ時刻を残し、温度計の目盛りを見て数字を書き加える。保温箱から順番に移したことも帳面へ記し、次に確かめる時刻を少し早めに設定した。
「一晩で育つなら、もろみも普通と同じ速さとは限らない」
リュシアは、帳面にも同じ記録を書き込む。
「最初は、早めに見るよ」
「夜も?」
トトが聞く。
「必要ならね」
「また数字を見るのか」
「頼むよ」
トトは、少しだけ胸を張った。
「分かった」
ネリスは、大樽へ顔を近づけた。
しばらく黙る。
醤油麹として育った時とは、様子が違うらしい。
少し首を傾げている。
「どうですか」
澪が聞いた。
「びっくりしています」
リュシアが、帳面から顔を上げる。
「駄目そうかい」
ネリスは、ゆっくり首を横へ振った。
「嫌がってはいません」
大樽の中を、もう一度見る。
「今度は、塩の中で頑張るみたいです」
リュシアは、その言葉も帳面の端へ書き加えた。
醤油もろみを仕込んだ大樽へ札を掛けた後、リュシアは隣の棚へ目を向けた。
前日に仕込んだ味噌樽が、静かに並んでいる。
こちらにも、真壁が温度計と札差しを付けていた。
「味噌も見ておこう」
リュシアが言う。
澪も頷いた。
一晩で醤油麹が完成したのなら、味噌だけが何も変わらないとは考えにくい。
リュシアは札を抜き、前回の温度と現在の目盛りを見比べる。
「少し、動いているね」
ネリスは、味噌樽へ顔を近づけた。
蓋を開けずに、しばらく様子を見る。
「こっちも、少し早いです」
「完成していますか」
澪が聞く。
ネリスは、首を横へ振った。
「まだです」
味噌樽の中へいるものへ、落ち着くように話し掛ける声だった。
「こっちは、まだ待ちます」
リュシアは、札へ書いていた次回確認予定を消し、少し早い時刻へ直した。
「醤油だけじゃないね」
帳面の味噌樽の欄にも、同じ変更を書き込む。
「味噌の方も、見る間隔を変えるよ」
澪は、樽から伸びた温度計を見た。
それから、真壁へ目を向ける。
「真壁さん」
「何かね、澪君」
「最初から、こうなる可能性を考えていましたよね」
「可能性は見ていた」
「また、それですか」
真壁は、味噌樽の札差しへ指先を添えた。
「樽へ温度計を付けておいて損はなかった」
「それで十分だろう」
「十分ではない気もします」
「結果が整っているなら、悪くはない」
真壁は、品よく話を切り上げた。
澪は、まだ少し納得していなかった。
けれど、温度計がなければ、味噌樽の変化にも気づくのが遅れたかもしれない。
やはり、今回は役に立っている。
少し悔しい。
記録机の前へ、大人の女性たちと子供たちが集まった。
リュシアは、夜の間に書き足した帳面を開き、当番表を組み直す。
一晩で醤油麹が完成した。
もろみも、味噌も、今まで聞いていた速さだけを前提にはできない。
だからといって、子供たちへ判断まで任せるつもりはなかった。
「数字を読むだけでも、仕事になる」
リュシアは、トトたちへ札を見せる。
「でも、勝手に触るんじゃないよ」
「前と違ったら、先に呼ぶ」
トトは頷いた。
「蓋も開けない?」
「勝手には開けない」
「混ぜない?」
「勝手には混ぜない」
「呼んでから?」
「そうだよ」
リュシアは、次の当番へ渡す札を一枚ずつ揃えた。
「札へ書いたら、次の人へ渡す」
「数字が同じでも書く」
「変わっていたら、必ず呼ぶ」
札を書く係になった子供が、真剣な顔で鉛筆を握る。
「字、間違えたら?」
「消して書き直す」
「分からないまま残す方が困るよ」
「待っている間も仕事なのか」
トトが聞いた。
リュシアは、帳面を閉じる前に、大きな醤油樽の方を見た。
「待っている間こそ、忘れたら駄目なんだよ」
トトは、札を持ち直した。
少し前まで、食べられるかどうかだけを気にしていた子供の手に、次の確認時刻が書かれた札がある。
リュシアは、それを見てから帳面を閉じた。
昨日まで空だった大きな醤油樽には、新しい札が掛かっていた。
樽の中では、一晩で育った麹が塩水を抱え、ゆっくりと次の姿へ変わり始めている。
真壁が取り付けた温度計の針は、まだ大きくは動いていない。
それでも、今度は誰かが変化を見落とすことはない。
トトたちは札を見る。
大人たちは道具を洗い、次の作業へ備える。
リュシアは帳面へ記録を残す。
ネリスは、もう一度だけ大樽へ顔を近づけた。
「今度は、塩の中で頑張るみたいです」
空だった樽は、一晩で育った麹とともに、確かに次の時間を抱え始めていた。