押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第116話 二トンの芋が消えた

 

 食品工場の朝は、昨日までより少しだけ静かだった。

 

 作業場の奥では、水源から引いた水が細い音を立てて洗い場へ流れ込んでいる。窓から入る朝の光は、味噌樽の蓋から伸びた温度計を淡く照らし、その横へ差し込まれた札の文字を読みやすく浮かび上がらせていた。

 

 トトは、札を片手に持ったまま、背伸びをして目盛りを覗き込んだ。

 

「昨日の夜より、少し上がってる」

 

 すぐ隣にいた女が、洗い終えた布巾を籠へ入れてから、トトの肩越しに温度計を見る。

 

「本当だね。時刻も一緒に書いておきな」

 

「分かってる」

 

 トトは、札の余白へ鉛筆を当てた。文字を書く時だけ、いつも少しだけ眉間に皺が寄る。数字を書き終えると、札をもう一度見直してから、記録机の前に座っているリュシアへ持っていった。

 

「味噌の三番。少し上がった」

 

「見せてみな」

 

 リュシアは、受け取った札を帳面の横へ置いた。

 

 夜の確認時刻へ指先を当て、トトが書き足した数字までゆっくり追う。数字だけを見て判断せず、樽の方へ目を向けてから、発酵試験室の入口に立っていたネリスを呼んだ。

 

「ネリス。味噌の三番を見てもらえるかい」

 

 ネリスは、大きな醤油樽の前から静かに歩いてきた。

 

 温度計を見てから、蓋へ顔を近づける。耳を澄ますように少しだけ目を細め、しばらく黙ったまま中の様子を感じ取っていた。

 

「大丈夫です」

 

「急ぎすぎてはいない?」

 

「少し元気です。でも、慌てていません」

 

 ネリスは、樽の内側にいるものを安心させるように、ゆっくり頷いた。

 

「味噌の子たちは、落ち着いています」

 

 リュシアは、帳面へ短く書き足した。

 

 その隣では、別の子供が醤油樽の札を読み上げている。女たちは、洗った道具を乾かしながら、子供たちが書いた数字に抜けがないか確かめていた。

 

 澪は、少し離れた場所から、その様子を見ていた。

 

 昨日までは、何か変化があるたびに、自分が次の手順を考えなければ工場全体が止まるような気がしていた。けれど今は、トトが温度を読み、子供たちが札へ数字を残し、ネリスが中の様子を感じ取り、リュシアが次に見る時刻を決めている。

 

 自分が口を挟まなくても、仕事は少しずつ前へ進んでいた。

 

 ネリスは醤油樽へ戻ると、蓋を開けずに顔を近づけた。

 

「こっちも、頑張っています」

 

「苦しくはないかい」

 

「まだ大丈夫です」

 

 ネリスは、少し嬉しそうに笑った。

 

「塩の中でも、ちゃんと動いています」

 

 リュシアは、今度は醤油樽の頁へ鉛筆を走らせた。

 

 澪は、その音を聞きながらスマートフォンの時刻を確認する。まだ大学の一限には間に合う。けれど、六畳間へ戻って資料を鞄へ入れ直す時間を考えると、そろそろ出なければならなかった。

 

「リュシアさん。何かあったら、後で教えてください」

 

「分かったよ」

 

「すぐに来られないかもしれませんけど」

 

「大学へ行っておいで」

 

 リュシアは、帳面から顔を上げた。

 

「ここは、もう澪一人の仕事じゃない」

 

 澪は、一瞬だけ返事に迷った。

 

 自分一人で抱え込めないことは、最初から分かっていたはずだった。それでも、実際に自分がいなくても仕事が動く様子を見ると、不思議な気持ちになる。

 

 少しだけ寂しく、けれど、それ以上に安心した。

 

「はい。行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 鞄を持ち直した澪の背中へ、静かな声が届いた。

 

「澪君」

 

 振り返ると、真壁が作業場の入口に立っていた。

 

 食品工場へ来ているのに、服には芋の土も水場の泥も付いていない。朝から変わらず、どこか隙のない姿だった。

 

「何ですか、真壁さん」

 

「芋を使った蒸留酒については、私が教育を引き受けよう」

 

 澪は、すぐには返事をしなかった。

 

 真壁の背後には、倉庫へ積まれた芋箱が見える。

 

 現代側から運び込んだ、二トンのさつまいも。

 

 帳面へ数字を書いた時にも、倉庫へ箱が積み上がった時にも、量がおかしいと思った。けれど、食品会社で試したいことは多い。

 

 干して保存できるようにしたい。菓子にもしたい。粉へ加工する方法も考えたい。子供たちが食べられるものも作りたい。見た目が悪く、そのままでは売りにくい芋へ、別の道を残す必要もある。

 

 蒸留酒は、その中の一つに過ぎない。

 

「酒造りの教育だけですよね」

 

「左様」

 

「勝手に増やさないでください」

 

 真壁は、一瞬だけ考えるように目を伏せた。

 

「努力しよう」

 

「今、言い切りませんでしたね」

 

「扱うべき荷の量は、現場を見て決めるものだ」

 

「二トンあります」

 

「承知している」

 

 真壁があまりにも静かに答えるので、澪の不安は消えるどころか少し増えた。

 

 その時、真壁は白い布を敷いた棚の前へ歩いていった。

 

 古い燭台の傍らには、昨日交換した水が供えられている。真壁は、その横へ細長い瓶を一本置いた。

 

 瓶の中では、透明な液体が朝の光を受けて揺れていた。

 

「それは何ですか」

 

「教材だよ」

 

「飲み物に見えます」

 

「教材ですな」

 

 真壁は、何もおかしなことを言っていない顔をしていた。

 

 瓶の栓には、現代側の紙が巻かれている。澪は、描かれている芋の絵を見て、少しだけ嫌な予感を覚えた。

 

「神さまにも見てもらうんですか」

 

「蔵へお招きしている以上、酒の道筋もご覧いただくべきだろう」

 

「味わっていただく気ですよね」

 

「教材ですので」

 

 澪は、棚へ置かれた古い燭台を見た。

 

 燭台は何も言わない。

 

 ただ、供えられた水の表面が、ごく僅かに揺れたような気がした。

 

 味噌と醤油を教えた時も、真壁は古い燭台の神さまへ授業を見てもらうべきだと言った。

 

 その後、授業を受けた全員に《醸造1》が生えた。

 

 熟成室。

 

 大量のガラス瓶。

 

 コルク栓。

 

 場所を探してほしいと頼んだだけなのに、いつの間にか完成していた食品工場。

 

 そして、芋を原料にした蒸留酒という言葉へ、明らかに反応していた真壁。

 

 澪の頭の中では、嫌な予感を支える材料だけが、妙にきれいに揃っていった。

 

 けれど、大学を休む理由にはならない。

 

「本当に、教育だけにしてください」

 

「無論だ」

 

 今度は、真壁は迷わず答えた。

 

 その答えが、一番信用できなかった。

 

 

 

 

 

 夕方。

 

 六畳間から押し入れを抜け、食品工場へ向かう道を歩いていた澪は、建物が見えるより先に足を止めた。

 

 声が聞こえる。

 

 怒鳴り声ではない。

 

 誰かが喧嘩をしているわけでもない。

 

 それなのに、不自然なほど揃っている。

 

「甕三番、確認」

 

「温度、異常なし」

 

「札、記載済み」

 

「次回確認、夕刻」

 

「芋選別、第二籠完了」

 

「傷みあり、別籠へ移送」

 

 澪は、食品工場の木の扉を見つめた。

 

 水源から流れる水の音も、少し重い扉の手触りも、朝と何も変わっていない。

 

 変わっているのは、扉の向こう側だった。

 

 恐る恐る中へ入ると、水で土を落とされた芋の皮と、蒸し場から流れてくる甘い湯気の匂いが、澪を包んだ。その奥には、味噌樽と醤油樽が抱え込んだ、少し重い発酵の香りも残っている。

 

 手前の区画では、朝と同じようにトトが札を持っていた。

 

 子供の一人が温度計の数字を読み、その隣に立った女が帳面へ書き込んでいる。ネリスは醤油樽へ顔を寄せ、静かに中の様子を感じ取っていた。

 

 そこまでは、朝と変わらない。

 

「澪」

 

 トトが気づき、駆け寄ってきた。

 

「お帰り」

 

「ただいま。トト」

 

 澪は、奥から聞こえる声へ耳を向ける。

 

「何があったんですか」

 

「じいちゃん達が来た」

 

「それは聞こえています」

 

「朝より、声が大きい」

 

 トトは、少し困ったように酒造区画の方を見た。

 

「みんな、同じことを何回も言う」

 

 ネリスも、醤油樽から顔を上げる。

 

「あちらは、少し騒がしいです」

 

「騒がしい」

 

「味噌の子たちは、落ち着いています。醤油の子たちも、まだ頑張っています」

 

 ネリスは、奥から聞こえる声に目を向けた。

 

「でも、おじいちゃん達は、ずっと復唱しています」

 

 ちょうどその時、作業場の奥から声が響いた。

 

「麹、水、酵母」

 

「復唱」

 

「麹、水、酵母」

 

「一次、二次、蒸留、熟成」

 

「復唱」

 

「一次、二次、蒸留、熟成」

 

 澪は、鞄の肩紐を握ったまま立ち尽くした。

 

「トト」

 

「何だ」

 

「私がいない間に、何があったんですか」

 

「真壁が、じいちゃん達に酒を飲ませた」

 

「飲ませた」

 

「少しだけだって言ってた」

 

 トトは、親指と人差し指で、ほんの僅かな隙間を作った。

 

「みんな、もっと飲みたいって言った」

 

「それで?」

 

「その後、ずっと勉強してる」

 

 トトの説明は短かったが、奥から聞こえる復唱が、その先を十分すぎるほど補っていた。

 

 澪は、酒造区画へ足を踏み入れた。

 

 朝まで倉庫へ積まれていた芋箱は、目に見えて減っている。空になった箱は壁際へ重ねられ、洗い場では白い髭を生やした老人が、籠の中の芋へ水を掛けていた。

 

 その隣にいる老人は、土が落ちた芋を一つずつ持ち上げ、表面を確かめてから別の籠へ移している。

 

「形は悪いが、傷みなし」

 

「加工へ回す」

 

「こちらは傷みあり」

 

「別籠へ移送。切り分け確認」

 

 声を掛け合いながら動く老人たちは、決して素早くはない。

 

 腰が少し曲がっている者もいる。歩幅の狭い者もいる。それでも、自分が見るべき籠と、次に渡す札を間違えない。

 

 洗い終えた芋を抱えた老人は蒸し場へ向かい、湯気の向こうから運び出された籠は、作業台で札を掛け直されてから次の区画へ回される。誰か一人が立ち止まれば詰まりそうな流れなのに、不思議なほど迷いがなかった。

 

 作業台の近くでは、火の扱いに慣れているらしい老人が、蒸し場の様子を見ている。

 

 別の老人は、甕の横へ立ち、温度計を指差した。

 

「甕二番、温度確認」

 

「前回より僅かに上昇」

 

「札へ記載」

 

「記載済み」

 

 澪は、ゆっくり辺りを見回した。

 

 老人たちは、酒を飲んでいない。

 

 誰も杯を持っていない。

 

 手にしているのは、札か鉛筆か温度計だった。

 

 そして、その中央には、帳面を抱えたリュシアがいた。

 

 朝より少しだけ髪が乱れている。

 

 疲れている。

 

 明らかに疲れている。

 

 それでも、老人から札を差し出されると、帳面と見比べてすぐに眉を寄せた。

 

「一号甕、確認済み」

 

「温度は書いたのかい」

 

「書いた」

 

「時刻は?」

 

 老人が黙る。

 

 リュシアは、札を指先で軽く叩いた。

 

「時刻がなければ、前と比べられない。書いてから次へ回すんだよ」

 

「承知した」

 

「復唱」

 

「札へ時刻を書く」

 

「もう一度」

 

「札へ時刻を書く」

 

「よし」

 

 老人は、何の疑問も抱かずに戻っていった。

 

 澪は、その背中を見送ってから、リュシアを見る。

 

「リュシアさん」

 

 リュシアは、ゆっくり顔を上げた。

 

「澪」

 

「何があったんですか」

 

 リュシアは、しばらく答えなかった。

 

 奥では、老人たちの声が続いている。

 

「傷みあり、別籠へ移送」

 

「確認」

 

「別籠へ移送」

 

 リュシアは、深く息を吐いた。

 

「聞かないでおくれ」

 

「リュシアさんまで、何をしているんですか」

 

「私は、帳面を確認しに来ただけだったんだよ」

 

「それが、どうしてこうなったんですか」

 

「責任者が、扱う荷の道筋を知らずに済ませるわけにはいかないと言われた」

 

 聞き覚えのある言い回しだった。

 

「真壁さんですね」

 

「真壁殿だよ」

 

 リュシアは、遠い目をした。

 

「私は、味噌と醤油の方を見ると言ったんだ。そしたら、なおさら短時間で覚えていただこう、と返された」

 

「それで」

 

「気づいたら、一次、二次、蒸留、熟成を復唱していた」

 

 背後で、老人たちが反射的に声を揃えた。

 

「一次、二次、蒸留、熟成」

 

 澪は、思わず振り向いた。

 

「復唱しなくて大丈夫です」

 

「承知した」

 

 返事まで揃っている。

 

 澪は、少し迷ってから、リュシアへ鑑定を掛けた。

 

────────────

リュシア

醸造:1→5

熟成:未取得→3

状態:食品会社管理/酒造教育受講済み

────────────

 

 表示を見たまま、澪は固まった。

 

「リュシアさんまで」

 

「言わないでおくれ」

 

「醸造5、熟成3」

 

「見れば分かるだろう」

 

 リュシアは、芋の籠へ掛かっている札を手に取り、書かれた数字を確かめた。

 

「真壁殿の言うことにも、筋はある。食品会社で扱う以上、酒だけ別にして知らない顔はできない」

 

「でも、一日ですよね」

 

「一日だね」

 

「一日で、そこまで上がったんですか」

 

「私も、あまり考えないようにしている」

 

 リュシアは、新しい籠へ札を掛け直した。

 

 疲れている。

 

 けれど、手は止まらない。

 

 真壁に巻き込まれただけではない。

 

 すでに、ここを自分の仕事として見ている。

 

 澪は、それ以上何も言えなくなった。

 

 

 

 

 

 倉庫へ入ると、朝まで積まれていた芋箱の大半が空になっていた。

 

 壁際へ重ねられた箱を見て、澪はしばらく立ち尽くした。

 

 現代側で帳面へ書いた時には、二トンという数字は短い一行に過ぎなかった。倉庫へ運び込まれた時には、箱を出しても出しても終わらない量に見えた。

 

 今は、その中身が工場の中を流れている。

 

 洗い場では水音が途切れず、作業台には状態ごとに分けられた籠が並んでいた。蒸し場から立ち上る湯気には、温かい芋の甘い匂いが混じっている。甕の横には札が掛かり、壁へ貼られた紙には、確認時刻と担当者の名前が書き込まれていた。

 

 芋は、確かに消えていた。

 

 少なくとも、倉庫からは。

 

「真壁さん」

 

 甕置き場の奥で、札差しを確かめていた真壁が振り向く。

 

「何かね、澪君」

 

「二トンあった芋が減っています」

 

「左様」

 

「全部、酒造りへ回したんですか」

 

「芋は消えていない」

 

「倉庫にはありません」

 

 真壁は、洗い場から蒸し場へ運ばれていく籠へ目を向けた。

 

「酒になる途中ですな」

 

 澪は、返事をするまでに少し時間が掛かった。

 

「二トンです」

 

「承知している」

 

「試験ですよね」

 

「無論だ」

 

「二トンで?」

 

 真壁は、少しだけ首を傾けた。

 

「二トンを一つの甕へ押し込んだわけではない。状態を見て、試験区画へ分けてある」

 

「そういう問題ではありません」

 

「形が悪いことと、傷んでいることは別だ。食卓へ出しにくい芋にも、別の道が要る」

 

「それは分かります」

 

 澪は、洗い場へ目を向けた。

 

 老人たちは、芋を雑に扱っていない。

 

 土を落とし、皮の状態を見て、籠を分けている。傷みがある芋を、そのまま混ぜることもない。次にどこへ回すのか分からない籠もなかった。

 

 量はおかしい。

 

 だが、仕事は丁寧だった。

 

「本当に、何をしたんですか」

 

 澪は、改めて聞いた。

 

「教育だよ」

 

「教育」

 

 真壁は、熟成室の扉へ手を掛けた。

 

「神さまと、酒を軽んじぬ方々へ、まず味わっていただいた。その後で、酒がどの道を通るかを確認した」

 

「一日で?」

 

「軍隊的な教育は、時間を無駄にしない」

 

「軍隊的な教育」

 

「反復は理解を助ける。役割を分ければ、荷も迷わぬ」

 

 澪は、真壁の背後にある卓上を見た。

 

 小さな杯がいくつも並んでいる。どれも空に近いが、底にはまだ透明な酒の香りが残っていた。

 

 その横には、色の異なる栓を付けた瓶が置かれている。札へ書かれた文字を読むと、真壁は寝かせた時間の違う酒を、順番に味わわせたらしい。

 

 老人たちが使った帳面も残っていた。

 

 慣れない字で、強さや香り、喉へ残る感覚が書き留められている。少し寝かせた酒には「丸い」とあり、その下にだけ、比較とは関係のなさそうな「もう一杯」が付け足されていた。

 

 澪は、帳面を見たまま呟く。

 

「洗脳では」

 

 真壁は、静かに答えた。

 

「教育だよ」

 

 

 

 

 

「確認は終わった」

 

 老人の一人が、札を持って真壁のところへ来た。

 

 腰には小さな柄杓が下がっている。水の違いを見る役目を任されたらしい。

 

「比較試飲は、まだか」

 

「札を見せたまえ」

 

 真壁は、差し出された札へ目を落とした。

 

 少しだけ間を置く。

 

「確認時刻が抜けている」

 

「……忘れた」

 

「書いてからだ」

 

「承知した」

 

 老人は、何の反論もせず戻っていった。

 

 澪は、その背中へ鑑定を掛ける。

 

────────────

醸造:5

熟成:3

状態:酒造教育受講済み/甕管理担当

────────────

 

 表示を見て、澪は目を瞬いた。

 

 隣で芋を運んでいる老人へも鑑定を掛ける。

 

 火の様子を見ている老人にも掛ける。

 

 木樽の縁を指でなぞり、歪みがないか確かめている老人にも掛ける。

 

 担当は違う。

 

 けれど、表示される数字は同じだった。

 

「全員ですか」

 

 澪が聞く。

 

「皆、熱心に学ばれた」

 

 真壁は、当然のことのように答えた。

 

 札を書き直して戻ってきた老人が、横から言う。

 

「もう一杯のためだ」

 

 別の老人が、すぐに訂正する。

 

「違う。良い酒を作るためだ」

 

 少しだけ間が空いた。

 

「その後で、飲む」

 

 澪は、否定できなかった。

 

 真壁へも鑑定を掛ける。

 

────────────

真壁 久忠

醸造:1→5

熟成:未取得→3

状態:酒造教育/熟成比較試験準備

────────────

 

「真壁さんも、当然のように伸びていますね」

 

「学ぶ機会を逃すのは、品がない」

 

「教えた側ですよね」

 

「教える者ほど、よく学ぶものだ」

 

 真壁は、熟成室の扉を開けた。

 

 棚には小さな甕だけでなく、口の広い瓶や細長い瓶まで並び、いくつかには早くもコルク栓が添えられていた。奥には、明らかに比較用としか思えない小樽まで置かれている。

 

 それぞれの器には札が掛かり、まだ何も入っていないものにも、何を比べるために使うのかが書かれていた。

 

 初めて工場を見た時から、澪は大量のガラス瓶とコルク栓に引っ掛かりを覚えていた。

 

 保管庫の奥には、熟成室まで用意されていた。

 

 味噌や醤油のためだと言えば、完全な嘘ではない。

 

 けれど、真壁は最初から、それだけを考えていたわけではない。

 

「最初から、ここまで考えていましたよね」

 

「可能性は見ていた」

 

「また、それですか」

 

「器がなければ、時を置くこともできぬ」

 

 真壁は、甕の札を指先で整えた。

 

「待つ場所を先に作るのは、不自然ではあるまい」

 

「甕の数は、少し不自然だと思います」

 

「比較できぬ試験は、少々品がない」

 

 澪は、反論しようとした。

 

 その時、棚へ安置された古い燭台が目に入った。

 

 

 

 

 

 古い燭台は、朝と同じ白い布の上にあった。

 

 ただし、供え物が増えている。

 

 水の器の横には、小さな杯が三つ並んでいた。残っている酒の量はそれぞれ違い、最後の杯には、もう香りしか残っていない。

 

 澪は、嫌な予感を抱えたまま、古い燭台へ鑑定を掛けた。

 

────────────

古い燭台

状態:食品工場内仮安置

供え:芋由来蒸留酒/受領済み

理解:醸造/蒸留/熟成

評価:時間による価値形成、受領

推奨:比較試験継続

付記:甕、追加推奨

────────────

 

 澪は、最後の一行を見た。

 

「甕、追加推奨」

 

「結構」

 

「真壁さんへ言っていません」

 

「失礼」

 

 真壁は、少しも悪びれない。

 

 澪は、古い燭台を見る。

 

 供えた酒は、確かに減っている。

 

 味噌と醤油の授業を見てもらった時より、明らかに積極的だった。

 

「神さままで、そちら側なんですか」

 

「良い酒を育てるには、器が要る」

 

「神さまへ、何を教えたんですか」

 

「醸造、蒸留、熟成。それに、時を掛けて荷へ値を加える考え方ですな」

 

「神さまにもですか」

 

「教育に例外はない」

 

 澪は、何も言えなくなった。

 

 供えた水の表面が、ほんの僅かに揺れた。

 

 肯定された気がした。

 

 

 

 

 

 澪は、酒造区画へ戻ると、芋の籠が並んだ作業台の前で立ち止まった。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「全部を焼酎にしないでください」

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 澪は、籠の中に積まれた芋を見る。

 

「干し芋やお菓子も試したいですし、粉や保存食へ回す分も必要です。子供たちが食べる芋まで、全部お酒にしないでください」

 

 真壁は、リュシアを見る。

 

「その判断は、リュシア君の仕事だ」

 

 帳面へ数字を書き込んでいたリュシアが、顔を上げた。

 

 少し疲れている。

 

 それでも、目は商人のものだった。

 

「分かっているよ」

 

 リュシアは、芋の籠へ掛かった札を一枚ずつ確かめた。

 

「今回は、動かせる芋が二トンあったから、酒造りの流れを一度作った。次からは、最初に用途を分ける」

 

 帳面の新しい頁を開き、鉛筆を走らせる。

 

「農家から入った芋は、食べる分を先に取る。干す分も、菓子に回す分も、粉にする分も分ける。形が悪くても保存に向くなら、急いで酒にはしない。傷みがあるなら、早く使えるところへ回す」

 

 リュシアは、蒸し場から届いた新しい札を受け取った。

 

 数字を確認し、帳面へ書き加える。

 

「食品会社だからね。酒だけで終わらせるつもりはないよ」

 

 澪は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「お願いします」

 

「任せておくれ」

 

 リュシアは、そう答えた。

 

 その直後、奥から老人の声がする。

 

「甕四番、温度確認」

 

 リュシアは反射的に顔を上げた。

 

「時刻まで書きな。数字だけ残しても、前と比べられないよ」

 

 声を出してから、自分で少し嫌そうな顔をした。

 

 澪は、その顔を見る。

 

「リュシアさん」

 

「何も言わないでおくれ」

 

 澪は黙った。

 

 

 

 

 

 洗い場では、籠へ積まれた芋の土を落とす水音が続いていた。

 

 蒸し場では、老人が火加減を見ながら湯気の向こうへ声を掛け、その声を受けた別の老人が、札へ時刻を書き込んでいる。

 

「次回確認、夕刻」

 

「温度記録、札へ記載」

 

「異常時、先に報告」

 

 揃った声が、工場の奥まで響いた。

 

 リュシアは帳面を抱え、ネリスは味噌樽と醤油樽の中で育つものを静かに見守っている。

 

 トトは、自分が担当する札を両手で持ち、老人たちの復唱につられないように、小さく口を閉じた。

 

 熟成室には、甕と瓶が並んでいる。

 

 古い燭台の表示には、相変わらず比較試験の継続と、甕の追加を勧める文言が残っていた。

 

 澪は、熟成室の扉を閉めようとしている真壁を見る。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「本当に、何をしたんですか」

 

 真壁は、訓練済みの老人たちへ目を向けた。

 

 洗い場へ運ばれた籠の横では水が流れ、蒸し場の火を調整した老人が、札へ時刻を書き込む仲間へ声を掛けている。

 

 真壁は、穏やかな声で答えた。

 

「教育だよ」

 

 二トンのさつまいもは、消えてはいない。

 

 酒になる途中だった。

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