押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第117話 畑へ植える理由

 

 食品工場の朝は、樽の蓋を外した時に広がった香りから始まった。

 

 リュシアが味噌樽の封を解くと、木肌に閉じ込められていた匂いが、冷えた空気へゆっくりと溶け出した。煮た大豆の気配は残っている。けれど、塩の尖りはすでに麹の甘さへ包まれ、仕込んだばかりの頃とは違う、丸みのある香りへ変わっていた。

 

 隣に立っていた澪は、思わず樽の中を覗き込んだ。

 

「もう、ここまで来たんですか」

 

「私も、少し早すぎると思っているよ」

 

 リュシアは答えながら、味噌の表面へ視線を走らせた。

 

 真壁の教育へ巻き込まれてから、同じ樽を見ているはずなのに、以前よりも目が止まる場所が増えている。表面の乾き方、縁に残った色、香りの重なり方。鑑定を掛ける前から、何を確かめるべきかが、以前よりはっきりと分かった。

 

 ネリスは、リュシアの横から樽へ顔を近づけた。

 

 しばらく黙ったまま味噌の表面を見ていたが、やがて安心したように頷く。

 

「この子たち、落ち着いています」

 

「もう、食べても大丈夫そうですか」

 

「はい。嫌なものはいません。急いでいた時より、今はまとまっています」

 

 ネリスの言葉を聞いてから、リュシアは鑑定を掛けた。

 

────────────

鑑定結果

品名:味噌

状態:初回試作品

香り:良好

異臭:なし

用途:試食/献上

────────────

 

 表示を確認すると、リュシアは帳面を開き、確認した時刻を書き加えた。味噌樽へ差し込まれた札にも同じ印を付け、今度は隣の醤油樽へ移る。

 

 木蓋を外すと、黒褐色の液体が朝の光を受けた。

 

 表面は静かだったが、近づけば、塩だけでは作れない深い香りがある。リュシアは小さな柄杓で僅かにすくい、白い小皿へ落とした。

 

 澪は、皿の縁へ広がった液体を覗き込む。

 

「黒いですけど、光に当てると少し赤いですね」

 

「瓶へ入れれば、もっと綺麗に見えるだろうね」

 

 ネリスは醤油樽へ顔を寄せ、少しだけ目を細めた。

 

「こっちの子たちも、まとまってきました。味噌の子たちとは違いますけど、ちゃんと落ち着いています」

 

 リュシアは、醤油にも鑑定を掛けた。

 

────────────

鑑定結果

品名:醤油

状態:初回試作品

香り:良好

異臭:なし

用途:試食/献上

────────────

 

「これなら、持っていけるね」

 

 帳面へ書き足したリュシアの背後で、空気が僅かに揺れた。

 

 真壁が収納から取り出したのは、味噌を入れるための壺だった。

 

 厚みのある透明なガラスは、朝日を柔らかく受け止めている。口は広く、蓋も同じガラスで揃えられ、胴の下部には押入商会とリュシア食品会社の印が控えめに刻まれていた。

 

 リュシアは、しばらく何も言わなかった。

 

 続いて出てきた醤油瓶は、味噌壺よりも細身だった。長く伸びた首は、黒褐色の液体を少しずつ注げるように狭く作られている。

 

 最後に真壁が取り出したのは、僅かに青みを帯びた厚手の瓶だった。透明な酒を入れるための器なのに、空のまま飾り棚へ置いても違和感がない。

 

「真壁殿」

 

 リュシアが、ようやく口を開いた。

 

「これは、器というより飾り物じゃないのかい」

 

「献上品だ。中身に見合う器が要る」

 

 真壁は、特別なことではないように答えた。

 

 澪は、味噌壺と醤油瓶を見比べた。

 

 綺麗ではある。

 

 むしろ、綺麗すぎる。

 

「真壁さん」

 

「何かね、澪君」

 

「日常販売へ、全部これを使うつもりではありませんよね」

 

「無論だ」

 

 真壁は、細長い醤油瓶を指先で僅かに回した。差し込んだ光が、ガラスの曲面で静かに揺れる。

 

「これは最初の札ですな。品が、どのように扱われるべきかを示すためのものだ」

 

「瓶そのものが、説明札になるんですか」

 

「中身が新しいほど、客は扱い方に迷う。最初に粗末な器へ入れれば、粗末に扱ってよい品だと受け取られかねぬ」

 

 澪は、もう一度ガラス瓶を見た。

 

 確かに、この瓶に入っていれば、誰も醤油を鍋へ勢いよく流し込もうとは思わないだろう。少しずつ注ぐものだと、形だけでも分かる。

 

 リュシアも、同じことへ気づいたらしい。

 

 細い口へ指先を添え、少し考えてから頷いた。

 

「見本にするなら、分かりやすいね」

 

「左様」

 

「でも、普段使いは別にするよ。こんな瓶を毎回作っていたら、中身より器の方が高くなる」

 

「その判断は、リュシア君の仕事だ」

 

 真壁は、それ以上口を挟まなかった。

 

 リュシアは、味噌をガラス壺へ丁寧に詰め、蓋の下へ清潔な布を挟んだ。紐を結び、印の付いた札を添える。

 

 その隣では、澪が細長い瓶へ醤油を移していた。黒褐色の液体がガラスの内側を流れ、瓶の縁だけを赤く透かしていく。

 

 真壁は、自分の担当である芋焼酎を青みのある瓶へ入れた。透明な酒が瓶の底へ静かに溜まり、光を含んで揺れる。

 

「そっちは、真壁殿の担当だね」

 

「左様」

 

 リュシアは帳面へ三つの献上品を書き込み、筆先を止めた。

 

 真壁は、その頁へ一度だけ目を向ける。

 

「リュシア君」

 

「何だい」

 

「味噌と醤油を献上する理由は?」

 

 問い掛けられたリュシアは、少し怪訝そうに眉を上げた。

 

「味を見てもらうためだよ。気に入ってもらえたら、侯爵家から縁のある貴族へ紹介してもらう」

 

「それだけでは弱い」

 

 真壁の声は静かだった。

 

 けれど、リュシアは、書き掛けていた帳面から顔を上げた。

 

「弱い?」

 

「珍しい品を持ち込んだだけでは、宴席の話題で終わる」

 

 真壁は、味噌壺にも醤油瓶にも触れなかった。

 

 その代わり、開いた倉庫の扉へ視線を向ける。

 

 奥には、現代側から運び込んだ大豆袋が積まれていた。少し離れた洗い場では、トトと子供たちが桶を運び、大人の女性たちが次の仕込みへ使う道具を洗っている。

 

 酒造区画からは、妙に揃った年配男性たちの声が、時折聞こえてきた。

 

「君が作るのは、何のための会社かね」

 

 リュシアは、しばらく答えなかった。

 

 味噌樽へ掛かった札を見てから、醤油樽の横に置かれた帳面へ視線を移す。そのまま、洗い場へ走っていくトトの背中を目で追った。

 

「農家が、作り続けられるようにするため」

 

「左様」

 

「今は、澪の側から材料を入れただけだ。こっちで採れる芋も豆も、まだ足りない」

 

「では、侯爵家へ何を頼む」

 

 リュシアは、帳面へ目を落とした。

 

 先ほどまで書いていたのは、献上品の数と、容器の番号だけだった。その余白へ、すぐには何も書かない。

 

 少し考えてから、顔を上げる。

 

「この領で、芋と大豆を増やしてもらう」

 

 真壁は、僅かに頷いた。

 

「品の味だけを語るな。畑と、子供と、飢えの話をしたまえ」

 

 そこで一度言葉を切り、リュシアの顔を見る。

 

「豊作の年にも農家を見捨てぬ道まで示して、初めて商いになる」

 

 リュシアは、すぐには返事をしなかった。

 

 帳面へ筆先を置き、真壁の言葉をそのまま写すのではなく、自分の中で一度噛み砕いている。

 

 澪は、二人を見比べた。

 

「真壁さん。リュシアさんに、演説をさせるつもりですか」

 

「商人が、自分の荷を説明するだけだよ」

 

「説明する荷が、畑まで広がっています」

 

「品は、畑から生まれる」

 

 真壁は、何の迷いもなく答えた。

 

 リュシアは、帳面へ短く何かを書き込むと、筆を置いた。

 

「分かっているよ」

 

 味噌壺へ手を添え、少しだけ口元を引き締める。

 

「私の会社の話だ。私が話す」

 

 

 

 

 

 侯爵家の食堂へ通された時、リュシアは普段より少しだけ背筋を伸ばしていた。

 

 屋台で客と話す時の気安さはない。

 

 けれど、真壁の後ろへ隠れることもなかった。

 

 澪は、リュシアの斜め後ろへ立ち、必要な時だけ補うつもりで、持参した帳面を抱えている。

 

 アルベルトが席へ着き、その隣にはセレスティナが座っていた。侯爵夫人マルグリットも穏やかにこちらを見ている。

 

 エレナは兄の横で姿勢よく座っていたが、真壁が収納から最初のガラス壺を取り出した瞬間、僅かに身を乗り出した。

 

 口の広い透明な壺の中では、淡い茶色の味噌が光を受けていた。

 

 続いて取り出された醤油瓶は、黒褐色の液体を抱えながら、縁だけを赤く透かしている。

 

 最後に、青みを帯びた瓶が食卓へ置かれた。中に入っている酒は透明で、見た目だけなら水に近い。

 

「兄上」

 

 エレナが、目を輝かせた。

 

「器まで、見たことがありません」

 

 セレスティナは、醤油瓶へ目を向けた。

 

「こちらは、随分と口が細いのですね」

 

「少しずつ使うためです」

 

 リュシアは答えながら、瓶の首へ指先を添えた。

 

「掛けすぎると、塩辛くなります。たくさん使えばよい品ではありません」

 

 アルベルトは、瓶だけでなく、リュシアの顔を見た。

 

「まずは、食べ方を見せてもらえるか」

 

「はい」

 

 リュシアは頷き、侯爵家の料理人へ向き直った。

 

 

 

 

 

 厨房では、大きな鍋から湯気が立っていた。

 

 肉と野菜を煮込んだスープには、香草の匂いが溶けている。

 

 料理人は、リュシアから受け取った味噌を匙へ取り、少し迷うように鍋と見比べた。

 

「このまま入れるのか」

 

「火を少し弱めてください」

 

 リュシアは、鍋の縁から上がる湯気を見ながら答えた。

 

「煮立たせたまま入れるより、最後に溶かした方が香りが残ります」

 

 料理人は頷き、火を落とした。

 

 鍋の中へ匙を沈めると、味噌は湯の中でゆっくりとほどけていく。それまで肉と香草が中心だった厨房の匂いへ、豆と麹が作った丸い香りが重なった。

 

 料理人は、一度だけ匙を止めた。

 

 少量を口へ運び、すぐには何も言わない。舌の上へ残った味を確かめるように、目を細める。

 

「塩だけではないな」

 

 もう一度、鍋を見る。

 

「味が、奥へ残る」

 

 リュシアは、僅かに頷いた。

 

 別の焼き台では、肉料理の仕上げが進んでいた。

 

 焼き色の付いた肉へ、料理人が刷毛で醤油を薄く塗る。黒褐色の液体が熱を受けた瞬間、香ばしい匂いが立ち上った。

 

 料理人の手が止まる。

 

「これは……」

 

「焦がしすぎないでください」

 

 リュシアは、焼き台の端へ目を向けた。

 

「香りが立ったところで止めます。塗れば塗るほどよいわけではありません」

 

 料理人は火加減を調整し、もう一度刷毛を動かした。

 

「少量で、随分と変わる」

 

「だから、細い瓶が要ります」

 

 リュシアが答えると、料理人は、控え台へ置かれた醤油瓶の首を改めて見た。

 

 味噌と醤油の準備が整う頃、真壁は収納から冷やしたグラスを取り出していた。

 

 透明なグラスの表面へ、薄い水滴が浮かぶ。

 

 青みを帯びた瓶から芋焼酎を注ぐと、透明な酒が細い線となってグラスの底へ落ちた。

 

「一度に飲み干す酒ではありません」

 

 真壁は、グラスの量を確かめる。

 

「まずは、香りを見ていただきたい」

 

 料理人は、冷えたグラスと透明な酒を見比べた。

 

「酒まで、食事に合わせるのか」

 

「食卓へ出す以上、扱い方まで含めて品ですな」

 

 真壁は、静かに答えた。

 

 

 

 

 

 最初に運ばれたのは、味噌を溶かした温かなスープだった。

 

 エレナは匙を取り、一口だけ飲んだ。

 

 すぐには次へ進まず、椀の中を覗き込む。肉と野菜は見えるが、豆の形はどこにも残っていない。

 

「兄上。これも豆なのですか」

 

「はい」

 

 答えたのは、リュシアだった。

 

「形は残っていません。でも、豆から作っています」

 

 エレナは、もう一度スープを飲んだ。

 

「温かいです」

 

 少し考えてから、椀を両手で持つ。

 

「それに、腹へ残る気がします」

 

 マルグリットも静かに味を確かめていた。

 

「豆を、毎日の汁物へ入れられるのですね」

 

「はい」

 

 リュシアは、味噌壺へ目を向けた。

 

「肉を毎日食べられない家でも、汁物なら少しずつ出せます」

 

 マルグリットは、味噌スープの湯気を見ながら頷いた。

 

「味がよいだけではありませんね。続けて食べられる形になっている」

 

 次に、醤油を薄く塗った肉料理が運ばれた。

 

 エレナがナイフを入れると、焼いた肉の香りに、先ほど厨房で立ち上った香ばしさが重なる。

 

 一口食べたエレナは、少し驚いた顔で皿を見た。

 

「同じ肉なのに、香りが違います」

 

 セレスティナは、肉料理と細長い醤油瓶を交互に見た。

 

「少量しか使っていないのですね」

 

「はい」

 

 リュシアは頷いた。

 

「掛けすぎると塩辛くなります。料理の最後に、少しだけ使います」

 

「器も、使い方の一部なのですね」

 

 セレスティナは、細い瓶口へ目を向けた。

 

 最後に、真壁が冷やしたグラスを差し出した。

 

「アルベルト殿」

 

 真壁は、透明な酒が入ったグラスを食卓へ置く。

 

「強い酒です。香りを見てから、少量をお勧めする」

 

 アルベルトは、グラスへ顔を近づけた。

 

 芋の甘い香りがあり、その奥には、蒸留酒らしい鋭さが潜んでいる。

 

 一口だけ含み、すぐには飲み込まない。

 

 少し間を置いてから、グラスを置いた。

 

「強いな」

 

「左様」

 

「だが、荒いだけではない」

 

 真壁は、青みを帯びた瓶へ目を向けた。

 

「芋にも、酒としての道がある」

 

 それ以上は語らなかった。

 

 アルベルトは、もう一度グラスを見ると、今度はリュシアへ視線を移した。

 

「どれほど用意できる」

 

 リュシアは、すぐに答えなかった。

 

 喜んで注文を受けるには、あまりにも早い。食卓へ置かれた味噌も醤油も、確かに形にはなっている。

 

 けれど、今あるものだけを売り切れば、次へ続かない。

 

「今は、まだ多くは作れません」

 

「この領で採れたものではないのか」

 

「この味噌と醤油へ使った豆も、真壁殿の酒へ使った芋も、澪の側から入れたものが中心です」

 

 リュシアは、言葉を選びながら続けた。

 

「塩も、麹も、最初は向こうから入れました」

 

 アルベルトは、味噌壺へ目を向ける。

 

「領内では、採れないのか」

 

「育てている農家はあります。でも、まだ一軒だけです」

 

 リュシアは、膝の上へ置いていた帳面へ手を添えた。

 

「家で食べる分と、次に植える分を残したら、会社へ回せる量はほとんどありません」

 

 アルベルトは、すぐに答えなかった。

 

 味噌スープの椀へ目を向け、醤油を塗った肉料理を見た後で、透明な芋焼酎が入ったグラスへ視線を落とす。

 

「では、何を望む」

 

 リュシアは、背筋を伸ばした。

 

「この領で、芋と大豆を増やしていただきたいと考えています」

 

 先ほどまでとは違い、リュシアは丁寧に言葉を選んだ。

 

「豆は、売るためだけの品ではありません。身体を作る栄養が多いと聞いています」

 

 味噌スープの椀からは、まだ温かな湯気が上がっている。

 

「肉を毎日食べられない家でも、豆なら子供へ出せます。味噌にすれば、汁物へ少しずつ入れられるので、毎日の食事にも取り入れやすいです」

 

 マルグリットは、静かに頷いた。

 

「村の子供たちへも、続けて食べさせられるのですね」

 

「はい」

 

 リュシアは答え、少しだけ間を置いた。

 

「それに、豆を植えた畑は、その後の麦にも良い影響が残るそうです」

 

 レオンハルトが、僅かに身を乗り出した。

 

「麦へ影響があるのか」

 

「はい。最初から大きく広げるのではなく、畑ごとに記録を取りながら確かめたいと考えています」

 

 アルベルトは、静かに頷いた。

 

「芋はどうだ」

 

 リュシアは、今度は芋焼酎の瓶を見た。

 

「芋は、水が溜まりにくい土地でも育てやすいと聞いています」

 

 透明な酒が、ガラス瓶の中で静かに揺れている。

 

「麦が足りない年にも、畑へ芋が残っていれば、人を助けられます」

 

「飢饉への備えか」

 

「はい」

 

 リュシアは頷いた。

 

「ただ、たくさん採れた年に売れなくなれば、農家は次の年に作らなくなります」

 

 そこまで言ってから、味噌壺へ手を戻した。

 

「食卓へ出せる芋は、そのまま売れます。余った分は、干して残したり、粉や菓子へ回したりできます。傷があって早く使うべきものにも、酒という道があります」

 

 今度は、真壁の芋焼酎瓶へ目を向ける。

 

「会社が買える形を増やせば、豊作の年にも農家を困らせずに済みます」

 

 アルベルトへ向き直り、真っ直ぐに頭を下げた。

 

「農家が、翌年も畑へ芋を植えられる値を残したいのです」

 

 食堂が静かになった。

 

 真壁は、口を挟まない。

 

 澪も、リュシアの後ろで帳面を抱えたまま黙っていた。

 

 アルベルトは、食卓へ並んだ品を順に見た。

 

「つまり、売る品を増やしたいのではない」

 

「はい」

 

「畑へ植える理由を増やしたいのだな」

 

 リュシアは、少しだけ目を伏せた。

 

「農家が、来年も植えてよいと思えるようにしたいと考えています」

 

 アルベルトは、椅子へ深く座り直した。

 

「すぐに全領へ広げるのは早い」

 

 レオンハルトへ目を向ける。

 

「水はけのよい土地と、麦を育てている畑を確認する。種芋も豆の種も足りぬだろう。候補地を選び、協力できる農家を増やせ」

 

「承知しました」

 

 レオンハルトは、すぐに答えた。

 

「保管場所と街道も確認します。作付けを増やしても、運べなければ意味がありません」

 

 アルベルトは頷き、リュシアを見る。

 

「買い取り条件は、君の会社で整えられるか」

 

「整えます」

 

 リュシアは、迷わず答えた。

 

「全部を同じ値では買いません。状態を見て、売り方と加工先を分けます」

 

「頼む」

 

「承知しました」

 

 

 

 

 

 食卓の空気が少し緩んだところで、セレスティナが細長い醤油瓶へ目を向けた。

 

「次にお招きする方へ、少量お出ししてもよいかしら」

 

 リュシアは、すぐには頷かなかった。

 

 醤油瓶の中身は、まだ多くない。豆も足りない。献上用の瓶ほど美しい器を、次々に用意するわけにもいかない。

 

「最初の見本としてでしたら」

 

 少し考えてから答える。

 

「ただし、次からは注文として受けさせてください。数量も、こちらで決めます」

 

「当然です」

 

 セレスティナは、穏やかに頷いた。

 

「味噌は日々の食事へ入れやすいですし、醤油は宴席でも話題になるでしょう」

 

 マルグリットも、味噌スープの椀へ手を添えた。

 

「最初は、使い方も一緒に伝えた方がよさそうですね」

 

「はい」

 

 リュシアは答えた。

 

「瓶だけを渡しても、使い方が分からなければ意味がありません」

 

 アルベルトは、リュシアへ向き直った。

 

「侯爵家が売ることはしない。望む家へ、君の会社を紹介しよう」

 

 そこで一度、ガラス瓶を見る。

 

「数量は、君が決めればよい」

 

「ありがとうございます」

 

 リュシアは、深く頭を下げた。

 

 セレスティナは、醤油瓶をもう一度見た。

 

「美しい器です。ですが、これを毎回使うのですか」

 

「侯爵家へお持ちする分は、これでよいと思います」

 

 リュシアは、少しだけ表情を緩めた。

 

「ですが、町で売る分へ全部使うわけにはいきません」

 

 エレナが、味噌壺と醤油瓶を見比べた。

 

「姉上」

 

「何かしら」

 

「白皿丘へ頼めませんか」

 

 セレスティナは、少し考える。

 

「陶器の町ですね」

 

「はい」

 

 エレナは、巡見行商で見た町を思い出しているらしい。

 

「味噌を入れる壺も、少しずつ注げる瓶も作れると思います」

 

 そこで、少しだけ胸を張った。

 

「作っても、運べなければ届きませんから、道も見た方がよいです」

 

 アルベルトが、僅かに笑った。

 

「巡見で、よく見てきたようだな」

 

「はい、兄上」

 

 エレナは、真面目な顔で頷いた。

 

 リュシアは、帳面を開いた。

 

「味噌は、蓋付きの小さな壺がよいと思います。醤油は、一度に出すぎない細口の瓶にします」

 

 筆先で、簡単な形を描いていく。

 

「町で売る分は、器を返していただき、中身を足す形でもよいかもしれません」

 

「白皿丘へ、試作を依頼できます」

 

 レオンハルトが答えた。

 

「街道と輸送箱も確認しましょう」

 

 真壁は、それまで静かに聞いていた。

 

「器は、品を運ぶ道の一部ですな」

 

 リュシアは、描き掛けた壺の形を見ながら頷いた。

 

「真壁殿の瓶は、見本として使わせてください。普段使う器は、こちらで作ります」

 

「悪くない」

 

 真壁は、それ以上何も言わなかった。

 

 アルベルトは、冷えた芋焼酎のグラスへ目を向けた。

 

「真壁殿」

 

 アルベルトの声を受け、真壁はグラスから視線を上げた。

 

「何でしょう、アルベルト殿」

 

「君も、同じ考えか」

 

 真壁は、すぐには答えなかった。

 

 透明な酒を抱いたグラスの表面では、水滴がゆっくりと流れている。

 

「異論はありません」

 

 真壁は、リュシアが膝の上へ置いている帳面を見た。

 

「豊作の年にも値を残せるなら、農家は翌年も畑へ戻れる。そこまで整って、初めて商いになるのでしょうな」

 

 アルベルトは、僅かに頷いた。

 

「食品会社が、その受け皿になる」

 

「左様」

 

 真壁は、それ以上言葉を重ねなかった。

 

 アルベルトは、改めてリュシアへ向き直る。

 

「買い取り条件を整えられるか」

 

 リュシアは、帳面へ置いていた手を僅かに握り直した。

 

 味噌と醤油を売るだけなら、話はもっと簡単だった。

 

 けれど、農家へ来年も植えてもらうには、豊作の年にも買い取り先を残さなければならない。芋の状態を見て、そのまま売るものと、加工へ回すものを分ける。豆も、食卓へ出す分と、味噌や醤油へ回す分を考える必要がある。

 

 工場へ戻れば、帳面へ書き足すことはいくらでもある。

 

「整えます」

 

 リュシアは、アルベルトへ真っ直ぐに頭を下げた。

 

「農家が翌年も作付けを続けられる条件まで含めて、こちらで形にします」

 

「頼む」

 

「承知しました」

 

 アルベルトの言葉を受け、レオンハルトも静かに頷いた。

 

「候補地と協力農家については、こちらで確認します。買い取り条件がまとまりましたら、照らし合わせましょう」

 

「お願いします」

 

 リュシアは、今度はレオンハルトへ丁寧に頭を下げた。

 

 その横で、真壁は冷えたグラスを静かに置いた。

 

 自分が言うべきことは、もう残っていなかった。

 

 

 

 

 

 侯爵家を出る頃には、陽が傾き始めていた。

 

 真壁が献上したガラス壺と瓶は、侯爵家へ残してきた。透明な器の中では、味噌と醤油が夕方の光を受けているはずだ。芋焼酎も、次に訪れる賓客へ、少量だけ出されることになる。

 

 帰り道を歩きながら、澪はリュシアの抱えている帳面を見た。

 

 頁の端には、白皿丘へ頼む壺と瓶の簡単な形が描かれている。その隣には、農家へ説明する買い取り条件を書き込むための余白が残っていた。

 

 侯爵家から持ち帰ったのは、大量の注文ではない。

 

 けれど、レオンハルトは候補地を調べ、協力できる農家を増やすために動く。白皿丘では、陶工たちへ新しい容器の試作が頼まれる。道と保管場所も、芋と豆を運ぶために改めて見直される。

 

「思ったより、大きな話になりました」

 

 澪が言うと、リュシアは帳面を抱き直した。

 

「最初から、小さな話じゃなかったんだろうね」

 

「味噌と醤油を売る話だと思っていました」

 

「売るよ」

 

 リュシアは、少し笑った。

 

「でも、売るためには、来年も畑に豆と芋がないと困る」

 

 澪は、道の先へ目を向けた。

 

 今はまだ、芋と大豆を育てている農家は一軒しかない。加工へ回せるほどの量もない。

 

 それでも、今日の食卓で味を知った者がいる。

 

 豆を汁物へ変えれば、子供たちへ食べさせやすいと知った者がいる。

 

 芋を酒へ変えれば、豊作の年にも買い取り先を残せると知った者がいる。

 

 畑と食品工場の間には、まだ何も運ばれていない。

 

 けれど、道は少しずつ形を持ち始めていた。

 

 リュシアは、腕の中の帳面へ手を置いた。

 

「注文を取ったわけじゃない」

 

 歩きながら、少しだけ振り返る。

 

「畑へ植えてもらう理由を、少し作っただけだよ」

 

 真壁は、静かに頷いた。

 

「悪くない」

 

 リュシアの眉が僅かに動く。

 

「真壁殿」

 

「何かね」

 

「随分と簡単に言ってくれるね」

 

「君の会社だからね」

 

 リュシアは、少しだけ目を細めた。

 

「分かっているよ」

「だから、余計に腹が立つんだ」

 

 真壁は、ほんの僅かに笑った。

 

 リュシアは、もう一度帳面を抱き直した。

 

「来年は、こっちで作るよ」

 

 まだ何も植えられていない畑へ、澪は、少しずつ道が伸びていく気がした。

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